第4話 薬湯温泉・旅人の宿
【薬湯温泉・旅人の宿】は、かつて栄華を極めた温泉宿を現代風に改築したような外観をしていた。
ロビーの工芸品棚には、古めかしい魔除けの人形や、カラフルなガラス細工が並んでいる。壁に埋め込まれた水槽の中を、全自動金魚ロボットが泳ぎ回っていた。
この宿は、小さな和室がフロントになっているようだ。宿泊名簿を差し出された翠雨が、慣れた手つきで【王階】と記した、その時だった。
「……王階さま、王階家のご子息……王階溶怪さま、直系の御血筋であらせられましたか!」
管理人の老婆が、その場に膝をつき、額を畳に擦り付けたのだ。翠雨はその異常な光景を、鋼の明るさで受け流した。
「そういえば、うちの先祖が溶怪会の創始者なんだったな……あんまり嬉しくないよ、お婆さん、顔を上げて」
遊楽もそれに続いて口を開いた。
「弟の言うとおりです。例えあなたが王階溶怪の教えに救われていたとしても、自分たちには関係のない話です。一、宿泊客として扱ってください」
遊楽はそう言って、管理人の老婆に優しい笑みを向けた。しかし何処か突き放すような態度だ。
案内された二階の客室は、十二畳もの広さがあった。天井の中央には月を模した巨大な球体ライトが吊り下げられており、柔らかな金色の光を放っている。いくら凝視しても目が痛くならず、むしろ意識が吸い込まれるように眠気を誘われる不思議な光だった。
『ぽ~う……忍ポポポゥ……』
足元では【お掃除ロボ・ロボ塚くん】が『ぽぅぽぅ』と音を漏らしながら、床を清めていた。
しかしその直後、畳の段差で見事に転んで動けなくなってしまった。翠雨がひょいと拾い上げると、ロボ塚くんは嬉しそうに鼻息を荒げた。その体温は生き物のように温かい。
二人はひとしきりロボ塚くんを撫で回した後、備え付けの着替えを手に、この部屋専用の露天風呂へと向かった。寝間着までピンク色だ。
乳白色の湯気が立ち込める湯船から見上げた偽物の星空は、やはり息を呑むほど美しかった。
翠雨は肩まで湯に浸かり、ぼんやりとこの空を眺めている。
「自分がちっぽけに思えてくるな〜」
「……作り物だよ、ただの天井だ」
遊楽が、湯船の端で翠雨の肩をポンと叩いた。
「左遷ヶ島の星空の方が、ずっと綺麗だよ。色々と落ち着いたら、昔みたいに語り合おう……本物の、星空の下で」
遊楽の言葉を聞いた翠雨は、空を見上げ嬉しそうに微笑んだ。
「昔は一緒によく星を見たよなぁ……でも、最近は下ばっかり見てた」
一等星が瞬いた。
「翠雨……これから楽しい思い出を沢山作ろうな」
「うん!」
吹き抜けた風は、薬湯とはまた別の人工的な匂いがした。翠雨は悲しげに呟く。
「ここにずっといたら、この匂いも感じなくなるんだろうな……こっちが、正しい世界になっていくんだと思う」
風呂から戻り、くつろいでいた彼らに夕食を運んできたのは、またしてもあの老婆だ。
「この時間は、ノンカフェインのお飲み物しか出せない決まりなんです」
彼女は食事と一緒にハーブティーを差し出し、深々と頭を下げて去っていった。
食事が終わると同時に、二人の【溶怪会ウォッチ】が激しく振動した。溶怪会ウォッチから指示が出される。
『溶怪会ウォッチを【溶怪会ウォッチガチャ】にかざしてください』
指示通り、部屋の壁に取り付けられた【溶怪会ウォッチガチャ】に【溶怪会ウォッチ】をかざす。ガチャンという音と共に、カプセルに入ったサプリメントが排出された。
遊楽のカプセルの中には、彼が常用している精神科の薬も混ざっていた。一人一人に合うサプリメントが支給される仕組みのようだ。
溶怪会ウォッチには、心拍数や体温など、細かく体調の変化を計測出来る機能が付いていた。それを基にサプリメントを選別しているらしい。
「……便利でいいなぁ」
遊楽が吐き捨てるように笑う。その瞳には、少しばかりの不快感が混ざっていた。
「管理され、監視され続ける……ということか。人権という言葉は、この世界に存在するのだろうか」
翠雨のカプセルには、乾燥納豆と小粒のおからクッキーが入っていた。翠雨は肩を落としながら、ポリポリと交互に食べ始めた。
「お兄ちゃん……おれは、口がパサパサになるような物しか入ってなかったよ……毎日これを食べ続けるのは嫌だっちゃ」
就寝前、遊楽は引きつった顔で独り言を言い始めた。ピンク色の寝間着姿で鏡の前に立っている。
「……初めてピンク色の服を着たよ。さっき自分の姿を鏡で見たけど、おばさんみたいだった。自分は、女顔なのか? 容姿に関しては何処を目指したら良いのか、さっぱり分からん」
遊楽が真剣に悩んでいると、翠雨は穏やかな表情で笑った。
「今日一日の我慢だっちゃ。おれも頑張るから、お兄ちゃんも耐えてくれ……それに、お兄ちゃんはかっこいいよ。おれは、何回でも言う、お兄ちゃんが気づいてくれるまで」
やがて、月のライトがゆっくりと光を絞り、部屋は暗色に包まれていった。翠雨はベッドに寝そべった状態で「金の鱗」を見つめている。月の残光にかざしてみると、鱗は涙のようにキラリと光った。
「金の龍は、きっとひとりぼっちだっちゃ」
遊楽からの相槌はなかった。彼は薬のせいか、深い眠りについている。
「でも、それを望んでるのかもしれない。おれは無理に追いかけたりしないよ……自分のペースが大切だって、やっと気づけたから」
翠雨は鱗の感触を指先で確かめた。
「お父さんとお母さんがいないと、こんなに楽なんだな……今日、初めて知った……でも、知りたくなかった」
壁の時計は、夜の十一時を回ろうとしている。翠雨は大きなあくびをしながら、掛け布団の位置を直した。
「金の龍に会うのは、また来年だ」
【四月九日】、今日の出来事が走馬灯のように頭を駆け抜けていった。身体から力が抜け、世界の奥底へと沈んでいく感覚に陥る。
翠雨は金の鱗を手のひらに握りしめたまま、この奇妙な地下帝国で眠りについた。




