第7話 河原の情
顔を上げた瞬間、翠雨は息を呑んだ。
木造船の上から、こちらを見下ろしている男性が、ラーメン屋の店主とソックリな容姿をしていたからだ。ホワイトウォーターをくれた、あの男性だ。
彼は翠雨の顔立ちを見つめ、冗談っぽく呟いた。
「河原地区の顔立ちやないなぁ……品がありすぎる。まぁ、ええか……おいで」
翠雨は差し出された手を迷わず握った。男性の力強い引き上げに応え、不安定な船へと飛び乗る。
「おじさんの名前は『情』みんなからは情さんって呼ばれとる」
「おれは翠雨って言います。情さん、ありがとう……」
木造の船体に無理やりエンジンを積み込んでいるようだ。この船は重低音を響かせながら【河原地区】へと滑り出した。
川を進むにつれ、車窓の景色のように街の色彩が変わり始めた。かつて【河原地区】を拒むために建てられたであろう巨大な防壁が見え始めたのだ。今は無残に崩れ落ち、街の内部が剥き出しになっている。まるで刑務所の壁を内側から破壊したような光景だ。
煌々とした街の熱気が二人の頬を撫でた。翠雨はロボ塚くんを抱きしめながら、自分の長い髪と桃色の着物に目を落としている。情から「寒そうな格好やなぁ」と声を掛けられた彼は事の経緯を説明し始めた。
「【鵺の森】で迷子になっちゃって……逃げ回っているうちに、着物も結んでいた髪もめちゃくちゃに……周りから見たら、何事かと思うような格好ですよね」
「自殺行為やないか。生きるのが嫌になったか?」
情はアッサリと笑い飛ばしてくれた。翠雨は安心したようにため息をついている。
「本当、その通りだっちゃ。なんであんな場所にいたんだろう」
「なんで他人事やねん。シッカリせぇ」
情の豪快な笑い声が、広い背中越しに響いてきた。彼は手慣れた様子で舵を操作しながら、鵺の森について補足した。
「たまにおるんよなぁ……自分からあの森へ入ってしまう人らが。よぅ無事やったわ、良かった」
「……本当なら全然無事じゃなかったよ。おれと同い年くらいの【龍王】って奴に助けてもらったんだ」
翠雨は遠ざかる森を一度振り返り、すぐ前を向いた。
「でも、龍王は鵺よりも怖い奴で、好きになれない性格だった……なんで、お偉いさんがあんな場所にいたんだろう」
「ほぉ、龍王様に会うたんか……それはそれは」
情は驚きの声を上げている。
「あのお方は『狩り』が趣味やからな。なにせ、暗闇でも目が利くらしい。獲物を見つけるのは得意中の得意なんやろうなぁ」
防壁のすぐ内側に植えられた、美しい桜並木が見えてきた。翠雨は情にだけ聞こえるような声で、ある質問を投げかけた。
「おじさん、鵺について教えてほしい。鵺って本当に怖い生き物なのかな?」
「……」
返事はないが、話を続ける。
「森で死にかけの鵺を励ましていたら、最後に謎の粒をくれたんだ。それを飲み込んだら、鵺に擬態出来て、一旦は助かった。でも、そのあと子供の鵺に擬態してるのに、乱暴なオスに食べられそうになった……」
不意に吹いた風が、ハンドルを握る情の袖を捲り上げる。そこには、痛々しいほど大きな「火傷の跡」が刻まれていた。
「そしたら、顔に大火傷を負ったメスの鵺が立ちはだかって、おれを逃がしてくれたんだ」
鵺の顔にあった火傷と、情の腕にある火傷は、焼けただれた質感や引きつれ方が酷く似ていた。同じ場所でそれぞれ火事に遭ったような、よく似た傷だった。
情はハンドルを握る手にぐっと力を込め、遠くを見つめたまま呟く。
「……そうか」
その時、和楽器の音色や、魂を削り出すような歌声が前方から聞こえてきた。破壊された巨大な壁の内側から響いている。壁のそこかしこには演劇の広告がズラリと貼られていた。描かれた役者たちは面を被った「男性」ばかりだ。
その中でも、一際目を引く巨大なポスターが視界に飛び込んできた。
真っ黒な背景を背に、琵琶を抱えた一人の人物が佇んでいるデザインだ。そこには彼の名が記されていた。
【 奏王 】
哀しげな弦の音が駆け抜けていった。木造船のエンジン音が止まる。情がゆっくりとこちらを振り返った。
「ついたで。お待ちかねの河原地区……芸能の街や」




