第3話 金龍雨天祭
小舟に乗り込んだ翠雨と遊楽の頭上には、スクリーン製の天井に映し出された偽物の星空が続いていた。謎の川から流れる消毒液のような匂いさえなければ、ここが地下深くだとは到底信じられない。二人は、流れゆく景色を心から楽しんでいる様子だ。
小舟が、光り輝くステンドグラスのトンネルへと進み始めた。外部から差し込む光が、壁面に刻まれた緻密な模様を映し出している。
そこに描かれていたのは不気味な面を被り、華麗に舞う黎明翠の姿だった。翠雨と遊楽は言葉を忘れ、ただ見惚れている。
しかしその陶酔は、不意に断ち切られた。
ガタタンッ……。
レールが噛み合う不穏な音が響いた直後、小舟が暗闇の斜面を急降下したのだ。
船体に施された煌びやかな装飾が、千切れんばかりに激しく揺れ動く。
「うわっ……落ちる――!」
「翠雨、手すりに掴まれっ!」
翠雨の悲鳴が光り輝く世界から地下深くへと消えていく。
叩きつけられるような衝撃を覚悟した次の瞬間、小舟は吸い込まれるように滑らかに水面へと滑り込んだ。大きな水飛沫を上げることもなく、驚くほど静かな着水を遂げた。
激しい落差のあとの静寂。そこから世界は一変した。
――ドーン、ドドドーン……。
轟音が広大な地底空間に鳴り響いている。空には大輪の花火が次々と映し出されていた。
ヒュルルル…… ドン、ドコ、ドン。
太鼓とかすれた笛の音。
ピーヒョロ、ピーヒョロ……。
祭りの囃子の音が確かに響いている。
小舟が進んだ先には、まるでおとぎ話のような景観が広がっていた。
川の両岸には宿場町を模した和風造りの商店が並び、無数の提灯が水面を朱く染めている。伝統的な建築物の頭上に、科学的な大空が広がる世界。ここは、歪で煌びやかな水上商店街だった。
商店街の至る所に飾られた金色のポスターが視界に入る。
【 金龍雨天祭 】
【 日程……四月九日 】
【 場所……金龍商店街 】
どこからか、アナウンスが聞こえてきた。
『今日……四月九日は、誇り高き金の龍が、親友のためにその尊い命を落とした日です』
その言葉に、翠雨の顔が曇った。
「金の龍は……四月九日に死んでいるのか?」
「鵜呑みにしない方がいいぞ。溶怪会は計算高い集団だ。常に疑ってかかったほうがいい」
遊楽が冷静に釘を刺す。
商店街には大勢の住民が溢れ、生活の営みが感じられた。夜空に立ち込める雲のような霧をスクリーンにして「金の龍」が映写されている。龍は金色の光を放ちながら、悠然と大空を泳いでいた。
「……おれが、路地裏で見た龍とソックリだ」
街の入り組んだ家並みの中に、使い込まれた檜の舞台が溶け込んでいる。四本の太い柱が豪華絢爛な屋根を支え、ステージの背景には金の龍が描かれていた。街の広場として親しまれているであろうその場所で、一糸乱れぬ動きを見せているのが【溶怪会音楽団】だ。
舞台から放たれる太鼓の重低音は、石畳を伝って二人の心を激しく震わせる。
完璧な和音が、舞台から波のように押し寄せた。心臓を直接掴むような感動的な祭の音色だ。
遊楽は目を閉じ、その音色を吟味している。
「今朝自分が聞いたものと同じ音だ……地下から祭の音が聞こえてきたんだよ、幻聴じゃなかったのか」
遊楽は、この状況を分析し始めた。
「溶怪会音楽団か……きっと、相当な訓練を積んだ芸能集団のはずだ。素人が伝統を守っているレベルじゃない。表の世界なら、一晩で数万人を動員するような天才たちが、地下深くで、音を奏でているんだ」
「……あれ?」
翠雨はある事実に気付き、静かに呟く。
「でも……踊り手だけがいないね」
小舟が舞台に近い観客席のすぐ横を通過した。翠雨は一際上手に笛を奏でる低身長の美形男性を見つめ、思わず身を乗り出した。
「あっ、あの人……テレビから消えた、十五股天才バンドマンだっちゃ!」
翠雨の視線の先、当の本人がこちらに気づいて爽やかに手を振ってきた。
「全部、目には見えない妖怪のせいなんだぁーー! 浮気したいと思ったことなんて一度もない! 取り憑かれていただけなんだよ! 一つ一つの恋は、本物だったんだ!」
「地獄耳だっちゃ……それに、爽やかに言うセリフじゃないよ」
バンドマンの言い訳は、水面に虚しく響いて消えていった。
見渡せば、商店街を行き交う人々は老若男女を問わず、全員がピンク色のワンピースを着ていた。統制を感じさせるが、同時に奇妙な解放感もある。
「お兄ちゃん、男らしくしろ、なんて言う人はここにはいなそうだっちゃ」
「そうだろうなぁ……このピンク色と溶怪会の繋がりが、どうにも気になるけれど」
小舟はやがて、賑やかな商店街を抜けて静かな桟橋へと接岸した。【旅人の宿駅】の文字が木製看板に刻まれている。
翠雨は遊楽に続いて小舟を降り、足元の揺れを感じながら、地に足をついた。
彼らは前だけを見て歩んだ。
川から漂う消毒液のような匂いが遠ざかっていく。その先には人工的に作られた光り輝く桜並木が続いていた。
しばらく進むと現れたのは、二階建ての木造建築だ。
【薬湯温泉・旅人の宿】
目的地に到着したようだ。
遊楽が確信を込めて呟く。
「溶怪会は、高度な化学と薬品の知識に精通しているようだな……バックにとんでもない人間がついているはずだ」
【溶怪会】の底知れなさが生ぬるい風となって、二人の肌を撫でた。




