第35話:井上さつきは知っている(中編)
華やかな定期演奏会の裏側で、誰にも知られず一人で頭を下げていた楓。
その姿を「知っている」さっちゃん。
中学時代から続く彼の不器用な献身を知ったとき、彼女の中で何かが決意へと変わります。
幼馴染という甘えを捨て、一人の男の子として彼と向き合おうとする、さっちゃんの心の機微を描きます。
高校の定期演奏会が終わった、その日の夜。
自宅に戻ったウチは、重い体を引きずるようにして、自分の部屋のベッドに倒れ込んだ。
「あー、疲れたー……」
天井を見上げながら、大きく息を吐き出す。
三年間、ずっとこの日のために練習してきたんだ。
演奏自体は大きなミスもなく上手くいったし、なにより最高に楽しかった。
そういえば第一部のステージ、吹いている途中で「おや?」と思った瞬間があったっけ。
パーカッションのあたりが、なんだかバタバタと騒がしかったような気がする。
まあ、あの自由奔放すぎる山本くんもメンバーにいるわけだし、彼をコントロールしなきゃいけない楓が苦労するのも当然か、なんて。
演奏会が進むにつれて、そんな些細なことは忘れてしまった。
最後の曲が終わって、引退する三年生の先輩たちが一人ずつ挨拶をする場面では、もう我慢なんてできなくて。ウチは人目も憚らず、ボロボロと泣いてしまった。
「お母さん、今日の演奏どうだった?」
少し落ち着いてからリビングに顔を出すと、ソファでくつろいでいた母さんが、感心したように、どこか温かい眼差しで言った。
「みんな立派だったわね。あ、そうそう。りんくん、偉いわねぇ。お母さん、あの子を見て感心しちゃった」
母さんの口から出た意外な名前に、思わず聞き返す。
「……え、りんに会ったの? ステージじゃなくて?」
「そうよ。演奏会が終わった後、ホールの出口のところに立ってたわよ。お客さん一人ひとりに『ありがとうございました』って。これからも吹奏楽局をよろしくお願いしますって、一年生の男の子を連れて、ずっと頭を下げてたわよ」
その瞬間、心臓の鼓動がドクンと、少しだけ騒がしくなった。
記憶を急いで手繰り寄せる。
(……あっ。そういえば、すべての演奏が終わったあと、ホールにりんの姿がなかった……)
みんなで集まって写真を撮ったり、先輩たちに泣きついたりしていたあの喧騒の中に、あいつの姿だけが、確かに欠けていた。
「そうなんだ……。最後まで、ずっと出口にいたのかな?」
「そうじゃない? 私が帰る時もまだいたもの。丁寧にお客さんに挨拶してたわよ。そういえば、あの子……中学生の時も、これと同じことしてたわよねぇ」
母さんの何気ない一言が、ウチの記憶の奥底に眠っていた蓋を、ゆっくりと、けれど力強く押し開けていった。
「……ウチ、先にお風呂入ってくるね」
逃げるようにリビングを後にし、ウチは浴室へ向かった。
熱いお湯に肩まで浸かりながら、湿り気を帯びた天井をぼんやりと見つめる。
立ち上る湯気の向こうに、あの頃の景色が、昨日のことのように鮮明に浮かんできた。
りんは、いつだってそうだ。
中学三年、ウチらにとって最後の演奏会。
ウチが部長で、りんが副部長だった、あの激動の時期。
演奏が終わって、後輩たちから大きな花束をもらって、ウチが部員のみんなに囲まれて泣きじゃくっていた時。
視界の隅に、りんの姿がないことには気づいていたけれど。
てっきり、機材の片付けでもしているんだろうと思っていた。
でも、りんは一人、ホールの外でお客さんに感謝の挨拶をして回っていたのだ。
自分だって引退なのだ。
三年間、あんなに必死に練習してきたんだから。
本当はみんなと一緒に輪になって写真を撮ったり、最後の大切な時間を惜しみなく過ごしたかったはずなのに。
後でその話を聞いて、慌ててりんのところへ駆け寄ったウチに、彼はいつもの穏やかな、少しだけ困ったような顔をして、こう言ったんだ。
『さっちゃんは部長として、誰よりも頑張ったんだから。みんなも三年間、本当によく頑張ったんだからさ。最後くらい、後輩との時間をゆっくり過ごしてほしいなって思ったんだ。……あ、これ別に仕事じゃないよ。ただ、俺たちのことをずっと応援してくれた人たちに、ちゃんと感謝したかっただけなんだ』
そして。
『大丈夫。みんなの分まで、俺がしっかりとお礼しといたから。……井上部長、三年間お疲れ様でした』
そう言って笑ったりんの目は、真っ赤に腫れていた。
ウチらの分まで1人で背負って。ウチらの分まで頭を下げて。
本当は、部長の仕事なんて名ばかりで、そのほとんどを裏で肩代わりして支えてくれていたのは、りんなのに。
それを誰に誇るでもなく、当然の義務みたいに、彼はいつも一人で完遂してしまう。
今日も、あいつはまたそれをやってたんだ。
ウチは、お湯の中に顔を沈めて、ぶくぶくと苦しい息を吐いた。
あの時も。今日も。
本当は、ウチに声をかけて欲しかった。
ウチと一緒にいて欲しかった。
みんな、自分の成功や感動に酔いしれて、自分のことしか見えてなくて。
あいつだけは、いつだって周りのことしか見てなくて。
演奏会の後、いつの間にか重い楽器や機材が綺麗にトラックに積み込まれているのも。
楽屋のゴミが一つ残らず片付いているのも。
全部、あいつが裏で、誰も見ていないところで動いているからなんだって。
どうして。どうして、ウチ以外、誰もそれに気づかないの。
「……あー、もう!」
湯船から勢いよく顔を出し、顔を拭う。
どうして, あいつはああなんだろう。
自分だけ損をして、自分だけ進んで裏方に回って、それを「当たり前」みたいな、どこまでも透き通った顔で……。
お風呂から上がって、脱衣所の鏡を覗き込む。
のぼせたせいだけじゃない、赤く上気した顔のウチがいた。
もう、「りん」じゃない。
いつまでもそんな甘えた呼び方で、あいつの底なしの優しさに無邪気に寄りかかってるだけの幼馴染じゃ、ダメなんだ。
あいつが誰にも見せずに、たった一人で背負い込んでいるものを。
一人の男として、ウチがちゃんと隣で見てあげなきゃ。
受け止めてあげなきゃ。
ウチは自室に戻ると、まだ熱の冷めない体を布団に沈め、枕に顔を押し当てた。
深夜の静かな部屋で、誰にも聞かれないように、唇だけでそっと、新しい響きを練習する。
「……かえで」
名前を呼ぶだけで、胸の奥が、ぎゅっと締め付けられるように熱くなる。
「楓。……楓くん。……楓」
何度も何度も、確かめるように。
「さっちゃん」という特別な名前で呼ばれ続けるために、ウチが呼ぶべき彼の名前。
よし。
明日からは、もう「りん」とは呼ばない。
勇気を出して、こう呼ぼう。
あんたが誰も見ていないところで、泥臭く頑張ってること。
世界中の誰も気づかなくても。
ウチだけは、絶対に、絶対に忘れないからね。
最後までお読みいただきありがとうございます!
「りん」から「楓」へ。
呼び方を変えるという小さな、けれど彼女にとっては大きな一歩。
誰にも気づかれない楓の努力を、ウチだけは絶対に見逃さない。そんなさっちゃんの強い愛着と覚悟が伝わっていれば嬉しいです。
さて、自分の中で「明日からはこう呼ぼう」と決めたさっちゃん。
次回、物語は吹奏楽局のレクリエーション当日へと移ります。
第36話:井上さつきは知っている(後編)
大勢の仲間がいる賑やかなレクリエーションの最中、彼女は決意通り、彼の名前を呼ぶことができるのか。
そして「りん」ではないその響きを耳にしたとき、楓は一体どんな反応を見せるのか――。
さっちゃんの恋が大きく動き出す瞬間を、どうぞ見守ってください!
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