ウミリスとソラリス
存在も時間もない。あるのは可能性だけ。それが宇宙の原風景であり、超紐風景。何者にも観測されない混沌のイデアの中から一つの可能性が浮上する。
何かの意思か、何かの偶然か。あるいは何かの冗談によって宇宙が誕生した。
遥かな時の中で宇宙は拡大し、光子が支配する中で原子核が生成された。あらゆる物質の基となる原子が現れた。
暗黒の時代を乗り越えると、宇宙はかんしゃくを起こすようにビッグバンが起こった。莫大なエネルギーを生んだ爆発は様々な物質を合成し、後に銀河となる基礎を築いた。
果てまで散らばった生成物から、質量が集まって太陽となり、煌々とした輝きは暗く冷たい原初の宇宙において光をもたらした。太陽を中心とした銀河が出来上がりと、ガスやチリの集合した星間雲が広がる原始太陽系円盤を形成する。
円盤内でダストが衝突を繰り返していくと合併して微惑星となった。さらに微惑星同士がぶつかって大きくなり、原始惑星へと成長する。
繰り返す。
繰り返す。
何十万年もの時間の間、ガスとチリの塊が合体していく。
次第にサイズを増やしていき、惑星となった。
衝突を繰り返していく過程の中で、岩石の塊に含まれる水分子、水酸基が水蒸気となって放出された。原始的な惑星を水蒸気が覆い、大気となった。
すなわち、空が生まれた。
大気中の水蒸気は熱を封じ込める温室効果を持ち、微惑星の衝突で生じた熱が地表をドロドロに溶かしてマグマオーシャンになる。次々に降ってくる小さな惑星が激突する度にマグマが跳ね、水蒸気が立ち上る。
繰り返す。
繰り返す
上記の通りに蒸気が満ちていくと、やがて宇宙からのラブコールが止む。ボコボコと穴を空けられていた地表は何十万年ぶりかの静けさを取り戻す。それからさらにほとぼりが冷めるくらいの時間が過ぎると、大気の温度が下がって漂っていた蒸気が雨として降り注ぐ。
水が満ちていく。地表を覆い尽くすかのごとく、水が満ち満ちていく。
すなわち、海が生まれた。
空と海をかねそろえた惑星。
太陽系三番目の惑星、地球。
常しえともいえるような瞬く時間を経て、「海」という私が誕生したのだった。
私が産声をあげて初めて目にしたのはどこまでも広がる美しい青色だった。生まれたばかりで右も左もわからない私を興味深く、心配そうに、愛おしそうに彼女は覗いてきた。
私よりも先に生まれた彼女、「空」はむずがる私に「大丈夫よ」と声をかけてあやし、和ませ、落ち着かせてくれた。
「あなたの名はウミリス」
海のウミリス。
「そしてわたしはソラリス」
空のソラリス。
「お揃いでいいでしょう?」
空――ソラリスは私に名前をつけてくださった。
海と空、交わることのない私たちだけど、名前を通して繋げてくれた。
「はい、ソラリスお姉さま!」
お姉さまに心が奪われるのは時間の問題だった。
頭上から見守ってくださり全てを受け入れ、私の色を映し出してくれる。ソラリスお姉さまへの想いも筒抜けになっていると思うと少し恥ずかしいけれど、お姉さまには赤裸々な私を見ていて欲しい。私の全てを知って欲しい。そして、あなたの全てを教えて欲しい。
一目惚れの恋はこうして始まった。
お姉さまには、同じ惑星に生まれた姉妹としてどこに出しても恥ずかしくないよう教育してもらった。
「ほらそこ。まだ自転の力に乗るのがぎこちないわ。想像してみて。わたしがあなたをゆっくりかき回していると。あなたはそれに身を委ねる。時を忘れ、甘い穏やかなひと時を楽しみましょう」
「はい、お姉さま!」
優しく指導してくださるけれど、要領の悪い私は失敗ばかりだった。何度も雷を落とされ、何度も泣かせてしまうこともあった。それでもソラリスお姉さまは見限らず、私が立派な海になれるよう、何百万年もの間、片時も目を離さずに導いてくれた。
期待に応えなきゃ。お姉さまに認めてもらえるよう発奮する。風が吹く度に活が入り、血潮がたぎる。叱咤激励の声が心に沁み入りうまくいかなくてへこむ心が奮い立つ。
「筋がいいわ。さすがわたしの妹ね。あなたは誰が何を言おうと立派な海よ」
最高の栄誉をいただき、波高く海洋を声高に謳歌する。
私は海なのだ!
立派に胸を張れるようになったのは間違いなくソラリスお姉さまのおかげだった。
お姉さまは不出来な妹であるところの私のために粉骨砕身、親身に尽くしてくれた。それなのに、私の方から彼女へしてあげられることは何もない。何かお礼がしたいと思うのは妹として自然なこと。
「何かして欲しいことはありますか?」
「突然なあに?」
「私、お姉さまに甘えてばかりで……今までのお礼に何かお姉さまのためになることがしたいんです」
「まあ、そんなこと考えなくていいのよ。あなたはどれだけおっちょこちょいだろうと、妹でいてくれるだけで嬉しいの」
「でも、それじゃ私の心が落ち着きません。いつか何もできない私を捨ててしまうんじゃないかって。不安で不安で……夜も寝られません。渦潮も練られません」
心の内を吐露する私にお姉さまは優しい声音で言う。
「もうしばらくもすればウミリスの中で生命が生まれる。それらは海を出て陸地に上がり、空を飛べるようになる。やがて宇宙に飛び出し、別の惑星にまで生存圏を広げるでしょう。そこにはわたしたちと同じような姉妹がいる。彼女らに思いっきり自慢するのよ。わたしにはかわいい妹がいるのよ、って」
「お姉さまったら!」
澄ました顔でおっしゃり、本気とも冗談ともとれない。でも私の心に渦巻く漠然とした不安はどこにもなくなっていた。お姉さまは私のことを考えている。私を妹として好いてくださっている。それがわかった今、なんと小さなことで悩んでいたのかと笑い飛ばしたくなる。
舐め回したくなるような美しいその顔を見て、私はひらめいた。
「そうだ! お姉さま、お化粧をなさってみませんか?」
「わたしが? できるかしら」
「任せてください!」
蒸発した水が上空で集まり、雲となる。空を彩る巻雲、積雲、層雲。それらはお姉さまを美しく飾るアイライナーであり、マスカラであり、チークであり、口紅でもある。
「その、どうかしら? こういったことには縁がなくて……」
「とっても素敵ですよ! 他の星のどんな空にも負けない、唯一無二の美しさです!」
「もう、ウミリスったら」
まんざらでもなさそうにはにかんだ笑顔のお姉さまは、可愛らしさが成層圏を突き抜けた。
「こんなのはどうです? いいですね! よく似合ってますよ! すごくかわいいです!」
賛辞の言葉を三次会まで述べつづけ、調子に乗って次々とお化粧を施す。真っ赤になったお姉さまは積乱雲の向こうへ隠れてしまった。
機嫌を損ねたお姉さまに謝り倒し、再び顔をみせてくれるようになるまでなかなかの苦労を要した。でもそのやりとりも蜜月のコミュニケーション。お姉さまの意外な魅力を発見することができた。
お姉さまを想う気持ちは日に日に増していく。大きな満月の魔力がそうさせるのか、私のうずく身体と心がお姉さまに引き寄せられる。
いちゃつきたい。
一つになりたい。
混ざり合いたい。
まぐわいたい。
どうしようもない気持ちに手を伸ばす。
ふとした瞬間に正気に戻る。
潮が満ちれば引きもする。
最高潮の昂りの後は決まって不安と反省、猛省に苛まれる。
なんてはしたない海なのか。後悔に枕を濡らす。羞恥に頬が赤く染まる。紅海を通り越して紅蓮海だ。こんな品のない私に呆れ返ってしまうのではないだろうか。
「ウミリス、どんなあなただろうとあなたは最高の妹よ。とっておきの秘密、教えてあげる」
私がほの暗い想いを抱いていようと、美しく残酷なまでに深い青色を映してくれて、甘美な言葉をかけてくれる。それはこの世界の淫靡な秘密だった。
直接触れ合うことは出来ないけどお互いを感じられる方法がある。
「さあ、教えた通りにやって」
「はい……」
私に流れる海流が空中の熱を奪い、また逆に海中から空中に奪われる。寒流と暖流の熱サイクルで私たちはお互いの温もりに触れ、存在を近くに感じられるのだ。
これは実質情交といってもいい。
「お姉さま、あったかいです」
「わたしもよ。あなたの温かさがわたしのなかに流れ込んでくる」
深く求めようとするとお姉さまも強く求めてくれる。
誰にも内緒の秘め事は、限りなくオープンに曝け出されていた。
関係が深まるのに比例して強い風が吹き抜ける。
「なにか……大きなものが来ます……!」
「力を抜いて。衝動に身を委ねるの」
私から出た水蒸気が上昇気流でお姉さまに届く。私の分身が集まって雲となり、次第に大きくなっていく。雲から熱がにじみ出ると空気が膨張して気圧が下がっていく。周囲から低い気圧を目指して空気が流れ込むと、渦巻いてくる。うずうずした気持ちが生んだ渦がぐるぐると回り巡って巨大な風を孕んだ。
「さあ、もう一息。大丈夫。怖いことはないわ」
「お姉さまぁ……!」
莫大なエントロピーが私の体内で暴れ狂う。
暴風の極致、台風が生まれた。
二人の気象コラボレーション、愛の結晶。
「素晴らしいわ。あなたは最高のパートナーよ」
「ありがとう……ございます!」
心地良い虚脱感と幸福感に包まれる。ふわふわとした頭がお姉さまの言葉を咀嚼していく。
「母なる海」という言葉があるように、「空母」という言葉もある。私たちはそれぞれが母であり、同じ家族に母二人、夫婦ならぬ婦婦として愛し合っている。
そう想うと二人の子供、生まれたばかりの台風も愛おしく思えてくる。私に似ればどんなものも飲み込める大海原のようにおおらかな子、お姉さまに似れば端整で聡明、大空のようにそらんじられる子に育つのだろうか。
所詮はわずかな間の一陣の旋風に過ぎない。しかしその情景には確かに愛情があり、私たちは愛を確かめ合ったのだ。
「お姉さま、キスしましょう」
「無理よ」
私たちは気持ちが通じ合い、愛で結ばれたことは疑いようもない事実。しかし、ただの一度も身体に触れたことがないのが唯一の心残りだ。手を繋いだこともなければ唇の感触も知らないし、胸の柔らかさも想像するに留まるしかない。せいぜい水平線で交わっているように見えるだけ。見せ掛けだけで物理的に繋がることはない。何度もお姉さまの唇を奪おうと白波を伸ばしては届かずに砕ける。
「想像の中では可能背は無限大。あなたは好きなようにわたしを思い描いていいのよ」
日の当たる暖かな場所で私に膝枕をし、優しい歌を口ずさむ。甘い香りと柔らかい感触に包まれ、ゆったりとしたひと時を味わう。
仮想の中の出来事だと認識してしまうと空しい。空想は空虚だ。空だけに。
「仕方ないわ。そういうものだもの……」
諦観するお姉さま。大好きな相手を直接感じ合いたいのにそれが叶わない。これほどもどかしいことがあるだろうか。
生まれたときから分かつ運命にある私たち。神様は相当意地が悪い。
悠久の時を過ごしていると、いつの間にか地球は生命に溢れかえっていた。水中、空中、地上、場所を問わず繁栄していき、私とお姉さまの二人きりでいられる時間がめっきり減った。いつ何時でも命の鼓動がこだまし、産声をあげ、断末魔を叫ぶ。潮騒でも掻き消えないほどに騒がしく、無粋な生き物たち。その一挙一動が海を、空を汚していると理解できないらしい。
「その愚鈍さが愛おしいのよ」
私には理解できないが、お姉さまがそう言うのなら私はそれ以上何も言うことはない。
そう思っていたが、しばらくして生物の愚かしさを誉めそやすことになった。
『天が落ちて来たらどうしよう』
心配性な人間が不安がった。
その発想はなかった。
青天の霹靂。
触れたくても触れられない、運命付けられた因果を前にして立ち尽くしていた私だったが、運命だと諦めずに自分の気持ちに従って行動することができるはずだ。
愛があれば空が落ちてくるし、海が飛ぶこともある。
為せばなる!
「無理よ。バカね」
無理だった。
結局人間の不安は杞憂に終わった。
ソラリスお姉さまは空だからこそ上空に拡がり、私は海だからこそ地表に湛える。摂理は地球が滅びない限り、永遠に、延々と私たちを分かち続ける。
そう、諦めていた。
だけど、ただ一つだけ方法があった。
たった一つの冴えたグッドアイデアだった。
地球には海に含まれていない水が地中だったり氷だったりと、まだまだ存在している。私の熱い想いは氷を溶かし、海水面を上昇させていく。地中からも吸い上げ、天を目指す糧とするのだ。
空あちらが落ちてこないのなら海こちらが上がればいい!
今はまだ微量ずつしか増えていかないが、どれだけの時間をかけてでも空に届くほどに地球を海で満たしてみせる。文字通りの水の惑星にしてみせる。
「愚かね。愚鈍でどうしようもなくおバカな子。愚昧な姉妹よ。でも、それがたまらなく愛しいわ」
微笑むお姉さまに見守られ、まさに天にも昇る気持ちで努力を続けるのだった。
(了)