プロローグ
いつだったか、その年流行のドレスをプレゼントでもらったとき。
ああ、一度でいいからこんなドレスを着るのが夢だったのだ、とそんなことを言ったことがあった。
幼いエミリアが口にした言葉に両親は不思議そうな表情を浮かべたが、はしゃぐ娘を見て流行りのドレスがそんなに嬉しかったのかとエミリアの頭を撫でてくれた。
当時はなんでそんな言葉が出てきたのか、自分でもよく解っていなかった。
口にしたことすら気にしていなかったと思う。
ただ目の前のいつもより豪華なドレスが嬉しかった気がする。
今思うとそれは小さな綻びだったのだ。
固く結ばれたリボンの中に仕舞われたそれは本来ならその存在すら知らないはずなのに、結んでいたリボンは解けずに縫い目がほつれているような。
そしてほつれから少しずつ、少しずつ中身が滲み出てくる。
それは幼いエミリアの頭を悩ませ、成長とともに自分が自分でないような恐怖を抱くようになっていた。
***
薄暗い階段を上っていた。
見上げても終わりが見えない、長い長い階段を脇目も振らずに上っていた。
間隔の短いヒールの音が急いでいるのを表すように暗闇に響いている。
―――早く行かなければ。
どこに向かっているのか、何故急いでいるのか、そんな疑問は出てこない。
ただひたすら足を動かして進んで行く。
早く。
早く。
焦る気持ちとは裏腹に、少しずつ足が鉛のように重たくなっていく。
まるで足が床に張り付いてしまいそうなその感覚に、だんだんと息が上がってきた。
気づけば足だけでなく全身が重くなり、顔を上げるのも辛くなってきた。
酸欠のような苦しさのなか這うように手をつきながら、それでも上へ、上へ。
けれどもついに、動けなくなってしまった。
ふうふうと荒い呼吸を整えようと深く息を吸って吐いた。
じっとりと汗をかいた背中に服が張り付いて気持ち悪い。
息が苦しい。
手が、足が、動かない。
動けない。
早くしなければ。間に合わなくなってしまう。
そう思った瞬間にじわり、と涙が滲んできた。
けれど金縛りにあったかのように体は重く、息は荒いまま、まだ整わない。
『キャアアアアアアア!』
空気を裂くような悲鳴にビクリと肩を揺らす。
のしかかるような重みが消えてハッと顔を上げると延々と続いていたはずの階段は短くなっていて、数メートル先に扉が見えた。
怠さの残る体を必死で動かして階段を駆け上がり、ドアに手を伸ばす。
――が、触れたと思った瞬間に、視界が暗転した。
***
例えば朝目が覚めた直後、今みていたのは夢だったのか現実だったのかってわからなくなるような、そんな感じ。そう言えばわかってもらえるだろうか。
夢のような気もするし過去に起きたことを思い出しているようにも思えるし、もしかしたら未来かもしれない、それとも想像か妄想か、なんて。
ようするによくわからないのである。
エミリアは今、かつてないくらい混乱に陥っていた。
「嘘でしょう…?だって、でも、そうね、そういうことなら辻褄が合うかしら。ちょっと信じられないけど、でも、本当に?夢ではなくて?」
ベッドの中で横になったままぎゅ、と腕をつねってみた。
こういう時は頬だろうが跡になっては嫌だから腕にする。
瞬時に訪れた痛みに「あ、痛い」と眉をしかめてから息を深く吐きだした。
物心ついたときから自分を悩ませていたもの、それはおそらく前世の記憶というものだったようだ。
今まではほんの断片的にしか思い出されなったそれがたった今甦り、エミリアの頭は許容量を超えそうだった。
どうやらエミリアには前世の記憶があるようだ。
ここはクローバー王国。
緑が豊かで隣国とも比較的友好を保っている平和な国。
大半の国民は魔法を使って日常生活を送り、特に王族は強い魔力を受け継いでいることで知られている。
そんなクローバー王国でエミリアはオースティン伯爵家の長女として生まれた。
伯爵家といっても田舎であり両親共慎ましやかな暮らしを好む、貴族としては野心のない平和を好む家だ。
多くの国民にみられる濃いブラウンの髪。
グリーンが多い中でアイスブルーの瞳は珍しく、面立ちは決して派手ではないがそれなりに整っている。
しかし目にかかりそうな前髪と俯きがちなせいで暗く地味な雰囲気を醸し出していた。
エミリアは幼い頃から少し変わっていた。
貴族令嬢としての振る舞いは母であるエリアーデや乳母などから少しずつ教わって身につけようとしていたし、女の子らしく花や人形が好きなのは何の問題もない。
では何が変わっていると言われる所以なのか。
きっかけは7歳の誕生日だった。
クローバー王国では7歳は未成年の特別な誕生日とされていて、貴族の間ではいつもより豪華な衣服や装飾を我が子に送る習慣がある。
普段は慎ましやかな生活を送るオースティン家も例に漏れず、その年流行の豪華に仕立てられたドレスとそれに合う宝石のプレゼントにエミリアは大層喜んだ。
いつも豪華なドレスが着たいと思っているわけではないが、新しい、しかも特別豪華なドレスである。嬉しくないわけがない。
はしゃぐエミリアに両親は微笑み手を取り合った。
「嬉しい!一度でいいからこんなドレス着てみたかったの!」
満面の笑みを浮かべて喜ぶエミリアの様子に、両親はほんの小さな違和感を抱くが娘に話しかけられたことによりすぐに忘れ去られていった。
だがその違和感が気のせいではなかったと気付くのはそれから間もなくだった。
7歳の誕生日を境に、時々ではあるがエミリアは不思議なことを口にするようになっていった。
初めてのことなのに前にも知っているような口振りだったり、子供のものとは思えない言動が出てきたり。
しかし周りが困惑することに気づいてからはできるだけ大人しく、口数も少なく過ごすようになった。
人の目線が怖くなり前髪も目が隠れそうなほどにしていつも俯いてばかり。
お陰で10歳になった今、エミリアはただの内向的で地味な令嬢だと思われている。
混濁する記憶に自分が自分でないような感覚になっていき人知れず恐怖を抱いていた。
だが、ようやくその訳がわかった。
エミリアには前世の記憶があったのだ。
記憶があるとはいってもエミリアはエミリアだ。
今まで過ごしてきた時間の記憶が消えてしまうとか性格が変わってしまうなどということはないようだ。
生まれてから死ぬまでの全てを思い出したわけではなく、不思議な感覚だがこういう経験もしたな、という思いが加わっただけのような感じで、エミリアは少しだけ安堵の息を吐いた。
ベッドの中で起きた時のままぼんやりと天井を見上げていると、不意にノックの音が室内に響く。
入室の許可を出せば侍女のハンナが失礼致します、と入ってきた。
「おはようございますお嬢様。お声が聞こえましたがお目覚めでよろしいですか?」
「ええ、少し早いけどもう起きるわ。紅茶を用意してもらえるかしら?」
「かしこまりました」
体を起こしたエミリアは手際よく用意されていくティーポットを見ながら欠伸をかみ殺す。
眠たそうなエミリアに苦笑したハンナは準備をしながら思い出したようにそういえば、と呟いた。
「お嬢様、つい先程先触れが届きまして…」
「こんな時間に、私に?随分早起きな方ね、どなたから?」
こんな小娘に朝早くから先触れを送るほどの用事なんて、一体どこの誰だろうか。
ポットから目を離してこちらを向いたハンナの顔が何となく嬉しそうに見えて、エミリアはどうしたのかと口を開こうとして固まった。
「レオンハルト・ルディアース殿下からでございます」
叫ばなかった自分を褒めてあげたい。
ハンナから告げられた名前にエミリアは頭を抱えたくなった。