【怖い話】臭い車
怖い話です。
苦手な方は、ご注意ください。
事故は唐突に起きた。
コンビニの駐車場に停めていた俺の車に、突如バックしてきた軽自動車が突っ込んだのだ。運転していたのは高齢者の男性で、アクセルとブレーキを踏み間違えたらしい。鈍い衝撃音と共に、フロント部分が大きくへこんでいた。
幸い、怪我人はなく、他の車への被害もなかった。
ディーラーに連絡すると、担当者がすぐに来てくれた。工場で調べないと詳しくはわからないが、修理には数週間はかかりそうとのこと。
代車を頼んだが、あいにく全て出払っていると言われた。途方に暮れかけたところで、担当者は提案した。
「レンタカーなら、すぐに手配できますよ」
俺はその場で了承した。背に腹は代えられない。
その後、指定されたレンタカー会社へ行くと、白いセダンが用意されていた。年式は古いが、走行距離は少なめで、外観も悪くはない。だが、ドアを開けた瞬間、鼻を刺すような異臭が漂った。
酸っぱいような、焦げたような、そしてどこか鉄臭い──形容しがたい匂いだった。
思わず顔をしかめて係員に尋ねた。
「この車……臭いませんか?」
係員は曖昧に笑った。
「まあ、古いですからね。消臭はしてあるんですが……」
他に車はないのかと問うと、首を横に振られた。仕事柄、車はどうしても必要だ。俺は仕方なく、その車に乗り込んだ。
運転を始めてからも、臭いは車内にまとわりついた。窓を開けて走っても、エアコンを強くしても、匂いは消えない。まるでシートの奥深くに染みついているようだった。
最初のうちは不快感だけだった。だが数日も経つと、俺は妙な気配まで感じるようになった。
夜、営業帰りの国道を走っていると、後部座席の方から視線を感じるのだ。バックミラーを見ると、誰もいない。だが、確かに何かがいるような圧迫感があった。
帰宅して車を降りても、誰かに見られている感覚が抜けない。俺は落ち着かず、眠れない夜を過ごした。
ある夜、夢を見た。
暗い港。
白いセダンが、防波堤の端に停まっている。車内には四人──父親、母親、幼い娘と息子。窓は閉ざされ、車はゆっくりと前へ進む。防波堤の外は黒い海。車はそのまま海へと落ちていった。
水が流れ込み、必死にドアを叩く小さな手。母親が子を抱きしめる。
そして、泡の中で消えていく四つの影。
俺は叫び声を上げて目を覚ました。全身に汗をかいていた。
夢はそれだけでは終わらなかった。次の日も、その次の日も、同じ夢を見た。四人の家族が海へ沈んでいく夢。
やがて俺は気づいた。あの夢の家族は、かつて俺が関わった会社の人々だったのだ。
二年前、俺は小さな地元企業と取引していた。だが、俺が立ち上げた新規事業が急成長し、その企業の顧客を根こそぎ奪った。競合を潰すのは商売の常だと思っていた。だが、その会社は倒産し、社長一家は消息を絶った。
ニュースで「失踪」と報じられた家族。
まさか──あれは……。
背筋が凍った。
車に乗るたび、後部座席から囁き声がするようになった。
『返して……』
『どうして……』
『お前のせいだ……』
幻聴だと分かっている。だが、耳を塞いでも消えない。ハンドルを握る手は震え、アクセルを踏む足は冷たくなる。
匂いは日増しに強くなった。もう「臭い」とかいう次元ではない。呼吸のたびに胸の奥まで侵され、体の中に染み込んでくるようだった。
仕事中も、書類の文字がにじんで見えなくなる。顧客の声が遠のき、代わりに子どもの泣き声が耳を満たす。夜は夢にうなされ、日中は幻に追われ、俺は次第に境界を失っていった。
そしてある夜。
気がつくと、俺は港にいた。ハンドルを握り、例の白いセダンを走らせていた。いつここに来たのか記憶がない。ただ、ハイビームに照らされた防波堤が、夢と同じ景色だと分かった。
フロントガラスの向こうに、あの家族が立っていた。濡れた衣服をまとい、蒼白な顔で、じっとこちらを見ている。
「……俺のせいじゃない」
震える声で呟いた。
「競争に負けたのは……仕方ないことだ……」
だが、彼らは動かない。子どもの小さな手が、ガラスを叩く仕草をした。夢で見たあの光景。喉の奥から嗚咽が漏れ、俺は叫んだ。
「違う! 俺は悪くない!」
その瞬間、ハンドルが勝手に回った。車体が前へと進む。アクセルを踏んでいないのに、エンジンは唸りを上げ、防波堤へと突き進んだ。
俺は必死にブレーキを踏んだ。だが、ペダルは底まで沈んで動かない。ハンドルを切っても車は真っ直ぐ進む。
目の前に迫る暗い海。
そして、後部座席から響く声。
『一緒に来て……』
最後に見たのは、黒い波がフロントガラスを覆い尽くす光景だった。
水が流れ込み、肺に冷たいものが満ちていく。必死に窓を叩くが、外には誰もいない。車内に、隣に四人の影が座っていた。
父親が、母親が、子どもたちが──恐ろしい微笑みを浮かべながら私を見つめていた。
その瞬間、理解した。
最初から──あの事故から、俺はこうなる運命だったのだと。
白いセダンは音もなく、ゆっくりと海の底へ沈んでいった。世界は重力と黒に塗りつぶされ、俺の思考は泡のように散った。
本編では語ってませんが、主人公は取り引き先の企業から、顧客リストなどを盗んでいます。
自分に都合の良いように、過去の記憶を改変しています。
あと、レンタカーが臭かったのは、実話です。
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