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第26話:心が揺れる

怒濤の行事を駆け抜けた僕らに訪れた、束の間の休息。

今日は、親父の差し入れのジンギスカンを囲んでのレクリエーションです。


初夏の陽光と、ドラム缶から立ち上る香ばしい煙。

そんな開放的な空気の中で、副局長のさっちゃんが見せた意外な一面に、僕の心はいつになく波立ってしまいます。


普段の部活中には見せない彼女の仕草や、凛としたハーブのような香り。

穏やかな風が吹き抜ける芝生の上で、僕らの時間が少しずつ動き始めます。


高文連、定期演奏会、そして灼熱の野球応援。

 怒濤のように過ぎ去った忙しい日々は、俺たちの心身を確実に削っていた。だからこそ、今日は自分たちへのご褒美が必要だった。


 空はどこまでも高く、初夏の陽光が芝生の緑を鮮やかに照らしている。これから先、学校祭やコンクール、合宿と、吹奏楽局のメインイベントは目白押しだ。けれど、まずは今日。この場所で、みんなと最高の思い出を作りたい。



「よし、焼けたぞ! どんどん食べよう!」



 誰かの威勢のいい声を合図に、あちこちのドラム缶コンロから香ばしい匂いが立ち上る。タレが炭に落ちて弾ける音、広がる煙。この地域ならではの、タレがたっぷり染み込んだ味付きジンギスカンの宴が本格的に幕を開けた。


 俺は少し喧騒から離れた端の方、親父が置いていった黄色いコンテナを裏返して腰を下ろした。親父は炭に火をつけると、「夕方また片付けくるからな、目一杯楽しめ」と、愛車の二トントラック『青い彗星』を転がして早々に帰っていった。


 少し落ち着いて肉を頬張っていると、隣にふわりと摘みたてのハーブのような、凛とした香りが漂う。



「ふぅ……。やっぱり外で食べるジンギスカンは最高だね」



 右隣に座ったのは、副局長のさっちゃんだった。

 初夏の微風が吹き抜け、彼女の肩からこぼれる紅茶色の髪をさらりと揺らした。さっちゃんはそれを少し邪魔そうに、でもどこか楽しそうに細い指先でかき上げる。


 その仕草一つに、普段の部活中には見せない女の子らしさが宿っていて、俺は視線のやり場に困り、手元のトングを見つめた。


 さっちゃんが、いたずらっぽく笑いながら、グーにした手で俺の肩をぐりぐりと小突いてくる。



「定演の時さ、最後ホール前で挨拶してたんでしょ? ウチのお母さんから聞いたよ。『りんくん、立派に挨拶してたわよ』って」


「……さっちゃんのお母さん、来てたのか」


「中学の時もそうだったよね。いつもそう。大事なところで一歩引いてるふりして、結局一番大変なこと一人で抱え込んで。……ウチのことも、もっと頼りなよ。誘ってくれればよかったのに」



 彼女は俺を呼ぶ名前を喉元で飲み込んだかのように、少し視線を外して言った。

 俺は生返事を返しながら、隣にいる彼女を意識せずにはいられなかった。


 さっちゃんはいわゆる「カースト上位」に属する華やかな女の子だ。副局長としての責任感も強く、いつもみんなの中心にいる。正直、今までは同じ局の仲間、気心の知れた女友達としてしか見ていなかったけれど……。


 こうしてすぐ隣で、柔らかな日差しを浴びながら少しだけ拗ねたように笑う彼女をあらためて見ると、心臓の奥が、今まで感じたことのない妙な騒ぎ方をし始める。


(……可愛いかも、なんて。俺、何考えてんだ。今は火加減が大事だろ)


 自分を落ち着かせようと視線を落としたとき、彼女の足元が目に入った。

 今日のさっちゃんは、レクレーション用とはいえ、普段の部活では絶対に見せないような、ひらりとしたスカートを穿いている。だが、ここはドラム缶コンロのすぐそばだ。親父が最強の火力で熾した炭火からは、時折バチバチと威勢よく火の粉が舞い上がる。


 俺は一度席を立ち、近くに置いていた自分の上着を取ってきた。そして、彼女の隣に戻ると、広げた上着を彼女の膝の上にふわっとかけた。



「汚しても大丈夫なやつだから。火の粉とか飛んだら危ないし……足、隠しておきな」


「えっ……あ、ありがとう……」



 さっちゃんの返信が、一瞬だけ遅れた。

 さっきまで快活に笑っていた彼女の頬が、見る間にリンゴのように赤く染まっていく。周囲の喧騒が遠のき、俺たちの周りだけ時間が止まったような、妙な静寂が訪れた。


(……あ、これ。もしかして、ちょっといい感じなのか?)


 いや、そんなはずはない。俺みたいな「日陰」の人間が、勝手にそんな勘違いをしてはいけない。

 途端に、自分のしたことが猛烈に恥ずかしくなってきた。ガラじゃないことをしてしまった。


 俺は動揺を隠すように、正面で口を開けて肉を運ぼうとしていた後輩のミツルを指差した。



「おい、ミツル! 何か残念そうな顔してこっちを見るんじゃない!」


「げほっ! 違いますよ! 俺、別にさつき先輩の足見てたわけじゃないですからー! 竜胆先輩、冤罪っすよ、冤罪!」


「いいから食っとけ、肉を!」



 周囲に笑い声が広がり、気まずい空気はなんとか霧散した。

 だが、隣のさっちゃんはまだ少し顔を赤らめたまま、俺の上着の端をぎゅっと握りしめていた。その指先が少しだけ震えているように見えたのは、火の熱のせいだろうか。



「……かえではさ?」



 耳元に届いた声に、心臓が跳ねた。

 いつもは「りん」と呼ばれていた。中学校の時も、部活の時もずっとだ。

 突然の名前呼び。


 不意打ちすぎて、思考が完全にフリーズする。初夏の陽光に透ける彼女の紅茶色の髪が、やけに眩しくて、もう直視なんてできなかった。



「今年、夏休みは何か考えてる?」


「夏休み? えーっと、そうだな……。最近行ってなかったし、魚釣りとか?」



 俺が個人的な希望を口にすると、さっちゃんは「違うよー!」と吹き出した。



「楓の予定じゃなくて、きょくの話だよー」


「あ……そっちか。ごめん、間違えた。局長としての話だな」


「あはは、楓らしいね」



 さっちゃんは楽しそうに笑いながら、周囲で肉を頬張る仲間たちに目を向けた。



「今日のジンギスカンさ、すっごく楽しくて。やっぱりみんなで外で過ごすのっていいなって。……ねえ、楓。夏休みさ、キャンプ企画しようよ!」



(なにー!!)


 俺の脳内がパニックを起こす。

 キャンプ。それは青春アニメにおいて、お泊まり、バーベキュー、そして夜の焚き火という、最高潮のイベントではないか!


 そんな夢のような企画を、副局長のさっちゃんが、今の俺を「楓」と呼んださっちゃんが提案している。

 心の中で「最高です、やりましょう!」と絶叫しつつ、俺は努めて冷静なリーダーを装って返した。



「……うん、いいかもね。でも、吹奏楽局の正式なレクレーションとして泊まりがけとなると、親御さんたちの承諾とか、学校側の許可とか、ハードルは高いよ?」


「そこは大丈夫。ヒコに頼んで、ちゃんと学校公認の承諾書を作ってもらえば、親だって納得してくれるっしょ?」



 顧問の彦根先生のことだ。確かに、あの先生が「教育的な意義がある」と判子を押してくれれば、話は早い。



「わかった。今日のみんなの反応も見て、後で先生に相談してみるわ」


「やった! 楽しみだね、楓」



 さっちゃんの弾けるような笑顔。

 よし、何が何でもこのキャンプ、実現させてみせる。

 俺の心が、まだ見ぬ夏休みのイベントに向けて、一気に加速していった。



 宴も中盤を過ぎ、お腹いっぱいになった奴らは、広場でフリスビーを投げたり、バレーボールで騒いだりと、思い思いの時間を過ごしている。

 ドラム缶の炭火も少し落ち着き、穏やかな熱を放っていた。

 気がつけば、今日はずっとさっちゃんと一緒にいる気がする。



「楓ってさ、一人で考え込むことが多いから、他のクラスのみんなからは陰キャっぽく映るみたいだけど」



 さっちゃんが、コンテナの椅子に深く腰掛けて言った。



「意外と……ううん、本当はすごく局のことや、周りの人のこと考えてるよね」


「意外と、って……。俺、そんなに頼りなく見える?」


「ううん、逆。そういう、さりげない優しさがあるところ。ウチはさー、そういうところ、いいなって思うよ」



 さっちゃんが、ニシシッといたずらっぽく、でも嘘偽りのない真っ直ぐな笑顔で俺を見る。

 彼女の瞳が、まっすぐに俺を射抜いた。



「あり……がとう……」



 これは……惚れてまうやろー!

 俺の心臓は、さっきのジンギスカンの火力に負けないくらいの熱を帯びていた。


(……んっ!? 殺気!?)


 その時、背筋に凍りつくような冷気が走った。

 誰かに見られている。それも、ただの視線じゃない。物理的な圧力を感じるほどの強烈なものだ。


 ふと顔を上げ、少し離れた場所に目をやると、そこにはハルちゃんが立っていた。

 彼女は手に持った紙コップをじっと見つめたまま、微動だにしない。

 だが、その顔は……無表情だった。


 いや、無表情を通り越して、能面のような、あるいは深淵を覗き込むような静謐なまでの「無」。

 距離があるから声は届かないはずだ。なのに、彼女の薄い唇の動きだけで、何を言っているのかが鮮明に脳内に流れ込んできた。



『タ・ノ・シ・ソ・ウ・デ・ス・ネ……』



 ハルちゃんの口元だけが、三日月のように不自然に吊り上がる。

 目。目が全然笑ってない。ビー玉のように冷たく、こちらを観察している。

 怖い。親父の火炎放射器より、今のハルちゃんの視線の方がよっぽど火傷しそうだ。


 ハルちゃんは、俺にしっかりとメッセージを残し、何事もなかったかのようにふいと顔をそらし、周りの楽しそうな会話の輪に溶け込んでいった。


 俺、さっちゃんの足に上着をかけるとか、やっぱりキモかったかな。

 変に下心があるように見えたんだろうか。

 それとも、この場を楽しんでいる俺自身が、ハルちゃんにはどうしようもなく「キモい」と思われたのか。


 さっきまでの浮かれた気分は一瞬で吹き飛んだ。

 俺の心臓は、さっきのときめきとは全く違う意味で、バクバクと激しい音を立て続けていた。

第26話をお読みいただき、ありがとうございました。


さっちゃんとの距離が縮まり、夏休みのキャンプ企画に心を躍らせたのも束の間。

最後に待ち受けていたのは、ハルちゃんの凍りつくような、圧倒的な無言の圧力でした。


さっちゃんとの温かな時間と、ハルちゃんから放たれる正体不明の冷気。

そのあまりの温度差に、僕の心はタイトル通り、激しく揺れ動くことになります。


あの「目が笑っていない」ハルちゃんの真意は一体どこにあるのか……。

困惑する僕の日常は、まだまだ落ち着きそうにありません。


次回もぜひ、お楽しみに。


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