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第34話:井上さつきは知っている(前編)

 いつも明るく、時には楓を振り回すこともあるさっちゃん。

 そんな彼女と楓の間には、中学時代から積み重ねてきた、二人だけの「特別な時間」がありました。


 今回は視点を変えて、さっちゃんこと井上さつきの独白から始まります。

 彼女がなぜ楓の隣に居続けるのか。その本当の理由を知ったとき、物語の景色が少しだけ変わって見えるかもしれません。


 かえでと出会ったのは、中学校の吹奏楽部だった。



 今、手元にあるスマートフォンの液晶に映る自分の顔を見る。

 バッチリ決めたメイクに、流行りを取り入れたヘアスタイル。

 クラスの男子からもそれなりに視線をもらうし、自分でも「垢抜けたな」って思う。



 でも、当時のウチを今見たら、マジで「誰?」って感じだと思う。

 おしゃれなんて言葉、辞書に載ってないんじゃないかってくらい無頓着で、鏡を見る時間があるならリードの調整をしていたい。

 そんな、なんだかモッサリした、どこにでもいる地味ーな女の子だった。



 担当楽器はサックス。

 これといった情熱があったわけじゃない。ただ、お兄ちゃんが吹奏楽をやっていて、そのお下がりが家に転がっていたから。親に新しい楽器をねだるのも気が引けるし、なんとなくの流れで始めただけ。



 そんな、やる気があるのかないのか分からないウチと同じような理由で入部してきたのが、彼だった。



「兄ちゃんがパーカッションやってたから、自分も」



 入部初日、少しだけ眠そうに、でもどこか落ち着いた雰囲気でそう言った楓。

 彼が初めてドラムセットの前に座り、スティックを握った日のことを、ウチは今でも鮮明に覚えている。



 彼のドラムは、素人のウチから見ても、一発叩いただけで「あ、こいつ上手いな」ってわかるくらい凄かった。



 なんて言えばいいのかな。

 音の粒が、とにかく綺麗に並んで聴こえるの。

 乱暴に叩きつけるんじゃなくて、一つひとつの音が意思を持っているみたいに、正確に、心地よく耳に届く。



 見た目が特別カッコいいわけじゃない。

 背だってそんなに高くないし、運動神経が抜群なわけでもない。

 本当に普通。どこにでもいる、少し物静かな男子。



 でも、ウチはいつの間にか、合奏の最中も、休憩中も、無意識に彼を目で追うようになっていた。

 重い機材を黙々と運ぶ背中。リズムが合わない後輩に、嫌な顔一つせず何度も付き合ってあげる横顔。

 気づけば、ウチの視界の中心には、いつも彼がいた。



 そして。

 自分の気持ちが「憧れ」なんて綺麗な言葉じゃ収まらないことに気づいたウチは、ソッコーで彼を放課後の誰もいない渡り廊下に呼び出した。



「ウチ、竜胆くんのこと、ずっと気になってたんだ。パーカッションやってる姿も、かっこいいなって……。だから……」



 心臓が口から飛び出しそうだった。

 人生初めての告白。

 あともう一言。「付き合ってください」って言い切るだけ。



 だけど、楓の返事は、ウチが最後の一言を絞り出すよりも先に、遮るように飛んできた。



「……ごめん。俺、井上さんのこと、まだよく知らないから」



 オーマイガー。

 その瞬間、頭が真っ白になった。

 「まだよく知らない」。そんなの、これから知っていけばいいじゃん! って叫びたかったけれど、あまりにも真っ直ぐな彼の瞳に、言葉が詰まる。



 だけど、彼は追い打ちをかけるみたいに、こう続けたんだ。



「だから、まずは友達になってください」



 ……ワッツハプン。

 どういうこと? それって、傷つけないように体よく断られたの?

 それとも、ウチの告白、日本語として伝わらなくて「知り合いを増やしたい」的なニュアンスで受け取られちゃっただけ?



 混乱してパニックになりそうだったけど、彼の表情はどこまでも真剣だった。

 ウチは消えそうな声で「こちらこそ、よろしく……」って返すしかなかった。



(うーん。よし、切り替えよう! いっぱいお話しして、ウチのことを知ってもらえばいいんだ!)



 友達スタート。

 不本意だけど、ならそれでいい。まずはゼロ距離まで近づいて、私のことを「よく知ってる人」の第一位にしてやるんだから。



「……ねえ。りんって呼んでもいい?」



 まずは呼び方から変えてみた。少しでも特別になりたくて。



「いいよ。じゃあ、俺は……さつきだから、さっちゃんでいい?」


「うん。……あ、でも……『さつき』って呼び捨てでも、全然いいよ?」



 ウチとしては、一気に距離を詰めたい一心で、かなり勇気を出して提案したんだけど。



「いや、なんか呼び捨てはダメな気がする。さっちゃんのほうが、仲良さそうだし」

 


 むむむ。そう来るかー。

 「さん」付けよりは進歩したけれど、彼のガードは思っていたよりもずっと堅くて、そして不思議な柔らかさを持っていた。

 なら、さっちゃんで!



 告白はハズしちゃったけど、一歩前には進めた……はず。

 そう自分に言い聞かせて、ウチの「友達大作戦」が始まった。



 それからは毎日、色んな話をした。

 音楽の話、家族の話、テストの点数。

 楓が好きな女性のタイプをさりげなく、本当にさりげなく聞き出して、少しずつ、少しずつ。ウチはおしゃれを意識し始めた。

 モッサリした自分を卒業して、彼に「知らない人」なんて言わせないくらい、素敵な女の子になろうって決めたんだ。



 でも、皮肉なもんだよね。

 自分に自信がついて、垢抜けて、話す友達が増えるにつれて、周りからも声をかけられるようになって。

 逆に楓との「二人きり」の時間は、少しずつ、少しずつ減っていっちゃった。

 彼には、相変わらず「友達」として接される。その距離が、近くて、遠くて、もどかしかった。



 そして、二年生の終わり。

 三年生が引退して、次の吹奏楽部を引っ張る部長を決める時が来た。



 ウチは、絶対に楓が部長になるんだと思ってた。

 本人は目立つのを嫌がるけれど、演奏技術はピカイチだし、少し鈍感だけど誰よりも周りに気を使えるタイプだから。



 でも、この時の彼はすでに「生徒会長」という重責を担っていた。

 放課後は生徒会室と音楽室を往復する日々。部長を兼務するなんて、時間的にも精神的にも余裕なんて無かった。



 そんな時、誰かが言ったんだ。

「井上、最近しっかりしてきたし、華もあるからいいんじゃない?」

 少し派手になり始めて、部内でも目立っていたウチを、みんなが面白半分に、あるいは責任逃れのために推薦し始めた。



(え、ムリムリムリムリっ! ウチに部長なんて絶対務まんない!)



 必死に首を振った。ウチはただ、楓の隣で楽しく楽器を吹いていたいだけ。

 数十人の部員をまとめるなんて、そんな大役、考えただけで倒れそうだった。

 でも、一度始まった流れは残酷だ。周りの「いいじゃん、さつきやれよ!」「さつきならみんな付いていくって!」っていう勢いは、もう誰にも止められなかった。



 ウチが困り果てて、今にも泣き出しそうになっていたその時。

 それまでずっと黙って、腕を組んで会議を見守っていた楓が、ゆっくりとみんなの前で口を開いた。



「俺が副部長をやる。その代わり、みんながさっちゃんを選んだんだから、なんでも彼女に押しつけないこと。何かあったら、まず俺を通せ」



 場が、しーんと静まり返った。

 さっきまで騒いでいた連中も、彼の放つ独特の威圧感と覚悟に言葉を失っている。

 楓は驚いて固まっているウチの方を向き直ると、いつものように、でも少しだけ申し訳なさそうに、優しく言った。



「ごめんね、さっちゃん。頼む、部長をやってくれないか?」



 ……ええー!?

 助けてくれるんじゃないの!? それ、ウチがやるの確定させちゃったじゃん!



 結局、ウチは少し涙ぐみながら、「……わかった」って引き受けるしかなかった。

 その時は正直、「楓の裏切り者!」なんて、心の中で毒づいたりもしたけれど。

 


 でも、後で気づいたんだ。

 楓があの時、どれだけギリギリの綱渡りみたいな気遣いをしてくれていたか。



 もし楓が「さっちゃんは嫌がってるからダメだ。別の奴にしろ」って正論を振りかざして、みんなを突っぱねてたらどうなっていただろう。

 推薦した部員たちは「なんだよ、竜胆くんが過保護なだけじゃん」「良かれと思って言ったのに、さつきもノリ悪いな」って、ウチに対して変な壁を作ったかもしれない。



 逆に、ウチが感情的に泣いて断り続けてたら、部内の空気は最悪になって、ウチは部活に居場所をなくしていたはず。



 だから楓は、あえて「俺が副部長になる」っていう条件を出すことで、推薦したみんなの顔を立てた。

 「俺も全力で支えるよ」っていう形を、生徒会長という肩書きを持つ自分が示す。

 そうすることで、推薦した子たちに「自分たちは間違っていなかった」と思わせつつ、最後には「これは俺個人の頼みだ」として、全ての責任と重圧を自分のところに持っていったんだ。



 推薦した子たちは、きっと今でもこう思ってる。

『竜胆くんが協力してくれることになったし、さつきが部長になって丸く収まった。いい結果になったね』って。



 誰も傷つかない。誰も悪者にしない。

 自分の生徒会長としての自由時間を、睡眠時間を削ってまで、楓は部内の平和と、何よりウチの居場所を守りきった。



(……ズルいよ、楓)



 他の誰も、あんたのその深すぎる優しさに気づいてない。

 みんな「竜胆くんはやっぱり頼もしいね」くらいにしか思ってないのに。

 ウチだけが、あんたの不器用すぎて、回りくどすぎて、誰にも気づかれないような自己犠牲を知っちゃった。



 ウチのために、そこまでしてくれるんだ。

 自分はどうなってもいいみたいに、あの時、一番辛いはずのあんたが笑って「頼む」なんて言うんだ。



 気づいた瞬間、心臓が痛いくらいに跳ねた。

 感謝なんて言葉じゃ全然足りない。

 「友達」っていう枠組みの中で、あんたがどれだけ大きな愛をウチに注いでくれていたか。



 他の誰にも見せてないあんたの「本当」を、ウチだけが知ってる。

 苦しくて、切なくて、でも誰にも渡したくない、甘い自分だけの秘密。



 ウチの心はもう、あの日から完全に、救いようがないくらい彼に囚われちゃったんだ。

 


 だから。

 今の彼に近づこうとする「知らない子」たちには、絶対に譲るわけにいかないの。

 

 あんたが守ってくれたこの居場所で、今度はウチが、あんたを一番近くで支える番なんだから。

 最後までお読みいただきありがとうございます!


 これまでの物語では見えてこなかった、さっちゃん視点の前編をお届けしました。

 地味だった彼女が変わり始めたきっかけや、中学時代の部長選出の裏側にあった楓の「不器用な優しさ」。

 二人の間には、単なる腐れ縁という言葉では片付けられない、積み重ねてきた確かな時間がありました。


 しかし、そんな彼女の心に、消えない影を落とした「ある出来事」があります。


 次回、中編。

 舞台は少し時計の針を戻し、あの激動の『定期演奏会』の夜へ。

 さっちゃんだけが知っている、あの日のもう一つの物語を綴ります。


 第35話:井上さつきは知っている(中編)


 どうぞお楽しみに!

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