第10話 リュウが降らした雨のあと。
「リュウは今日、誰と来た? お父さんやお母さんは?」
「ひとりで来た」
「ひとり!?」
翠雨とリュウは、蝶の墓場の前で言葉を交わしていた。
「父親は仕事で海外にいる。父子家庭だから、母親はいない」
「そうなんだ……」
翠雨は慌てて別の話題を探した。しかし、リュウは淡々と話を繋いだ。
「心の穴を埋めたくて、ハムスターを飼ったことがある。あいつら、すぐに死ぬんだな。五年しか生きなかった」
「それ、本当にハムスターか? 普通は二年か三年しか生きないよ。五年も生きるなんて化け物だっちゃ」
翠雨は吹き出しながら、リュウの顔を覗き込んだ。しかし、リュウの眼差しはどこまでも真剣だ。
「俺様の手のひらで眠るように息を引き取った。適度な運動とバランスの良い食事を与えていたのに……喜ばせたくてマジックを見せたりもした……たった五年で逝ってしまうなんてな」
翠雨は笑うのをやめ、温かい眼差しで彼を見上げる。
「リュウは、優しいんだなぁ……きっといいお父さんになるよ、リュウの家族になれる人は幸せだな」
西日が二人の影を寄り添うように描き出す。
「当たり前のことだ。面倒を見ると決めたら、最後まで大切にするものだろ」
リュウは照れる様子もなく、ただ真理を述べるように言った。
「リュウが飼っていたのは、ゴールデン? それともジャンガリアン? 名前は何て言うの?」
「豆大福みたいなやつだ。名前は、付け忘れた」
「なんて呼んでたんだよ」
「売れ残り」
「ひどいなぁ……せめて大福って呼んでやれよ」
声を立てて笑っていると、翠雨のお腹がぐぅっと盛大に鳴り響いた。翠雨は耳まで真っ赤にして黙り込んでいる。
「おれは、どこまでも貧乏人だっちゃ……リュウは、おれを馬鹿にしないのか?」
「馬鹿にする理由なんて何処にある? 生まれる環境なんて自分じゃ選べないだろ」
リュウはポケットから銀紙に包まれたお菓子を取り出した。高級な板チョコレートだ。昨夜、兄がくれたものと同じ商品だった。リュウは翠雨に、このチョコレートを手渡した。
「これ、おれが一番好きなお菓子だ! リュウも好きなのか?」
「……」
リュウは表情ひとつ変えず、翠雨を見つめ返している。
「その顔はどっちだっちゃ。でも、好きだから持ってるんだろ? 半分こしよう。ほら、リュウっ!」
「貸せ。俺様が均等に割ってやる」
リュウが手際よくチョコレートを二つに割った。翠雨は差し出された片割れを幸せそうに頬張る。しかし、翠雨はある事実に気づき眉を寄せた。
「全然、半分じゃない! おれの方が、ずっと大きいよ」
「気にするな、食え」
リュウの口元が、わずかに綻んだ。
「リュウは『お兄ちゃん』って感じだよなぁ」
「昔から言われる。自分ではよく分からない」
「どう見てもお兄ちゃんだっちゃ! 思いやりに溢れてるよ。そうだ、リュウはおれのお兄ちゃんとも気が合うと思う。会話のテンポ感が似てるんだよ。今度みんなで遊ぼう、リュウの弟も一緒にさ」
「……そうだな」
リュウは自分の分の小さなチョコレートを、ようやく口に含んだ。
「なんやこれ。ガムシロップを固めたような味やな」
「そんなこと言うな! 甘くて美味しいだろ? リュウは普段、何を食べてるんだよ」
「寿司」
「このボンボン息子っ!」
まだ明るい空に白く透き通った満月が浮かび上がっていた。
「リュウ、次はいつ会える? また遊ぼうね」
翠雨は名残惜しそうに月へと手を伸ばした。
「夏休みも来いっちゃ。左遷ヶ島の蛍は、息を呑むほど綺麗なんだ」
「……」
「そうだ! リュウ、『仏壇付き住宅』って知ってる? 知らない人の空き家に住んで、仏壇の手入れを欠かさない代わりに安く住めるんだ。お盆とお正月だけ、持ち主の一族が帰ってくるけどさ……」
「嫌やわ。なんで他人の仏壇と生活せなあかんねん」
リュウは澄んだ瞳で空を見上げていた。その横顔は、出会った時よりもずっと穏やかで、どこか神聖な気配を纏っている。
「ねえ、リュウ。本当にまた遊ぼうな」
翠雨は何度も念を押すように笑いかけたが彼からの返事はなかった。
「返事くらいしろよ、神様みたいに微笑んでないで」
リュウの金髪が夕日に照らされて神々しく輝いた。鋭い瞳に吸い込まれた光が星のように輝き出す。
「翠雨……10秒だけ目を閉じたら、面白いことが起こるかもしれないよ?」
「……おれとの別れが寂しくて泣きたくなった? 泣き顔を見られたくないのか……リュウって意外と脆いんだな」
「いいから閉じろ」
「せっかくおれがボケたんだから、ツッコんでくれよ。おれだけ急におかしくなったみたいだろ?」
翠雨は不思議に思いながらも、ゆっくりと瞼を閉じた。
心の中で一秒ずつ、大切に数を刻んでいく。
三、四、五……
首元に、温かい指先がわずかに触れた。喉を締め付けるような不快な感触ではなく、慈愛に満ちた柔らかな感触だ。
瞼の裏には金色の残像がチカチカと揺れていた。遠くで響く鳥のさえずりと、頬を撫でる湿った風……
十秒後、翠雨はゆっくりと瞼を開けた。
リュウの姿は、跡形もなく消えていた。
「リュウ……どこだっちゃ!? なんで……なんでいなくなる?」
翠雨の視界が、急激に熱を帯びていく。
「仲間だろ? また会うって、約束……」
蝶の墓場に視線を落とした。
「約束は、しそびれたっちゃ」
堪えきれなかった涙が、頬を伝い足元に落ちた。
翠雨は自分の首元が妙に軽いことに気づいた。父親から貰った「忠犬ファッション」のバンダナが無くなっていたのだ。
バンダナは黎明翠の石像が鎮座する石の上に、綺麗に畳まれていた。
隣には、昨日失くしたはずの小さなアイディアノートが置かれている。風が吹き抜け、ページが次々とめくられていった。ノートの元へ駆け寄り、このページを見下ろす。
翠雨が途中で描くことを諦めた黎明翠の絵の隣には「踊っているポーズ」のお手本が書き添えられていた。翠雨の祈りがこもった線を尊重するように、隣に小さく描かれた、完璧なお手本だ。
【幸せそうにおどっている姿。どうしても、このポーズがむずかしくてかけん。お手本がないと分からんよ。お婆さんの絵なら、いくらでもかけるのに】
翠雨が書いたもどかしげなメモの横には、参考になる美術資料のリストが美しい文字で付け足されていた。
見上げた空には、大きな虹が架かっていた。




