第13話 不可視の国のスイウ
翠雨は浅い眠りから目覚めた。
真っ暗な地下室の底、鼻を突くのは相変わらずのホルマリンの匂いだ。どこまでも透明で白い世界は、もうどこにも見当たらない。
「……最悪な夢だっちゃ」
額の冷や汗を拭っていると、指先に小さなライトが触れた。
「……でも、ただの夢だ!」
父親が夜な夜な自分のコレクションを眺め、悦に浸るために置いていたライトだろう。手探りで電源を入れると、埃の中に細い光の道が浮かび上がった。
棚の隅に隠されていた【母の日ありがとう】と書かれた手紙が視界に入る。封筒の中には、翠雨が描いたイラストと、遊楽が作った『ナゾトキ本』が大切に保管されていた。
さらにその奥、剥製の影に一冊の擦り切れた本が隠されている。
本のタイトルは【子供の心に寄り添う、優しい言葉かけ】……母親向けの育児本だ。
ページをめくっていくと、「良い母親」になろうとした葛藤の跡がびっしりと書き込まれていた。
【感情的に怒らない】【目を見て話す】【まずは抱きしめる】
『母の日のプレゼント? 失くしちゃった……最近、物がなくなるのよ』
無機質に言った彼女の顔が浮かぶ。
父親にとっては、支配の邪魔になる【没収品】に過ぎなかったのだ。
突然差し込んだ強い光に翠雨は思わず瞬きをした。隠し扉がガサゴソと動き、淡いオレンジ色の光が地下室を照らしていく。
「……お母さん?!」
顔を上げると、母親が懐中電灯を持って眠たそうに欠伸をしていた。
懐中電灯が作った光の筋が、「擦り切れた育児本」を浮き彫りにする。
母親の虚ろだった瞳が、一瞬だけ激しく揺れ動いた。
「……静かにして。夜なんだから」
しかし木製のはしごを降ろすだけで、翠雨の目を見ようともしない。
「お母さん……ありがとう」
ささやきを振り切るように、母親は暗闇の奥へと立ち去っていった。
翠雨は慎重にハシゴを登り、それを屋根裏部屋の中へ静かに片付けた。父親のいびきが響く廊下で古い床板がギシッと鳴るたび、心臓が跳ね上がった。玄関の隅に置かれたボロボロのスニーカーに足を入れると、彼は一度も振り返らずに王階家を後にした。
全速力で商店街を突き進んでいく。
星が滲んだ夜だ。どこまでも続く闇に追いかけられている気分になった。
商店街の真ん中にある十字路に立つ。
翠雨は息を切らしながら、山の方角と海の方角を交互に見つめた。
夢で会った、兄の言葉を思い出す。
『自分は【金龍岩桟橋】から、海に飛び降りて死んだ。警察に連絡して、底に沈んでいる自分を引き上げてやってほしい』
金龍岩桟橋は左遷ヶ島海水浴場の沖合へと伸びる、長さ四十メートルの巨大な桟橋だ。その左手には、波に洗われる金龍岩が鎮座している。
「もし、ただの夢だったら……お兄ちゃんが山に逃げとったら……」
翠雨は海に背を向け、沈黙する山を見上げた。闇に沈む木々は静かに青い葉を揺らしながら、この街を見下ろしている。
その時、冷たい雨粒が背中を叩いた。
視界の端で金色の光が揺らめいている。
「__リュウ?」
満月が浮かんでいるだけだった。
雨風は翠雨を追い越し、海の方角へと吹き抜けていく。廃墟に咲く赤いツツジの影が、噂話を語り合う人影のように揺れた。
かつて教室の隅で聞いた、クラスメイト達の囁きが蘇る。
『行方不明になっとった翠雨の婆ちゃん、やっと見つかったんやって……ボケてたから、よぅ迷子になっとったもんなぁ……誰も悪くないで』
『でも、どうして場所がわかったのかな? 左遷ヶ島は、物凄く広いのに』
『夢で婆ちゃんに会ったんやって……そしたらその通りの場所で……虫の知らせってやつだよな』
最後に聞こえたのは、この言葉だ。
『翠雨には不思議な力があるんだよ。目には見えない、不思議な力』
「……みんな、おれを置いていく」
翠雨の瞳にはまだ、迷いがある。
それでも彼は、磁石に吸い寄せられる鉄屑のように海へと走り出した。降り注ぐ雨が熱を持った身体を優しく、残酷に冷やしていく。
今夜の月は、不思議と金色に見えた。
黎明翠の石像に深くお辞儀をしていたリュウの横顔が浮かぶ。
『翠雨をよろしくお願いします』
絶望の夜を走る翠雨を、リュウの残像だけが繋ぎ止めていた。
「大丈夫だ……お兄ちゃんは生きとる。絶対に間に合う!」
泥を跳ね上げ、街灯の消えた闇を切り裂いて進む。
やがて、潮の匂いが混じった風の中に、一枚の看板が浮かび上がった。
【この先、三キロ……金龍岩桟橋】




