第4話 指名手配キミシナ
翠雨は一度も振り返らず、暗い森を走り続けた。抱きかかえたロボ塚くんは、恐怖のあまりブルブルと震えている。
生い茂る木々の隙間からは、絶えず生き物の気配がつきまとってきた。遠くから響く鵺の奇声も正体を知ってしまった今では、助けを求める人間の悲鳴にしか聞こえない。
「……おれって、実は目茶苦茶な奴だったんだな。鵺が目の前で死んだ時、自分が助かって安心したんだ」
逃げる足は止めず、ロボ塚くんに小声で語りかけ続ける。
「なのに鵺が人間の言葉を喋りだした途端、優しく接したくなった……龍王より、おれの方がずっと残酷かもしれんな。筋が通っていないから、周りを振り回す」
その時、古びた道標が目に飛び込んできた。
【 ← 龍ノ國 】
雨風にさらされ、半分腐りかけた木の看板だ。
「龍ノ……國?」
墨が滲んだその文字を目に焼き付け、翠雨は左へと舵を切る。看板の指し示す方向へ走るにつれ、木々の奥から街灯が見え始めた。
風に流されてきたボロボロのビラが足元にまとわりつく。泥にまみれたその紙面を、ふと見下ろした。
【 重要指名手配・王階溶怪 】
おぞましい表情で、こちらを睨みつける似顔絵まで描かれている。
兄・遊楽と共に【忍法法人・溶怪会】の創始者について調べていた時の記憶が巡った。
【今から約600年前、左遷ヶ島に生まれる。創始者の名は__】
『お兄ちゃん……これ、嘘だよね』
【 王階 溶怪 】
『お前さん、まさか知らなかったのか?……翠雨も自分も王階溶怪の直系だよ』
翠雨の意識が今に戻った。
「指名手配って、どういう事だよ……それに、溶怪が生まれたのは今から600年前だ」
細い雨粒が首筋に当たる。
龍王がツブヤキ帳を焼き捨てた光景が脳裏を過った。
記名欄に書かれていた【王階翠雨】の文字は呆気なく世界から消えてしまった。龍王は、あの瞬間……
「……おれを、庇った?」
「王階」という姓が世に知れれば、翠雨もただでは済まない。翠雨を重い鎖から解き放ったのではないか。
思考を遮るように、懐から【赤い粒】が零れ落ちた。鵺が翠雨に受け取らせた、謎の粒だ。急いで拾い上げるが、指先からするりと逃げてしまう。何度懐にしまっても弾かれるように地面へ落ちていった。
鵺の奇声が急速に接近してくる。
「くそぉ、もうこうなったら……!」
冷静さを失っていた翠雨は、突拍子もなくその粒を口に放り込んだ。普段の彼ならば有り得ない行動であった。
「げほっ………ごほっ」
吐き気を催すような生臭さが喉を突く。むせ返った勢いで飲み込んでしまったようだ。
その瞬間、全身を異様な熱が支配した。喉を焼くほどの熱気に、思わず地面に手をつく。
「ゔっ……あぁっ!?」
桃色の着物を獣の毛が瞬く間に飲み込み、翠雨の輪郭まで書き換えていく。
視界が低く沈み、指先が鋭い鉤爪へと変わる。自分自身から漂う生臭い獣の匂いに、翠雨は鏡を見るまでもなく悟った。
「鵺になっちゃったよ……どうやったら人間に戻るんだ?! どうしたらいい?!」
すぐ横を通りかかった鵺は、翠雨を襲うどころか、道を開けるように静かに佇んでいる。
赤い粒の成分が体内を巡り、翠雨の姿を人間の子供ではなく「鵺の子供」へと変貌させたのだ。鵺たちはまるで迷子の子供に接するかのように、優しい目で見送ってくれた。
ロボ塚くんを背中に乗せて、闇の中を駆け抜けていく。ロボ塚くんにはまだ、しがみつく力が残っていた。
途中、行く手を阻むように巨大なオスの鵺が姿を現した。ドキュメンタリー番組で見た、空腹を抱えたオスのクマが、子グマを食い殺す映像を思い出す。
「まさか、襲ってこないよな……」
瞳に純粋な殺意を宿していたからだ。
やはり、牙を剥き翠雨に襲い掛かってきた。
「嘘だろ……っ?!」
立ちすくむ翠雨を救ったのは、顔に火傷を負ったメスの鵺だった。オスの前に立ちはだかり、命がけで翠雨を逃がす。かつて自分を地下室から救い出してくれた母親の影と、少しだけ重なった。
胃の中で例の粒が溶け切ったようだ。
擬態の効果が薄れ始め、周囲の鵺たちが次々と「異物」の存在に気づき始める。
翠雨は死に物狂いで森の境界線へと駆け出した。背後から迫る爪が、顕になった桃色の着物の裾をかすめる。
ギリギリのところで森を抜けた瞬間、翠雨の体から鵺の気配が消えた。人間の姿へと完全に戻ったのだ。
震えながら後ろを振り返る。
境界線の向こう側で鵺たちが悔しげに牙を剥きながら、深い闇へと戻っていくところだった。
翠雨を助けたメスの鵺は表情一つ変えずに、森の奥へと消えていった。
翠雨はすぐに目をそらし、切り替えるように前を向いた。




