第60話:神社祭(後編)
お待たせしました。
神社祭、もう一つの物語です。
静かな夜道、二人の間に流れる空気を感じていただければと思います。
人混みの中、立ち止まったハルちゃんの元へそっと歩み寄る。
人波に押されるようにしてぎこちなく歩く彼女の様子が、どうしても気にかかった。
「……ハルちゃん、足大丈夫?」
声をかけると、彼女は一瞬だけ躊躇い、それから小さく頷いた。
「……うん。ちょっと、痛いかな」
視線を落とすと、浴衣に合わせた下ろしたての草履が、彼女の白い肌を赤く染めていた。
鼻緒が擦れて、少しだけ血が滲んでいる。
「みんなごめん、俺ハルちゃんのこと送ってくわ」
俺がそう告げると、ムツや吉川も状況を察して、すぐにハルちゃんの心配を始めた。
さっちゃんだけは一瞬、複雑そうな、少しだけ不服そうな顔を見せたけれど。
それでもハルちゃんの足元を見て、すぐに心配そうな表情に変わった。
「わかった……。楓、葵のこと、お願いね」
さっちゃんは自分に言い聞かせるようにそう言って、俺にハルちゃんを任せてくれた。
俺は近くのベンチに上着を敷き、彼女に座ってもらった。
自販機で買ってきた冷たい水で傷口を洗い流す。
ガーゼなんて気の利いたものは持っていない。
ティッシュを慎重に巻き付けて、応急処置を済ませた。
「……こんなこと、前にもあったよね?」
屈み込んでいる俺の頭上で、ハルちゃんがポツリと呟いた。
「懐かしいな。ハルちゃんも覚えてたんだ」
「忘れないよ。……私にとっては、大事な思い出だもん」
「そうか、そうだな」
あの宿泊研修の日。
俺たちは険しい山道で、同じように手当をしていた。
「じゃあ、あの時と同じように。はい!」
俺が背中を向けると、ハルちゃんが「えー」と困ったような声を出す。
「またおんぶ? あの時は『もう無理ーっ!』って投げ出して野村くんに任せたじゃない。あれ、最悪だったんだからね」
「今度は、大丈夫。……たぶん」
苦笑いしながらハルちゃんを背負い、歩き始める。
背中から伝わってくる、ハルちゃんの柔らかいぬくもり。
夏の夜風が吹いているはずなのに、そこだけがひどく熱く感じられた。
「腕……まだ痛むんでしょ?」
「まあ、だいぶ良くなったよ。これくらい平気だ」
ハルちゃんはそれ以上何も言わず、甘えるように俺の背中に顔を埋めた。
そして、聞き取れるかどうかの小さな声で、何かに蓋をするように呟いた。
(……あの時……)
「ん? 何か言った?」
「……秘密」
背中のハルちゃんは、驚くほど軽い。
宿泊研修の時は、俺自身が足を挫いていたのに、反射的におんぶしてしまったんだ。
本当は我慢できたはずなのに、女の子としてのハルちゃんを意識しすぎて、歩きにくくなってしまったのが本音だ。
格好をつけておんぶしておきながら、みっともない姿を見せるのが恥ずかしかった。
けれど、今日は大丈夫だ。
夜道は暗いし、誰に見られることもない。
どんなに歩きにくくても、堂々と、彼女を家まで送り届けることができる。
夏休みの予定や、吹奏楽局でキャンプでも企画しようか、なんて他愛もない話をしながら歩き続け、ようやくハルちゃんの家の前に着いた。
「りん、上がっていって」
「いや、こんな遅い時間だし、迷惑になるからいいよ」
「ただいまーー。お母さーん?」
ハルちゃんが玄関を開けるが、返事はない。
どうやらお祭りということで、両親は友達と飲みに出かけてしまっているらしい。
「んー、なんか悪いから帰るよ」
「待って。飲み物くらい出すから」
結局、押し切られる形でハルちゃんの部屋へと案内された。
女の子の部屋。
独特の甘い香りに、俺の心拍数は勝手に上がっていく。
彼女が飲み物を取りに行っている間、所在なく部屋を見渡すと、机の上に飾られた「下の句かるた大会」のメダルが目に留まった。
「あ、そのメダル。懐かしいね。……あの会場、めちゃくちゃ寒かったよね」
戻ってきたハルちゃんが、懐かしそうに目を細める。
「ああ、覚えてる。……ハルちゃん、このメダル欲しがってたもんな」
「……あの時のメダルを眺めてるとさ。これ、私とりんの『二人のメダル』って思えてきちゃって。だから大切にしてるんだ」
二人のメダル。
その言葉が、静かな部屋の中に溶けていく。
「そうだね。どっちが勝っても、二人で取ったメダルだもんな」
「……りん賞状、まだ持ってる?」
「うん、あるよ」
「そっか」
なんだか、急に空気が重くなったような気がした。
「こっち座って」
ハルちゃんがベッドの端に腰掛け、俺を隣に誘う。
さすがにベッドに並んで座るのはまずいんじゃないか……。
そう思って、俺はもじもじと立ったまま固まっていた。
「いいから、ほら」
ハルちゃんが強引に俺の手を引く。
その時、踏ん張った彼女の足に鋭い痛みが走った。
「痛っ!」
ハルちゃんがバランスを崩し、俺もろともベッドに倒れ込む。
俺が押し倒されるような形になり、彼女の頭が俺の胸にすっぽりと埋まった。
耳元で、彼女の荒い吐息が聞こえる。
鼻を突くシャンプーの香りと、密着した身体の熱。
数秒の出来事が、何時間にも感じられた。
「……ごめん」
ハルちゃんはそう言ったきり、身体を離そうとしない。
重なる鼓動。
伸ばしかけた俺の手が、彼女の背中に触れようとした、その時だった。
静寂を切り裂くように、俺のスマホが鳴り響いた。
「っ!」
慌てて離れるハルちゃん。
俺も飛び起きるようにして、震える手で通話ボタンを押した。
「……もしもし、吉川?」
『おう楓、春日さん大丈夫だったか?』
「……おう。ちゃんと家まで送ったところだよ」
『井上さんが電話しろってうるさいもんだからよ』
『ちょっと吉川、余計なこと言わないで!』
向こう側でさっちゃんの叫び声が聞こえる。
『もうそろそろ解散するからさ、一応連絡入れたんだわ』
「そっか。……もうそんな時間か。わかった、俺もそのままじいちゃんの家に帰るわ」
『春日さんと、一緒なんだろ?』
「……うん」
『井上さんがわーわー言ってるから、その辺は俺が上手くやっとくわ』
「お、おう。サンキュ」
電話が切れると、部屋にはまた気まずい沈黙が戻った。
「ハルちゃん、足、大丈夫?」
「……うん」
「俺も、そろそろ帰るよ」
「……うん」
玄関先で靴を履き、俺は自分に言い聞かせるように言葉を絞り出した。
「……賞状、今度見に行かせてね」
「えっ」
「だって、二人の賞状でしょ?」
ハルちゃんは一瞬だけ目を見開き、それから今日一番の、本当の笑顔を見せた。
「……うん。そうだね」
じいちゃんの家までの帰り道。
夜風を浴びながら、俺は一人で顔を覆った。
「……危なかった。本気で危なかった……」
ハルちゃんのあの表情。倒れ込んだ後の、あの沈黙。
もしあのまま、吉川からの電話がなかったら――。
「俺、絶対勘違いしてたわ……。危うく残りの学校生活を棒に振るところだったぞ。吉川……サンキュー。ナイスだ、お前……」
自分の煩悩を追い払うように、俺は早歩きで街の明かりを目指した。
背中に残った、彼女の温かさだけを、大切に持ち帰りながら。
最後までお読みいただきありがとうございました。
夏の夜の魔力というか、独特の距離感ってありますよね。
吉川の電話が「ナイス」だったのか、それとも……。
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