第15話 4月9日……金の龍。
翠雨は小雨の中、金龍岩を目指した。
「憂,永遠、あいつは晴れ男だな……出会ってから一気に雨が弱まった」
防風林を抜けると、辺りは潮騒の音に包まれていった。
目の前に広がる海には、金龍岩の巨大な影が、うずくまる獣のように鎮座している。翠雨は波飛沫を上げる海に向かって、喉が裂けんばかりに叫んだ。
「お兄ちゃーーーん! いるんだろ? おれには分かる、返事をしてくれ」
波間に黒い塊が浮き沈みするのを見て、心臓が跳ね上がった。岩に絡まった漂流ゴミに過ぎなかった。安堵と恐怖が交互に押し寄せ、脳裏に祖母の変わり果てた姿がフラッシュバックする。翠雨は激しく首を振った。
「大丈夫だっちゃ……お兄ちゃんは生きとる、絶対に、生きとる」
彼は吸い寄せられるように、沖合へと真っ直ぐ伸びる金龍岩桟橋へ足を踏み入れた。
「お……お兄ちゃんっ!!!」
桟橋の先端に、見慣れたシルエットを見つけた。もつれる足で走り抜けると、潮風にさらされた床板が、悲鳴のような音を立てて軋んだ。
「良かったぁ……良かったぁ……」
兄・遊楽は桟橋の最果てで、仰向けになって眠っていた。一歩間違えたら、意識のないまま波に呑まれてしまう、あまりに危うい境界線の上だった。
翠雨はその隣に膝をつき、必死に遊楽の肩を揺すった。辺りには、開封された精神薬のシートが毒々しく散らばっている。
「お兄ちゃん、もう大丈夫だっちゃ。よく踏みとどまってくれた……お兄ちゃん」
「……うわぁぁああっ!!!」
彼は叫び声を上げながら目を覚ました。怯えた様子で辺りを見渡している。
「……翠雨? こんな所で、何をしているんだ?」
「とぼけすぎだっちゃ。いきなりお兄ちゃんがいなくなったから、探しに来たんだよ」
翠雨から安堵の声が溢れ出した。遊楽は呆然とした表情で彼を見つめている。
「探しに来た、ということは……ここは、死後の世界ではないということか? 自分は……生きて、いるのか?」
「さっきから何を言っているの? お兄ちゃんは生きてる。この世界に、ちゃんといるよ。どうして死んだと思った?」
翠雨も、まだ混乱している様子だ。
「お兄ちゃん……なにがあったのか、おれに教えてほしい」
すると遊楽は、混濁した意識を繋ぎ止めるように語り始めた。
「自分は身を投げるために、この場所から海を見下ろしていたんだ、カナヅチだから、やはり無理だったよ。でも、戻る場所もない。せめて意識を飛ばそうと思って、持っていた薬を全部流し込んだ」
遊楽の虚ろな瞳が、不安定に揺らいでいる。
「そしたら急に、真っ白な世界が浮かび上がったんだ。どこまでも広がる浅瀬……境目のない白い空」
翠雨の背筋に電流が走った。地下室の闇で見た、あの夢と完全に重なる。白い霧がすべてを飲み込み、視界が爆発的な光に包まれていった、あの不思議な世界だ。
「……それ、おれも見たよ。お兄ちゃん、その世界で、おれと会わなかった? 必死に叫んだんだよ。お兄ちゃんに生きてほしくて……」
翠雨と遊楽の瞳に、希望の光が宿る。
「……ああ。白い霧の中で、翠雨の声が聞こえた。『絶対に死ぬなよ』そう引き留めてくれたな。最後に見えたのは、翠雨の涙だった」
二人は、雨風に打たれながら「答え合わせ」をしていった。途中、遊楽は足元の海を眺め悔しそうに黙り込んだ。
「だけど自分は、薬が回って意識が朦朧としていた……そのまま海へ飛び込もうとしたんだ。せっかく、翠雨が引き留めてくれたのにな」
遊楽の言葉が途切れる。
「なら、どうしてお兄ちゃんは踏みとどまれたの? それだとおかしいよ……」
その瞬間、翠雨の頭の中に稲妻のような閃光が走った。漆黒の海から、巨大な金の龍が雄叫びと共に飛び出す光景が浮かび上がっていく。荒ぶる波を切り裂いて天へと昇る眩い姿、月光を浴びて神々しく輝く鱗……
遊楽はゆっくりと顔を上げ、翠雨の疑問に答えた。
「海から、金の龍が飛び出してきたんだ」
孤独な誰かを救うために、神話の彼方から現れた「守り主」。それは翠雨が心の中でずっと求めていた、強くて優しい怒りの形だった。遊楽は大切そうに話を繋いでいく。
「龍は、もの凄く怒っていて……自分はそれに驚いて、這うように後退りしたんだ。目を覚ましたら、翠雨がいた」
翠雨は涙を堪えきれず、遊楽の手をがっしりと握りしめた。
「……死なないでくれて、良かった。本当に、良かったぁ……。金の龍が助けてくれたんだ、お兄ちゃんは信じないかもしれない。だけどおれは、そう思うよ」
翠雨と遊楽の涙が、今日、【4月9日】の雨と混ざり合っていく。リュウの大きな背中が浮かんだ。
『翠雨が信じたいと思う方を、信じたらいい』
雲間から覗いた月明かりだけが、優しくこの世界を照らしていた。




