第3話 生存と帰還と査定と
静寂が、むしろ騒がしい。
心臓が激しく脈打ち、僕の荒い呼吸だけが巨大な空洞に響いていた。
僕は、生きている。
右足に走る骨が砕けた激痛だけが、それが紛れもない現実であると証明していた。
せめて【回復ポーション】が一本でもあれば……。
いや、無駄なことだ。
僕の【アイテムボックス】に、回復薬の類は一本も入っていない。
マルスは言っていた。「回復薬のような緊急性の高いものは、各々がすぐに使えるように携帯するのが鉄則だ」と。
あの時は、それが一流パーティの常識なのだと何の疑いもなく信じていた。
だが今なら分かる。あれは僕を仲間だなどと端から思っていない、ただの切り捨てのための口実だったのだ。
僕が怪我をしても自力で回復する手段を与えない。どこまでも用意周到で、残酷な連中だ。
僕は自らの右手を見つめる。
この手に宿った世界の理を覆す力。そして脳裏に焼き付いて離れない、僕を裏切った者たちの顔。
『深紅のグリフォン』……。
今は考えるな。
まずは、ここから生きて出ることだけを考えるんだ。
さて、どうやって帰るか。
この足ではまともに歩くことさえできない。ダンジョンの入り口までは果てしなく遠い。道中にはまだ他の魔物がいるかもしれない。
だが、今の僕にはこのスキルがある。
戦闘は避けねばならない。しかし、道中の障害を排除することならできるはずだ。
僕は近くに転がっていた深淵を覗く者の甲殻の一部に目をつけた。巨大で、比較的平らな部分だ。
僕はそれに体を乗せると、即席のソリにして、腕の力だけでゆっくりと引きずるように前へ進み始めた。
道は、あまりにも長かった。
通路を塞ぐ瓦礫は【アイテムボックス】に収納し、行く手を阻む厄介な蔓草も空間ごと切り取って喰らう。
だが体力の消耗は激しい。砕けた足の痛みは、気力だけではどうにもならなかった。
何度か意識が遠のき、そのたびにマルスたちの嘲笑う顔が浮かんでは、僕を現実に引き戻す。
ここで死んでなるものか。
あいつらに、僕の存在そのものを「悲劇の美談」として利用されたまま、終わらせてなるものか。
その一心だけが、僕を前へ、前へと進ませた。
◇ ◇ ◇
どれほどの時間が経っただろうか。
不意に、洞窟の湿った空気とは違う、外の匂いが鼻をかすめた。
光だ。
遥か先、洞窟の出口から細く、しかし確かな光が差し込んでいる。
僕はついに、生きてダンジョンを脱出したのだ。
安堵からか一度は完全に気を失いかけたが、ここで眠れば本当に死んでしまう。僕は最後の力を振り絞り、最寄りの街を目指した。
長い時間をかけ、たどり着いたのは辺境の都市「ルミラ」。
街の人々は、ボロボロの格好で足を引きずる僕を、奇異の目、あるいは憐れみの目で見ている。
だが、今の僕にそれを気にする余裕はなかった。
宿を取りたい。医者にもかかりたい。しかし、僕には金が一文もない。
僕が持っている資産はただ一つ。
【アイテムボックス】に眠る、あの災害級モンスターの【魔石核】だけだ。
僕は覚悟を決め、街の冒険者ギルドの扉を開けた。
◇ ◇ ◇
ギルドの中は、屈強な冒険者たちの熱気で満ちていた。
僕のような汚い身なりの人間は、明らかに場違いだ。
受付の女性は僕の姿を一瞥すると、あからさまに嫌な顔をした。
「……ご苦労さまです。依頼の報告ですか」
「いえ。素材の買い取りをお願いしたいのですが」
「そうですか。では素材をこちらへ」
僕は周囲の突き刺さるような視線を感じながら、意を決してスキルを発動する。
目の前のカウンターに、【アイテムボックス】から【魔石核】を取り出した。
ドサリ、という鈍い音と共にそれはカウンターの上に鎮座する。
瞬間、ギルドの喧騒が、まるで時間が止まったかのように静まり返った。
【魔石核】から放たれる禍々しくも強力な魔力のオーラ。それは、この場にいる誰もが見たことのない規格外のものだった。
受付の女性は、目を丸くしたまま固まっている。
「おい……なんだありゃ……」
「深淵を覗く者の核じゃねえか。なぜ、こんな場所に……」
冒険者たちの囁きが、僕の耳に届いた。
その時だった。
「騒がしいぞ、何事だ」
カウンターの奥から、低く、しかしよく通る声がした。
現れたのは、背は低いが鋼のように鍛え上げられた体を持つドワーフの男性。このギルドのマスターだろう。
彼はカウンターの【魔石核】を見ると、その鋭い目をわずかに見開き、次に僕のボロボロの姿と砕けた足に視線を落とした。
「……小僧、奥へ来い」
ギルドマスターに連れられて個室に入ると、彼は僕を真っ直ぐに睨みつけた。
「単刀直入に聞く。これをどこで手に入れた」
その眼光は、嘘を許さない。
僕はここで全てを話すべきか一瞬迷った。だが、僕のスキルの異常性を今ここで明かすのはあまりにも危険だ。
僕は、あらかじめ考えておいた筋書きを話すしかない。
「……パーティで挑みました。ですが、歯が立たず……仲間は、皆……」
僕はそこで言葉を切り、俯いた。
「僕が、最後の生存者です。幸運にも、弱ったところに最後の一撃を入れることができた。ただ、それだけです」
ギルドマスターはしばらく黙って僕の目を見ていた。
「……パーティ名は」
「……『深紅のグリフォン』です」
その名を聞いて、彼の眉がピクリと動いた。
「あの『英雄』パーティがか。……そうか」
彼は何かを納得したような、あるいは疑いを深めたような、複雑な表情を浮かべる。
「その話が真実か、俺には判断できん。だが、この【魔石核】が本物であることは確かだ。規定に従い、ギルドが買い取ろう。分け前はお前が総取りでいいな」
「は、はい」
「報酬は莫大な額になる。手続きに時間がかかるから、今日は前金だけ渡そう。それでさっさとその足を治せ。話はそれからだ」
ギルドマスターはそう言うと【上級回復ポーション】を僕に手渡した。
「ギルドからの見舞いだ。飲め」
僕はそれを受け取り深く頭を下げる。
「あ、ありがとうございます」
僕はそれを受け取ると一気に飲み干した。
温かい魔力が体を駆け巡り、焼けるようだった足の痛みがすうっと和らいでいく。
……だが痛みの芯は消えない。
骨が砕けた部分にまるで氷の杭が打ち込まれたような、冷たい疼きが残っていた。
僕が顔をしかめているのを見て、ギルドマスターは「やはりか」と呟いた。
「呪いの類が絡んでやがる。ポーションじゃ気休めにしかならん」
彼は机に向かうと一枚の羊皮紙に羽根ペンで何かを書き付け、ギルドの印璽を蝋に押し付けた。
「小僧、これを持って街一番の治癒院へ行け。『白百合の施療院』のバーサ先生だ。俺の紹介だと言えばまともな口をきいてくれるだろう」
彼が用意してくれたのはギルドの正式な紹介状だった。
「報酬の全額は手続きに時間がかかる。今日は前金だけ渡そう。それで治療費を払え。話はそれからだ」
ギルドマスターはそう言うと、金貨がずしりと詰まった革袋を僕に手渡した。
僕はマスターにお礼を告げると、ふらつく足でギルドを後にする。
手の中にある金貨の重み。
それは、僕がこれから一人で生きていくための最初の糧なのだ。
失ったものはあまりにも大きい。だが僕は確かに新しい力を、そして新しい人生への切符を手に入れた。
見上げた辺境の街の空は、どこまでも青く澄み渡っていた。