君の幻影を見つめる
その少女は、その時何を思ったのだろうか。
耳のすぐ傍を横切る風の音。自分の身体が落ちていく感覚。
明らかに普通ではないその状況で、一体何を考えていただろう。
少女は、泣いていた。
そして、ごめんね、と呟いた。
少女は、静かに泣いていた。
第一章 出会い
やはり何度経験しても新学期というものは慣れないものだ。人見知りでなかなか馴染めない人にとって、これほど憂鬱なイベントはないだろう。西条陽菜もその一人だった。学年が変わるだけなら顔見知りの人となんとかやっていけそうだが、高校一年生になり、知っている人が誰もいない新しい環境となると話は別だ。
誰かと話せないだろうかと周囲を見渡すが、男女問わず複数で楽しそうに話す人ばかりで、陽菜が入れそうな隙はない。このまま独りで過ごさなければならないのかと寂しくなり、自分のコミュニケーション能力の低さにため息が出る。
「ねえ、あなたも一人?」
新学期早々悲しみに浸っていたとき、誰かから声をかけられた。初対面なのに失礼な質問だな、と思いながら振り向く。
そこには、丁寧に手入れされているであろう艶やかな栗色の長髪と、クリクリとした大きな瞳が印象的な少女がいた。脚が長くてスタイルも良い。世間の言う「美少女」とはまさにこの子のことを指すのだろう、というのが陽菜の第一印象だった。
「…一人です」
「よかった!わたしもなかなか話せる人がいなくて困ってたの」
少女は分かりやすく目を輝かせた。陽菜は友達になれそうな人がいて嬉しい半面、こういう子が一人になるって珍しいな、と少し驚いた。
「これからよろしくね!わたしの友達さん!」
友達、という響きが妙にくすぐったくて、陽菜は頬を緩ませながら「こちらこそ」と答える。
少女は微笑んだ。
窓から四月の心地よい風が吹いてきて、少女の栗色の髪を揺らした。
これが、嶋崎麗香との出会いだった。
第二章 日常
それから意気投合した二人は、すっかり仲良くなった。お互いを親友と呼べる存在になるまで時間はかからなかった。好きな漫画や趣味が似ていて、お互い一人っ子という共通点の多い二人は自然と仲良くなる運命だったのかもしれない。
放課後によく遊びにいくのが二人の日課だった。
今日は学校の近くに新しくできたカフェに来ている。開店したばかりということもあり、店内は賑わっていた。
「そういえば昨日の小テストどうだった?」
「もう全っ然ダメ!」
頼んだいちごのパフェを頬張りながら麗香が不機嫌そうに言う。「いっぱい勉強したのに…」と付け加える。
「わたしも赤点ギリギリだった」
セーフ、と言いながら陽菜は余裕の笑みを浮かべる。目の前のブルーベリーの乗ったパンケーキをおもむろに口に入れた。甘酸っぱくて美味しい。
「え、陽菜補習ないじゃん!いいなー」
そうやってわたしだけ置いてってずるい〜、と麗香は駄々をこねる。
「よし、罰としてこのブルーベリーは私がいただきます!」
陽菜が止める間もなく、最後に食べようと取っておいた一番大きなブルーベリーが麗香の口の中に吸い込まれていく。
「それ楽しみにしてたのに!」
その様子がなんだかおかしくて、二人して笑い合った。
こんな日々がずっと続けばいいな、と陽菜は目を細めた。
わたしには麗香しかいない。
自然とそう思えた。
ある日の放課後、陽菜は学校近くの小さな本屋に来ていた。小説や漫画まで豊富な種類を取り揃えているこの場所は陽菜のお気に入りだった。麗香との待ち合わせ場所にはちょうど良い。この合間に本を見て回るのが好きだった。
見つけた。
目線の先には、一冊の本がある。最近流行った実写映画の原作漫画だ。それを取ろうと手を伸ばすが、陽菜の身長では微妙に届かない位置に置かれている。苦戦していると、背後から誰かの長い腕が伸びてきて、目的のそれを掴んだ。
「はい、これ」
振り向くと、背の高い男が立っていた。男が着ている制服から、同じ高校だということが分かった。
「あ…ありがとうございます」
陽菜は慌ててお礼を言うと、男は「どういたしまして」と笑った。
「それ好きなの?」
「好きっていうか、最近映画見て、原作が気になって…」
「映画趣味?」
「そうですね、週末によく見てます」
「そうなんだ、俺も色々見てるよ」
それから男も趣味だという映画の話題になり、二人は盛り上がった。
男は一ノ瀬翔といい、陽菜と同じ一年生で、隣のクラスだった。人見知りの陽菜が、異性とこうして自然に話せたのは翔が初めてだった。
「今度おすすめのやつあったら持ってく」
「ありがとう。またね」
おう、と翔は相槌を打つと出口へと向かっていった。
「ごめ〜ん、遅くなっちゃって」
聞き慣れた声の方を向くと、すれ違いで麗香が帰ってきた。
「誰あの人?さっき話してたよね」
麗香が指差す方向には、本屋を出ていく翔の後ろ姿があった。
「これ取ってもらったの」
陽菜は手に持っていた漫画をアピールする。
「ふーん、じゃあ行こっか」
興味無さそうな返事をする麗香をよそに、陽菜は見えなくなった翔の背中を見送っていた。
「おはよー陽菜。って、どうしたの?その顔」
麗香が驚くのも無理はない。あれから陽菜は、何度か翔から映画のビデオを借りていた。その借りたビデオを昨日、夜を更かして見た陽菜は寝不足だったのだ。
目の下にクマが出来ている。
「映画見てたら寝るの遅くなっちゃって...」
麗香は顔を曇らせた。
「夜更かしは肌に良くないんだからね!」
気をつけなよ、と麗香は叱った。人一倍美容に気を遣っている麗香が言うと説得力がある。
「気をつけます…」
陽菜は申し訳なさそうに肩をすくめた。
「西条さん、ちょっといい?」
放課後、靴を履き替えていた陽菜に話しかけてきたのは翔と同じクラスの安西来留海だった。人との関わりが少ない陽菜でも、来留海の存在は知っていた。性格が悪いことで有名だからだ。そんな来留海が話しかけてくるなんて、よっぽどのことなのだろう。陽菜は身構えた。
「な、なんですか…?」
「聞きたいことがあるの」
「…聞きたいこと?」
「西条さんって最近翔と仲良いよね?」
「え?いや、たまにDVD借りてるだけで…」
そういうことじゃないの、と、来留海は陽菜の言葉を制した。
「もう翔に近づかないでくれる?」
あ、そういうことか。
点と点が繋がった感覚がした。
この人は一ノ瀬くんの彼女なんだ。
「翔は誰にでも優しいからさ、たまに勘違いしちゃう人もいるから警告してるの」
「別に勘違いしてるわけじゃ…!」
「だったら、自分のやるべきこと、分かってるよね?」
来留海の言う「やるべきこと」とは、「一ノ瀬翔に近づかないこと」だろう。
来留海には悪い噂が絶えない。気に入らなかった子に平気で嫌がらせやいじめをする人だ。ここで拒否したらあとで何されるか分からない。
「…分かった」
陽菜は頷くしかなかった。
来留海はにやりと笑った。
第三章 違和感
「っていうことがあったの!」
昼休み、陽菜は先日の来留海とのやり取りを麗香に相談していた。正直、もう翔と話せないと思うとショックだった。とりあえず誰かに話を聞いて欲しかった。
「陽菜は一ノ瀬くんとどうしたいの?」
「どうしたいって…これからも友達でいたいなーって」
「それなら、決まってるじゃん」
陽菜は慰めの言葉を待っていたが、麗香から放たれた言葉は予想外のものだった。
「消しちゃえば?」
「…え?」
「消しちゃえばって言ったの」
「消すって…何を?」
「来留海を消すの」
顔に一切の笑みが浮かんでいない。冗談のつもりではないのだろう。しかし、今までホラー映画やお化け屋敷を苦手だと言っていた麗香が、いきなり人を消すなんて物騒なことを言うはずがない。そもそも意味が分からない。
「消えて欲しいって、顔に書いてあるよ」
麗香はまるで別人の様だった。
「何言って…」
陽菜が問いかける前に、麗香はどこかへ行ってしまった。
「あ、西条さん見一つけた」
休み時間、廊下を歩いていた陽菜は、聞き慣れた声に振り向くと、そこには翔がいた。
「それ以上近づかないで!」
慌てて陽菜は翔を右手で妨げる。翔の顔に「?」の文字が浮かぶ。当然の反応だ。しかしこの状況を来留海に見られるとまずい。
「その…映画はもうたくさん見たから!今までありがとう。安西さんとお幸せにね!」
そこまでひと息で言い放つと、陽菜は後ろ髪を引かれる思いでその場を後にした。
遠くから呼び止める声がしたが、聞こえないふりをした。
「西条さん」
再び翔に話しかけられたのは、あの本屋の中だった。
ここならさすがに来留海も来ないと思ったのだろう。
「…なに?」
来留海に脅されたとは言え、失礼なことを言った罪悪感がある陽菜は気まずさを感じた。しかし無視するのも失礼なので仕方なく尋ねる。
「来留海から何吹き込まれたのか知らないけど、俺とあいつそういう関係じゃないから」
「…え、そうなの?」
「うん。ただの幼なじみなだけなのに嘘つくんだよ。昔からそうなんだ。迷惑かけてごめん」
それを聞いて、どこか安心している自分がいた。
「そうだったんだ…こちらこそ失礼なこと言ってごめんなさい」
自分の勘違いに恥ずかしくなり、陽菜は頭を下げた。
「西条さんが謝ることじゃないよ。もう来留海にはちゃんと伝えておいたから」
もし今後も何か言われたら俺に言って、と翔は優しく言った。
「…じゃあ、これからも色んな映画見せてね!」
別れ際、陽菜がそう言うと、もちろん、と言って翔は笑った。
「今日は皆さんにやってもらいたいことがあります」
それからしばらく経った日の朝、ホームルームで先生は深刻な顔をしながら話した。
「先日、隣のクラスの安西さんが怪我で入院して、今日から一ヶ月の入院が決まりました」
来留海が…? 入院…?
陽菜の心の中がざわめく。
「そのため、一人一枚メッセージを書いてください。出来上がった寄せ書きを安西さんに届けます」
消しちゃえばいいんだよ。
この間の別人のような麗香の声が頭の中で響く。
来留海を消すの。
「知ってる?来留海、歩道橋の階段から落ちたんだって」
「そうそう。誰かから突き落とされたらしいよ」
「えー?なんか嘘っぽい」
「まあ、来留海のことだしね」
後ろの席の女子がこそこそと話している。
陽菜は窓際の席に座る麗香に目を向けるが、逆光のせいでどんな表情をしているか分からなかった。
「それでそのヒロインの友達が最悪でね」
放課後、今日も陽菜と麗香はいつものカフェに来ていた。平日ということもあり、客は少ない。
「それはイライラするやつ!」
先日見た恋愛映画の話だ。麗香がチョコバナナの乗ったパフェにかぶりつく。
あの昼休みの件のあと、恐る恐る麗香に話しかけたが、至っていつも通りの反応だった。そういう日もあるのだろう、という結論に至り、気にしないことにした。来留海のことは、何も聞かなかった。麗香がまた別人のようになってしまいそうな気がして、怖くて何も聞けなかったのだ。
「続いてはこちらのニュースです。先日起きた幼児誘拐事件について、犯人はまだ捕まっておらず…」
カフェに備え付けてあるテレビに映ったアナウンサーが淡々と話す声が聞こえた。
「誘拐?怖いね」
陽菜は目線だけをテレビに移して言う。
「…親がちゃんと見てないのが悪いんだよ」
まただ。あの時の顔と同じだ。
「…え?」
陽菜は麗香の顔に目線をずらすが、麗香はテレビを見たままこっちを見ようとしない。
「大切な存在なら、ちゃんと離さないようにしなきゃいけないのに」
…怖い。
陽菜は直感的にそう思った。
「麗香…?」
「トイレ行ってくる」
陽菜が呼び止める前に、麗香は席を立ってどこかへ行ってしまった。
それから数分後。
「お待たせ〜!待った?」
麗香は戻ってくるなり、自分の食べかけのパフェを見て驚きの声を上げた。
「え?誰か来てたの!?」
「誰って…さっきまで麗香が食べてたんだよ」
パフェを見つめながら子供のように驚いているのはいつも通りの麗香だった。さっきまでの麗香が嘘のようだ。
「…アミだ…アミがやったんだ」
宙を見つめながら聞いたことの無い名前を麗香は独り言のように呟いている。
「…アミ?ねえ、その、アミって誰?」
問いかけるが、返事はない。
「陽菜、帰ろう」
誰かに怯えるように言う麗香は幼い女の子のようだった。
第四章 存在
「ごめんね。急にこんな話しちゃって」
陽菜はカフェでの出来事を翔に相談していた。
麗香のことで追い詰められていた陽菜を心配して、「何か悩んでることがあるなら相談して」と翔は言ってくれた。だから話してみることにした。思い切って打ち明けてみれば、何か変わるかもしれないと思ったのだ。
「全然いいよ。頼ってくれてむしろ嬉しいし」
陽菜の話を聞き終えた翔は、少し考えたあと、聞き慣れない言葉を発した。
「…それって、解離性同一性障害じゃない?」
「かいりせい…?」
「解離性同一性障害。いわゆる二重人格ってやつ」
二重人格。その言葉なら聞いたことがある。
「よくそういう映画あるよね。一人の中に二人の意識があるの」
「そうそう。幼少期に性虐待を受けてた人が発症しやすいらしいよ」
翔はスマホを見ながら答えた。
陽菜は今までの麗香の発言や行動を思い出す。
確かに、麗香が二重人格だとすれば、全ての辻褄が合う気がした。
でも、本当にそんなことがあるのだろうか。
あったとして、これからどうやって麗香と接すればいいのだろう。
正直、これからもあの別人のような麗香を見なきゃいけないのは辛い。
そのとき、陽菜の頭にある考えが浮かんだ。
「…バイト始めようかな」
「なんか言った?」
「いや、私がバイト始めて、麗香と少し距離置けば、麗香を別人格にさせることはないのかなって思って」
考えてみれば、麗香が豹変するのはいつも陽菜と二人の時だった。
二人の時間が少なくなれば、必然的に別人格になることも少なくなるかもしれない。
「勝手な想像だけどね」
「ううん、いいと思う。あ、良かったらバイト探し手伝うよ」
「ありがとう。でも流石に自分でやるよ。迷惑かけちゃ悪いし」
相談乗ってくれてありがとう、と翔に言い、陽菜はその場を後にした。
「バイトを始めることにしました!」
次の日の放課後、帰り道で陽菜は麗香に報告した。
「…それで一ノ瀬くんと会ってたんだ」
麗香なら応援してくれると思ったのに、またあの冷ややかな態度だ。
それよりなぜ翔と会ったことを知っているのだろう。あの日は別々に帰ったはずなのに。
陽菜のそんな思いを汲み取ったように麗香は言った。
「…隠し事なんて寂しいなぁ」
並んで歩いていた麗香は陽菜の前に立った。
「陽菜が困ってるとき、助けてくれる人、麗香の他にいた?」
見下ろしてくる目が、怖い。
怖いのに、目が離せない。足がすくんだ。
「陽菜には麗香しかいないんでしょ」
陽菜は怖くて、麗香から逃げるようにして走った。とにかく麗香から離れたかった。陽菜に異様に執着してくる麗香が怖かった。
あんなの、わたしの知ってる麗香じゃない。
次の日から、陽菜は営業のバイトを始めた。
第五章 親友
あの日から、麗香は一週間ほど連続で学校を休んでいた。
最初はどこかほっとしていた陽菜だったが、流石に心配になってきたのでメールをした。しかしそれにもなかなか既読はつかない。
いつもはすぐ返信くれるのになぁ。
麗香に送った「大丈夫?」という文字が誰にも読まれず寂しそうに並んでいる。
「西条さーん!こっち手伝って!」
バイト先の店長に呼ばれ、「今行きます!」と返事をし、スマホの電源を切った。
シフトが終わり、家までの帰り道。時刻は八時半を過ぎていた。外はもう暗くなっていた。
「疲れた…」
帰るのが案外遅くなってしまった。陽菜は疲れに肩を落としていると、前方の外灯の下に見知った影が通り過ぎた。
「…麗香?」
間違いない。あのシルエットは麗香だ。
こんな時間に何してるんだろう。
陽菜は追いかけることにした。
しかし曲がり角で麗香を見失ってしまう。
「麗香…どこなの…」
外灯も少なく、いくら探しても見つからないので諦めて帰ろうとしたときだった。
「誰か探してる?」
陽菜は驚いた。いつの間にか背後に麗香がいた。尾行に気づかれていたのだ。陽菜は腕を掴まれた。
「何?その顔」
きっと怖えた顔をしていたのだろう。陽菜は腕を振りほどこうとするが、あまりの力の強さに離せない。
「…着いてきて」
そしてポケットから何か取り出すと、それを陽菜の腰に当てた。
「騒いだら刺すから」
ナイフだった。
陽菜は恐怖で声も出せず、そのまま引きずられるようにして麗香の後ろに続いた。
連れて来られたのは、陽菜たちの通う高校だった。この時間なので、職員室の明かりも消えている。校舎には誰もいないだろう。
「離してよ!麗香!」
冷静さを取り戻し、麗香に抗議する陽菜だったが、その腕が離されることはなかった。
麗香は学校の後ろに回り込み、裏口のドアから校舎の中に入る。裏口のドアの警備が緩いことは有名だった。忘れ物をした生徒がよくこのドアから侵入するらしい。
夜の学校は不気味だった。もう何回も歩いている廊下も階段も、夜になると普段より長く感じられた。
麗香に連れてこられたのは一年B組の教室だった。陽菜のクラスだ。そこでようやく陽菜の腕を離した。
「ねえ、麗香、一体どういうつもりなの?こんな所に連れてきて。学校にも来ないし」
麗香に掴まれていた場所がズキズキと痛む。
「…私は麗香じゃない。麗香の親友のアミ」
麗香の姿をしたアミと名乗る少女は静かに言う。
「何言ってるの?しっかりしてよ、麗香」
麗香は陽菜にナイフを向けた。
「わたしはアミ。麗香じゃないって言ってるでしょ!」
「…麗香はどこなの?麗香は無事なの?」
麗香はため息をついた。
「目の前にいるわたしのことは無視して麗香のことばっかり。ひどい。まあ、そういう人なんだろうけど」
麗香は陽菜に近づく。
「そんなに麗香が大事?」
陽菜は恐る恐る頷いた。
麗香は獲物を捕らえて満足した猫のように歯を見せてにやりと笑った。
「だったら、ちゃんと見てないとダメじゃない」
ちゃんと見てないのが悪いんだよ。
カフェでの麗香の発言がフラッシュバックする。
声にならない叫びをあげようとしたそのときだった。
「西条さん!」
命を救われた思いだった。
教室に入ってきたのは、翔だった。
「ーノ瀬く…」
麗香は、翔に助けを求めようとする陽菜の腰に左手でナイフを当て、右手で陽菜の口を塞いで物陰に身を隠した。
不幸なことに、翔は陽菜たちに気づいていない。
「…どこ行ったんだ?」
教室を見渡しても陽菜の姿が見当たらないからか、翔はベランダに出た。
「麗香のこと、助けたい?」
その様子を見ながら、小さな声で麗香が尋ねる。陽菜は必死に頷いた。
「じゃあ、あの男を突き落として」
「…そんなことしたらーノ瀬くんが」
「麗香がどうなってもいいの?」
それはダメに決まっている。陽菜は必死に首を振った。
「じゃあやって」
麗香は冷ややかに言い放った。
「わたしは特等席でちゃんと見とくから」
そう言うと、麗香もベランダに出た。手すりに肘をかけ、余裕を浮かべた笑みで陽菜がこれからすることを待っている。
翔は麗香に気づいてない。
一緒に登下校する麗香。カフェで美味しそうにスイーツを食べる麗香。テストで悪い点数を取って落ち込む麗香。いつも笑っていた麗香。大切な、親友の麗香。
様々な麗香の姿が走馬灯のように蘇る。
わたしには、麗香しかいない。
気づいたときには、陽菜はベランダに向かって走っていた。
しかし、その進行方向にいるのは翔ではない。
陽菜は、麗香に向かって走っていた。
麗香は、驚いたような顔をしていた。
そして、麗香と一緒に、
落ちた。
「────陽菜!」
翔が遠くで陽菜を呼ぶのが聞こえた。
身体がふわっと浮く感覚に包まれる。
次の瞬間、全身に大きな衝撃が伝わった。
陽菜の意識が、次第に遠のいていく。
最初に彼女を見かけたのは、放課後によく立ち寄る学校近くの小さな本屋だった。
子供っぽい顔立ちからは想像できないような時節見せるその妖艶な表情に、気づいたときには目が離せなくなっていた。彼女は不思議なオーラを纏っていた。本を読むその姿に、いつの間にか惹かれていた。
どうにかして話したかったが、何か話すようなきっかけがなかった。
だから、彼女が本棚の上の方の漫画を取ろうとしていたときは良いチャンスだと思った。
気づいたら、漫画を彼女に手渡していた。
そこからなぜか映画の話題になり、DVDを貸し借りするような仲までになれたのは後から考えると奇跡だと思う。
話してみると、意外と無口で、それなのに映画の話になると饒舌になるのは分かりやすくて可愛らしかった。
彼女のことが、気になっていた。
ようやく仲良くなれた頃にいきなり避けられたこともあった。何か嫌われるようなことしたのかと落ち込んだが、彼女の発言から来留海のせいだと分かり、そのときは来留海に強く言ってしまった。あのときの来留海の悲しそうな表情が忘れられない。その日以来、何もしてこなくなった。
そのすぐあとに来留海は入院した。彼女のことで強く当たってしまった罪悪感があったので、お見舞いに行った。そういえば、「誰かに背中を押されて突き落とされた」と言っていた。
彼女からは、麗香という友達の相談もされた。後から分かったことだけど、隣のクラスに嶋崎麗香という生徒はいなかった。
次の日に提出しなきゃいけないプリントを取りに学校に戻ったとき、裏口のドアに彼女を見かけた。追いかけたのに彼女は教室にも、ベランダにもいなかった。見間違いだと思い教室に戻ろうとしたとき、なぜかベランダに向かって一人突っ走る彼女がいた。
このままじゃ落ちる。そう思ったときには遅かった。
気づいたら彼女の名前を叫んでいた。
そのとき、初めて彼女を名前で呼んだ。
第六章 夢
夢を見ていた。
男が少女に覆いかぶさっている。その手が少女の身体を服の下からいやらしく触る。
気持ち悪い。
逃げたくても、逃げられない。
男は笑いながら少女にカメラを向けて動画を撮っている。
誰か助けて。
少女は声にならない悲鳴をあげた。
わたしが助けてあげるよ。
そのとき、耳元で誰かがいた。艶やかな栗色の長髪と、クリクリとした大きな目をした少女だった。
彼女は、自分を麗香だと名乗った。
その日から、麗香は少女の心の支えとなった。
場面が切り替わる。
男と少女の関係を、少女の母親らしき人が知ってしまったらしい。男は、母親の再婚予定の相手だった。
怒った母親は、男を家から追い出し、少女に暴行を加えた。
ごめんなさい。
少女が謝る。
あなたのせいで、こんなことになったのよ。
母親が殴る。
ごめんなさい。
少女が謝る。
あなたさえいなければ...。
母親が蹴る。
怒り狂う母親。止まらない暴力。終わらない、地獄。
誰か、助けて。
そう叫ぼうとしたとき、誰かが母親の首を絞めた。母親は必死に抵抗するが、やがて泡を吹いて死んだ。
母親を殺したのは、アミという少女だった。
「ありがとう…アミ…」
少女は笑った。
アミは後に死体を床下に埋めた。
場面が切り替わる。
少女は横断歩道を渡っていた。右から、信号無視をして進んでくる一台の自動車がいた。
運転手が少女に気づき、ブレーキを踏んだときにはもう遅かった。
幸い、少女は頭を打っただけで済んだ。一週間の検査入院が終わり、何も問題が無かったので退院した。
しかし少女は、事故のショックで麗香とアミの存在を忘れてしまった。
その後、少女は高校に入学する。
場面が切り替わる。
歩道橋を渡る女子高生の姿がある。アミは女子高生のあとをつけていた。
少女にとって、この女子高生の存在は邪魔だった。
女子高生が階段を降りるとき、アミは彼女の背中を押し、階段から突き落とした。
場面が切り替わる。
少女はだんだん麗香を鬱陶しいと思い始めていた。時々別人のようになる麗香のせいで精神的に追い詰められていた。
消してしまいたかった。
だから少女は麗香を突き落とした。
そのとき、誰かが自分の名を叫ぶのが聞こえた。
陽菜!
そのとき陽菜は思い出した。
そうか。これは全てわたしの過去の記憶だ。
麗香もアミも、わたしが作り出した幻想だ。
母親を殺したのも、来留海を怪我させたのも、麗香とアミを突き落としたのも、わたしが全てやったことだ。
嶋崎麗香なんて最初からいない。もちろんアミという少女も。
だからわたしは一人で落ちた。
あの事故のせいで忘れていた。
そういうことか。
目の前で一緒に落ちていく麗香。わたしは麗香。麗香はわたし。
そのときだった。
麗香の目から一粒の涙がこぼれ落ちた。
見間違いなんかじゃない。麗香が、泣いていた。
「陽菜…ありがとう」
はっきりと聞こえた。麗香の声ではっきりと。
その瞬間、嶋崎麗香という少女はそこに存在していた。幻想なんかではない。確かに、存在していたのだ。
忘れててごめんね、麗香。わたしのせいで苦しませて。
「…今までごめんね」
なんで麗香が謝るの。麗香が謝ることじゃないのに。
次の瞬間、身体に衝撃が伝わる。
「大好きだよ、麗香」
それだけ言うと、陽菜は目を閉じた。
意識が、だんだん遠のいていく。
第七章 これから
翔は、閉鎖病棟に入院している陽菜に面会に行った。
あの飛び降り事件から一ヶ月。幸い、飛び降りたのが二階で、下が植え込みだったということもあり、陽菜の命に別状はなかった。
その後、目覚めた陽菜の証言から警察が取り調べ、家から母親の死体が見つかったという。その後の裁判や何やらで、陽菜の処分がどうなったのか翔は何も知らない。事件のすぐあと、陽菜は高校を辞めた。
陽菜が多重人格の治療で入院していると分かったのは、本人からのメールでそう伝えられたからだった。
学校側は、ほとんどの生徒に、陽菜は引越しで学校を辞めたと伝えている。
翔は未だに、ここ数日間に起きたことが信じられないでいた。
翔は、病棟の面会用の小さな中庭で、ベンチに座って陽菜を待っていた。
「一ノ瀬くん…?」
久しぶりに聞く声に振り向くと、そこには入院着を着た陽菜が立っていた。
「おう、久しぶり」
陽菜は翔の隣に座った。
「学校はどう?」
「相変わらずだよ。そっちは?」
「治療は順調だよ。退院したら、少年院に入ることになるけどね」
でももう大丈夫、と陽菜は続ける。
「一人じゃないって、分かったから」
どこか遠くを見つめて、そう言う陽菜の表情は清々しかった。
翔はずっと思っていたことを伝えた。
「…飛び降りたとき、西条さんだけじゃなく、他の二人も見えたような気がしたんだ」
それを聞くと、陽菜は嬉しそうに「そっか」と言って頷いた。
そして陽菜は大きく息を吸い込むと、目をつぶった。
少しの沈黙のあと、陽菜は目を開いて翔を見つめた。
「…よかった。幻覚じゃなくて」
そう言って微笑む陽菜の表情が、何だか切なかった。
「また来てね」
「もちろん」
陽菜は、制服を着た監視員の女性に手を引かれ、閉鎖病棟に戻っていく。
翔はその背中を、見えなくなるまで見送っていた。