俺の部屋(赤ちゃんルーム)
「それじゃ育史、ちょっと待っててねー!」
彼女はポケットから杖を取り出した。杖を一振り、キラキラと光る蝶が舞う。
瞬きをする間もなく辺りに異変が訪れる。
なんていうことだろうか、先程まで真っ白だった空間は見知らぬ部屋へと変化したのであった。
真っ白だった床は柔らかそうなカーペットが敷かれ、壁には花の絵が描かれている。
また、奥は隣の部屋に繋がっているのだろうか、扉が見える。
「今日からここで育史は寝泊まりするんでちゅよー。」
勝ち誇った顔の彼女はパチンと指を鳴らした。
それに呼応するかのように部屋の中に次々と物が現れる。
クマのぬいぐるみ、小さな滑り台、本棚、ベッド、そして宝箱。
彼女は俺の服の裾を掴んでクイクイと引っ張る。
「ねぇねぇ、育史。あそこに宝箱あるよー。いいんだよ、はしゃいでも。育史だって男の子だもんね。」
ニヤニヤとした笑みを浮かべて宝箱を指差した。
どうやらこのメスガキ、俺に宝箱を開けさせたいみたいだ。仕方ないなと思い、ゆっくりと宝箱に近づく。
もしかしたらびっくり箱かもしれないな。俺を驚かせてからかうなんていかにもメスガキがやりそうなことだ。
俺はゆっくりと近づいて勢いよく宝箱を開けてその場を離れる。
「あれあれ、育史ってばビビっちゃってざっこ~。もしかしてびっくり箱だと思った?残念でしたー、これはリーベからのプレゼントでしたー!」
彼女は俺の元に近づいて下から顔を覗き込んだ。
釣りあがった口元を小さな手で隠し、クスクスと小馬鹿にしたように笑った。
俺は怒る気持ちを抑え、再び宝箱に近づいてコッソリと中身を覗き込む。
「ぷぷっ、そんなに警戒しちゃって……ホントに育史は臆病でちゅねー。」
彼女はそんな俺の気持ちを考えたこともないのか、俺のことを煽る。
このメスガキめ、後で覚えておけよ。
宝箱の中には積み木とボール、輪投げ、等の数々の玩具が入っている。
「ま、まさかこれで遊べっていうわけじゃないだろうな。」
「何言ってるんでちゅか~。赤ちゃんなんだから当たり前でちゅよー。」
彼女は何かを取り出した。そして俺の懐に忍び込むようにしゃがみ込みアッパーを決めるかのように口の中に何かを押し込んだ。
んんっ!?なんだこれは。……おしゃぶりだ。俺は思わず噛みつくと程よい弾力で跳ね返る。
仕方がないのでちゅぱちゅぱと吸うように口をすぼめる。舌を滑り込ませるようにおしゃぶりの舌を舐める。
まるで牛タンのような分厚さだ。実際キスするときもこんな感じなんだろうか。そう思うと悪くないかもしれないな。
「やっぱり赤ちゃんと言ったらおしゃぶりでちゅよねー。」
彼女はニコニコとした笑顔を向けて俺に言い放った。眉間に皺を寄せてギロリと睨む。
彼女は杖を一振りすると俺の体がふわりと宙に浮く。彼女はその場に正座をして膝の上に俺の頭を置いた。
彼女は手のひらで頭の頂点をを撫でた。ゆっくりと、よちよち。
「……んんっ。」
膝の柔らかくて温かい人並みの温もりが伝わってくる。
とてもいい気分だ。俺はそのまま目を細めて抵抗するのを止めた。
「あれあれぇー?珍しいね。んふふ、もしかしておしゃぶりが気に入っちゃったんでちゅかー?」
否定はしない。だけど肯定するのも悔しい。俺は無視をしようと寝返りをうつ。
ゴロンと……。寝返りをうった俺の目に飛び込んだ光景は真っ白い布が見えた。そしてわずかな隙間から光のようにチラチラと何かが見える気がした。だが見てはいけない、そう本能が警報を鳴らす。
俺は思わず上を見上げた。彼女と目が合う。彼女は顔を林檎のように赤くしたまま恥ずかしそうに髪の毛をクルクルと指に巻き付けた。
「……つ、続きも見たかったりする?」
「み、見るわけないだろ!まったく!」
俺は雰囲気に飲まれる前におしゃぶりをぺっと吐き出し、否定の言葉を並べた。
そして再び寝返りをうって背を向けた。
彼女はその様子を見て調子を取り戻したのか、ニヤニヤとした笑みを浮かべた。
「ぷぷっ。そんなに過剰反応しちゃってほーんと童貞くさいよねー。」
「ど、ど、童貞じゃねぇよ!」
俺は思わず声を張り上げた。
「はいはい、落ち着くんでちゅよー。」
彼女は俺のことを宥めるように身体を揺らす。
まるでゆりかごの中にいるかのようにゆったりとした揺れ具合に思わず心がほぐされていく。
「……ん。」
小さく言葉を漏らした。彼女はすっかりママの表情を浮かべてじーっと見つめて頬を撫でる。
手のひらをしっかりと押し付けて、マッサージをするように揉む。すりすりと。
小さな指先が頬に食い込む。何故だろう、悪い気はしないな。
俺は目をトロトロにとろけさせた。緊張の糸が解れ、表情は締まりのないだらしない姿になっているだろう。
「ふふ、かわいい。」
彼女は一言感想を漏らし、ガラガラと音のなる玩具を取り出した。
耳元でゆっくりと玩具を振る。カランカランと音が鳴る。
鈴の音にも近いけど懐かしくて……優しい音だ。
「今まで大変でちたねぇ。ご褒美に、これからはママに甘えていいでちゅからねー。」
ガラガラの音に混じって、彼女はぼそぼそと囁きかける。
わずかに耳の中に当たる息が気持ちよくて背筋をゾクリと震わせる。
「大人しくできて偉いでちゅねー、育史。よちよち。」
彼女はそっと俺のうなじに手のひらを乗せた。ゆっくりとかきあげるかのように首元から上へ上へと押し上げ。
髪の毛は逆立てられた。
「このまま寝ちゃってもいいでちゅからね。」
彼女は小さな声で囁いた。俺の眠気を誘うかのように……。
カランカラン、カランカラン。再びガラガラの音を鳴らした。
俺は思わず目を閉じる。だんだんとまぶたが重くなっていく。
「今日はいきなり召喚しちゃったから疲れちゃったんでちゅよね。ママが傍に居てあげるから安心して寝るんでちゅよ。」
彼女は目を細めた。優しく慈愛に満ちた表情を浮かべ、頭をなでなでと優しく触る。
彼女はじーっと俺を見つめたまま寝息を立てるまでよちよちなでなでと頭を撫で続けた。
「あーあ、寝ちゃった……。ホントに疲れてたんでちゅねー。」
彼女は頬をツンツンとつついた。肌に弾力はなく指先が沈む。
「……リーベは見捨てないからね。見捨てられる気持ちってわかるしさ。」
彼女はポツリと呟いた。ゆっくりと目を閉じて何かを思い出しているのか難しい顔をした。
眉間に皺を寄せて、少しだけ冷や汗を浮かべる。
「……はぁ、嫌なことを思い出しちゃったなぁ。」
小さくため息を吐き捨てた。
本当に思い出したくない記憶だった。両親に見捨てられた記憶なんて。
嫌な記憶を忘れようと頭を左右に大きく振った。耳のようにぴょこんとついた結んだ髪の毛が左右に揺れ動いた。
頬をぺチンと叩いて彼女は自身に気合を入れ直す。
「今度は上手くやるから。だから育史にはずーっと赤ちゃんで居てもらわないとね。」
それは強く決心を固めたような声だった。
「だって、大人は身勝手だから。」
どこか怒りを込めたような、それでいて寂しさを隠そうとしている。
「リーベのこと見捨てちゃダメだからね、育史。」