第3話 ホワイトなスイウ
「おい……大丈夫か」
鼻を突くタバコの匂いとともに、初老男性の声が飛び込んできた。
「珍しくひとりやんね……」
路地裏でラーメン屋を営む店主だ。エプロンに付いた白い粉が、鈍い空の下でわずかに光っている。
彼は立ち上がれるように翠雨の身体を支えてくれていた。
「おじさん、ありがとう。少し疲れてるだけだよ……おれは一人で立てる」
辺りに立ち込めていたはずの霧は何処にも見当たらない。例の石は跡形もなく消えていた。翠雨の全身から血の気が引いていく。
「おじさん、知ってた? 今日、4月9日は、金の龍が見れるラッキーデーなんだって。みんな、龍を探しに港まで行っとるんよ……おれもさっきね…実は、さっき……」
「……」
店主の冷めた目つきと翠雨の視線が一瞬、交差する。翠雨はいつもの笑顔で店主を見上げた。
「おれはただの都市伝説だと思ってる……龍なんて、きっといないよ。見たっていう人がいるなら、それは疲れていただけだと思う」
「そうやんね、信じすぎないほうがいい。でも、そんなに賑やかなら楽しそうやね……金の龍かぁ」
どんよりとした空色を映した翠雨の瞳が、キラリと輝いた。
「おじさん、知ってた? 龍は水を司る神様なんだって!」
店主はタバコの煙を空に向かって吐いた。煙は風もなく、そのまま溶けていく。
「神様なんておらんよ。自分を一番大切にするべきやと思うなぁ、俺は……」
彼の袖口からは、色褪せた入れ墨が覗いていた。翠雨を見つめ、穏やかな笑みを浮かべている。
「一服していかないか? ちょうど甘い飲み物を仕入れたんだ」
「ありがとう! 普段飲めないから嬉しいっちゃ」
翠雨の表情は、一気に明るくなった。翠雨と店主の背中が表通りへと吸い込まれていく。
2人がいなくなった路地裏のマンホールから一人の男性が顔を出した。巨大なアフロ頭の彼は、金の龍が背中に印刷された実験着を身にまとっている。実験着の胸元には【溶怪会研究所】の文字がプリントされていた。
「……邪魔が入りやがった、あの親父さえ現れなければ……クソっ。まぁ、今日中には地下帝国の人間になる運命だがな……『王階翠雨くん』」
この男性は翠雨が投げ捨てた石をイライラした表情で握りしめると、再びマンホールの中に消えていった。蓋が閉まるガチャンという重苦しい金属音が、静かな路地裏に虚しく響いた。
ラーメン屋は、自転車ショップと豆腐店に挟まれた、軒の低い小さな店だった。
左遷ヶ島では、夕方4時を過ぎると店の半分が戸を閉める。潮騒と遠くで鳴くカラスの声だけが響くばかりだ。
店主の後に続き、店の中へと入っていく。
店の電球は煌々とついているのに、客席はがらんとしていた。
使い込まれたシミが壁に残る店内。カウンターは磨かれているが、隅に置かれた招き猫は灰色のホコリを被っている。
客用に設置された小型テレビの音だけが聞こえていた。
店主が引いてくれたカウンターの椅子は、木が擦り切れてボロボロだ。昔流行ったアニメのキャラクターが描かれた座布団が敷かれている。ふたりは並んでカウンターに座った。
「翠雨くん、これ」
すると店主は、ペットボトルのホワイトウォーターを翠雨の目の前に置いた。
「おじさんありがとう! あのね」
人気のない店内を背景に、ふたりは話を弾ませている。




