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第6話 永伝寺の蝶

 山道を進んでいくと、木々と花々に囲まれた永伝寺(えいでんじ)の境内に辿り着いた。

 ランドセルを揺らしながら、冷たい石造りの階段を登っていく。 


 ふと彼の唇から美しい旋律が溢れた。どこにも存在しないはずの不思議なメロディーだ。

 歌声が空気に触れた瞬間、しんとしていた山の気配が一変した。木々がざわざわと身を震わせ、足元の花々が一斉に波打つ。

 植物たちが喜びの舞を捧げているかのような神々しい光景だった。


「なんだこの曲……聴いたこと無いっちゃ」


 翠雨(すいう)の目の前を、黒く小さな塊が横切っていった。弱り切った、傷だらけの蝶だ。

 忘れようとしたが、その痛々しい姿が頭に残って離れなかった。


 見上げた空は厚い雲に覆われ、濃い藍色に染まり始めていた。

 精巧な龍の彫刻が施された、本堂を目指して歩を進める。


 龍の彫刻は今にも動き出しそうな迫力を放ちながら、この世界を見下ろしていた。その木肌は年季が入って黒ずみ、威厳を漂わせている。しかし漆はハゲハゲだ。


 本堂の奥にある鏡のように静かな沼へと向かう。鈍く光る水面の上に、青々とした葉っぱが浮かんでいるだけだった。


 友人のタカシが「龍に会えるかもしれない場所」を指折り数える姿が脳裏に浮かんだ。 


『出現の条件は二つ。一つ目が【海や沼などの水辺】であること。二つ目が【本物そっくりの龍の彫刻がある神社仏閣】らしい……この条件が揃う場所が、最も龍に会える確率が高いんだってさ』


 翠雨は残念そうにため息をついた。

「やっぱりおらんか……」


 違和感を感じ左腕を見ると、先程見かけた黒い蝶が止まっていた。蝶が道案内をするようにゆっくりと飛んでいく。翠雨は導かれるように、その姿を追いかけていった。


 今日の永伝寺は、いつにも増して閑散としている。湿気を帯びた植物だけが賑やかに揺れていた。


 行き着いた場所は、黎明翠(れいめいすい)の石像がある永伝寺の広場だ。蝶は役目を終えたかのように、翠雨の腕に再び止まった。

「ありがとな! でも、おれがよく知っとる場所だっちゃ」

 翠雨は黎明翠の石像に、いつもの笑顔を向けた。

「この蝶があなたのもとへ案内してくれたんだ。今日は金の龍を探しに永伝寺まで来たんだけど、結局誰にも会えなかった……おれって馬鹿だよな」

 空は更に濃い鉛色に曇り、新緑の木々を重く覆っていた。

「でも、空を飛んでるところは確かに見たんだよ。あれは間違いなく金の龍だった」

 肩に細い雨粒がポツポツリと当たり始める。黎明 翠の石像は、今日も穏やかな表情を浮かべていた。


「話を聞いてくれっちゃ。まだ、あなたに話していないことがある」

 翠雨は自身の前髪を指で掴んで、思い切り引っ張った。

「おれは、春に良い思い出がないんだ。誰かを傷つけ、誰かを悲しませた記憶が巡る」

 雨粒が徐々に大きくなり、土からは湿った匂いがした。石像の頬を伝う、涙のような雨粒に触れる。


「おれは人を巻き込んでしまう体質なんだ……自分でも、怖くなるくらい」

 自分を取り合い、怒り狂う女子の姿。自分を好いてくれた、マサキの涙が浮かんだ。

「それに……おれは優しくなんかない」

 穴の底に埋めた、子狸の死骸が蘇った。


 蝶が翠雨のもとを離れ、黎明 翠の石像に向かって飛び立っていく。雨に打たれながら傷だらけの羽で飛ぶ姿は、とても痛々しかった。

 蝶が石像の肩に止まった、次の瞬間だ。


『あなたの眼になるよ』


 透き通った少年の声が聞こえてきたのだ。儚さを感じる、美しい声だった。


『あなたに、恩返しがしたいんだ』


 微かな痛みと、寄り添うような優しさを感じた。


「……なっ、なにごとだっちゃ?!」

 翠雨は冷や汗をかきながら辺りを見渡している。黎明翠の石像に止まっていた蝶は、その場で静かに息絶えていた。


「そこの少年、風邪を引くぞ。俺様の傘を使え」


 すると今度は、背後から別の少年に声を掛けられたのだ。

 翠雨は動揺した様子でゆっくりと後ろを振り返った。




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