第56話:黒崎愛美は譲れない
学校祭が終わり、静まり返ったグラウンド。
さつきと葵が「これからの形」を模索する一方で、
もう一人、暗闇の中で決意を固める少女がいました。
今回は、一年生・黒崎愛美の視点。
彼女がなぜ、あれほどまでに楓に執着し、
そして「譲れない」のか。
その理由である、十数年の積み重ねをお送りします。
私の思い出のなかには、いつだって楓くんがいた。
保育園の園庭で、泥だらけになりながら一緒に泥だんごを作っていた時から、私の隣にはいつも一つ年上の彼がいた。
私たちが育った集落の小学校は、全校生徒でわずか四十人足らず。
私の学年は八人、楓くんの学年は十人。一学年下はさらに減って五、六人しかいない。
教室は、一・二年、三・四年、五・六年という三つの「複式学級」だった。
人数が少ないからこそ、そこには学年の壁なんて存在しなかった。
放課後になれば全校生徒が兄弟のように校庭を駆け回り、帰宅の方向ごとに分かれた四つの「登下校班」で、高学年が低学年の手を引いて歩く。
それがこの村の、当たり前の景色だった。
楓くんの家は、この集落で一番奥、山の麓にある。
だから彼は、必然的に私たちの「班長さん」だった。
けれど、彼は決して、物語に出てくるような頼りがいのあるヒーローというわけではなかった。
「……楓くん、反対。そっちは墓地の方だよ」
「えっ、あ、悪い。こっちの道の方がカエルがいっぱい鳴いてる気がしたからさ。一匹くらい捕まえて帰ろうかと思って」
「カエル捕まえてどうするのよ。早く帰らないとおばちゃんに怒られるよ」
そんな、どこか抜けたやり取りが私たちの日常。
小学校のキャンプで行われた肝試しでは、せっかくペアになったのに、当の本人は私の背中に目をつぶってしがみつき、半泣きで歩いていた。
運動会の徒競走にいたっては、自分の出番をすっかり忘れて、家族席でおいしそうにいなり寿司を頬張っていたこともある。
お兄ちゃんなのに、ちょっとドジで、マヌケ。
そんな楓くんを放っておけない。
その「放っておけない」という母性本能に似た気持ちが、いつから「独占したい」という恋心に変わったのか。
自分でもはっきりと覚えているエピソードがある。
あれは、雪解けの泥濘んだ季節の帰り道だった。
近所の家で飼われていた大きな犬が鎖を切って、私に向かって猛烈に吠え立ててきたのだ。
低学年だった私は、その牙と唸り声の恐怖で足がすくみ、動けなくなってしまった。
その時。
震える私の前に、自分も腰を抜かしそうになりながら、必死に立ちはだかったのが楓くんだった。
「だ、だだだ、ダメだよ、愛美をいじめちゃ。向こう行け」
持っていたランドセルを盾にして、彼は必死に叫んだ。
犬が去った後、彼は自分の方が真っ青な顔をしていたくせに、「大丈夫。怖かったね」と私の頭を撫でてくれた。
その手のひらの少し冷たい体温と、伝わってくる不器用な優しさに、私の心は完全に射抜かれたのだ。
それからは、私の「猛攻撃」の日々が始まった。
けれど、楓くんという人は、驚くほどに女心という回路が断線している。
冬のかまくらお泊まり会でのこと。
私は大きな勝負に出た。
極寒の中、震えるふりをして、無理やり楓くんの手を私の寝袋の中に引き込んだのだ。
私は小学生の頃から発育が良く、胸も大きかった。
これで、さすがに意識してくれるはず。
狭い寝袋の中、密着する肌の感覚。心臓の音がうるさくて、顔が火照る。
条件は完璧だった。
しかし、楓くんから返ってきたのは、斜め上すぎる衝撃だった。
「……愛美、そんなに寒いのかい。これ使いな。風邪引いたら大変だ」
彼は真顔で、私の寝袋の中にボコボコと「使い捨てカイロ」を五、六個も放り込んできたのだ。
あつい。物理的にあついよ楓くん。
私の淡い期待は、低温火傷寸前の熱量によって無惨に霧散した。
中学生になっても私の想いは加速する一方だったけれど、彼との距離は「幼馴染の妹分」として強固に固定されてしまった。
ある時、放課後の教室で二人きりになった。
西日が差し込み、埃がキラキラと舞う最高の雰囲気。
私は意を決して目を閉じ、唇を少しだけ突き出した。
次の瞬間、私の前頭部に鋭い衝撃が走った。
「いったぁい」
「愛美、ドラマの見過ぎ。……ほら、さっさと帰るぞ」
流れるような手刀。
彼は呆れたような顔で、私の髪をくしゃくしゃにかき回した。
違う。そうじゃない。
ドラマじゃなくて、楓くんへの本気なのに。
同級生の女子から「楓先輩にチョコ渡して」と頼まれたこともあった。
なぜ私が。彼の良さを、あのマヌケな可愛さを一ミリも知らないような「にわか」が、安易に彼に触れないでほしい。
結局、悔しすぎて差出人の名前を修正ペンで塗りつぶし、「はい、これどっかの誰かから」とぶっきらぼうに渡してやった。
彼は「おー、サンキュー」と、その場でボリボリと食べ始めた。
作戦は成功だが、それでいいのか楓くん。毒でも入ってたらどうするのよ。
そして、ようやく私も同じ高校に入学し、同じ視界に入れると思った矢先。
楓くんの周りには、二匹の……失礼、二人のハエがたかり始めていた。
吹奏楽局の、さつきさんに葵さん。
副局長として甲斐甲斐しく世話を焼く井上さつき。
そして、腐れ縁みたいな振りをしながら、絶妙な距離を詰める春日葵。
なんなの、あの女たち。私の楓くんに馴れ馴れしくして。
本当なら、私も吹奏楽局に入って、楓くんの隣を死守したかった。
けれど、私には家から言い渡された習い事がある。
幼い頃から続けている日本舞踊に茶道。
それらは私の凛とした立ち居振る舞いを支える大切な誇りだけれど、今はそれらが、楓くんと過ごす時間を奪う枷にしか思えなかった。
中でも、あいつだけは許せない。
春日葵だ。
思い出すのは、小学校の下の句カルタ大会。
楓くんは、百人一首のメダルがどうしても欲しくて、ずっと練習していた。
「我が衣で杯」のメダル。
彼が狙っていたその一枚を賭けて、私は決勝戦で春日葵と一騎打ちになった。
本当に、本当に悔しかった。
勝って、楓くんにあのメダルをあげたかったのに。
結果は、私の負け。
悔しくて、私は会場の隅でボロボロに泣いた。
楓くんへの申し訳なさと情けなさで、顔を上げられなかった。
でも、楓くんは泣いていなかった。
私が負けたからなのに、彼は「愛美、頑張ったじゃん。ありがとうな」って、優しく頭を撫でてくれたんだ。
でも、彼はきっと、裏で泣いていた。
しばらくしてトイレから戻ってきた楓くんは、「あー、顔洗ってきたわ」なんておどけて見せたけど、目は真っ赤に腫れていた。
あとで私のママが言っていた。
「楓くん、やさしいねぇ。あそこで楓くんが一緒に泣いちゃったら、愛美が責任感じて余計に刺さるって分かってたのよ。あの子は、本当にいい男だよ」
その言葉を聞いて、私は確信した。
やっぱり、私の選んだ人は世界一だって。ますます好きになってしまった。
それなのに、あの春日葵め。
なにしれっと楓くんに近づいて、同じ局の仲間面をしているんだ。
学校祭は、特に見ていられなかった。
ステージで叩くドラム。あの真剣な眼差し。
楓くんが、あんなにかっこいい「男の顔」をするなんて、私が一番よく知っていたはずなのに。
さらに、保健室から一緒に出てきた楓くんを、左右から挟むあの二人。
……あれは最悪だった。
だから、きっちり煽ってあげたわ。あんたたち、ただの「部活仲間」でしょって。
キャンプファイヤーで彼と楽しそうに踊り、花火を隣で見上げる彼女たちの背中を見て、私は暗闇の中で拳をぎゅっと握りしめた。
妹なんて、もう嫌だ。
幼馴染なんて、そんな便利な言葉で片付けられたくない。
あの二人には、今の高校生の竜胆楓しか見えていないかもしれない。
でも、私にはカエルを探して迷子になる楓くんも、犬に怯えながら必死に私を守った楓くんも、寝袋にカイロを詰め込むアホな楓くんも、その全部が、私の歴史のなかに大切に保管されている。
小悪魔と言われようが、悪魔と蔑まれようが構わない。
保育園から積み上げてきた、この「好き」という感情の総量は、昨日今日出会った彼女たちなんかに負けるはずがないわ。
たとえ彼が今、私を「世話の焼ける生意気な妹」としてしか見ていなくても。
その認識を、いつか必ず「一人の女」として、激しく塗り替えてみせる。
さつきさん。葵さん。
あなたたちの持っている「今」という時間だけで、私の十数年に勝てると思わないことね。
「見てなさいよ……。楓くんを、あんたたちみたいな『にわか』には絶対に渡さないんだから」
夜空に消えた花火の残響。
最後に打ち上がった枝垂れ柳が消えた後、静まり返ったグランドを歩きながら、黒崎愛美は、闇に紛れてそう強く誓った。
私のこの気持ち、何があっても絶対に譲れない。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
今回はガラリと視点を変えて、一年生・黒崎愛美の物語をお届けしました。
泥だんごを作っていた幼少期から、雪解けの道で守られたあの日、
そして「寝袋カイロ事件」まで……。
彼女がどれほどの熱量で楓を想い続けてきたのか、
その歴史の積み重ねを感じていただけたでしょうか。
「にわか」と切り捨てられたさつきと葵も黙ってはいないはずですが、
十数年分の重みを持つ愛美の参戦で、物語はさらに複雑に絡み合っていきます。
小悪魔な後輩が見せた、切実で一途な本音。
この「譲れない想い」が、今後の楓との関係にどう影響していくのか。
次回、物語は再び楓の視点へと戻ります。
引き続き、応援よろしくお願いいたします!




