第13話:俺はキモい
定期演奏会の準備で、校内をバイクで駆け回る多忙な日々。
最後の一軒を終えて戻った個室には、夕日に照らされたハルちゃんが一人で待っていました。
彼女から告げられた、ある「結果」。
静かな夕闇の中で、二人の感情が静かに溢れ出します。
六月の定期演奏会に向けて、吹奏楽局内は戦場のような忙しさに包まれている。
わが局の伝統は「生徒主体」。
通常の練習はもちろん、会場の市民ホールとの打ち合わせ、巨大な打楽器の運搬手配、さらには当日配布するプログラムやポスターのデザイン作成まで、そのほとんどを自分たちの手で成し遂げなければいけないんだ。
顧問の先生にお願いするのは、コンクールの指揮台に立ってもらうことや、遠征時の宿泊予約、公式な手続きくらいのものだ。
その多忙な準備期間において、俺には重要な任務が与えられていた。
プログラムに掲載する協賛広告を募るため、地域の企業や商店を回る「営業」の仕事だ。
「竜胆はバイクがあるから、足が早くて助かるよ」
副局長という立場も相まって、イエローのコレダスポーツを駆る俺は、町の隅々を飛び回る。この時ばかりは、その機動力で重宝されていた。
「よし、これで二十社目……」
最後の一軒を回り終え、夕闇が迫る校舎へと戻る。
ノルマを達成した充実感と、心地よい疲れ。
報告のために定期演奏会企画用の個室のドアを開けると、そこには一人の先客がいた。
ハルちゃんだ。
窓から差し込む西日が、彼女の姿を世界から切り取るように鋭く照らし出していた。
耳を出した短い黒髪が、夕闇が迫る直前の鮮やかな光を反射して、琥珀色に透けている。
そのあまりに静謐な光景に、俺は一瞬、声をかけるのを躊躇した。
「お疲れ様。バイクだと早いね」
ハルちゃんがこちらを向き、静かに声をかけた。
その声は、どこか遠い場所から響いているように、透き通って、そして儚かった。
俺は、あの野村への告白の話には触れない。
最近は野村ともよく話すが、お互いにその話題だけは腫れ物に触れるように避けている。
それが、今の俺たちにできる最善の優しさであり、暗黙の了解だとわかっていたからだ。
ハルちゃんが机の上の書類をまとめながら、ふと独り言のように口を開いた。
「りん、あの時はありがとうね」
向けられた笑顔は、今にもパリンと音を立てて崩れてしまいそうなほど薄く、頼りなかった。
「ああ、気にすんな」
「野村くんからは聞いてるよね?」
「いや、なにも」
「そっか……。私、振られちゃった」
「そう……なんだ」
驚きはなかった。なんとなく、わかっていた。
野村の好きな人は、きっとハルちゃんではないだろうな、と。
同じ中学から彼を見てきた俺には、その残酷な予感があった。
俺は別に、ハルちゃんのことが恋愛的に好きだってわけじゃない。
でも、彼女は本当に優しいんだ。
派手なタイプではないし、目立つ子でもないけれど、誰よりも周りに気遣いができて、後輩たちの面倒見もいい。
だからこそ、ハルちゃんには、いつも笑顔でいてほしい。
そう願っていたんだけど……。
(あー、俺キモい。こんなこと考えてる俺、キモすぎる。俺はハルちゃんの親戚か!)
自分の思考に自分でおぞけをふるう。
かっこいい主人公のようなセリフを並べる自分に反吐が出る。俺はただの、打楽器を叩くしか能のない高校生なのに。
自分への嫌悪感に浸っていると、ハルちゃんは椅子に座り直し、折れてしまいそうなほど細い腕で膝を抱え込んだ。
「告白なんて、はじめてだったんだ。あれって、すっごく怖いね」
(無理すんなよ……)
「でも、告白できてよかった。スッキリした」
(……俺は、モヤモヤだよ)
ハルちゃんはゆっくりと立ち上がると、制服のポケットから小さな包みを取り出した。
「これ、お礼。クッキー」
手渡された、小さなクッキーの袋。
彼女が伏せた睫毛に、夕日の残光が長い影を落としている。
その影が、彼女の隠しきれない悲しみを強調しているようで、俺の胸は締め付けられた。
「本当にありがとう。……勘違いはするなよ?」
向けられた上目遣いは、いつもの茶目っ気というより、泣き出しそうな自分を必死に繋ぎ止めている、最後の一本の糸のように見えた。
俺はクッキーをうまく握れず、手のひらで転がした。指先が微かに震える。
「俺に……気を使う……なよ……」
絞り出した声が、自分でも驚くほど震えていた。
悔しくて、悲しくて、やりきれない。ハルちゃんの優しさが、今はあまりにも痛かった。
複雑な感情がダムから溢れ出すように、もう抑えられない。
「つらいのは、ハルちゃんだろ……?」
視界が急激に歪む。
まずい、俺のほうが先に熱くなってしまった。
ハルちゃんは、涙を溜めた俺の顔を見て、驚いたように瞬きをした。
その瞳に溜まった涙が、西日を反射して宝石のように一瞬だけ強く輝き、頬を伝った。
「なんで……りんが泣いてるの?」
「ハルちゃんは、自分の方が大変なのに、俺の心配までして……。本当に良い人だから、幸せになってほしくて……っ」
それを聞いた瞬間、ハルちゃんもついに顔を崩した。
我慢して、堰き止めていた涙が、一気に溢れ出す。
彼女は泣き笑いしながら、震える声で言った。
「幸せにって……お父さんじゃないんだから……」
狭い個室の中で、二人で、しばらく泣いた。
夕闇が忍び寄る音楽室の片隅で、ただ静かに、互いの感情を分け合うように。
「俺、キモいな」
「そうだね……。うん、キモいね」
「……でも、りん。ありがとう」
窓の外では、太陽が地平線の向こうへと完全に沈もうとしていた。
ハルちゃんからもらったクッキーを一つ、口に運ぶ。
それは少しだけ、しょっぱい味がした。
最後までお読みいただきありがとうございます。
自分の恋でもないのに、相手のことを想って泣いてしまう。
そんな楓の姿を、自分で「キモい」と断じてしまうところに、彼の不器用な誠実さを込めてみました。
ハルちゃんとの「二人だけの涙」。
この出来事が、これからの二人の関係をどう変えていくのか。
もしよろしければ、評価や感想をいただけると、楓の涙も報われるかもしれません!




