第11話 怪物と勇者
翠雨は涙を拭いながら、永伝寺を後にした。山を下るにつれ、空の虹は夕闇に溶け、代わりに不吉なほど白い満月が顔を出した。
翠雨のポケットからは、役目を終えたバンダナが端を覗かせている。首元を夜風が優しく撫でるたび、リュウの指先が残した熱が広がっていくようだ。
何度も立ち止まっては、握りしめたアイディアノートを開く。自分の拙い線の隣で踊る、リュウが描いた完璧なお手本。
「また……会えるよな」
王階家に辿り着くと、翠雨は迷わず兄・遊楽が暮らす離れの小屋へ飛び込んだ。
「お兄ちゃん! 今日ね、金髪頭のリュウっていう奴と……」
翠雨の声が凍りつく。遊楽の姿が見当たらないのだ。
小屋の壁には殴って出来たような拳大の穴が増えている。冷たい床には、ぶちまけられた大量の錠剤が散乱していた。昨日、遊楽が生けてくれた大陸タンポポの花も、紙コップごと床に転がっている。
こぼれ落ちたタンポポが、まるで指差しで場所を教えるかのように、座卓の下に潜り込んでいた。
花を救おうと手を伸ばした翠雨の指先に、一冊の本が触れる。震えるような殴り書きが綴られた、遊楽の日記帳だった。
【画面の向こうで笑う奴らも、父さんも同じだ。何をしても、自分の容姿や過去ばかりが標的にされる。薬を飲んでも、頭の中の雑音は消えなかった。翠雨を守れなかったことが、今、とても悔しい。ごめんな、翠雨。自分はもう、限界だ】
翠雨は裏庭へ走り、アスパラガスに水をやる母親に縋りついた。
「お母さん、お兄ちゃんがいないんだ! 壁は穴だらけで、薬も散らばっとる。どう考えてもおかしいよ。もし、お兄ちゃんに何かあったら……」
母親の虚ろな瞳は、育てている野菜にしか注がれていない。
「パラちゃん、大きくなったねぇ。お水をパラパラパラ~♡」
「……おれはパラちゃんより下か! お母さん、聞いてる!? 早くお兄ちゃんを探さないと」
「遊楽の寄行なんて、いつものことでしょ?」
母親は一度も翠雨を見ず、無慈悲に言葉を続けた。
「それより翠雨はお父さんの夕ご飯を作らなきゃ。また、怒られるわよ」
薄くにじんでいたはずの満月が輝き始める夕暮れ時。翠雨は王階家のキッチンに急いで向かった。絶望の中、震える手で夕ご飯を作り上げていく。
そこへ心臓を叩くような足音が響いた。
「どうした? 怯えた顔をして。俺が怖いのか?」
顔を上げると、仕事帰りの父親がニヤリと唇を歪めていた。身長は優に180センチを超え、鳶職人の作業着を纏った姿は威圧感そのものだ。 一流俳優のように整った容姿には、男らしく勇ましい魅力がある。しかし、その眼光には底知れない冷酷さが宿っていた。
「お父さん、お兄ちゃんがいないんだ。今から探しに行っていいかな? 帰ってきたら、皿洗いも全部やるから」
父親は腕を組み、翠雨を品定めするように見下ろした。
「翠雨には可愛げがある。だが、兄貴の方は話にならない」
そう言うと、父親は翠雨の頭の上に、買ってきたばかりのコンビニおにぎりをポンと置いた。
「遊楽も昔はお父さん子だった。あいつもお前の頭によく食べ物を乗せるだろ? 俺の癖を真似ているんだ。今でもその気質はあるんだよ」
父親は満足げに目を細めた。
「だが、扱いづらい子供になってしまったなぁ……」
「お父さん、さっきから何を言っているの? おれらは家族だっちゃ!」
「家族?」
父親は翠雨の顔を覗き込み、聞き惚れるほど魅力的な声を出した。
「あいつが先に喧嘩を売ってきたんだ。昔、俺がお前の押し花を破り捨てた時、あいつは俺を『怪物』と呼びやがった。親を怪物扱いするなんて、酷いと思わないか? ……翠雨、お前はどちらの味方だ?」
壁にかけられたアナログ時計が、カチカチと時を刻んでいく。
「俺はお前がいなくなったところで、何も困らない。だがお前は俺がいないと生きていけない。食費はどうする? 住む場所は?」
【お前】という言葉がトラウマの扉を叩いた。
『俺は怒っている時だけ、【翠雨】のことを【お前】と呼んでしまうんだ。名前があるのにな……』
脳裏に蘇る教訓……身体が石のように強張る。
「よく考えて行動しろよ、翠雨。困るのは自分だ。兄貴の面倒を見るのは、もう疲れただろ? あいつは優秀だが、もう使い物にならない」
父親は瞬き一つせず、慈しむような、狂気すら感じる笑みを向けた。
「俺にとっての息子は……翠雨、お前だけだよ」




