◆記憶の灯火
彼が去ったあと、部屋の空気は少しだけ重く感じられた。彼が残してくれたもうひとつのランタンの光が揺れて、机の上の観測機器を淡く照らし出す。彼の気配がまだ残っていて、まるで壁や家具に染み込んでいるかのようだった。
(たぶん……彼も混乱しているんだよね……それはそうか……来るなって言われていたのに、来ちゃったんだもの……)
改めて部屋の中をグルリと見渡すと、そこは古い書斎や古の研究所のような場所で、机や書棚には書類や道具が整然と並んでいる。特筆すべきは部屋の中央に鎮座している巨大な水盤のような装置だった。
(これ……なんなんだろう……?)
かすかな駆動音がしているところをみると、電源は入っているようだ。ならば今はスリープモードなのかもしれない。机の上ではさまざまな計測機器が静かに稼働し続けていた。
ふと壁の古びた時計に目を留めた。静かに回る歯車を見ているだけで、彼の長い孤独を少しだけ理解できるような気がした。
(こんなところで、ずっと一人きりだったんだよね……寂しくなかったはずがない……孤独でなかったはずがない……)
彼の痛みに思いを馳せていると、言葉が唇から零れ落ちた。
「私になにができるのかな……」
立ち去る彼の背中は、少し震えていたような気がした。ただ見守ること、それが今の自分にできる唯一のことかもしれない。
でも、胸の奥に小さな希望も確かにあった。
(ほんの少しでも、彼の孤独を分かち合うことができたら……)
もう彼がひとりですべてを背負う必要はない。その背に負った重荷を少しでも自分に分けてくれるのならば、きっとつらさは半分ずつになる。彼の痛みに寄り添い、重荷を共に背負う存在になりたい。それが自分の望みだった。そのためにここへ来たのだから。
「だから……もう泣かないで……」
ひとりきりの静かな部屋に、その願いは吸い込まれて消えた。
*
──彼女がこの場所に辿り着くまでの話をしよう
彼女は、古に存在した悪しき魔法使いの末裔だった。その事実は長らく隠されていたが、永遠に隠し通すのは無理というもので、やがて事実が白日のもとに晒される日が来た。
そのとき世界は震撼した。悪しき魔法使いの再来とまで謳われた彼女に課せられた配役は、間違いなく『悪役令嬢』というものだろう。
悪役の汚名を着せられた彼女が初めにやったことは、先祖の真実を知ることだった。それは先祖が遺した足跡をたどる旅──散逸した記録の断片をつなぎ合わせて、ついに彼女は真実へたどり着く。その結果は実に驚くべきものだった。
(なによ……具体的に悪いことなんて、なにもしていないんじゃないの……!)
確かに先祖の思想には選民主義のように偏ったところがあったらしい。魔法使い至上主義とでも言うべきか。だが、実はそれにも事情があって、先祖はその存在だけで酷く迫害されていたのだ。迫害され、大切な存在を目の前で奪われて、これでは人間を恨むなというほうが無理な話だった。
彼女は心に決めた。先祖の名誉を回復することこそが、末裔である自分の使命だと。
それからの彼女の行動は早かった。主人公に対して一定の距離を保ちつつも陰ながら助力は惜しまず、真の悪役に対して協力して立ち向かった。その間、時計塔で警報が鳴り止むことはなかったという。
その結果、物語を大きく狂わせることはなかったものの、彼女の存在そのものがイレギュラーとなってしまったのだ。彼女の人生は波乱万丈でこそあったが、結果として穏やかな余生を送ることになった。
悪役にならなかった令嬢は果たして『悪役令嬢』といえるのか。配役の責務を果たしたといえるのだろうか。
おそらく世界が彼女を『観測者』として選んだのは、そういう事情もあったのだろう。だが、もっと本質的な理由としては、彼女が自身の先祖の再来と謳われるほどの確かな実力を有していたことが大きい。
物語の結末を左右し得る、陰の実力者であること。世界の安寧を脅かす存在であること。彼女はその条件を見事に兼ね備えていた。それも世界の裏側の存在である『彼』を感知してしまうほどに。
そう、『彼』と彼女はとっくに出会ってしまっていたのだ。彼女の夢を媒介にして──。
*
巨大な時計塔の内部は思った以上に快適な空間となっていた。適温に調節された空調。ランタンの灯に柔らかく照らし出された室内。望めばいつでも必要なものは手に入り、不要なものはいつの間にか消えている。
室内にある計測機器の使い方をひと通り把握して、ようやくひと息つくと、ふと温かい紅茶が飲みたくなった。
戸棚を開けて中を見渡すと、やはり紅茶の茶葉が見つかった。あとはティーポットとカップとソーサー、そして給湯器があれば完璧、と考えていると、部屋の片隅にいつの間にか用意されている。なんとも便利なものだ。
古の魔法使いの末裔である自分は魔法が使える。だが、魔法とは人が思うほど万能の力ではない。あれこれできるが、あれとこれしかできないというか。
たとえば先ほどポットとカップとソーサーが現れたように、何もないところから何かを取り出すのは無理だ。取り出すには事前の仕込みが必要なのである。まるでよくできたマジックのように。
(飲み水を出すにも、事前に飲み水がある場所と空間をつなげておいて、ようやく取り出せるくらいだものね……)
水を出す呪文というものも存在するが、火を消し止めるくらいの役にしか立たない。どういう仕組みか飲もうとすると消えてしまうのだ。
(つまり、この時計塔は人ならざる者が造ったということの証左でもあるのだけど……)
人は、それを『造物主』とか『神』と呼ぶ。
(神だかなんだか知らないけれど、ずいぶんと悪趣味なことね……)
温めたティーポットに茶葉を計り入れ、熱湯を注ぐ。ポットの中でユラユラと踊る茶葉を眺めながら抽出を待つ。その間にカップを温めておくことも忘れない。
(神が定めた世界の理を維持するために存在する『観測者』……だけど、それもまた神の手のひらの上であることに変わりはない……)
そこにあるのは悪意か純粋な好奇心か。どちらにしても悪趣味だった。
椅子に座り、カップに紅茶を注いで、ひと口啜る。熱い液体が口に広がり、乾いた喉を潤していく。爽やかな香りが鼻先をくすぐった。ダージリンだろうか。
「……熱い」
本当は猫舌なのだから適度に冷めるまで待てばいいのに、つい熱いうちに飲んでしまう。紅茶の淹れ方ひとつ取ってもそうだ。魔法で簡単に淹れられるのに、いつもわざわざ魔法を使わずに淹れるのは自分なりのこだわりだった。
熱いのを我慢して、でも表面上は涼しい顔をして紅茶を飲む。だが、そんな優雅なひとときは、突然鳴り響いたアラームで終わりを告げた。
(なにごと……!?)
紅茶のカップをソーサーに戻して立ちあがる。計器で警報発生源の座標を確認し、事態の把握に努めるも、わかったのは事実関係だけ。肝心のどうしたらいいのかは皆目見当もつかない。
柄にもなくオロオロするだけの自分の前に、彼が怖い顔をして上階から飛んできたのだった。
***
『人魚姫』の物語を修正し終えたときには、紅茶はすっかり冷めてしまっていた。
冷たく苦い紅茶は、まるで物語の結末の後味のようで──。
(美味しくない……)
心からそう思った。胸の中になんともいえない居心地の悪さが広がっていく。
(私が物語を修正したから……彼女は泡になって消えてしまった……)
これでは自分が彼女を殺したも同然である。後味が悪いどころの話ではなかった。
(違う……私は責務を果たしただけ……それが彼女の運命だったのよ……)
心の中でどんな言い訳をしたところで、かえって自分が惨めに思えるだけ。事実を認めるしかなかった。
(私は責務を果たした……彼女は自分で選択した……これ以外に道はなかった……)
いや、それは違う。そもそも私が物語を修正しなければ。
(修正しなければ、彼女は泡にならずに済んだだろうけど、助かるはずだった王子は……)
自分を責める理由だけは無限に見つかった。
(修正しない道などなかった……だから、なにも間違ってなどいないはずなのに……)
どうしてこんなにもやりきれない気持ちになるのか。どうしてこんなにも悲しくて虚しいのだろうか。
(誰か助けて……!)
ジワジワと自分を追い詰める負の思考に耐えられなくて、目の奥が熱くなる。
──チャリ
そのとき自分が手にしていた物の存在に気づいた。彼から借りたままの懐中時計だった。
(彼は……こんな思いを、ずっと一人で……)
懐中時計を握りしめて、その長い孤独を思えば、瞳の奥の熱が音もなく引いていった。
(彼に……返しに行かなくちゃ……)
冷たい紅茶の残りを一気に飲み干して、椅子からノロノロと立ちあがる。一体どんな顔をして彼に会えばよいのだろう。会わせる顔がない気分だった。
(でも、今行かないと……)
どんな顔でもいいから、会いに行こう。そして、思ったことをそのまま彼に伝えてみよう。彼ならきっと、受け止めてくれるから。
懐中時計を握りしめたまま、フラフラと歩き出した。
***
階段をのぼった先にあったのは宇宙観測室だった。ガラス張りのドーム状の空間には、満天の星空が映し出されている。
その部屋の中央にしつらえられた大きな三人掛けのソファに彼は座っていた。
ランタンの柔らかな光に照らし出された長いその髪は、まるで月の光を縒って集めたかのようにまっすぐな銀色で、同じ色の睫毛が縁取る双眸は血のような紅い色。白皙の肌と彫像のように整った顔立ち。まさに『美しい』という言葉がふさわしい男性だった。
物語の中で生きていたときには、年老いて衰えていたはずの肉体も、最盛期の姿に戻っている。世界の中心とはそんな空間なのだ。当然のことながら自分自身の肉体も、ここでは最も気力と体力が充実していた二十代の姿だった。
懐中時計を彼に返すと、代わりにお酒の入ったグラスをもらった。お酒は弱いから飲まないのが常だったのだけど、今回ばかりは断りたくなかった。飲みたい気分だったのだ。
ソファに腰をおろす。なんとなく遠慮して、一人分の空間を開けた。きっと、今はまだ、これくらいが適切な距離だろうと思うから。
思った通り、彼は慰めてはくれなかったし容赦もなかった。だが逆にそれが心地よくて、お酒の力も手伝ってかなり饒舌に喋ってしまった。
冷たいアルコールが心地よく喉を通り過ぎていく。かなり眠くなってきていた。
気づけば言うはずのなかった言葉までが、唇からこぼれ落ちていた。
『貴方は……たった一人でこんな思いを繰り返してきたのね……』
それに彼はなんと答えたのだったか。
『それが責務だ。もはやなにも思うことはない』
嘘だと思った。なにも思わないはずがない。だって、彼は自分から私の夢に接触してきたのだから。
『世界に抗うのはやめておけ。私のようになって後悔したくなければな……我が末裔よ』
彼は私にそう告げた。私は驚くと同時に納得した。彼こそがこの世界の裏側の存在なのだと。
夢の中で私は彼とたくさんの話をした。彼はいつも言葉少なで多くを語らなかったが、ときどき聞けた彼の人生の片鱗は、とても寂しくて哀しかった。
世界で一番の孤独を抱えているくせに、口から出る言葉の裏では、いつも私の行く末を案じている。本当は優しい人なのだと、そう思った。
だからこそ、この人をこれ以上一人にしてはいけないと思ったし、それ以上に、私自身が彼を一人にしたくなかった。できることなら、彼の孤独を共に背負いたかった。
(散々『来るな』と言われたけれど……それでも、私は……)
貴方の寂しさを放ってはおけなかった。
(だから──……)
意識が闇に沈む直前、彼がなにか言ったような気がした。一体なんと言ったのだろうか。
柔らかな温もりにくるまれて、暗さを増した星の海の下、私の意識はあっけなく途切れてしまったのだった。
2026/01/18
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