第64話:葵の神社祭(後編)―秘密と約束―
神社祭、葵視点の完結編です。
お祭り会場での焦燥感から一転、二人きりの帰り道。
かつての宿泊研修での苦い思い出と重ね合わせながら、
葵が自分の部屋という密室で何を感じ、どう動いたのか。
楓視点では描かれなかった、彼女の内面と「勇気」に注目していただければ嬉しいです。
りんは近くのベンチに上着を敷き、私を座らせてくれた。
伝わってくるその優しさに、申し訳なさと情けなさで胸がいっぱいになる。
せっかく綺麗にしてもらったのに、足はボロボロ、心もボロボロ。
りんは自販機で買ってきた冷たい水で、私の傷口を丁寧に洗い流してくれた。
……あの日と同じだ。
「……こんなこと、前にもあったよね?」
屈み込んでいるりんの頭上で、私はポツリと呟いた。
「懐かしいな。ハルちゃんも覚えてたんだ」
「忘れないよ。……私にとっては、大事な思い出だもん」
「そうか、そうだな」
あの宿泊研修の日。
山道で、私は同じように手当を受けていた。
もしあの時と同じなら……。
「じゃあ、あの時と同じように。はい!」
りんが背中を向けて屈む。
「えー」
私は色んなことを思い出して、困ったような声が出てしまった。
「またおんぶ? あの時は『もう無理ーっ!』って投げ出して野村くんに任せたじゃない。あれ、最悪だったんだからね」
「今度は、大丈夫。……たぶん」
いつだってそうなんだよ。
りんは困っている私を見捨てたりしない。
背中から伝わってくる、りんのたくましいぬくもり。
夏の夜風が吹いているはずなのに、そこだけがひどく熱く感じられた。
「腕……まだ痛むんでしょ?」
「まあ、だいぶ良くなったよ。これくらい平気だ」
私はりんの優しさに甘えるように、その背中に顔を埋めた。
伝えたい思いと、伝わってほしくない思いを、聞き取れないほどの小さな声で呟く。
「あの時……最後まで私を連れて行ってくれたら。きっと、今とは違う結果だったのにね」
「ん? 何か言った?」
「……秘密」
恥ずかしくて、切なくて。でも愛おしい。
不思議な感情を抱きながら、私はただ、りんの体温を感じていた。
夏休みの予定や、吹奏楽局のキャンプの話。
そんな他愛もない話をしながら、ようやく私の家の前に着いた。
りん、本当にありがとう。
ずっと背負ってくれたりんにお礼がしたくて、私は彼を誘った。
「りん、上がっていって。お礼に飲み物くらい出すから」
両親が留守だと分かっても、その時の私には下心なんて少しもなかったの。
ただ、汗をかかせてしまった彼を労いたかっただけ。
けれど、いざ自分の部屋にりんを招き入れた瞬間。
ふと我に返る。
ベッドのすぐそばに立つりんの姿を見て、急激に血の気が引いた。
(変なもの落ちてない!?)
(匂いは大丈夫?)
(嫌われないかな?)
(……でも、少しだけ嬉しい)
待って。私、男の人を部屋に入れたことなんてないのに。しかも、二人きり……!?
意識した途端、心拍数が跳ね上がる。
飲み物を取りに行く足取りも、どこかふわふわと落ち着かなかった。
戻ってくると、りんが机の上に飾ってあるメダルを眺めていた。
「あ、そのメダル。懐かしいね。……あの会場、めちゃくちゃ寒かったよね」
「ああ、覚えてる。……ハルちゃん、このメダル欲しがってたもんな」
「……あの時のメダルを眺めてるとさ。これ、私とりんの『二人のメダル』って思えてきちゃって。だから大切にしてるんだ」
口を突いて出たのは、私の本当の気持ち。
りんと一緒に戦った証。
「そうだね。どっちが勝っても、二人で取ったメダルだもんな」
「……りん、あの時の賞状、まだ持ってる?」
「うん、あるよ」
「そっか」
三位のメダルは私が勝って私の部屋に。四位の賞状はりんの家にある。
その事実を口にした途端、急に部屋の空気が重くなったような気がしちゃって。
「こっち座って」
私はベッドの端に腰掛け、彼を隣に誘った。
並んで座れば、もっと近づけるかもしれない。そんな淡い期待に手が震える。
(私、意外と大胆かも……?)
でも、りんはもじもじと立ったまま、困ったように固まっていた。
「いいから、ほら」
私は強引にりんの手を引いた。
その時、踏ん張った右足に稲妻のような痛みが走る。
「痛っ!」
バランスを崩した私に引きずられるように、りんもベッドに倒れ込んできた。
私が押し倒すような形になり、私の頭が彼の胸にすっぽりと埋まる。
耳元で聞こえる、りんの荒い吐息。
密着した身体から伝わる、驚くほどの熱と鼓動。
数秒の出来事が、永遠のように感じられた。
(……どうしよう。離れなきゃいけないのに、動けない……)
りんの香りと夏の匂いが混ざり合う。
りんの手が、そっと私に触れようとした、その時。
静寂を切り裂くように、無機質な着信音が鳴り響いた。
「っ!」
現実に引き戻され、私たちは弾かれたように離れた。
電話の向こうから聞こえるのは、吉川くん、そしてさつきの声。
電話が切れた後の沈黙は、さっきまでとは違う「気まずさ」に満ちていた。
帰る準備を始めるりんに、私は必死に言葉を絞り出した。
魔法が解けてしまう前に。この繋がりを、次に繋げるために。
「……賞状、今度見に行かせてね」
「えっ」
「だって、二人の賞状でしょ?」
私は精一杯の勇気を振り絞って、彼を見つめた。
メダルが私、賞状が君。だから、また会う理由が必要なの。
りんは一瞬だけ目を見開き、それから優しく笑った。
「……うん。そうだね」
玄関で見送った後、私はドアに背を預けてずるずると座り込んだ。
顔が火が出るほど熱い。
「……賞状、見に行くって言っちゃった。私から、りんの家に行くって……」
ベッドに残った、彼の重みとぬくもり。
今日の失敗を全部上書きするくらいの、本当の笑顔を思い出して。
私は一人、真っ赤な顔を両手で覆った。
最後までお読みいただきありがとうございました。
「二人の賞状」という言葉に込めた葵の願い。
それは、魔法が解けてしまう前に無理やり繋ぎ止めた、ささやかな「次」への約束でした。
楓視点では「危なかった」と肝を冷やしたあのシーンも、
葵にとっては切実で、少しだけ大胆になれた大切な時間だったようです。
神社祭編、これにて一区切りとなります。
次回からはまた新たなエピソードが動き出します。
お楽しみに!




