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◇時計塔の孤独

物語を変えない者たちが、それでも問い続けた理由──観測者の選択とは。

 物語は、変えられる。

 それを知っていながら、変えない者たちがいる。


 世界は常に回っている。数多の物語を紡ぎながら、必ず一定の方向にめぐり続けている。物語が増えることはあっても、減ることや巻き戻ることはない。


 物語の主人公も、ヒーローも、ヒロインも、倒されるべき悪役も──その誰一人として知らない。

 自分たちの物語が、見られているということを。


 世界の裏側で、ただ見守る者たちがいる。介入せず、救わず、書き換えもしない存在。


 それは『観測者』と呼ばれる者たちの物語。世界の中心にして、最後まで語られることのない、もうひとつの物語である。



 小さな足音が近づいてくるのが聞こえる。あいつめ。あれほど来るなと言ったのに。部屋の出入口に小柄な人影が立った気配がして振り向くと、予想通りの顔がそこにはあった。


 ふわりと緩やかに波打つ長い豊かな黒髪。白皙の肌に大きな瞳は神秘的な銀灰色。柔らかい弧を描く眉に通った鼻梁。ふっくらと瑞々しい唇は珊瑚色に色づいている。


 思わず深いため息がこぼれた。


「まさか本当に来るとはな……来るなと言っただろうが。この愚か者が」


 声がかすかに震えた。いや、震えたのは胸の奥だったかもしれなかった。


「でも……一人は寂しいでしょう?」


 ランタンの柔らかい光の中で、彼女はどこか疲れたように微笑んだ。彼女は今まさにひとつの物語を紡ぎ終えて、そして『ここ』に導かれたのだ。時間から切り離された、この世界の中心に。


 見ていられなくて目を逸らし、かすかに肩をすくめる。


「誰が寂しいと言った?」

「……違うの?」

「……」


 彼女の言葉は正しかった。だが馬鹿正直に認めるわけにもいかず、言葉にならない苛立ちと、どこか安堵している自分の裏腹な心に振り回されている。小さなため息をついて、ランタンを手に取ると踵を返した。


「どこへ行くの?」


 彼女の声が追い縋ってくる。


「……どこへだっていいだろう。ついてくるな」


 まったく、面倒なヤツだ。今はひとりになりたかった。そうでないと、この胸に渦巻く感情をうっかり吐き出してしまいそうになるから。


 部屋を出て、階段の途中で立ち止まる。胸の奥が酷くざわついた。彼女さえ、ここに来なければ──いや、来てしまったものは仕方がない。現状を受け入れるしかないのだ。その現実に心が揺れていた。


 階段をのぼりきると、そこにはガラス張りのドーム状の空間が広がっており、満天の星空が映し出されていた。宇宙観測用の部屋になっているのだ。


 部屋の中央に置かれた大きなソファに腰をおろし、手にしたランタンを傍らの机に置く。ランタンのオレンジ色の光が柔らかく周囲を照らし出した。

 視線を向けると、机の上に無造作に置かれた書類や観測器具が、静かに時を刻んでいる。


 星の海に視線を戻し、ぼんやりと観測を続ける。


(私は……ただ、あいつを守りたかっただけなのに……)


 守れなかった。それどころか逆に守られた。そして、彼女はこちら側に来てしまったのだ。自分の願いに反して。


「まったく……ままならんものだ」


 答えはない。当然だ。ここには自分以外誰もいないのだから。彼女にはついてくるなと告げた。あの状況でここまで追ってくるほど彼女は愚かではない。


 ただ、胸の奥のざわめきだけが、静かな部屋に反響しているような気がした。


(思えば……私はずっと一人だった……)


 かつては自分も物語を担う一部だった。すべての始まりの話。善と悪の魔法使いの、長きにわたる戦いの物語だ。


 二人の魔法使いは元は親友同士だった。だが、どこで道が分かたれたのか、いつしか片方は悪に染まり、結果として友に討たれることとなる。


 片や後世に名を残した偉大な英雄と、片や愚かな敗者として語り継がれる悪役。その悪役こそが自分だった。


(今ならわかる……あの悪役は私でなければならなかった……)


 生まれ持った強い魔力。主人公である親友すら凌駕し得る可能性を秘めた存在だった自分。


 しかし、主人公以外が輝き、物語を動かすことを、この世界は許さない。だから世界は、自分に『悪役』という立場を用意した。理由など、最初からなんだってよかったのだ。悪役という配役通りに道を誤り、最終的に主人公が輝くために倒されるだけの存在でありさえすれば。


(だが、強すぎる魔力を持った私は、倒されても消滅することはなかった……)


 気づけば自分はここにいた。この世界の中心に。時の流れから切り離され、永遠を生きる存在となった自分は、この世界の『観測者』としての第二の人生を余儀なくされた。それは孤独な日々の始まりだった。


 世界の中心の正体は、亜空間に存在する巨大な時計塔なのである。こんなものを誰が作ったのかは知らないが、作った存在はよほど酔狂な人物なのだろう。


 ここはすべてが時計に支配されている。建物の内外を問わず、存在する時計という時計が寸分の狂いもなく同じ時刻を指し、時を刻む。一秒として同じ時間は存在せず、一秒たりとも止まることは許されない。


 気が狂いそうな永遠の牢獄の中、世界の観測が始まった。歪みが生まれればすぐに修正し、何度でも世界を調律し続ける。もし修正しなければ、歪みは物語を大きく狂わせてしまうだろう。


 すべては、世界を円滑に回すため。よどみなく巡り、正常な物語を生み出し続けることこそが、この世界の望みなのだから。


(最初こそ、私もよく願ったものだ……『仲間』が欲しい、と……)


 だが、それは間違いだったとすぐに気づくことになる。ここで過ごす時間は孤独すぎて、背負った責任が重すぎて、そのうちなにも望まなくなった。


 大切な仲間に背負わせるには、あまりにも長すぎる孤独と、重すぎる責任。こんなものを背負うのは、自分一人で充分だった。


(もはや仲間が欲しいなどと思わなくなってから久しい……それなのに、なぜ今になって……)


 強く目を閉じたその瞬間、観測機器のアラームが鳴り響き、警告灯が目まぐるしく点滅した。歪みを感知したのだ。


 飛び起きてソファから立ち上がり、明かりを手にして足早に階下へと向かう。そこには真っ青な顔をした彼女がいた。


「……ごめんなさい、あなたの邪魔をするつもりはなかったのだけど……」


 それには答えず部屋の中央に設置された大きな観測装置に大股で歩み寄った。スリープモードの装置を起動するとホログラムが現在の世界の光景を多層的に映し始める。まるで『時間の万華鏡』のようだった。


「発生源はどこだ?」

「座標N55E12。物語名『人魚姫』。どうやら人魚姫が王子を刺す決心をしてしまったみたいなの」


 本来の落ち着きを取り戻した彼女の返事はよどみがない。一応念のために他の計器の表示を確認してみるが、間違いはなさそうだった。


「なるほどな……ならば急ぎ修正が必要だ」

「でも、人魚姫は悪くないわ。当然の帰結よ」

「今は彼女の決意の是非を議論している場合ではない。ここでの最悪はなんだ?」


 そう問えば、彼女は一瞬バツが悪そうに言葉を飲み込み、やがて静かに口を開いた。


「……物語が狂うこと」

「わかっているなら話は早い。この件、お前が修正しろ」

「どうやって?」


 思わず目を丸くする彼女に、わざとそっけなく説明する。


「因果律を調律するんだ。姉姫たちの忠告で人魚姫が王子殺害を決意をしたなら、その決意を覆す因果を世界に組み込めばいい」

「たとえば……王子と過ごした幸せな記憶を想起させるとか?」

「わかっているなら、とっととやれ。あまり時間はないぞ」

「……わかった」


 どこか不満そうな彼女から視線を逸らし、懐から古びた懐中時計を取り出す。


 年代を感じさせるアンティーク調のそれは、細かく装飾された美しい透ける文字盤の中で、歯車が規則正しく動いていた。


「これが世界に干渉する『キー』だ。使え。なくすなよ」


 無造作に懐中時計を差し出すと、彼女が戸惑いながら受け取った。彼女も古の魔法使いの末裔だ。使い方は説明しなくてもわかるだろう。


「私は上の階にいる。終わったら返しに来い」

「……うん」


 懐中時計をギュッと強く握りしめた彼女には目もくれず、もと来た道を戻って宇宙観測室へと引き返す。ソファに腰をおろしてひと息つくが、点滅を続ける警告灯の光が今はやけに気に障った。


 顔にかかる髪を手でかきあげて、グラスを二つ用意する。魔法で氷を出し、林檎酒シードルを注ぐ。氷が溶けてグラスの中でひび割れる小気味よい音が響いた。


 ようやく警告灯の点滅が消え、再び静寂が訪れる。安堵すると同時に、ほんの少しの罪悪感に胸が痛んだ。


 やがて懐中時計を返しに来た彼女の表情は、予想通りの痛みをはらんで暗く沈んでいた。


「無事に修正できたようだな。それで感想は?」

「……最悪な気分よ」


 吐き捨てるような彼女の言葉に、束の間、昔の自分を思い出す。自分にもこんな時期があった。


 王子と過ごした幸せな記憶を思い出した人魚姫は、結局王子を刺すことができずに泡となって消えた。世界が用意した物語通りに。


 懐中時計を返してもらう代わりに、用意していたグラスの片方を差し出す。


「飲むか?」

「……もらうわ」


 彼女がほとんどお酒を飲めないことは知っている。自分もそうだから。だが、こんなときは飲まずにはいられない。


 大きなソファに一人分の距離を開けて、彼女はグラスを片手に腰をおろした。


「想像以上に嫌な役目ね」

「……そうだな」

「彼女には生きる権利があったのに……」

「あぁ」


 グイッとグラスの中身をあおり、彼女は銀灰色の瞳に涙を滲ませて呟いた。


「……私が彼女を殺した」

「それは違う。彼女自身の選択の結果だ」

「でも……見殺しにしたわ!」


 その悲痛な声に、却って自分の声が冷えていくのを感じる。


「では、王子が犠牲になるのはよかったのか?」

「……!」


 彼女は本当はわかっている。こうするしかなかったことを。そのうえで苦しい胸の裡を吐き出しているにすぎない。気持ちを整理するために。それが理解できるだけに、彼女を責める気にはなれなかった。


「お前は責任を果たし、彼女は選択した。それだけだ」

「あなたは……たった一人でこんな思いを繰り返してきたのね……」

「それが責務だ。もはやなにも思うことはない」


 グラスの中で氷を転がし、揺れる液体に視線を落とす。思った以上に酔いが回るのが早い。これ以上は控えるべきか。そう考えていると、隣から小さな非難めいた声が聞こえてきた。


「……嘘つき」


 続けて聞こえる穏やかな寝息。視線を向ければ彼女は眠りに落ちていた。その頬には涙の跡が残っている。


 大きくため息をついて立ち上がり、ブランケットを取って戻ってくると彼女にかけてやる。


「……お前は変わらないな」


 いつだって彼女は自分以外のことで心を痛めてばかりだ。彼女の眠りを妨げないようにランタンの灯を消して、ソファに深く身を預ける。部屋の中に暗闇が満ちた。


 星の光だけが静かに彼らを照らしていた。

2026/01/17

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