第9話 スイウNOパパ
遊楽は突然、胸ポケットからスマートフォンを取り出し、床の一部をパシャリと撮影した。
翠雨は不思議そうにスマホを覗き込んでいる。
「ネズミでもいた?」
「お前さんの短パンのシワが……怪物の顔に見えたんだよ。まるで、心霊写真みたいに」
「怪物の顔? 見せて!」
遊楽は震える指先で、写真をズームして見せた。
翠雨は少しだけ動揺したものの、すぐに首を傾げた。
「ただのシワだっちゃ。どこが怪物の顔なの? ……お兄ちゃん疲れてきた?」
「そうかもしれん、寝ることにする」
遊楽は眉間に深い皺を寄せて、翠雨の短パンのシワをじっと睨みつけた。翠雨は驚いた様子で、遊楽に質問をする。
「お兄ちゃん、また何か見えた?」
返事は無かった。
遊楽は小屋の隅に敷かれた布団へと向かった。枕元には精神科の薬が大量に散らばっている。彼はドッシリと横になると翠雨にある悩みを打ち明けた。
「はやく合う薬が見つかるといいんだけどなぁ。投薬治療で20キロも太るなんて思わなかった」
遊楽の二重顎がタプタプと揺れている。その姿はぽっちゃりを通り越していた。
「翠雨……聞いてくれ。お兄ちゃんはな、こう見えてデブなんだ。ココだけの話、顔もパンパンに丸い」
「どうみても太り過ぎだっちゃ、だからみんな心配しとるんよ。なんだ、冗談いう元気があったか〜」
翠雨から柔らかな笑みが溢れる。遊楽はそれを見て、嬉しそうに目を細めた。
ガタついた座卓に置かれたアナログ時計は夜の8時を指していた。
小屋の天井から吊るされた電球の周りには、光に誘われてきた蛾が忙しなく飛んでいる。
翠雨はランドセルの中に、溶怪会の男性から手渡された奇妙な道具一式を詰め込んだ。彼の手がピタリと止まる。
「無い……アイデアノートが、ないっ?! お兄ちゃん見なかった? あの小さい、おれがいつも持ち歩いてるノート」
翠雨は青ざめた顔で、座卓の下や広げたままの妖怪図鑑の裏をひっくり返し始めた。
「ノートなら見てないな……翠雨、どこで最後に出したんだ?」
「全く思い出せないんだ。ポケットから勝手に飛び出したんだと思う。おれ、今から探してくる」
慌てて立ち上がる翠雨の腕を、遊楽の鋭い声が引き止めた。
「やめておけ。もう夜の八時だ。外は街灯も少ない」
「でも、あの中には大事なギャグ漫画のアイディアとか……あと、色々描いてあるんだ。誰かに見られたら困ることも書いてある」
遊楽は布団から身を乗り出し、冷たいほどに静かな瞳で弟を見つめた。
「失くしたものは、案外、なるようになるものだ。翠雨、お兄ちゃんの言うことを聞いてくれ」
遊楽の突き放すような、けれどどこか予言のような言葉に、翠雨はそれ以上何も言えなくなった。
「……分かったよ、明日探しに行く」
ひょいとランドセルを背負い、食べ終えたもやしサラダの食器を両手に持った。
「お兄ちゃん、おやすみ」
電球から伸びた紐を引っ張り、部屋の灯りを消す。
薄暗くなった小屋を出ようとした、その時だった。背後から弱々しい声が聞こえてきた。
「翠雨、もう少し話さないか?」
後ろを振り返ると、遊楽がこちらを寂しそうに見つめていた。お年寄りのようにぼうっとした表情で床についている。
「お兄ちゃん、ごめん。お父さんがもうすぐ帰ってくるんだ。家事をしないとまた怒られる」
「そうか……うちの父親は気性が荒いからな。いろいろと心配になるレベルだ」
翠雨はいつもの笑顔を見せる。
「でも、根は良い人だっちゃ。心配いらんよ。それに、おれはお父さんを尊敬してる」
翠雨の透き通った声が、埃にまみれた小屋に吸い込まれていく。
「でも、おれにとってはお兄ちゃんがお父さんみたいな存在なんだ。お父さんが怖くても、お兄ちゃんはいつもおれの味方になってくれた。お兄ちゃんが、お父さんだったら良かったのに……」
翠雨はそう言い残して小屋を後にした。遊楽は険しい顔で、その小さな後ろ姿を見つめている。
翠雨がいなくなった小屋には、古いラジオの音だけが寂しく残った。
遊楽はひとり、ポケットからスマートフォンを取り出す。
彼は先程撮影した例の写真を拡大していた。「短パンのシワが怪物の顔に見える」と騒いでいたあの写真だ。画面には翠雨の足元が大きく映し出されている。
遊楽は何やら確信したように、眉をひそめた。
短パンの生地の隙間から、不自然に滲む青アザが見えていたのだ。白い肌に浮かぶ不吉な紫。
彼はスマホ画面の端へと視線を移した。
画面越しに見つめているのは、怪物の顔に見える!と発言していた例のシワだ。
「どう見ても、ただのシワだよなぁ……ごめんな翠雨。嘘をついて」
彼は落ち着いた様子で、この画像を閉じた。
遊楽はスマートフォンで、サクサクと調べ物を始めた。
検索した言葉は【児童虐待 解決策】だ。
遊楽の鋭い目つきが小屋の出口を睨みつけた。小さな曇りガラス越しに、王階家の灯りが差し込んでいた。




