水鏡(みずかがみ)【夏のホラー2025】
祖母の遺品の中に、一枚の鏡があった。
古ぼけた木枠に、割れ目一つない銀色の鏡面。だが、どこか湿ったにおいがする。鏡の裏には筆で書かれたような文字があった。
「この鏡、水の向こうに通ず」
高校生の淳は、その意味がわからなかった。ただ、捨てるのも悪い気がして、自室の壁に立てかけた。
その晩、鏡が濡れていた。
部屋は乾いているのに、鏡だけが、ぽたぽたと水を垂らしていた。
翌日から、異変が始まった。
鏡に映る自分の動きが、わずかに遅れる。瞬きの回数、目線、口の動きが、ほんのわずかだが、ズレているのだ。
その夜、鏡の中の“淳”が、こちらをじっと見つめ返してきた。
目線が、完全に合っていた。
ぞっとして鏡を布で覆い、押し入れにしまったが、翌朝、鏡は勝手に元の場所に戻っていた。濡れた足跡が、押し入れから鏡の場所まで伸びていた。
鏡の中の“自分”は、にやりと笑っていた。
祖母が亡くなる前に、何度も言っていたことを思い出した。
「あの鏡だけは、見てはいけないよ。水を張った鏡は、“むこう”とつながるからね……」
かつて祖母の姉は、幼い頃に行方不明になった。風呂場で遊んでいた最中、浴槽の中に吸い込まれるように消えたという。
遺体は見つからなかった。
だが祖母は言っていた。
「あの子は今も“鏡の中の水の底”にいる。向こうで生きてる。けれど、帰ってきてはいけないんだよ」
雨の夜、風呂場の鏡に変化が起きた。
蒸気で曇った鏡の中に、“誰か”が立っていた。
ずぶ濡れの髪。顔が泡に包まれて見えない。
だが、それは……自分だった。
鏡の中の“淳”が、口を動かしていた。
「こっちは、いいよ。静かで、深くて、冷たくて……苦しくない」
「こっちに、おいでよ。代わってあげる」
次の瞬間、水が爆発するように弾け、鏡面から腕が飛び出してきた。
ぬるりとした指が、淳の喉元を掴んだ。
次に目を覚ました時、鏡の中にいた。
動けない。声も出ない。だが目の前には、自分がいた。
――“鏡の外の自分”が、こちらを見て、ほくそ笑んでいた。
母親がドアを開けて呼びかける。
「淳? どうしたの、その顔……あら……」
鏡の外の“淳”が振り返ると、いつも通りの笑顔を浮かべて言った。
「ううん、大丈夫。ちょっと、夢を見てただけ」
一ヶ月後、学校で問題が起きた。
淳の様子がおかしい。
無口で、誰とも話さず、時折じっと鏡を見つめては、ぼそりと独り言をつぶやく。
「まだ……聞こえる。水の音が……」
ある日、彼が美術室の鏡をじっと見つめた後、こう呟いたのを聞いた者がいる。
「また、戻りたいな……あっちのほうが静かだった」
次の日、彼は姿を消した。自宅の鏡の前に、濡れた足跡を残して。
現在、その鏡は行方不明。
だが、噂は残っている。
夜中にふと鏡を覗き込むと、自分ではない“誰か”が映る。
そして翌朝、部屋の床が濡れている。
最後に目撃された時、鏡の中には、ぼんやりとした淳の顔が見えたという。
今も、そこにいるのだ。
水の底に、顔を浮かべながら。
【注意】
「水の気配がする鏡」には、絶対に水をかけてはいけません。
湿気も危険です。
鏡の中の“自分”が目を合わせてきたら、それはもう“あなた”ではありません。
#ホラー小説 #短編