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ACE  作者: 鷹条雪子
2/2

後編

*この小説は後編(全2話)です


【注意】


この小説では、セクシャルマイノリティについて扱っております。苦手な方はご注意ください。また、作中で扱うセクシャルマイノリティについての解釈は個人的なものであり、一般的なものとは異なる場合がございます。知識などが間違っている可能性もありますがご容赦ください。


作中に登場する一切は実在の人物・団体とは無関係であり、特定の個人や集団を誹謗中傷する目的などはございません。


Copylight©2020-鷹条雪子


*この話は「後編」です。ぜひ前編からお読みください。


ACE



          11


 運の悪いことに、というのは失礼だが、次の日に私はまたアカリとシホの二人と会う約束をしていた。あんなことがあった、昨日の今日だ。朝から私の心は沈みっぱなしだった。

「サチ、ほんとに大丈夫? 今日はやっぱ帰る?」

 そんな風に二人に心配されてしまうほど、あの事件から一夜明けた私はやつれきっていた。

「いや……大丈夫」

 理由を聞かれても困るし、かといって嘘をつくのも躊躇われた。だから、なんとか調子が出ないのを誤魔化そうと、私は必死に笑顔をつくった。私がこんな様子では、思いやってくれる二人にも申し訳がない。そんな思いから、どうにかして気分の悪さを紛らわせる。

 映える、と話題のアイスを二人と一緒に食べていると、まだまだ厳しい暑さにアイスという絶妙のコンビが功を奏したのだろうか、だんだん気分も持ち直してきた。やっぱりこういうとき、友達と笑い合える時間は心が休まる。けれどそれでも、はしゃいだ声を出しながら、私はなんとなく気もそぞろだった。

(河野から、連絡こないかな)

 あれから、河野とは音信不通になっていた。あんな酷い言葉をぶつけて逃げ出したのだから、当然のことだとは思う。けれど、どうしても河野からLINEのひとつも来やしないか、と期待する浅ましい自分がいた。自分から連絡を取ることなんて、恐ろしくてできそうにない。だから、私は何かにつけてスマホの通知を眺めては、言いようのない寂しさに襲われていた。

「ちょっとサチってば、さっきからスマホでなに見てんの?」

 アカリが不意に私のスマホを覗き込んだ。片手にイチゴのアイスクリームを持ち、不満そうに頬を膨らませている。私は大慌てでアカリの眼前からスマホを退避させた。

「え、いや、なんでもないよ」

「えー怪しいなあ。まさかほんとに、彼氏じゃないよね」

「だから違うって。それよりアカリ、ほっぺにアイスついてるよ」

 苦笑いでなんとかやり過ごしながら、冷や汗がどっと吹き出すのを感じた。万が一にでも河野とのLINE画面を見られてしまっては、あらぬ疑いが掛けられてしまい面倒だった。

「そういえばサチは、ユウスケと付き合う気はないの?」

 シホが、思い出したように突然言った。

「……は? ユウスケ?」

「忘れてるみたいなら、あいつ、相当なヘタレだね。バーベキューのとき、良い感じだったじゃん。ユウスケとサチ」

 言われて初めて、ユウスケという同級生のことを思い出した。あのおちゃらけた明るい男子は、確かにバーベキューの日、妙に私に話しかけていたようだった。

「やばい、全然覚えてなかった」

「そんなことだろうと思ったよー。ユウスケってああ見えてすごい奥手なんだから」

 アカリがアイスを口に入れながら声をあげて笑った。そういえば好意を持たれていたようではあったが、あのときは私が早々に逃げてしまったのだ。今さらながら、申し訳ないことをしたなと思う。けれど、あいつと付き合う、なんてことは考えただけでも眩暈がした。

「バーベキューといえばさ、あのときカナコと河野、来てたじゃない」

「……!」

 私は、河野という音を聞いて大仰に肩を跳ねさせた。まさかこんなタイミングでその名前を聞くとは。もう少しで声を出しそうになって、自分の冷静さに初めて感謝する。

「こ、河野がどうかしたの」

「それがさ、あいつらとうとう最後までしちゃったらしいよー」

 アカリがにやにやと笑いながら、とんでもない秘密を打ち明けるように言った。ええーっとシホが驚きの声をあげる。

「まじかあ。もう付き合って三か月、とか? ちょっと早いよねえ。けどそんなもんなのかなあ」

「最近は『人経』もあるから、どんどん時期早くなってるみたいだけどさ。私達が知ってるひと同士がそういうことしてるって思うと、なんか、ねえ」

 二人とも、河野は手が早いとかカナコがビッチとか色々言いながらも、一方ではそんな恋がしたいなどと夢を語り合っている。河野とカナコが最後までいったことに賛成なのか反対なのか、まるでわからない。

 しかし、私は内心、ちょっと可笑しかった。彼らは河野がゲイであることを知らない。だから、そんな噂を信じてしまうのだ。

「俺はほんとに、女と、じゃない、女のひととするのは、マジで無理。全然だめ」

 大真面目にそう私に言ってきた河野の姿を知っているのは、私だけなのだ。この根も葉もない噂が全くのでたらめだと思えるのは、私だけ。そう思うとなんとなく気分がよかった。いつもは性的な話を聞けばすぐ吐き気がするけれど、おかげで今日は何ともない。

 けれどすぐに、そんな河野と今はもう会う資格がないのだ、ということに思い至り、また頭が重くなった。そんなことまで教えてくれた河野の信頼を裏切ったことが、ひたすら悔しくてならなかった。

「そういえば、そろそろ登校日だね」

 のんびりしたシホの声で、私ははたと我に返った。乱高下する気持ちを無理やり切り替える。

「そ、そうだね。あーあ、夏休みもう終わりかあ」

「言うてサチ、家でごろごろしてただけでしょ。もう私なんか色々頑張ったのに、全然青春らしいこと起きなかったよー」

「登校日、明後日であってる? 午前中に、確か『人経』の成績についてのオリエンテーションするだっけ。朝起きられるかなあ」

「もうそろそろ、『人経』の点使った大学受験の準備するひとも出てるみたいだもんね。でも午前中で終わるからラッキー」

「じゃあさ、午後パンケーキいかない?」

「お! 乗った乗ったー」

 どうやら明後日の登校日には、また三人でお出かけすることが決定してしまったらしい。

 登校日は、酷く憂鬱だった。私が相変わらず苦しめられている『人経』の説明会があるため、石ちゃん先生からまたお叱りを受けるかもしれない。それに、クラスには河野もユウスケもいる。何らかの問題が起こることは必至だった。

 落ち込む気分に蓋をするように、私はアイスを思いっきり頬張った。



          12


 迎えた登校日は、この夏一番の暑さだった。朝からテレビの中の気象予報士が、熱中症対策を訴えてやまない真夏日に、私は自然と重くなる足取りで学校へと向かった。

 今日は説明会をするための登校日であるため、高校二年以外の学年はまだ夏休みで、学校には来ていない。だから道を歩く同じ制服の学生は、例外なく私の同級生だった。何人かの友達と眠そうな挨拶をかわし、校門をくぐる。学校に来たのはあの三者面談依頼だったから、がやがやと忙しないひとの話し声が響く見慣れた校舎の風景に、なんとなく安心感を覚えた。

「えー、『人経』の成績は、皆さんも知っているとおり、えー、国営のバイタル計測システムを通じて記録されたデータに基づいて評価されます。高校三年十二月までを対象にしてますので、まだそういう感情をもってないひとも、安心してくださいね」

 学年主任のおばさん先生が、学年全員の前で長々と弁舌をたれるのを、私はぼんやりした気持ちで聞いていた。空調は修理こそ済んだもののまだ稼働していないようで、同級生がみんなひしめき合う集会室はサウナもかくや、という暑さであった。話の途中、学年主任のしわくちゃの目がはっきり私を見た気がした。私の成績の不味さは、教職員のなかでは周知の事実なのだろう。ぼうっとする頭でそんなことを考えた。

「えー。『人経』の成績には、恋愛感情を示す評価が五段階で示されますが、他にも記載される事項がありますね。わかりますか? 授業で扱いましたけれども。えー、じゃあ、日付で当てようかな」

 先生あるあるともいえる、突然日付の数字を見てその出席番号のひとを当てる、というのがこの先生は特に得手である。早速生徒からはブーイングとともに、今日の日付を確認するざわざわとした喧騒が生まれた。

「今日は八月二五日ですか。それじゃあ、私の気分で、C組の……八と二五をたして、三十三番のひと、答えて」

 うわあ可哀そう、頑張れ、というざわめきの中、ひとりの生徒が恥ずかしそうにゆっくり立ち上がった。そちらの方をぞんざいに見やった私は、立ち上がった男子生徒を見ておや、と思った。松岡である。

「えっと、……恋愛の相手は記載されなくて、それから……恋愛の時期と期間。あと、持病とか、そういう健康情報と、職業適性検査の結果、あとは『特記事項』です」

 懸命に思い出しているのか、訥々と話し終えた松岡は、すぐにひゅっと頭をひっこめて座ってしまった。それを目の端に見届けながら、おばさん先生も酷なことをするな、と思う。

 『特記事項』とは、即ちセクシャルマイノリティの有無などである。それを松岡が言うなんて、皮肉なことだ。きっと今頃、河野は内心穏やかではないだろう。

 説明会はそれから淡々と、滞りなく進んだ。話は改めてこの『人経』のシステムを説明するところから、そのメリットと注意すべき点、そしてその成績を大学受験にどう利用するか、という情報に及んだ。せっかくの夏休みを一日無駄にして学校に来ているわけなので、皆はどこかだらけていて、暑さもあいまった、どんよりした空気が集会室に満ちていた。

 やっとのことで説明会がはけると、今度はクラスに戻ってホームルームが行われる。こちらは特に大したことのない内容で、残り一週間もない夏休みで宿題をちゃんとやれとか、そういう小言ばかりで辟易した。

 さて、長かったホームルームも終わり、さあ帰ろう、というときになって、私はある女子生徒に呼び止められた。

「ねえ、霧島さん、あんた変な噂たてられてるよ」

 アカリとシホと一緒にパンケーキを食べに行く予定があった私は、手早く帰宅の準備を整えていた。聞こえなかった振りをして準備を続けようかと思ったのだが、この言葉には流石に手を止めざるを得なかった。

 変な噂? どういうことだろうか。咄嗟に何も思いつかず、一瞬脳がフリーズする。だが、一拍置いてもしかして、と嫌な予感がした。

 果たして、私を呼び止めた彼女は薄ら笑いを浮かべて言った。

「霧島さんが、河野くんと一緒に歩いてるとこ見た、って子がいるの」

 ついにきた。全身から血液が一気になくなってしまったように、体じゅうが冷えた。

「河野くん、ちゃんとカナコっていう彼女いるの、わかってるよね? 霧島さんが河野くんに無理やり迫ってるってみんな、そのことばっかり言ってるよ?」

 彼女は私の女っ気のない恰好を、ノンメイクの顔を、無造作なショートヘアをねめつけるように見て、子馬鹿にしたように笑った。その子はクラスの女子の中でも派手で大きなグループに属する子で、きついピンクのリップが唇を太く彩っていた。女の子らしい香水の香りが鼻に纏わりつくようだ。

「もちろんあたしは、そんなこと信じてないよ? 河野くんがそんなビッチみたいなヤツ、相手にするわけないもんね。でも一応、霧島さんには、気を付けた方がいいよって、言っとこうと思って。カナコって結構、ガチで河野くんのこと好きだからさあ」

 敵に回すと怖いよお、と彼女は甘い声で言う。彼女の名前が思い出せなくて、私は必死に思い出そうとした。カナコと仲良かったっけ、この子。いや、そこは最早大した問題じゃない。

 私はちょっと呼吸を整えると、彼女の目をじっと睨みつけた。

「……その噂、流したのあんたでしょ」

 彼女はぴく、とアイシャドウを塗った瞼を震わせた。

「……え?」

「何でもいいけど、私、河野とは全然そんな関係じゃないから」

 彼女は、私の態度が予期していた反応とは違ったので混乱したのか、「は?」と頓狂な声を上げた。

「じゃあ、そんな感じだから。目撃した子には、ごめんねって言っといてね」

 私はそれだけを素っ気なく、出来るだけ不愛想に言い放つと、足早に彼女の前から離れた。

 気分が悪い。お腹の底がむかむかして、とてもこれからパンケーキなんて気分ではなくなってしまった。アカリとシホには断って、家に帰ろうかな、と思う。

(……今のは、『恋潰し』かな)

 『人経』という科目が導入されてから増加した、社会問題とも言える一種のいじめである。恋愛に点数がつくのだから、恋心そのものを潰してしまえ、という考えがもとだ、と聞く。ひとの恋の相手について良くない噂を流したり、二股疑惑をでっち上げたりして、恋愛の気勢を削ぐような、えげつないやり口だ。

 今回はきっと、先程の彼女が噂を流したのだろう。恐らく彼女は、私と河野が駅で一緒にいるところでも目撃してしまったのだ。彼女はそれを利用して、私の『人経』の成績が上がるのを封じようとしたに違いない。

(……いや、ひょっとしたら、彼女が河野のこと好きなのかな)

 もし私と河野がそういう関係だと公になったら、例え河野に落ち度がなさそうに見えても、河野の人気はある程度下がる。きっとカナちゃんの耳にも入って、うまくすれば河野とカナちゃんが別れる、という事態も招くことができるだろう。そうなったころを見計らって、河野を手に入れるのが彼女の狙いだったのかも。そう考えれば辻褄が合う。

 『人経』の成績が最下位なことで評判である私の成績を下げるような行為に、そこまで意味があるとは思えないから、やはり狙いは河野にあるのだろうな……と私は予測した。

 ともあれ、少し面倒なことになった。これからしばらくはクラスの女子から目をつけられたり無視されたりするかもしれない。

 けれどまあ、私はもともとクールキャラで通っているし、この暗くて愛想のない性格のせいでいじめられた経験も普通にあるから、どんと来い、である。胃がむかむかしていることは否めないが、思ったほど堪えてはいなかった。平気な顔をしていれば、噂もそのうち忘れられていくだろう。

 ただ、河野には悪いことをしたな、と思った。駅で待ち合わせをしようと決めたとき、誰かに見られたら、なんてことはあまり考えていなかった。この『恋潰し』が私を標的にしたいじめになるのだとしても、彼にも良くない影響が及ぶことは確実だ。何しろ彼女がいながら、私と密会していた、などという不名誉な噂である。

 河野にも伝えておいた方がいいだろう、という思いが心の中で首をもたげた。けれど、夜の公園で会ったときから未だに一言の連絡もとっていない。今日は今日で、目も合わせず一切他人のように生活している。そんな状況である手前、容易く河野とコンタクトをとることは、私にとってかなりハードルが高かった。

 これからどうしようか、なんてことをつらつら考えながら、断りを入れるためにアカリやシホを探していると、不意に肩を叩かれた。

 突然のことに驚いて飛び上がってしまった私は、速い鼓動とむかつくお腹を抱えて振り向く。

「サチちゃん。ちょっといいかな」


 人気のない空き教室は、一年中日が差さない北側というだけあり、涼しい残暑の風が微かに流れていた。

 私を連れてきたカナちゃんからは、私が予期していたような怒りの感情は一切読み取れない。ただ長い髪を靡かせ、無遠慮に机に腰掛けて窓の外を見ている。

「噂はちゃんと聞いてるよ」

 彼女は言った。けれどその語調にも、強い感情は滲まない。

「リョウのことたぶらかした、って。本当なの?」

 私は熱い汗が噴き出す掌をぎゅっと握りしめた。違う、そんなんじゃない、と即答することもできたけれど、どうしてか彼女のいやに穏やかな雰囲気が、そうさせてくれない。

「まあ、なんでもいいや。サチちゃんも座りなよ」

 窓からゆるりと視線を外すと、のんびり話そうよ、とカナちゃんは微笑んだ。私は彼女の足元だけを見つめながら、黙って彼女の向かいの机に、躊躇いながら腰掛けた。

 彼女の足元は、学校指定の上履きに覆われていて妙に普通だった。そこから伸びる脚はまっすぐで綺麗だ。黒いショートのソックスが彼女をより華奢にみせている。

「夏休み中、リョウに会った?」

 カナちゃんの言葉に呼応するように、目の前の二本の脚はゆらゆら、ぶらぶら揺れた。私は視線を上げられずに、短く答えた。

「会ったよ」

「そうなんだ。何回くらい」

「わからない。ずいぶん会った」

 そお、と彼女は興味なさげな声を出した。つま先が退屈そうに机の足を蹴る。

「私、一回だけ会ったの。みんなでバーベキュー行った、一週間後くらい。あいつの家に行ったわ」

 窓の外で、ひと際大きなアブラゼミの声がした。近くにいるのだろうか。

「リョウは、その日初めて私に、将来のことを話したの。『人経』の評価を使って、難しい医大を狙っているって。だから、お前も『人経』を有効活用できる大学目指せよ、って」

 私は黙って、彼女の話を聞いた。なんだか河野がまた遠くのひとになったみたいだった。

「それで、私は怒ったわ。あたしとリョウは、『人経』のために付き合ってるんじゃないでしょって。それでその日は、お開きになった。それ以来会ってないの」

 アブラゼミの苦し気な声が、やけに大きく聞こえた。

「だから、私はリョウが浮気してたことが、すごく納得っていうか。ああ、そうなんだ、やっぱりって、ちょっと心に、すっと来ちゃったのよね。サチちゃんが相手っていうのも、なんか自然な気がした。サチちゃん、良い子だし」

 開いた窓から風がどう、と入ってきた。互いの髪がもみくちゃにされる感覚にふと顔を上げると、カナちゃんは私のことを見ていなかった。長い睫毛に縁どられた瞳は、ずっと窓の方へと向けられていた。

「……私は、河野とは付き合ってないよ」

 私はやっと、それだけを言った。カナちゃんは返事をしない。ただ、また無防備に脚をぶらぶらと揺らした。

「河野と会っていたのは本当だけど、でも、噂にあるみたいなことは全然、事実じゃないから。私は河野とカナちゃんのこと、邪魔するつもりはないし……」

 言いながら、河野のことを考える。彼はゲイで、カナちゃんと付き合っているのは松岡に対する恋心を『人経』の評価において誤魔化すためだ。それなら、カナちゃんは河野に、想いを利用されているのかもしれない。彼女はどれほどそのことを知っているのだろうか。

 そして、私は河野を応援したかった。だから話を聞いてあげていた。そうなると私が彼女に言っていることは、ずいぶん低俗ではしたない嘘なのだった。

 もごもごと口を濁す私を、気づけばカナちゃんはじっと見つめていた。私がそれに気が付いて彼女を見返すと、カナちゃんはやんわり微笑んだ。笑うとえくぼができることを、高校一年のときに彼女に指摘したことを、今さらのように思い出す。

「まあ、私、実はそんなに本気にしてないし、噂のこと。でも、これだけは」

 彼女は微笑んだまま、つい、と滑らかに机から降り立った。机から腰を上げた、というよりは、降り立った、と表現する方が適切だと思えるような、音もない所作だった。彼女はそれから何も言わずに私の方に近づいてきた。

 机に腰掛けたままの私と、まっすぐ立つカナちゃん。埃っぽい教室の空気を、斜めに視線が交差した。アブラゼミの声が聞こえる。

 と、パン、という、風船が弾けるような音が響いた。

 蝉の声がふつりと止む。どこからきた音だろう、と考えるのとほぼ同時に、左頬に痺れるような痛みが走った。

 つい先ほどまで、カナちゃんの細い腰の横に垂れていた右腕が、私の顔の右側に振りかざしてあって、そこで初めて私は状況を飲み込んだ。

「サチちゃんが良い子なのは、知ってるよ。でも、私、リョウが好きだったから」

 私を張った右手をそっと胸に抱えて、カナちゃんは静かに言った。

 そのまま彼女が教室を出ていくまで、私は一言も言葉を掛けることができなかった。



          13


 打たれた頬をさすりつつ教室を出ると、もう廊下にはひとけがなくなっていた。

残り少ない夏休みを謳歌しようと急く学生たちがどやどやと校門を出ていくのが、窓から見える。部活の掛け声が再び聞こえた、夏休みの前の日に、アカリやシホと学校に居残っていたときを思い出す。そういえばあの二人はもう帰ったかな。

 誰もいない下駄箱で靴を替えようとしていると、

「サチ!」

 と声がした。聞きなれた声だった。振り向くと、あの瞳と目が合った。

「河野……」

「お前、カナコに呼び出されてただろ。ちょっと話がしたくて待ってたんだ」

 さっきクラスメイトに聞いてさ。やべえって思ったんだけど、踏み込むのもあれだろ。

普段通りの、まくしたてるような話し方で河野は私の前に現れた。まるで何事もなかったかのような態度に面食らう。私は何をいったい思い悩んでいたんだろう。

「あんた……私があんなこと言ったのに、普通すぎるでしょ」

「え? なんだっけ。それよりカナコになんかされなかった?」

 やはり噂のことは河野の耳に届いていたようで、それを受けて心配になり私を待っていたようだった。不安そうに向けられた視線は、私の左の頬に行き当たり、はっとしたように目が見開かれた。

「お前それ、カナコか……?」

「まあね。でもカナちゃん、そんなに怒ってなかったし、大したことなかったよ」

 なんでもないように、笑いながら言った。実際は、多分だがカナちゃんはかなり怒っていた、と思う。穏やかな、静かな笑みをたたえた彼女が埃の舞う教室に浮かび上がる姿は、美しくも、彼女の怒りの大きさを表しているようだった。

 私の言葉に河野は不満そうな顔をしたが、深入りはしてこなかった。丁度、学生もみんな下校してしまったため、話しやすい環境になったと思ったのだろう。

「あのさあ、俺、サチに話したいことがあるんだけど」

 と、改まった口調で切り出してきた。

 私は靴を履き替えながら、なに、と素っ気なく答える。こんな下駄箱みたいなところで話すの? と可笑しそうな笑い声を忘れずに付け加えながら、私は河野の真意を測りかねていた。

 なにせ、あの公園での夜、私は河野に心無い言葉をかけ、あまつさえ逃げ出したのだ。普通なら、あそこで関係は壊れ、終わる。河野だって今まで連絡のひとつすら寄越さなかったのだし、恐らくそれなりに憤慨していたはずだ。なのにどうして、今、彼はこんなにもいつも通り、変わらずに私に接するのだろう。

 帰る道すがら話そうか、と私は提案したが、暑いし、真面目な話だからと河野は下駄箱から動くことを承知しなかった。河野はこれと決めたらわりと貫くほうだと私もわかっているから、それならば、と下駄箱に背中を預け、彼の言葉を待った。

「俺ら、もう会わない方がいいよな」

 やにわに河野から発されたその言葉を飲み込むのに、私にはすこしの時間が必要だった。

「……え」

 河野は私とは反対側の下駄箱に凭れ、こちらをじっと見つめていた。射竦められたように私の肩が震える。

 どうしてまた、急に。今さっき、酷いことを言った私にいつもと同じ態度で接してきたばかりではないか。河野の意思がどこにあるのか、私にはますますわからなくなった。

「ていうか、今までごめん!」

 かと思えば突然、河野はがばっと頭を下げる。私は狼狽した。

「はあ? どういうこと。なんでいきなり謝るのよ」

「いや、だって、全然喋ったこともなかったのに、しかも恋バナ嫌いなのにさ。惚気話聞かせて、相談乗ってもらって、突然呼び出したりして。今から考えると、すげえ迷惑な男じゃん、俺、って思って」

 河野は彼らしい、駆け足で、それでいて慎重に言葉を選ぶように話した。その合間から、伺うようにこちらをちらりと見る。

「それで、結局俺と一緒にいたってことで、お前がカナコに責められるの、なんかおかしいよな。やっぱり俺、サチと友達でいるのは難しいみたいだ」

「ちょっと、河野」

 そんなことってないよ、と私は慌ててとりなそうとした。私としては、誰にも言えない秘密を打ち明けてくれた河野のことを大切な友人だと思っているし、出来ることなら、これからも励ましてあげられたら、と思う。酷い言葉をぶつけてしまった私にごく普通に話しかけてくれたばかりか、私のためを思ってこの関係を断ち切ろうというのか、彼は。

 河野は私の友人としては勿体ないくらい、優しすぎるひとだ。

「私なら大丈夫。だからそんな、そんなこと言わないでってば」

「いや……そういう訳にはいかないだろ。もうサチとは会えない。そういうことにしようぜ」

 そんなことを、敢えてぶっきらぼうに言いながら、河野の目は悲しそうだった。全然誤魔化せていない。彼はもともと嘘をつくのが得意ではないのだろう。

 そんな彼が、嘘を吐き続けなければいけないのに。自分の個性を隠して生活しなければならないのに。どうして私は、その彼の苦しみをわかってやる立場になれないのだろう。

 打たれた頬が、思い出したように痛みだす。

「河野……私は平気だよ。心配しないでよ」

「ごめん、サチは優しいから、絶対大丈夫って言ってくれると思ってた、でも今度ばっかりはダメだ。……夏休みの間、俺のくだらない話に付き合ってくれて、ありがとな」

 人生で一番楽しい夏だったと、河野は笑った。乾いた、軋むような笑い声だった。

 私がだんまりを決め込んだので、その笑い声は下駄箱が並ぶ空間に粗いエコーと共に消えていった。河野は頭をかいたり、無造作に鞄を背負い直したりしている。二人にとって初めてかもしれない、居心地の悪い沈黙が降りていた。それはおそらく、彼が嘘をついているからだった。

 嘘が生む沈黙は、私達にとって初めてだったのだ。

「……あと、さあ。サチに話したいこと、もうひとつある」

 河野が歯切れ悪く、そう切り出した。

「うん」

「あー、こんな雰囲気にしちゃったの、俺だよな。マジごめん……でも、サチと話す最後の機会だと思うから、これだけは言いたいと思って」

 河野はやにわにポケットからスマホを取り出した。カバーのない、簡素なアイフォンを手慣れた手つきで操作し、ふと指を止め、顔を上げた。河野の所作を黙って見ていた私は、河野が急に顔を上げたのでいささか驚く。

「え、急にどうしたの」

「ええと、俺、あのあと、調べたんだ……あの、公園でサチと会った、あのあとだ」

 河野から改めて公園での出来事を思い起こさせられると、やはり胸の奥がざわりと緊張した。罪悪感が、水に落とした絵具のように心に広がっていく。

「……あのときは、ごめん」

「いいって。そんなん。それよりさ、お前確か、『恋ができない』って言ってたよな」

 そう言われて、私は思わず顔が熱くなる。面と向かって、自分の言動を混ぜっ返されることほど恥ずかしいことはない。言ってしまった内容のことより先に羞恥が来て、私は咄嗟に俯いた。本当にどうしてあのタイミングでそのことを暴露してしまったのだろう。

「あれは……その……言葉の綾です」

「そんな訳ないだろ。サチがあの状況で冗談いう訳ないってことくらい、わかってるよ」

 ばっさり切られ、私は閉口した。あのときは感情に任せて色々なことを言ってしまったから、出来れば忘れてほしい。

しかし河野はなぜ今になって、急にそんなことを持ち出してきたのだろうか。

「あと、『恋が理解できない』とか、『興味もない』とかも言ってたよな」

「ぐっ。もうやめてください」

「いや、別にからかってる訳じゃないし。それで、サチがあんなに恋のこと悩んでたんだって、俺はそこで初めて知ったんだ」

 河野はちょっと目を細めて、妙に自嘲的な笑い方をした。こんな笑顔もできるのか、と私は未だ知らぬ彼の新たな顔を発見する。

「情けない話だよな、自分の恋の話をずっと聞いてもらってたのに、相手の悩みとか考えたこともなかったんだ。サチって、ただ恋愛トークみたいな甘いのが好みじゃないクール女子っていう認識しかなかった」

 河野は申し訳なさそうに言うが、私としてはそう思われることを狙っていたのだから世話はない。むしろよかった、気づかれていなかったんだと胸をなでおろしさえした。

 私の安堵を見て取ったのか、河野は少し語調を明るくする。

「それで、俺もサチになんかお詫びに、お前の悩みを解決できないかなって考えたんだ。そしたら、これに辿り着いた」

 河野は手に持ったスマホをひらひら振った。

「これって何よ」

 私が尋ねると、河野は一瞬、息を詰めた。どうやらここからが本題らしい。

 河野が黙ったので、私も自然、何も言わずにその言葉を待った。いつしか、互いが話し出すまで相手が待つ、という行為は、私達のなかで呼吸よりも当たり前のことになっていた。そのことに気づいて、私の胸がきしりと鳴る。

 どれくらいの沈黙があったのか、私にはわからない。少なくとも、先程のような、疼くような気持ちの悪い沈黙ではなかった。

やがて、意を決した彼の声が、私の耳に届いた。


「お前さあ、アセクシャルっていうの、知ってる?」

「……アセクシャル?」


 私は束の間、その単語を反芻した。聞いたことのない単語だった。聞き間違いかと思って、聞き直そうかとも思ったけれど、河野の愚直な雰囲気に圧倒されたように舌が動かなかった。

 ただ、その言葉が運命のような妙な重さをもって、私の胸に響いた。

「アセクシャルっていうのは、セクシャルマイノリティの一種だ。恋の感情も、欲望みたいなのもないひとを指すんだって」

 恋がない、という言葉に、河野の思惑が少し見えてきた。

「最近は、LGBT以外にもすごくたくさんセクマイ……セクシャルマイノリティの種類が出てきてて、多様化がめちゃくちゃ進んでるらしいぜ。それで、ひょっとしたらお前のその、恋できないってやつも特性なんじゃないか? って思ったわけ」

「……そんなにたくさん種類があるんだ。LGBTって」

「ああ、まあ、ていうかLGBTも、一部のセクシャリティの略を繋げただけだから、性的少数者イコールLGBTってわけじゃないらしいし」

 河野はスマホを見つつ続ける。どうやら要旨をまとめてきたらしい。河野は私と会わなかった数日の期間のあいだ、私がセクマイではないかと仮説を立てていたのだ。それでずっと、私に当てはまるセクシャルマイノリティがないか、かなり調べていたのだろう。どこまでいっても真面目でまっすぐな男だと、つい思考が明後日を向く。

「だから、お前が苦しんでるその、『恋がわからない』ってやつは、もしかしたらアセクシャルっていうセクマイかもしれない。別にサチがマイノリティだって決めつけるわけでも、押し付けてるわけでもなくて、ただ、そういうのがあるんだって教えたくて」

 語彙を選んで話そうと懸命に努める河野の目は相変わらず、透き通って綺麗だった。その誠意に彩られた目線がやっぱり気まずくて、私はまた目を逸らしそうになる。

「……お前さ、いつも目逸らすよな」

「……!」

 不意にそんな言葉が飛んできた。驚いて、慌てて視線を合わせると、河野の凪いだような瞳がそこにある。明後日の方向を向きたくなる気持ちをなんとか抑えて、ようやっと私はその目を見ることができた。

「よし。合格」

 河野が満足気に目を細める。

「まあ、お前のことちゃんと見ないでいたのは、こっちのほうなんだけどな」

「……あ……そんなことない、よ」

 しどろもどろに言う私を見て、河野は少し声を出して笑った。

「混乱してんな」

「……そりゃ、そうでしょ」

 アセクシャルというマイノリティの種類なんて、今の今まで知らなかったのだ。彼の話によれば、それは恋愛感情を抱かないというタイプのセクシャリティで、そして多分、私はそれに当てはまる。しかしだからといって、いきなりそれが私の上に降りかかってきて、当事者ですと言われるのは青天の霹靂もいいところだ。冷静に受け止めろ、という方が難しいだろう。

(自分がセクシャルマイノリティに当てはまるかもしれない、なんて)

 耳の奥で、早足の鼓動が聞こえた。私の鼓動だ。

(そんなこと、考えたこともなかった)

 私はどうにか河野の目をまっすぐ見ようと努力しながら、ぼそぼそと訴えた。

「どうしよう。私、どうすればいい」

「何が」

「……私がもし、アセクシャルだったら、どうすればいいのかな」

 慎重に声を発したつもりだったのに、語尾が震えた。私は、自分が思っているよりも遥かに、『アセクシャル』という名前に動揺していた。

「……別に、どうもしないよ」

「そうかな」

「もしかしたら、違うかもしれないし。だけど、俺が言いたいのは、サチが持ってる苦しい思いってのは、ひょっとしたらサチ以外にも、色んなひとが持ってる苦しみかもしれないってことだ」

「……」

「名前があるって、そういうことだろ」

 ふと、肩に温かい温度を感じた。河野の手が肩に触れている。そのまま、ぽんぽんと軽く叩かれた。河野はいつの間にか私のすぐ近くに立っていて、河野の右手は私の肩の上にあった。不器用そうな手つきが私の肩をまた、無骨に叩く。

 目線を上げて河野を見る。午後の日差しで青白くみえる校舎の天井と、古ぼけた下駄箱を背にして、照れくさそうな河野の顔が目に飛び込んできた。

「……河野」

「なに」

「ありがとう。やっぱ優しいよ、あんた」

「……そうかよ……」

 学年ではイケメン王子様が板についているくせに、目の前のこいつは心底恥ずかしそうに身じろいだ。そのくせ、肩に置かれた手をどけようとはしなかった。

「……もし、私がアセクシャルだったら」

「おう」

「ちょっとは近づけるのかな」

 何に、は言わなかった。河野に、と言ってもよかったけれど、

『人間に』

 そんな思いがまた、ちらりと去来した。

 河野もまた、何に、という言葉のその先を望もうとはしなかった。そろりと私の肩から手を引っ込めた彼は、ばつが悪そうに頭をかく。

「えっと、俺が調べたところによると」

「あんたって思ったよりマメだよね」

「うるせえ。俺だって当事者なんだから知っとかなきゃって思っただけだっつの。で、優しい河野様が調べてあげたところによるとな」

 お互いを確認するような、手探りみたいな軽口のあと、彼はまた真面目な顔になった。

「アセクシャルってのはセクマイのなかでも特に数が少ないらしいんだ。それこそ、俺みたいなゲイとか、レズビアンなんかよりずっと珍しい。だからセクマイのなかでもマイノリティ扱いなんだって」

「え。そんなにレアな存在なの、私」

「SSR級だな。だからまだ全然、知られてなくて知名度が低いんだよ。それに、ゲイみたいにはっきり、『自分はマイノリティだ』ってわかるもんじゃないだろ」

「どういうこと?」

「えーとだな」

 河野は頭を絞って、できるだけわかりやすい語彙を探しているらしい。美しい目が所在なさげに泳いだ。陽が翳ってきたのだろう、光を受ける頬の色彩にオレンジ色が滲み始めている。

「俺はさ、男を好きになるんだから、わかりやすいだろ。でもお前は、恋ができないとか興味がないとか、言い方悪いけど、主観みたいなとこ、あるじゃん」

 そう言われて、ああ、と納得した。確かに、私が本当に恋をできないか、なんて、証明する術は何もないのだ。

「恋がわからないのだって、『まだ恋をしてないだけで、いつかは普通のひとみたいに恋愛感情を持つかもしれない』って考えることもできるだろ。アセクシャルかどうかは、一生確信がもてるものじゃないんだ。……って、サイトに載ってた」

 河野の言葉を聞いて、それもそうだと思う。事実、『まだいいひとに出会えてないだけ』『いつかはわかる』と言われ続けていたのだ。もしかしたら本当に、今までそれらの言葉をかけてきたひとたちの言う通り、いつかは私も恋をするかもしれない。そんなこと、私にだって誰にだって、知ることは叶わないのだ。

「だからこそ、アセクシャルのひとは理解されにくい。俺たち以上にな。本人たちもセクマイとして生きるべきか、すごく迷うらしいんだ」

(私はどうだろうか)

 今までとは、何かが決定的に違ってしまったように感じた。それは例えば、今まで踏んでいた地面が、全く別のなにかにすり替わってしまったような。足の踏みしめ方を、立ち方をいちから考えなければ、立っていられないような思いがした。

 けれど、それは決して、嫌な感覚ではなかった。むしろ、目の前に突然、新たな道が開けたようだった。そんな歩き方があるのだと、私は初めて認めた。

 河野が教えてくれた歩き方だ。

「……そっか……じゃあ、私が選んでいいんだね」

「ん? 何を」

「だから、セクシャルマイノリティとして生きるかどうか、ってこと」

「お、おう。お前の好きなようにすればいいんじゃねえの」

「それなら、アセクシャルって、今までよりずっと自由だ」

 恋愛至上主義にがんじがらめになっていた今までより、ずっと。自分を構成する要素を、自分で決めていい権利がそこにあるんだ、と思った。そう考えると、アセクシャルは自由なセクマイだ、と思った。

(『エース』になるって、そういうことかもしれない)

 河野は、私の言葉が意外だったのか、目を瞬かせる。

「おおい、君たち。もう校門を閉めるから、早く出なさい」

 校舎の外から大きな声が呼ばわり、私は我に返った。

 もう日差しはとうに傾き、見慣れた下駄箱は燃え盛る烈火のような色に染まっていた。夏の終わりの夕陽をめらめらと背に浴びた河野の瞳が、私を見ていた。

 青春を燃やし尽くさんばかりの夕焼けの中にあって、河野の目はやはり凪いでいる。

「……やっぱり、サチはすげえよ」

 河野がぽつりと言った。

 え、と聞き返す間もなく、河野は打って変わったように大きな声を張り上げた。

「すみませーん。もう帰るんで」

 下駄箱の出入り口から外を見やると、用務員のおじさんらしき人影が逆光の中で、

「全く『人経』が始まってから、こんな光景ばかり見せられるのには敵わねえよ。とっとと帰んなさい、親御さん心配するよ」

 独り言までたいそうな大声で喚いている。どうやら私達は、あたかも恋人同士のような勘違いを生んでしまっているらしい。確かに傍から見れば、放課後の下駄箱でふたりきり、語り合う男女なんて恋人以外にいないだろう。

「……ふふ」

そう考えると、おかしくて私はつい声を出して笑ってしまった。

 なぜって、仲睦まじいカップルに見えたそのふたりは、男の子に恋をしているゲイと、

 恋を知らないアセクシャルなのだから。

「……ははっ」

 ふと見ると、河野も笑っていた。お前も同じ? という、茶目っ気に溢れた目配せが寄越される。私達はそれからしばらく、何とも言えない可笑しさに一頻り、静かに笑い合った。

「こらあ。何がおかしい。これだから若いもんは、良いご身分だな。早く帰れ」

 燃える空を背にした用務員さんが忙しなく怒鳴っても、私達の笑みは収まらなかった。



          14


 その日から、私のスマホのネット検索履歴は、セクシャルマイノリティに関するワードで埋まることになった。

 カレンダーで確認すれば、夏休みが終わるまで、あと五日。残された残り短い休暇を、私は自分のセクシャリティを知ることに捧げる決断をしたのだった。

 河野がゲイと知ってから、セクマイに関するニュースや新聞記事などがよく目に留まるようにはなっていたものの、自分からリサーチをかけようとはしてこなかった。そのことが今さらになって悔やまれる。

(もっと、知ろうとすればよかったな)

 調べれば調べるほど、セクマイという分野の難しさが、荒れ狂う大海のように私の目の前に渦巻いていく。私はその大波のなかで、なんとか舵切りをしようともがいた。

 河野の言ったとおり、アセクシャルとは「恋愛感情や性的欲求がない、または希薄」な性的志向をもつひとのことで、Aセクシャルとも書く。どの程度、ひとより恋愛感情が薄いかは個人差がかなりあり、家族への愛情などは普通に持っているひとが多いし、結婚願望もあるひととないひとがいるのだという。

 LGBT以外のマイノリティの存在にも同時に触れることになった。

 クエスチョニング(自分のセクシャリティがわからない・決めていない)、Xジェンダー(性別を男性・女性に区別できない)、パンセクシャル(全性愛)……。私が思っていた以上に、セクマイには様々な分岐があった。ゲイというセクシャリティひとつとっても、「男なら誰でもいい」みたいになることは少なくて、ひとにより様々な特性があること。学校でも習ったエイズという病気のリスクは、同性同士の方が高いこと。知らないことばかりで、画面を必死にスクロールしながら何度も手を止めた。情報が頭の中を駆け巡り、処理が追い付かない。それでも、知ることをやめる、という選択肢はもう私の前にはなかった。

 調べていくうちに、アセクシャルというセクマイが抱える問題もだんだんと浮き彫りになっていく。ゲイ、レズビアン、バイ、トランスジェンダーを表すLGBT。これらのセクシャリティはセクマイのなかでは多数派であり、河野が言った通り、アセクシャルは本当にマイノリティの立場を強いられているようだった。

(確かにLGBTのひとたちが『自由に恋愛する権利を』って訴えたり、『同性婚の承認を』って求めたりした歴史はあるけど……)

 授業以外では滅多に開かない、『人経』のテキストを引っ張り出して、性の多様化に関する歴史をおさらいしてみる。そこには、現在の世の中のように同性婚が認められるまでの当事者の努力なんかが載っていた。同性婚をめぐる訴訟やパレード、NGO団体の取り組み、などなど。そういえば習ったっけ、と、教科書の文に無造作にひかれたマーカーを見て思いを馳せる。

(確かにこんな訴えも、全て『恋愛をする』ことが前提になってる……)

まだ同性愛が差別を受けていたその昔、LGBT当事者たちが求めた自由。それはまさしく、『性別の隔てなくひとを愛する自由』だった。

 『恋をしない自由』を訴える声が、これまでの歴史のなかでは聞こえてこなかった。

「教科書にも、LGBTのことしか載ってない……」

 まだ新品も同然の、薄い教科書をぺらぺらと繰りながら、私はため息をついた。

 今までアセクシャルという名前すら聞いたことがなかったのも、無理はない気がした。ゲイの河野ですら、調べるまでその存在を知らなかったほどだ。知名度でいえば、殆どの日本人がまだこのセクマイについて知らないといってもいいだろう。

 そもそも人口の一パーセントしかいないとすら言われるのが、アセクシャルである。定義も難しい。恋愛感情がないのか、性的欲求も同時にないのか、といった要素で、さらに細かく分類される。それに、海外と日本で定義にずれがあるのが、さらに事態をややこしくしていた。最近では、日本でもこの外国圏の様式が一般化してきているらしいが。

 自分自身、頭がこんがらがってよくわからなくなってきた。久しぶりに回転させて痛む頭を誤魔化しつつ、今度はルーズリーフを取り出す。机に向かい、電気をつけ、シャーペンを握った。

(自分でまとめてみる、なんてどうだろ)

 なんだか受験勉強みたいだ。私は腕まくりをして、作業に取り掛かる。

 夕飯の時間になった。珍しく仕事がなかったのか、家にいた母が私を呼びに来た。我が子が机に向かっているのを見て、ぎょっとしたみたいだ。どうもこの間、深夜に家を飛び出してから様子がおかしいのよね、とぶつぶつ言っている。遠慮がちにご飯よ、と呼ばわり、母はそうっと私の部屋から離れた。

 その気配を背中で感じながら、私はなおもルーズリーフと格闘する。

 アセクシャルは、他者に対して恋愛感情も性的欲求も抱かない。それに対し、『ノンセクシャル』と言われる別のセクシャリティでは、恋愛感情はあるものの性的欲求はない、という。これらの線引きは難しく、自分自身でもどちらに当てはまるのかわからない、というひとも多い。

 さらに、英語圏ではアセクシャルとノンセクシャルは同じ意味の単語として捉えられているというのだから、面倒な話である。外国ではアセクシャルとノンセクシャルは、ともに「性的欲求を抱かない」という意味なのだ。では「恋愛感情を抱かない」というセクシャリティはというと、『アロマンス』という名で呼ばれている、のだとか……。

(……む、難しい)

 カタカナばかりで私は眩暈を覚えた。

(受験では世界史はやめよう……)

 そんな思いで頭を抱える。しかし同時に、矛盾するみたいだけれど、知らないことを知ることが何故かとても面白いと思った。こんな気持ちになったことは今までなかった。心臓が妙にどきどきした。

「サチ、サチったら! いい加減ご飯食べにきなさい!」

 母の呆れたような怒声が聞こえ、私は仕方なくペンを置いた。けれど、心のなかに生まれたどきどきは、しばらく止まなかった。

 ふう、と意識せずため息をついて、私は椅子の背に体を預けた。

 自分のことが、やっと少しだけ見えてきたような、これは充実感とでもいうのだろうか。静かな興奮と、胸の底がじわりと温かくなるような心地よい気分が、私を満たしている。

(私、アセクシャルだったんだ)

 そう思うと、なんだか自分がとても人間らしくなったような気さえする。

 アセクシャルについて解説するサイトはどれも、アセクシャルのひとが抱えがちな悩みやセクシャリティを自覚する前までの不安について触れていた。

『ひとを好きになったことがない』

『恋バナについていけない』

『性的接触に嫌悪感がある』

『まだいいひとに出会ってないだけ、という言葉がつらい』

 どれもこれも、私が抱いていたものだ。

 ずっと胸の内に棲みついていた、恋愛というものへの後ろ暗い苦手意識。年を得るごとに肥大化していったそれは、誰に理解されることもなく腐っていた。『人経』が始まってから、さらに周りのひとの恋愛至上主義に拍車がかかって、一層しんどくなった。

 こんな私、人間じゃないみたいだと、自分へ切っ先を向けるしかなかったのだ。

(でも、違うんだ。私はただアセクシャルをもっているだけの、人間だった)

 そう思えることが、私は人間として不完全ではないと言ってもいいということが、どれほど嬉しいことだったか、想像できるだろうか?

『名前があるって、そういうことだろ』

 河野の言葉を思い出す。口角があがった。

(河野が、この名前を私にくれたんだ)

 得体の知れない自分の性質に、名前がつくこと。それがこんなにも心を軽くするとは。きっと河野も、同じだったのだろう。

 リビングの戸が開く音で、我に返る。そろそろ行かないと、ただでさえ私の最近の様子を心配している両親がいよいよ怪しんでしまう。

 内側から沸き立つような喜びを胸の中になんとか押しとどめながら、部屋を出た。ごめんお待たせ、と言いつつリビングに入る。

 私の顔を見た両親の目が丸く見開かれたのは、おそらく私が今までになくにこにこしていたせいだろう。理由なんて、まだ話せないけれど。



          15


 昨日の夜にびりびりと音を立てて破いたカレンダーは、いつもより早い朝日を浴びている。

 九月一日。夏休みはもう過去の遺物である。

 登校日があったから大して久しぶりでもない制服に腕を通しながら、しかし私の心持は、最後にこのシャツに身を包んだ日とはまったく違っていた。生まれ変わったような、なんて月並みな言葉だけれども、一度死んだよう、といえばしっくりくる。

(そうだ、今までの私は一度、死んでしまった)

 人間の似合わない自分は、もういないのだ。そう思うと、鏡で見る夏服姿の私は心なしか女らしく見えて、皮肉なもんだと思った。

 今日は夏休み明け最初の学校だから、恐らく大したことはしない。大方ホームルームで夏休みをどう過ごしたか、みたいなくだらない話があって、また『人経』の評価について説明でもあって、これから大学受験を視野に勉強していきましょう、とかそんなところだろう。

 通学路は、一か月ぶりの制服を窮屈そうに着崩す学生たちで溢れていた。誰もが幻想のように過ぎ去ったあの夏休みへの懐古の情を、若い顔に滲ませている。現実を突きつけるようなつくつく法師の声が休みなく聞こえる道を、学校にむけて急いだ。

 教室に入ると、女子の目線が一斉にこちらに寄越される。それで、私はそういえば、とあの登校日にあった出来事をようやく思い出した。

(あの日、確か変な噂を立てられていたんだっけ)

 河野と駅で会っているのを目撃されたとかなんとかで、河野とのただならぬ関係を噂されていたのであった。しかし事実無根、彼女たちは『人経』の成績を下げさせるための策略として噂を流布させているに過ぎない。気にすることはないだろう、と私は腹をくくった。じっとりとねめつけるような女子の視線を振り払うように席に着く。

 漫画でもあるまいし、ここで女子グループのボス的な女の子が「ちょっとあんた、調子乗ってんじゃないの?」などと話しかけてくる、なんてベタな展開は起こらない。ただ、汚いものでも見るような女子の目と、好奇に満ちた男子のひそひそ話、時折起こる嘲るような甲高い笑い声が私の机の周りを取り巻いた。ざわざわとノイズになって私の脳を侵すそれらが、全て自分に向けられているのは、流石に居心地が悪い。

 アカリもシホも、先程「サチ大丈夫?」「変なことになっちゃったねえ、まあ私はサチがどういうタイプか知ってるから何とも、って感じだけどね」と遠慮がちに声を掛けてくれたものの、それきり話しかけてはこない。面倒ごとに巻き込まれたくない気持ちは、そういうごたごたが苦手な私が一番よくわかっているから、薄情だとも感じなかった。それでも、そのごたごたの渦中に自分がいることが、慣れぬことだけに堪える。いつもは気にも留めない周りのひとたちの話し声が、突き刺さるような圧力をもって私に襲い掛かった。

(大丈夫だ、そのうち忘れられる)

 私にはもう、自分をかたどってくれる名前がある。こんなしみったれた圧力に負けるような私ではない。

 自分にそう言い聞かせた。大したことはないのだ。こちらが何のリアクションも取らなければものの一週間ほどで忘れられる、他愛もない『恋潰し』。それくらい、一年のころから何回も見てきた。そもそも私を潰したところで何になるんだろう。やっぱり河野が狙いなのかなあ、だとしたら、彼には少しごめんって感じだな。

 考えていたら、担任の石ちゃん先生が教室に入ってきた。号令がかかり、席を立つ。自分の肩のあたりが小さく縮こまっていたことに気づいて、私は慌てて肩を伸ばした。普段通りに、出来るだけ普段通りに。

「はい、まあ夏休みも終わって、皆さんどうでしたか。青春は送れたかな」

 石ちゃんは汗を拭きふき、そう話し始めた。教室は、クーラーが直ったおかげか、はたまた夏が過ぎ去ろうとしている証拠か、適度に涼しい。にもかかわらず額に大粒の汗を滲ませた石ちゃんは、せかせかとした手つきで、妙に大きな封筒を生徒の前に掲げた。

「突然で悪いんだけど、これ、今までの皆の『人経』の成績。中間評価が載ってるから、一度皆さんに返します。ちゃんと両親に見せて、判子を貰って提出するように」

 教室がどよめいた。聞いてないよ、という声が、休み明けでだらけた雰囲気をぴりっと辛くする。私も多分に漏れず、え、と思わず呟く。

「なんでこの時期に返すんですかあ」

と、教室の前の方から間延びした声がした。ユウスケだ。夏休みの最初、バーベキューで会ったときよりずいぶん日に焼けた彼は、眠そうな声を作りながらも先生をじっと見つめているようだった。

「ほら、昔と違ってな、そろそろ早い大学は、推薦試験の準備を始める必要があるだろ。志望校をこれから絞っていくにあたって、親御さんとも話し合ってもらうために、一度返すんです」

 石ちゃんは困ったように、またへらりと笑いを浮かべながら答えている。

「場合によっては、面談をお願いするひともいるから、あとで連絡するぞ」

「ええー。めんどくせえな」

 ユウスケがやたら大きな声でそう言い、教室がどっと笑いに包まれた。ユウスケはいつもこうやってクラスの雰囲気を引っ張っていく。しかし私は、そんなユウスケの挙動にもあまり盛り上がれない。当たり前である。私の『人経』の成績は、やばいなんてもんじゃない。河野からセクシャリティのことを教わって有頂天になっていたけれど、まだこの問題は少しも解決していないのだ。私は頭を抱えたくなった。

 ひとりずつ、出席番号の順に名前を呼ばれて、教卓まで書類を取りに行く。私が呼ばれて席を立つと、近くの席の女子たちがひそひそと話し、くすりと私を見て笑った。これ見よがしな態度に舌打ちしそうになるのを堪え、石ちゃん先生のもとへと急ぐ。

「うーん。霧島、これはまた面談だなあ」

 さらに悪いことに、石ちゃん先生は私に手渡すはずの書類をじっと見て、難しそうな顔をした。教卓近くの席の生徒が私のことをちらちら見ているのがわかって、いたたまれなくなる。

「わかってます。先生、はやく渡してくれませんか」

「そんな怖い顔するなよ。ははは。まあ、難しい年頃だし、人間はひとそれぞれだからな。お父さんお母さんとも相談しながら、気長に待とう。ひとは恋をするものだし」

「……そう、ですね」

 嫌な気分がせりあがってくるのをなんとか抑えて、私は絞り出すように返事をした。

「とにかく、なにも悲観することはないぞ。じゃあ、頑張れ」

 目の前に、紙切れが一枚差し出された。半ばひったくるようにそれを受け取り、はやくこのひとの前から逃れたくてさっさと踵を返す。紙切れに書かれた内容なんて一瞥もくれてやるもんかと思った。どうせ1しか書いてない。

(それでいい、それが私なんだから)

 自分を諭すようにそう繰り返す胸の内に気づいて、それじゃ私、まだアセクシャルのこと認められてないみたいだ。情けない、と涙が出そうになった。

 クラスのなかは、貰った書類を友達同士で見せ合う女子、奪い合おうとふざける男子、壁際に寄って他人に見られないようにそっと中を覗く内気なやつら、など様々なひとが入り乱れている。そのせいで、なかなか席に戻れなかった。イライラが募って顔が熱くなるのを感じながら、私はひとの間を縫って、教室の後ろの方にある自分の席を目指した。

 そんな私の苛立った荒い足取りを止めたのが、石ちゃんの嬉々とした声だった。

「いやあ。こんなにいい成績、俺も見たことないぞ。よくやってるなあ」

 声を掛けられた相手は、はあ、と気のない返事を返している。なんとなく気になって振り向いてみれば、河野だった。ばしんと石ちゃんに激励の背中叩きを食らわせられ、整った顔に苦笑いを浮かべている。流石は河野、きっと文句なしのオール5を叩き出したに違いない。

「河野くん、すごーい」

「やっぱ、カナコと付き合ってるだけあるね。最強カップルってかんじ」

「かっこいいし、スポーツもできるもんね」

「医学部目指してるってマジ?」

「あの様子だと余裕だよね」

「カナコともラブラブらしいし。入り込めないっていうかー」

「スキャンダルあっても、河野くんの『人経』は揺るがないっしょ」

 女子の黄色い賞賛の声。最後の方は、なんとなく私への棘が混ざっていたような気がしたけれど、気づかないふりをした。

「河野、お前は本当にすごい。将来大物になるぞ」

「どうも……」

 河野の透明な瞳がうろうろと泳いでいる。

「まあ、この調子で成績を保ってくれよ。みんなも河野を見習うんだぞ。恋愛なんてなあ、今の時期にやっとかないと勿体ないからな。恋愛みたいな経験しないと、大人になれないぞ。わかったな」

 ひとの間から見える河野の横顔が、苦し気に唇を噛んだのがわかった。それに呼応するように私の胸がきりきり痛む。

 河野が恋について、どんなに悩んで、ひとりで抱え込んできたか。その努力によって作り上げてきた必死の殻を知らないやつらに踏みつけにされるのを見て、平気でいる方がどうかしている。

 さらに石ちゃんは、やや声を落として言った。

「お前のところは、家が相当厳しいらしいが、お前みたいな将来安泰な後継ぎがいれば親御さんも安心だな」

 その声は小さかったけれど、なぜか私の耳にはまっすぐクリアに届いていた。

「いいお嫁さんを貰って子供に後を継がせられるし、いい大学にもいける。お前みたいなやつにとっては、今の時代なんて親孝行のいい機会じゃないか、え?」

 な、そうだろ。石ちゃんは事も無げにその言葉を、あろうことか半ば耳打ちするように、河野へと投げつけた。

「……!」

 河野の顔が、泣きそうに大きく歪んだ。

 ダメだ、と思った。河野にそれはダメだ。

瞬間、身体がわっと沸き立ったように熱くなる。コンマ2秒ほどの短い間に、私の全身からなにかが迸った気がした。それは感情、怒りと焦りと悲しみだった。

そしてそれらの突き上げるような思いは、私の口から声となって溢れ出ていた。


「先生は!」


 いきなり響いた大声は、ざわついていた教室に水を打つ。何対もの視線が私に寄越され、静まり返ったクラスは困惑に包まれた。河野も、驚いたようにこっちを見ている。

「……先生は、『人間はひとそれぞれだ』って言いましたよね」

 音を失ったように静かな空間で聞く私の声は、まるで自分のものではないかのようだった。

「それなら、恋愛をするのもしないのも、誰を好きになるかも、ひとそれぞれですよね」

 先生は、目を白黒させていた。

「いや……まあ、それはそうだが」

「私はアセクシャルです」

 河野が目を見開くのが、視界の端に映った。

「知ってますか? アセクシャル。恋愛感情がなかったり、欲求がひとより少なかったりするタイプのひとのこと。先生が『人経』の授業で他人事みたいに扱っていた、セクシャルマイノリティの一部です。それが私です」

 クラスメイトの動揺が、波のように空気を震わせた。

 体中の血液が、沸点を軽々と飛び越えて沸き立っていた。今までの人生で、無意識に抑えていた何もかもが、流れ出ていくような感覚。

「恋をしないと大人になれない、それって本当ですか? 結婚して子供産むのが幸せで親孝行、それってみんなに当てはまることですか?」

「霧島、落ち着け」

 石ちゃんが脂汗を拭きながら叫ぶ。けれどもとより、止める気はなかった。

「先生だけを責めてるんじゃない。『人経』は、この世の中は、やっぱりおかしいよ。男と女が恋愛するのが当たり前で、万人の幸せ。多様性とか言っておきながら、そこに少数派が入る余地なんてない。そんな世界、くそくらえだ」

 息が切れた。視界が歪む。後で聞いたが、このとき私は泣いていた。

「少なくとも私は……私は! 恋をしないアセクシャルだけど!」

 誰に振るうでもない拳をいっぱいに握りしめて、叫んだ。


「このクソみたいな世界で、私は大人になってやる。幸せになってやる」


 しんとした教室で、私の声がいつまでも余韻を残す。

誰も話さない。

窓の向こうで、一匹のつくつく法師が突然声を上げた。微かなその声が、沈黙の降りたクラスに迷い込む。私はそれではたと我に返った。

喉の奥がひりつく感覚に、自分がどれだけ大きな声を出していたかを思い知る。

「……」

 私は、教室を出た。どうしてかはわからないけれど、足が勝手に私の身体を教室の外へと運んでいく。意識が朦朧として、自分が何をしているのかわからない。ただ、もうこの場にはいられないような、静かな焦りだけが胸に巣くっていた。

誰も、先生でさえも私を止めることはなかった。ゆっくりと、操られているかのようにゆるやかな動きで教室を後にする私を、クラスの全員が黙って見送る。

「さ……、霧島!」

 河野が私の名前を呼んだけれど、追いかけてくることはなかった。それになぜか安堵しつつ、私は誰もいない廊下を一歩ずつ、道を踏みしめるように歩いた。

 まだ他のクラスは授業中のためか、廊下も階段も下駄箱も運動場も、ひとの気配はない。残暑がねっとりと垂れこめる外は、つくつく法師の音だけが聞こえていた。

(初めてだな。授業サボるの)

 場違いなことだけが頭に浮かんだ。



          16


 当然のことだが、私はその後、先生から連絡を受けた両親と共に学校へ呼ばれた。

 その日のうちに学校へ呼び出されて混乱していた母と父は、私がセクマイに該当することが相当な青天の霹靂だったようだ。しばらくは口もきけないほどショックを受けていた。

 けれど、先生から全てを聞き終えた両親は、

「気づかなくてごめん」

 そんな陳腐な謝罪と一緒に、見たこともないような大粒の涙をくれた。

「大丈夫。私も気が付いたの、ついこの前だから」

「でも、恋愛について悩んでたのはもっとずっと前からでしょう」

 母は石ちゃん先生の前であることも憚らず嗚咽を漏らした。先日の三者面談での態度とは大違いだ。本当に同じ人なのか、と思ったのは、私だけじゃないだろう。

「気にしないで。私は平気」

 私は、そう言ってからりと笑うことにした。全てをありのまま話す気にはなれなかったし、その必要もないと思った。私は両親を苦しめるためにアセクシャルを自認したわけじゃない。私が楽になるために、その名前を手に入れたのだから。

 石ちゃんは、校長先生ら上の方の先生方にも呼ばれてお叱りを受けたらしい。

「『人経』については、俺もおかしいと思うところがあったんだよ。それを校長先生に言ういい機会になったから、霧島は何も気にしなくていいぞ」

 もう病気なんじゃないか、と思うような量の汗でワイシャツにしみを作りながら、やっぱり先生はいつものように笑いを浮かべていた。つくづく調子のいいことを言うひとだと思ったけれど、世間ってそんなものなのかな、とも思った。


 石ちゃんや学年主任との話が済み、教室に置いてけぼりになっていた私の荷物を回収した。そして家に戻った頃には、陽はとっぷり暮れていた。日の入りも随分と早くなったものだ。

 私の身辺に変化が訪れたのは、この後である。

 午後6時頃、家のインターホンが鳴った。母が出ると、どやどやと数人が押しかけてきた。私のクラスメイトである。皆、私とはさして親しくもない間柄の、名前すら危うい子たちだった。

 そのなかで唯一見慣れた顔が、やはり河野だ。

「ごめん。なんか色々ばれた」

 いきなりひとの家に上がり込んでは挨拶もそこそこに、彼はバツが悪そうに打ち明けた。

 どうやら私が出ていってから、芋づる式に私が河野と会っていた噂が引き合いに出され、彼は釈明も兼ねてこの夏休みにあったことを大方話してしまったらしい。

「え? じゃあ河野があれってことは」

「うん。ゲイもばれた」

 河野は苦笑いを浮かべて言った。その割には、吹っ切れたような声音である。

「はあ?」

 私が呆気にとられていると、同じように我が家に上がり込んでいたクラスメイトたちは、にこにこしながら、

「河野くんがゲイだなんて意外だったなー」

「でもカナコも『人経』のための付き合いだって思ってたらしいし」

「まあ大したことじゃないよね、『人経』でも習ってるから」

 と、非常にドライに受け入れてしまっていた。

「ええ……。なんか、よくわかんないことになっちゃったね」

「うん。俺もまだよく呑み込めてない……」

 あれだけ必死に、興味のない女の子と付き合ってまで誤魔化そうとしていたセクマイを、ここまですんなりとカミングアウトできてしまった河野は、どうやら放心状態であるようだった。

「まあ、サチのあの怒声のあとだったから、みんな圧倒されてて、もう何があっても驚かないって感じになってたし。そう考えると、カミングアウトできたのはサチのお陰かも」

「い、いやいやいや」

 照れくさそうに笑う河野に、私は慌てて首を振った。

「だって私があんなこと言わなきゃ、カミングアウトする必要もなかったわけでしょ。余計なことしちゃってほんと、私すごい馬鹿みたい」

「そんなことねえよ。現に俺たち、お前にお礼言いに来たんだぜ」

「……お礼?」

 私がますます混乱して盛大に首を傾げると、それまで母が供した麦茶を啜っていた押しかけクラスメイトたちは、一斉に居住まいを正した。

 改めてみると、本当に脈絡のないひとたちだった。男子が河野のほかに1人と、女子が3人。クラスでわりと派手なグループに属する子もいれば、大人しくて目立たない子もいて、謎は深まるばかりである。

 その謎集団は、やおら麦茶をテーブルに置くと、一斉に私に向かって頭を下げた。

「霧島さん、今日はまじでありがとう……!」

 一体何事だろう。目のやり場に困って、助けを求めるように河野を見ると、彼は大きな瞳を細めて苦笑いした。

「こいつら、サチに一言礼がしたいって聞かなくてさ。みんな、セクマイ持ってるうちのクラスのひとだよ」

「……セクマイ……?」

 私は一瞬、その言葉の意味を測りかねた。最近、特にこの一週間ほど嫌というほど触れてきた、セクマイ……セクシャルマイノリティという単語。それがここで他のひとの手によって扱われていることが、なんとなく現実味がない。いや、そんなことより。

「あ……あんたたち、みんなセクマイだってこと?」

 私が信じられないというような上ずった声で尋ねると、目の前のクラスメイトたちは微笑んだ。

「そういうこと。みんなセクシャリティを隠して生活してたんだよ」

 性的マイノリティを持つひとは、実に十一人にひとり。見飽きるほどアクセスしたセクマイ関連サイトの一番てっぺんに、いつも書いてあったそのフレーズが頭の中に蘇った。

セクマイは決して絶滅危惧種のような存在ではない。日常にごく当たり前にいても、おかしくないものだ。私は今まで、それを事実として理解していたけれど、その事実を私の周りに当てはめることをしてこなかったらしい。

 私の周りに、そういう特性を持つ人がもっとたくさんいるかもしれないなんて、どうして考えなかったのだろう。

 私の心中の混乱を慮ったのか、河野がクラスメイトたちに自己紹介を促した。

「取り敢えずセクマイの種類だけ言ってこうぜ」

 河野の言葉にうなずいた一男三女は、それぞれが何でもなさそうに自分のことをセクマイの名で呼んだ。

 河野の他に来ていた男子と、女子のうちひとりがバイセクシャル。あとの女子はレズビアンとトランスジェンダー(心の中が男の子)だった。

「うわあ。そうだったんだ……」

 身の回りにこんなに多様なセクシャリティを持つひとがいたなんて露ほども思っていなかった私は、ひたすら感動していた。バイセクシャルのふたりはクラスでも目立たない、大人しそうな子である。レズビアンの子はいつも彼氏とやったとかやってないとか、そういう話ばっかりしている派手グループのひとりだった。驚きもひとしおである。そしてトランスの子は、男勝りでショートカットの良く似合う、イケメンと名高い女の子であったから、私はその子がトランスであることを聞いて深く納得してしまった。

「まあ俺たちも、お互いがそうだってことは今日、知ったんだけどね」

 バイだと言った男の子が柔和そうな顔を綻ばせて言った。彼らの話によると、私がアセクシャルを公表してその場を去ったあと、先だっての噂も相まって「霧島の行動の真相を知っているのでは」と思われた河野はクラスメイトの矢面に立たされた(そのことに関しては本当に申し訳ない気持ちでいっぱいだ)。そして河野への質問攻めが粗方済み、騒ぎが収まったところで彼らは河野に声を掛けたのだという。

「霧島さんが、私たち……あ、もう俺でいいのか……俺たちセクマイがいつも思ってることを代弁してくれたから。なんていうか、俺たちもなにか、行動しなきゃ霧島さんに済まないな、って思って」

 トランスの子がさばさばした調子で言った。

「そうそう! 私なんて女の子が好きだって言っても、『それじゃ『人経』はどうするの』ってそればっかりで、うんざりしてたところだったのよ。そこに、霧島ちゃんが勇気だして言ってくれたわけでしょ? こうしちゃいられないわ、河野くんに事情聞いとこう、って思ったの」

「そしたら河野、『お前以外にも、俺に声掛けたヤツいるぞ』って。『サチに何か言いたいなら、いっそみんなで行こう』って言ってくれて、で、今こうなってる」

 私は圧倒されていた。いつもながら河野の行動力は目を見張るものがある。私だったらこんな風に、みんなをまとめてお礼を言いに行くなんてできない。いや、ここにいるクラスメイトたちのように、河野にセクマイを打ち明けて『なにか行動しなきゃ』なんて思うことが、すでにそれだけで限りなく大きな勇気だ。

「……でも、私はみんなにお礼を言われるようなひとじゃないよ」

 私はできるだけゆっくり、そう言った。麦茶のコップをこねくり回す手が震える。

「私はただ、先生にむかついて、自分のことをぶつけちゃっただけ。怒りに任せて色んなひとを巻き込んで……自分のことを認めてほしくて、駄々をこねてただけだよ」

 みんなの好意を無駄にはしたくなかった。みんな、勇気を持ってセクマイをカミングアウトしてくれたのだ。だが、私はそんな彼らの勇気の上に立てる人間なんかじゃない。

 そうやって深呼吸しながら訥々と話す私を、彼らはじっと待ってくれた。そして、

「そんなことない」

 と言ってくれた。

「自分の思ってる気持ち、ぶつけることの何が悪いのよ。どんどん言っちゃっていいじゃん、ほんとは」

 レズビアンの子はそう言って、我が家の机をお構いなしにばんばん叩く。

「まあ、あたしもそれを言えずに黙ってたクチなんだけど!」

「いやでも、俺らみたいなセクマイ以外にも、実は『人経』だるいって思ってたヤツはいたと思うよ。そういうひとだって、結構感謝してるかも」

 バイの男子がのんびりと同調した。トランスの子もうんうんと頷く。

ずっと恥ずかしそうに俯いて話を聞いていた、大人しいバイの女の子が私の目をまっすぐ見て言った。

「ありきたりな言葉になっちゃうけど、私は、霧島さんが自分のマイノリティなところをあんな風に自信持って言ってくれて、すごく嬉しかった。『人経』は私もしんどくて、でも同じように思ってるひとがいるんだって知ることができて、自分のことちょっと好きになれるなって思った、っていうか……。ごめん、うまく言えないけど……」

 しどろもどろになりながらも、一言ずつ丁寧に、凛とした声で話す彼女の姿が、いつか『人生のエースになりたい』と語った河野の面影と重なった。自分という軸をちゃんと見つけて、それを愛する覚悟があるひとの話しかただった。

 彼女が今、『ありきたり』と前置きして話したことは、私が河野からアセクシャルという単語を教えられたときの思いそのものだった。ありきたりだろうが手垢のついた言葉だろうが、そう感じてしまったことは彼女にとって事実なのだろう。痛いほどよくわかる。私もそうだったのだから。

(私が河野のおかげで感じられたあの気持ちを、今度は私が彼女に教えたんだ)

 胸がじわりと熱を帯びた。

「ありがと……う」

 別れ際、帰ろうとする彼らに向けて私が言えたのは、たったこれだけだった。たった五文字の、気の利かない感謝の言葉だ。

「お礼言いに来たのは俺たちだぜ。サチに礼言われちゃ世話ねえな」

 河野がくしゃりと目を細めて笑った。他のみんなも笑っている。穏やかな笑い声が心地よかった。

(私、やっぱりアセクシャルだ)

 ふと、そんな思いが去来する。

(だって、きっとここが私の居場所だ)

 ずっと探していた、嘘も気を張る苦労もない場所。それがいつの間にか、すぐ近くに来て私を迎えてくれていたのだ。

 彼らを見送ろうと玄関へ立つと、河野がそっと私に囁いた。

「大丈夫だよ」

 何が、と尋ねる前に、彼の瞳が私を覗き込む。もうその視線から目を逸らす必要はなかった。

「学校も、『人経』も、家族も、全部なんとかなる。俺らがいるし。それにさ」

 すっかり陽の落ちた、藍色の空を背負った河野の影がゆらりと揺れた。

「サチはもとから、十分強いひとだろ」


 河野たちが返ったあと、家は急激に色をなくしたように、ひっそりとしてしまった。

 もう遅いから寝るね、と部屋に引き上げてから、これじゃ逃げてるみたいだな、と思う。そんなつもりがあったわけじゃないが、両親には後で改めて、私の本当の気持ちを伝える必要がありそうだった。父も母も、「おやすみ」と返事をする声にどことなく、余所余所しさを含めていた。

 まあ、それは明日でもいいや。それより私には、やりたいことがあった。

 部屋に入るとまっすぐに、ベランダがある窓へと向かった。がらがらと戸を開くと、湿り気を帯びた夏の風が吹き込んでくる。しかし、その温度は頬に緩く温もりを残す程度だ。その風と共に微かに聞こえてくる、沁みとおるような虫の音が、早まっていく季節の足取りを感じさせた。

「……あ、あの草」

 そう、私はこの草に会いに来たのだった。この夏の間、幾度となく眺めたベランダの隅のその場所に、草は相変わらず茎を伸ばしていた。

 変わったのは、蕾。

夜の帳が降りたベランダで、その色はよく映えた。

「これ、向日葵だったんだ……」

 夜だからか、蕾はまだ五分咲きだった。鮮やかな黄色い花弁が、この間まで固く閉ざされていた蕾の合間から遠慮がちに覗いている。へなちょこな茎は、不釣り合いなほど大きく丸いその花を支えるのが精いっぱいなのだろう、夜風にふらふら揺れていた。

 それでもこのコンクリートの隙間に、その向日葵は咲こうとしていた。

「さ。咲いたんだ。すごい」

 すごい、すごいな、と私は子供のように、口元で小さく繰り返す。なんだか胸がいっぱいになった。まるで蕗の薹が雪解けと共にようやく地面を割って出てくるように、向日葵はその蕾を綻ばせたのだ。夏の終わりのこのときを、ずっと待っていたのだろうか。

 そうっと手を伸ばした。触れたら消えてしまうのかな、と少し思う。それほど、闇の中でひときわ色鮮やかな太陽の色は、現実のものとはかけ離れていた。これは私の見ている夢なのだろうか、と、花弁に触れそうな指を引っ込めて、でもやっぱりまた伸ばした。

 指先が、少しだけ花びらを掠めた。柔らかい。生きている柔らかさだ。

「偉いなあ」

 花びらを、壊さないようにふにゃふにゃと撫でながら、そう零す。こんな劣悪そのものの環境で、こんなに綺麗な黄色の花を咲かせようというのだ。この弱々しい茎と小さな蕾からは想像のできない芸当だった。

 思えば、私が三者面談でひどく塞ぎ込んでいたあのとき、この向日葵はずいぶんと弱っていた。重そうな蕾の頭を垂れ、今にも萎れて朽ちてしまいそうだったではないか。

 それが今ではこうして、小さいながらもちゃんと、私の良く知る向日葵のかたちになって、美しい色を見せている。明日になればその名の通り、晩夏の太陽にその顔を向けて、目いっぱいに咲き誇るのだろう。

 何が、そうさせるんだろうと思った。この小さな草のどこに、そんなエネルギーがあるんだろう。何を思ってこの向日葵は、向日葵たる一生を全うしようとしているのだろうか。

「頑張ったんだろうな」

 私はその花が開いたことを、自分のことのように感慨をもって受け止めていた。そういえばこの花は、私と共にこのベランダで夏休みを生きていた。

 自分が蕾で、蕾が自分でも、きっと同じ夏を過ごしただろう。

「夏、間に合ってよかったなあ」

 小さな向日葵に語り掛ける自分はなんと酔狂な高校生か、なんてことは、今は少し置いておこう。よかったね、ほんとに、と呟きながら、声が震えるのがわかった。なんだかこの草を目の前にしていると、どうにも涙もろくなって困る。

 今度は、涙を止めようとは思わなかった。暗がりの中で、私は静かに涙を流した。生ぬるい涙が初秋の風に煽られて冷たい。

 私はたった一輪咲いたその向日葵の傍で、よかった、よかったと言いながら泣いた。

 初めて、夏を美しいと思った。



          17


 翌日は、学校を休んだ。

 私は行くと言い張ったのだけれど、両親が頑として私を家から出そうとしなかった。父までもが仕事を休み、私は彼らに改めてカミングアウトすることになった。

 一日空けて向かった学校は、皮肉なくらい何も変わっていなかった。

 通学路も校舎も下駄箱も廊下も。当たり前といえばそうなのだが、それが何だか無性に物珍しく思えた。変わらないことが珍しいなんて、ずいぶん複雑な心境だ。

「あ。サチ~!」

 恐る恐るクラスに入ると、まず待っていたのがアカリとシホである。彼らの素っ頓狂な声で、誰にも気づかれず教室に入ろうと思っていた私の儚い願いは霧散した。

「心配したよー! 急にクラス出て行っちゃうし、LGBTだし、学校休むし」

「え? あ、そっか、こっちももう皆知ってるのか……」

「そうだよ! 私達くらいには話してくれててもよかったじゃん。サチの馬鹿ー!」

「ご、ごめん」

 彼女たちは私の首根っこに抱き着いて、ぎゃんぎゃん叫んだ。どうしていいかわからない。助けを求めるように周りを見ると、クラスメイトの女子たちは困ったように微笑みを返してきた。

 教室の隅には、河野もいる。彼は人影から、こちらを心配そうに見つめていた。お人好しそうな眉が顰められている。

それで、なんとなく察した。

(きっとアカリも、シホも、無理してるんだな)

 こんなハイテンションで、ふざけたように私を迎えてくれるのは、きっとそうでもしないと、私にどうやって接していいかわからなくなるからだろう。きっとクラスの女子は、私の特性を取り敢えず認めて、何事もなかったように忘れることに決めたのだ。夏休み明けで少し不安定になっていたクラスメイトが起こした、ちょっとしたいざこざ。そんな風に受け止めることで、彼らは連帯を保とうとしていた。

 それは優しさであり、同情だとすぐ気づいた。だからこそ、それ以上は望めない。

 なので私も、それに乗っかってやることにした。

「本当にごめんって。でもあんまり気にしないで。あのときはちょっとプツンときちゃっただけだから」

「びっくりしたよマジで。でも、LGBTでもうちら、偏見とかないし! 恋愛で困ったらうちらに相談してくれていいから!」

 シホがにこにこしながら、私の手を掴んで力説した。LGBTの頭文字に私のセクマイ含まれてないんだー、なんて言う訳にもいかず、私は曖昧な笑みを返した。

 なんとなく、

(この先、このひとたちとずっと一緒にいることはないだろう)

 と思った。そんな一言が私の胸の中に現れたことが悲しいけれど、同時に静かな諦観が広がった。何もかもを手に入れるなんて、望んではいけないことだと思った。

「あ、あのさあ! 霧島ぁ!」

 不意に、近くで大きな声で呼ばれる。ぎょっとして振り向くと、

「わ、ユウスケじゃん」

「そういやあいつ、サチになんか話すことあるって言ってたよ」

「え、ユウスケが?」

 教室の奥にいたユウスケは、私の姿を見て慌ててやってきたらしい。ユウスケの後ろには、蹴散らされた机やらクラスメイトやらが散らばっていて、問答無用で教室じゅうの視線を集めていた。どうやら、穏やかなクラス復帰はいよいよ望めないようだ。

「俺、ちょっと話したいことが、あるんだけど!」

「え、うん」

 私に纏わりついていた二人は、きたきた、とでも言うようににやりと笑っている。嫌な予感がした。ユウスケといえばバーベキューでの一件がある。この状況で、カミングアウトまでした私に何か言おうとでもいうのだろうか。

 ユウスケは私の正面に仁王立ちになり、こちらをキッと見据えた。周りの注目が心臓に悪い。河野ほどではないが、運動はできるし顔もそんなに悪くないと評判だからだろう、女子の目線の中にはまだ棘のあるものも混ざっていた。

「霧島さ、セクシャルマイノリティなんだってな」

「ま、まあ」

 いきなり直球である。このひとの言うことはいちいち予想がつかない。

「一昨日、ここでお前、石ちゃんに怒鳴っただろ。自分はセクマイだから、『人経』はしんどいし、恋愛強制されるの嫌だって」

 ユウスケは半ば睨むように、かなりの声量で続ける。河野とは違う、無骨で底の見えない瞳から、目が離せなかった。

「みんな、驚いてたぜ。河野のこともな。いきなりカミングアウトされる方だって、混乱するんだぞ。これからどうやって霧島や河野と話せばいいかとか、なんか特別扱いした方がいいかとかさあ」

「ユウスケ!」

 窘めるような声が空気を切り裂いた。

声の主は河野だ。きっと、私に刺さりそうなことを彼らが言えば、その場で正すつもりでいるのだろう。自分もカミングアウトをせざるを得なかった身のくせに、どこまでお人好しなのだろうか。

 しかし、鋭い河野の声にも、ユウスケは動じなかった。

「だからさ、俺、みんなに言ったんだ」

 彼はクラスメイトのことを、みんな、としか呼ばない。

「絶対、なんにも変えるなって。セクマイとかそんなん、特別でもなんでもないって『人経』で習っただろ、じゃあなんにも変える必要ねえって」

 ユウスケは緊張と興奮のためか、耳の端を赤くして、大声で言った。

「そういう、自慢。自分でアピんな、って話だけどな」

「そ、うだ、ね……」

 なんと答えるのが正解なんだろう、と思った。正解なんて探している時点で、間違っているような気もした。

「だから結局、みんな出来るだけ、いつも通りにしてるんだ。わかっただろ? それが一番いいって、俺が思ったんだ」

 アカリとシホの態度が蘇る。同情と現状維持のための、黙殺。そう思っていた。それが、このユウスケが出した結論によるものだったのだ。

 これ以上は望めないなんて、失礼も甚だしい。事実ではあっても、だ。

「俺さ」

 ホームルームの開始5分前を告げる、機械的な予鈴の音が聞こえた。

「お前のこと、結構気に入ってたんだぜ。俺の『人経』見せてやりたい。夏から上がってるから」

「え……」

 唐突な告白に、私は思わず声を上げた。自然と肩が強張る。次から次へと突拍子もないことを言うのが、ユウスケという男だった。

周りの生徒だって、ぎょっとしている。アカリやシホはもちろん絶句しているし、河野も目を丸くしていた。

「でも、お前が恋愛感情わかんない、そういうのに嫌悪あるってわかったから、もういいや。そういうセクマイなんだろ。……アセクシャル」

 ユウスケは、躊躇いがちにその単語を口にした。どうやら告白がメインではないようだ。そういえばこのひとは、セクマイをLGBTと区別していた。彼が私のセクシャリティを「予習」していたことに、ここで初めて私は気が付いた。

「だから、俺はもうお前に付き合えとか言わねえからさ。代わりに、俺のこと覚えていてくれねえかな?」

 ユウスケは片方の眉をひょいと持ち上げ、薄く笑った。

「お前や河野のことクラスで受け入れようって言ったの、俺だってことをさ。覚えといてよ。そしたら俺、諦めつくし」

「……ユウスケ……」

「俺、良いひとだろ」

 な? と、ユウスケはおちゃらけた調子を作って、にっと笑った。

「ユウスケ、ごめん」

「いいって。俺いいやつだから」

「ごめんね」

「だからさあ」

「でも……」

「霧島」

 ユウスケは笑った顔のまま、よく動く眉毛をぎゅっと哀しげに寄せた。

「怒るぜ」

 私は、吐こうとした言葉の全てを飲み込んだ。何も言えることなんてない、ということにやっと気が付いた。彼がどんな風に思い、この結論に至ったのかを、私は謝罪の前に推して知るべきだったのだ。

 黙り込んだ私を見て、ユウスケは急に明るい声を出した。

「石ちゃんおはよおー」

 私がはっとして教室のドアの方を見やると、担任の石ちゃん先生が、

「こ、これは、どういう状況なんだい」

 と、訳が分からないとでも言うように小さな目をぱちくりさせていた。

「なんでもないでーす。おいお前ら、席戻れよ! 見せもんじゃねえぞ!」

 ユウスケはあっという間にいつものちゃらちゃらしたノリに戻り、呆気にとられる周りの生徒を急かし始めた。呆然と立ち尽くす男子をぐいぐい押して、明るい笑い声を立てる。それにつられたように、皆は少しずつ、いつもの調子を取り戻していった。

「サチ、ユウスケも意外にイケてるでしょ?」

 席に戻ろうとするアカリが、私の隣をすり抜けながら、耳元で囁く。

「うん、……ほんとにね」

 いつも陽気に周りを巻き込んで楽しく生きているようなユウスケの、「本質」を見た気がした。それを私に見せてくれたことが嬉しかった。彼の気持ちに堪えられない、そうわかっている私にこうして接してくれる彼は、思ったほど合わない奴でもないのかもしれないと思った。


 後から思えば、これが私にとって一番大切な、夏の思い出の最終章だ。



          18


「えっ。サチ、浪人するの?」

 レズビアンの子……マコが校舎の壁に凭れながら、素っ頓狂な声を上げた。

「うん。『人経』がやっぱりきつくて、だから学力だけで受けられる入試にしようかなって」

 私が答えると、

「最近は推薦入試の割合高いもんな。『人経』全然見ない大学も少なくなっちゃったし」

 と、件のバイの男子が応じた。彼の名はトモヤという。

 あのとき家に訪ねてきてくれたクラスメイトと、あの事件以来、私は妙に仲良くなってしまった。マコとトモヤ、それに同じくバイのユウカである。トランスジェンダーを自認していたショウコは親友といつも一緒にいるため、私達とは常に行動を共にしているわけではなかったが、それでもしょっちゅう話す仲になった。

 時は、夕方5時。日はとうに傾き、校舎の入り口にある蛍光灯がしらじらとあたりを照らしている。三月とはいえ、制服のジャケットだけではまだ肌寒かった。

 私達はいま、高校最後の一大イベントを終え、何ともなく学校の校庭のあたりで油を売っている。なんとなく、このまま校門を出てしまってはいけないような気がしたからだ。

 卒業式は、思ったよりずっとあっさりしていた。

 校長の話も、ひとりひとりが名前を呼ばれて壇上に上がり、恭しく証書を手渡される動作も、奇妙なほどさらりと、流れるように過ぎ去ってしまった。予定調和、と言えば言葉が悪いだろう。私はその静かな川のように、さらさら移り変わっていく卒業式の式次第を、そのせせらぎすら耳に浮かぶくらい、落ち着いた気持ちで見送っていた。

 もともと、泣かないだろうとは思っていた。私には元来、そういった激しい感情が少ないから。小学校でも中学校でも、卒業式では泣けなかった。そんな自分を気持ちが悪いと思ったこともあったし、無理にでも泣こうとぎゅっと目をつぶった記憶はまだ新しい。

 今日の式はしかし、なんというか、今までのそれとはどこか違った。変わってしまったのは私の心の持ちようだろう。もう私は、自分の思いに名前を見つけている。

 だけど、それだけじゃないだろうとも思っていた。高校を出ると、次に待つのは大学だ。それは、私達が社会のなかでまた一段階、大人になったことを意味していた。明日から私達は、この国という機関への所属が、自分を表現する第一の選択肢になる。中学や高校に守られた存在ではなくなるのだ。

 そういう意味で、私はこの卒業というイニシエーションを、何とも言えない一種の万感をもって受け止めていた。

「そういえば河野、京都の大学行くらしいね」

 トモヤがぽつりと言う。

「あ、そうなんだ」

「え? サチ、聞いてないの」

 私は卒業証書を鞄の中に丁寧にしまいながら、緩く笑った。

「受験勉強に集中したいから、LINE落としてたんだ。河野も推薦の準備で大変そうだったし、ずっと連絡とってないよ」

 三人はへえ、と意外そうな声を上げた。

 私達がいる校舎の下駄箱前は、別れを惜しむ卒業生や写真を撮る家族、先生に挨拶をする保護者らでごった返している。卒業式のあとに懇親会が開かれたためか、卒業式で垂れ込めたしんみりした空気よりも、高校を無事終了した達成感が彼らのなかには満ち満ちていた。

 そのためか、がやがやと周りは騒がしい。大人しいユウカの細い声などは、頑張って耳をそばだてないと聞き取れないほどだ。

「でも、そうかあ。京都なんて遠いね」

「うん。だからこそサチには話してると思ったんだけどな。今日は河野とは話せた?」

「まだ。卒業式の前なんて時間ないし、あいつ、私よりも一緒にいたいひとがいるし」

 普通のひとが言えば、嫉妬とも取られかねない言い回しだ。けれど、私のセクシャリティをよく理解している三人は、そうだね、と笑うだけだった。

「今頃河野は、松岡に絶賛告白中かなあ」

 トモヤが彼のいつもの癖で、のんびりした語尾で言う。

「それはないんじゃない? 一生伝える気はないって言ってたよ」

「そうはいってもさ。卒業したらもう会えないかもって思うと、最後に言っておきたくなるかもしれないよ。ましてや京都だもんね」

「そういうもんなの?」

 よくわからない。わからないままで、別によかった。

「……あ、」

 ユウカがふと、声を上げた。彼女の視線の先を追うと、そこには人垣の中でも映える栗色のロングヘアーを靡かせた、整った立ち姿があった。

「……カナちゃん」

 私が呟くと、三人は少し困ったような顔になる。彼らはみな、あのとき私が河野とあらぬ噂をたてられ、カナちゃんに呼び出されたことを知っていた。彼女に対する私の感情を慮るような、不安げな瞳が向けられる。

「ちょっと、行ってくる」

 どこへ、という前に、マコが「ちょっと、」と私の手を掴んだ。

「一発殴りに、とか考えてんじゃないでしょうね」

「あのなあ、霧島はそんなことする奴じゃないだろ」

 そう窘めるトモヤの声も幾らか暗い。

「大丈夫だから。ちょっと話すだけ」

「でも……」

「『もう会えないから、最後に言っておきたい』って、思ってさ」

 彼らは押し黙った。それは了承の合図だ。なおも不安そうな視線をよこす彼らを優しいな、と思いながら、私はカナちゃんの方へと歩き出した。


「カナちゃん」

 卒業生たちでごった返す、人混みの中。友達とこの後ご飯にでも行くのだろう、何やらスマホを見つめていたカナちゃんは、私の声にぱっと顔を上げた。晴れの舞台だからか、それとも涙で落ちたのか、今日のカナちゃんのメイクは控えめだった。それでも大きな瞳と、対照的に小さな顔はいつ見ても美人だ。

「ごめん、今いい?」

 ぱっちりした目を瞬かせて、彼女は少なからず驚いたようだった。けれどすぐに、あの柔らかな、それでいて隙のない笑顔を浮かべる。

「もちろん。私もサチちゃんと話したかった」

 春の初めの冷たい風が、彼女の髪を揺らしている。その光景はさながら、あの登校日に空き教室で見た彼女と寸分違わないように見えた。季節も違うし、今は日差しも差さない夕方で、それでも彼女はあの日と変わらず綺麗な女の子だ。

 別に何を話そうと決めていたわけではなかったが、言葉はどういうわけかするりと出た。

「私、アセクシャルなんだ」

「知ってるよ。学年じゅうで噂だった」

「河野のことは」

「ゲイだってね。そうなんだあって感じ」

 相変わらず、あっさりしている。柔和な笑みは崩れない。何を考えているのだろう。彼女との間には、透明な布が一枚張っているような気がした。彼女の存在自体がくぐもっているような。それはあの夏の日でも同じだった、と思い出した。

 幾らかの間をおいて、

「私、ちゃんとリョウと別れたよ」

 カナちゃんはそう言った。

「もともと『人経』のための付き合いって思ってたところもあるし。一緒にいて楽しかったから、何となくこれでいいかって思ってた」

「……」

「だから、謝らないでね」

 くすりと小さく笑う。冗談と本気の境目を、あえて作らないような笑い方だ。だから私も、

「わかった」

 と笑うことにした。

 私とカナちゃんは、高校一年のときに同じクラスだった。そのころは髪も染めておらず、どこかあどけない印象だったカナちゃんはそれでも、その整った容姿でクラスでも人気者だった。

 そんな彼女と、別段可愛くも女らしくもない私がよく話すようになったきっかけは、彼女の数学のノートだ。

 限定柄のキャンパスノートや、お洒落なルーズリーフのファイルを用いるひとが多かったなかで、彼女はその華やかな見た目に合わず、無地の安物のノートを使っていた。

 そのとき、彼女と私は席が隣同士だったのだと思う。記憶にあるのは、初夏なのか柔らかな日差しが差す午後、眠たくなるような数学の授業中に、彼女が出したシンプルなノート。カナちゃんは小さな手にサインペンを持って、やおらその表紙に絵を描き始めたのだ。

 決して上手い絵ではなかった。確かうさぎとか、猫とか、そんなモチーフだったように思う。それをカナちゃんは真剣な顔をして、授業中に自分のノートの表紙に描き加えていた。

 私はびっくりした。あんな人気者のカナちゃんが、安っぽいノートに懸命に落書きをしている姿は、彼女の普段のイメージとかけ離れていて、アンバランスに思えた。

驚きのあまり、余程じっと見つめてしまったのだろう、私の視線に彼女はすぐに気が付いた。

「こういうの、楽しくない?」

 照れくさそうに、しかし見つかってしまったことを嬉しがるような笑顔とともに、彼女はそう小声で言った。私は可笑しくなってしまった。

 それからだと思う。私は彼女とよく話すようになった。もちろんお互いに仲のいい友達はいて、普段から一緒に過ごすわけではないけれども、ふとした廊下の隅や掃除当番で、彼女は私に話しかけてきた。

 美人できらきらしたカナちゃんと、恋すら知らない私とが友情をはぐくむとは、彼女はなんてアンバランスを好むひとなのだろう、と常々考えていた記憶がある。

 やがて席は離れ、二年に上がってクラスも離れ、カナちゃんと話すことはなくなった。時を追う毎にあか抜けて綺麗になっていく彼女と、恋に対する周りとの温度差に溺れていく私とが交わった一瞬の間は、長いこと私にとって、ちょっとした嬉しいバグみたいなものだと思っていた。

 私は、カナちゃんとの思い出を、そんな小さなバグのままにしておきたかった。だからこうして今、彼女と相対している。

 そんなカナちゃんは、少しの間のあと、

「というか、謝らなきゃいけないのは、私だね」

 と小さく言う。

「あのとき、ぶってごめんね。私卑怯だった」

 私は、黙って首を振るだけにした。

「私、都内の大学に行くんだ。『人経』の推薦で」

「そうなんだ。おめでと」

「……だからきっと、なんにも起こらなかったとしても、リョウとはここで別れたと思う」

『でも、私、リョウが好きだったから』

 あのときの彼女の言葉が蘇って、胸がつかえるような息苦しさを覚えた。彼女だって、悩まなかったわけがない。恋で悩まないひとなんていないのだ。そういうところは、彼女も私も、平等に同じだった。

「じゃあ、私そろそろ行くね」

 ぱっと華やいだ笑みを浮かべて、カナちゃんは言った。

「うん。呼び止めてごめん」

「大丈夫。じゃあ、またね」

 彼女は、顔の前でひらひらと手を振った。掌の向こうに見える彼女の顔は、どうしてか幼く見える。無邪気な笑顔は、いつだったか、彼女と親しく話していたころを思い出させた。

 くるりと髪を揺らして踵をかえそうとしたカナちゃんは、しかしふと振り返る。

「そういえばさ、私気づいてたんだよね」

「え?」

「リョウが、ゲイだってこと」

「……」

 彼女は微笑んだ。綺麗だと思った。

「じゃあね、サチちゃん」

 ぱっと駆けていく彼女の後姿を、私は放心したように見送った。

(カナちゃんには、誰も勝てないな)

 彼女は河野がゲイであることに気づいたうえで、それでも付き合っていたのだ。最初から知っていたのか、それとも付き合ううち気づいたのかは分からない。けれど、少なくとも、『リョウが好きだったから』と言ったあのときには、既に彼女は河野のセクシャリティについて知っていたのではないかと思った。

 それでも彼女は私に手を挙げた。

 恋というのは凄まじいものだなと思う。恋はカナちゃんをこんなに美しく、したたかに変えてしまった。

 カナちゃんと私の間にある薄い布を撫でて溶かすように、私は彼女に向けてゆっくり手を振り返した。



          19


 カナちゃんを見送って、マコたちがいる下駄箱のところまで戻ろうとすると、

「あ、やっと来た。霧島ー!」

 マコやトモヤが私を見つけ、大きく腕を振り回して私を呼んだ。

 何事か、と思って小走りにそちらへ行く。彼らは校門の前へと移動していた。帰ろうとする卒業生たちの間を縫ってそこへ辿り着くと、

「はい、こいつ捕まえておいたから」

 マコがにっこり笑って言った。

 彼らの後ろから、すこしバツが悪そうに出てきたのは河野である。

「こいつ、明後日には引っ越し業者が来ちゃうらしいから。今のうちに話しとけよ」

 トモヤが河野の肩を叩きつつ言う。

 すると傍で黙って事の次第を見ていたユウカが、私の制服の袖をちょっと引っ張った。

 なんだろうと思ってみると、「耳、貸して」と囁いてくる。背の低い彼女に合わせて私が屈むと、ユウカはそっと私の耳元で言った。

「明日、松岡くんと最後のデートをするらしいの。それで、サチちゃんに勇気づけて貰いたいんだって。でも最近話してなかったから、言いづらかったんだって」

 一生懸命に話す彼女の高い声を聞きながら、自然と頬が緩んでしまった。そんなの、引き受けてやらない訳がない。最後の最後まで、河野は河野だと思った。

「わかった。河野と二人で話してくる」

 過去最高に恥ずかしそうな河野の腕を掴んで、

「じゃあ、先にみんな帰ってて。私、河野と話すことあるから」

 そう言って、人混みから離脱した。

 夏場と違い、今は三月だ。日はあの頃よりずっと短い。あたりは薄暗く、少し離れれば三年も見続けたクラスメイトの顔さえ危うくなってしまうほどだ。

 河野の正面に、私は立った。卒業式のときしこたま泣いたのか、今日の河野の眼は少し腫れぼったい。それでもあの、海の底のような綺麗な透明は、そのままだった。

 もう、その目から逃げたりはしない。私はじっと視線を合わせた。

「……暗いな」

 河野の声がくぐもって私の耳に届くと、呼応するようにあたりの喧騒が遠ざかった。彼の声を拾う、専用の聴覚が研ぎ澄まされていく。

「スマホつけていい?」

 河野は言った。あのときと同じ言葉だった。

 ぶわりと胸のどこかから、初めて彼と話したあの日が蘇ってきたのがわかった。纏わりつく暑さ、風の仄かな涼しさ、蝉時雨、草いきれの匂いまでも。一年半の時が、一気に巻き戻ったような気がする。

 億劫だった、高二の夏のバーベキュー。あの日を境に、私の生き方は少しずつ、動いていったのだ。

 河野に会ったから。

 スマホの青白いライトで浮かび上がった河野の顔は、あのときより少し大人びて、寂しそうで、しかしどこか清々しかった。

「全然連絡とってなくてごめんな」

 河野の声はやや掠れて、冷たい空気の中を聞こえてくる。

「ううん。私も忙しかったし。大学合格おめでと」

「サンキュ……サチは、まだ頑張るんだよな」

「うん」

 沈黙が流れる。辛くはない。

 傍を通りかかった、別のクラスの女子生徒が私達を見て、きゃっと小さな歓声をあげた。きっと河野の顔だけが見えたのだろう。高校最後の恋愛イベントを邪魔しないようにと、彼らはそうっと通り過ぎていく。『人経』を用いた大学受験が大方終わった今のタイミングで告白するという行為は、それが本気の恋である証明と取られるのだ。

 目の前の男は、まだ少し居心地が悪そうだった。そして、

「あー、えっと。サチにはすごい迷惑かけて、すんませんでした」

 やにわに頭を下げる。相変わらず真面目でまっすぐな男だ。

「やめてよ。なんかこの光景、前も見たよ」

「え? そう? いつ?」

「いつだっけ、多分あの夏の、登校日の放課後」

 カナちゃんに頬を打たれた私に、もう会わないようにしようなどと抜かしたときだ。まあ実際、あのとき以来二人とも忙しくなったこともあり、学校外ではあまり会えなくなってしまったのだが。

「いやでもさ」

 と、彼は食い下がった。

「俺、イツキとのことでいろいろサチに助けてもらったりしたのに、俺なんもしてないよ。挙句にセクマイの奴ら連れて家まで押しかけたじゃん。いいところは全部ユウスケが持って行ったしさあ」

「そんなことないって……ていうかユウスケのこと、そんな風に思ってたんだ」

 ユウスケとはあれから結構よく話す仲になったし、現役で受験した大学も偶然一緒だった。その後合格が決まったユウスケは、

「『人経』の点が良かったのはお前のお陰だから!」

 という走り書きのメモと共に、なぜかお菓子の詰め合わせをくれた。確かに彼が学力だけで受かるには難しい大学だったから、そのお菓子は有難く勉強の慰みに使わせてもらった。彼のことを好きになれなくて申し訳ない、と思いながら。

「なのにまだサチに頼ろうとしてて、ほんとごめんなあ。だけどちょっとだけ、あともう一回だけ、話聞いてくれねえ?」

「はいはい。どうぞ」

 やっといつもの調子を取り戻してきたようだ。寂しそうだった目を細めて、河野はやっと笑顔になる。

「明日、イツキと出かけるんだよ。最後にやっぱり、あいつと満足いくまで話したくて」

「満足なんてできないくせに」

 私がそう言うと、彼はばれたか、とでもいうように首を竦めた。

「でも、いいじゃん。最後に好きなひとと一緒に過ごせるんでしょ」

「うん、まあ」

「それに、一生の別れってわけでもないし。その気になれば、すぐ会いにいけるよ」

 言いながら、また言葉が上滑りしているような感覚に陥る。きっと彼にとってそんな程度の言葉は誰からでも、何回でも掛けられた言葉だ。そんな台詞を聞くために、わざわざ私と話そうとはしないだろうと思った。

 だから、

「で? どんな感じだったの。松岡は」

 笑いながら、そう促した。この男に惚気させてやるのが、私と彼の関係で一番はじめの、根本だと思ったからだ。

 案の定、河野はきらきらした瞳を見開いた。

「それがさ、イツキもお前と出かけるの嬉しいって言ってくれてさ。もちろんそんな直接な言い方じゃなかったけど。でもめちゃくちゃ笑顔で、すごく嬉しそうにしてくれたんだよ。いやあこれは片思い冥利に尽きるっていうか」

 いつも通りのマシンガントークが始まる。片思い冥利ってなによ、と揶揄えば、語彙力ないから仕方ないだろ、と小突かれた。なんだかとても居心地がよかった。長年住み慣れた家の、懐かしい畳の匂いを嗅いだときのような。いつまでもそこで呼吸をしていたいと思わせる空気が、私と彼の間に流れていた。

 一通り彼の松岡談義が終わるころには、随分あたりも暗くなっていた。先ほどまで人で溢れていた校門前にも、私達のほかに数人を残すのみだ。

「はー、久しぶりにこんなに喋ったわ。今日の俺、すごい気持ち悪いな」

「今頃気づいたの? 前からわりとそんなもんよ」

「マジで? うわ、恥ずかしいな」

 彼は晴れやかな笑顔で頭を掻いた。なんの後悔もないような笑みに、心底ほっとする。きっと松岡と離れることについて、それはもう悩みに悩んだに違いない。ひとりで苦しんで、泣いて、のたうち回って、それでもこうして笑えるように心を整理してきたのだろう。

 その悩みを聞いてあげられなかった、この一年がたまらなく惜しい。けれど、結局彼は自分の力で答えを見つけていくのだ。今までもこれからも、河野というひとは、自分の全身をつかって全力で、人生をわがものにしていくのだろうと思った。河野のそんなところをまた見ることができて、そのことにも無性に安堵する。

 安心したからか、滑らかに言葉を口にできた。

「河野、ありがとうね」

 河野は、ぽかんと目を丸くした。

「え?」

「名前を、くれてありがとう」

 夕闇でもはっきりわかる、澄んだ瞳をまっすぐ見つめた。

「名前?」

「それだけじゃないけど。いろんなものをくれて、ありがとう、っていうか」

 河野は意味が分からない、とでも言うように眉を顰めた。

「……ごめん。どういう意味」

「わからないなら、それでいいよ」

「ええ? いや、気になるって」

 どうやら本当にわからないらしい。狼狽える河野を見て自然と笑みが浮かんだ。

 アセクシャルという、名前。ずっとふらふらと、どこに立っていればいいのかもわからずにいた私の足を、この世界にちゃんと立たせてくれる、そういう言葉だ。この名前を見つけたおかげで、私は自分を少しだけ好きになれた。

 それだけじゃない。純粋に恋にひた走る彼が教えてくれたことは、あまりにも多い。恋という感情のリアル、座右の銘や、百人一首の読み方。

 夏があんなに綺麗だということも。

「それ言ったら、俺だってサチに貰ったもん多すぎるぜ」

 河野がちょっと不服そうにそう言った。

「そんなことないよ。そもそも私、河野に迷惑かけっぱなしだし…」

「それこそ嘘だろ。いつ俺が迷惑かけられたんだよ」

「だって……」

 一年半前、夏休み明けに起きた事件のことを思い出す。

「私、皆の前で先生に喧嘩売っちゃってさ。そのせいで河野、ゲイってことをカミングアウトしなきゃならなくなったでしょ。隠そうとしてたのに、申し訳ないなって」

「ああ、それ」

 河野は拍子抜けしたように、からりと笑った。

「別にあのときだって、誤魔化そうと思えばできたと思うよ。俺がカミングアウトしたのは、ただ、俺がそうしたかったってだけ」

「でも」

「サチがさ、あんなにはっきり自分のこと言うんだ。俺がこそこそ隠すなんて、サチに顔向けできねえ、って思ったんだよ」

 あのときのお前、超かっこよかったぜ。彼は懐かしそうにそう続けた。河野と初めて話したときも、かっこいいと言われたことがふと思い出された。


 そろそろ時間も時間なので、私達は名残惜しさも抱えつつ校門を出た。もうここの生徒として校門をくぐることはないのかと思うと、やるせないような、それでいて何かをやり尽くしたような複雑な思いがある。

 学校から最寄り駅までの道のりを、二人で並んで歩いた。そういえば河野とはしょっちゅう会っていたけれど、いつもすぐお店に入ってしまっていた。こうやって肩を並べて歩く、ということがなんだか珍しく思える。

「そうだ、俺、石ちゃん先生に挨拶するの忘れてたな」

 河野が思い出したように呟いた。

「京都からでも来ればいいじゃん。OBとして」

「それもそうだな。学校が消えちゃうわけじゃないし。サチも一緒にくる?」

「お供させていただきます」

「よっしゃ」

 笑う河野が吐く息はまだ白い。このひとといると、季節が夏でないことですら妙な気分にさせられる。

「……前から、ずっと言いたかったんだけど」

 いよいよ夜が満ちてきて、街の明かりが目の端にちらついた。彼の瞳だけが闇に溶けずに残っているようだ。

「サチは、本当にすげえよな」

「……え?」

「自分のこと、ちゃんと見てるっていうか。全力で悩みつくして、もがいて、でも最後にはきちんと正解を見つけてくる。あの事件のときも、俺なら絶対にあんなことできない。サチぐらい強くならなきゃってずっと思ってたよ」

 河野は彼らしく、言葉を選び選び、紡ぎ出すように話した。私は少なからず衝撃を受ける。河野が話したことはまさしく、私が河野に抱いていた思いそのものだったからだ。

(なんだ)

 何かがほどけるような、温かい感覚がする。

(河野も私と同じだったんだ)

 そう思うと、なんだか全てが可笑しかった。つい声を出して笑ってしまう。

「な、なんだよ」

「いや、ごめん……私達、似た者同士だなって思っただけ」

 笑いを堪えながらそう言うと、河野は呆気にとられたような顔をした。しかしすぐにくしゃりと破顔する。

「それは、ずっと思ってた」

 一頻り、二人で笑った。一年半の年月を超えて、二人で会っていたあの夏がこの手に戻ってきたようだった。やっぱり河野とは、こうでなくちゃ。

 最寄り駅へは、あっという間についてしまった。三年間の通学の間、十五分を切ることがなかった通学路だけれど、他愛無い会話のせいで、体感時間はものの五分ほどだ。

「懐かしいな」

 河野がぽつりと言う。この駅は、あの夏休みの間、私達がずっと待ち合わせ場所に使ってきた駅だ。

 すっかり夜の顔になった駅はいくつかの店と駅の中から来る光で溢れ、さほど大きくない駅とはいえ会社帰りのサラリーマンたちでコンコースは賑わっている。

「最初にここで待ち合わせしたとき、あんた、女のひとに絡まれてたよね」

 私の言葉に彼は苦い顔をする。

「うわ、そうだったな……ああいうの俺、ほんと苦手なんだ」

 こんなに整ったルックスなのだから、女の子たちが放っておかないのは当然だろうが、彼にとってはしんどいことらしい。

「もともと、女……のひと、苦手だったんだ。小さいころから」

 そう言う河野の声を聞きながら、このひとって本当にいいひとなんだな、と陳腐なことを思った。私の前で彼が女性を指して「女」と呼ぶことがなくなっていたことに、今さら気が付いたからだった。

 急に、無性に寂しくなった。ぐわりと大きな感情の波が襲ってくる。河野とこれから、いつものように会えなくなることが、今になって寂しいなんて。馬鹿げている。この一年だってろくに会っていないくせに、ここにきて私は、彼が遠くに行ってしまうことが、体の半分を持っていかれるように痛いのだ。

「じゃあ、このへんで」

 改札の手前で彼は立ち止まった。改札を入ればすぐ、私と河野は向かうホームが分かれてしまう。最後の挨拶をするべく、という意味なのだろう。ひとで混雑する改札前から脇によける。

「また連絡するわ。イツキとのことも、また送るかも」

「……うん」

「とりあえず、明日の、で……デートのことは……まあ、応援しといてくれ」

「……ん」

「……あー、サチ、大丈夫?」

 歯切れの悪くなった私の口調が気になったのか、訝しげに河野は、その透明度のある瞳で私の顔を覗き込んだ。

 純粋さを押し固めたみたいな瞳を前にして、私は最後に何を言うべきか迷った。寂しさはやはり、お腹の底に冷たくたまっている。けれど、それはずっとこの先も河野と一緒にいたいとか、もっと親しくなりたいとか、そんな寂しさなんかではなかった。なんて言ったらいいのかわからないけれど、私はいつまでも、彼から大切なものを教わり、彼の言葉を受け止める存在でありたかったのだ。

私は、河野と自分がこれから先の人生で今までと変わらない関係を維持するために、いま必要な言葉を探していた。

 河野からもらった、たくさんの言葉を思い出す。そして、やっぱりあの言葉に行きついた。

「……河野」

 高二の夏まで、こんなに何度も呼ぶとは想像もつかなかった名前を呼ばわる。

 なに、と言いかける彼を、私は思いっきり抱きしめた。

 背の高い彼の広い背中に目いっぱい腕を伸ばして、ありったけの力でしがみつくように、きつく。

 河野の全身が驚いたように固まる。

 彼の身体は温かい。熱いほどだ。生きているということは、これほどの熱を纏うということなのだ。

 駅を行きかうひとの奇異の目さえ、もうどうだっていいと思えた。戸惑いからか、身じろぐ彼を押さえつけて、出来るだけ大きな声で言う。

「私も、『エース』目指すから」

「……」

「アセクシャルってことも、それじゃなくても……私の一生で、私はエースになるから」

 人生のエース、という彼の「座右の銘」が、私の頭にこびりついて、ずっと離れない。

 ことあるごとに、思い出していた。エースという、人生を実力で切り開く存在に、私は出会えるだろうか、と。ひとを愛することもできず、冷たいままの私に、そんな大切なものを見つけられるのか、どうしてもわからなかった。

 今は違う。私は名前を貰って、少しだけ自分の一生を好きになれた。まるで次の日の太陽に向けて蕾を綻ばせる向日葵の花のように、アセクシャルという個性を持って、ちょっとずつ人生を進めている。私という人間にとっての『エース』たる存在を見つける、という一歩ずつの歩みが、始まっている気がした。

 私の言葉に河野は、しばらく何も言わなかった。きっと、彼も『エース』という言葉を反芻しているのだろう。河野の心にこびりついて離れない、知らない誰かのその言葉を思い出しているのだ。

 ややあって、彼はふ、と笑った。そして、優しく腕を回してくる。

 壊れ物を抱えるような細やかな力で、抱きしめ返された。

「……俺も、目指す。俺の人生のエース、ちゃんとずっと抱えていく」

 すぐ近くで声がする。

 こんな温かな、認め合う儀式のような抱擁ができることが嬉しかった。

 河野の腕は、すぐに離れた。自分たちはどうであれ、周りからすればただのカップルだから流石に気がとがめたのだろうか。恋愛のハグしか知らないほうが悪いんだ、とも思ったけれど、仕方ないので私も腕を解く。

 抱擁を終えた私達は再び、喧騒のなかで向かい合う。細められた河野の綺麗な瞳は、周囲の光を取り込んで宝石のようだった。もう二度とその瞳から目を離さない。離してやるものかと思った。

「じゃあ、また会おう。京都にも来いよ」

「うん。絶対。約束ね」

「約束」

 ぱっと明かりがついたように、河野は顔いっぱいで笑った。その屈託のない笑顔は、どこか満開の向日葵を思わせた。抜けるような夏空に爛漫と咲き競う、太陽を宿したような向日葵の姿が、私の脳裏に広がった。

 改札を抜け、それぞれの家路へつながるホームへ急ぐ。最後の最後、私に背を向けて歩き出す刹那まで、河野は大きな手をひらひら振って、子供みたいに笑っていた。

 人混みに紛れて消えていく、制服姿の彼を見ながら、

(あのひとに、恋をしない私でよかった)

 と思った。これが恋になってしまったら、きっと彼は今のような笑顔を見せてはくれなかっただろうから。

 恋愛の好きよりも、大事にしたい好き、という思いは、絶対にある。そう思う。

 私にとってのエースはきっと、向日葵色をしているのだろう。ぼんやり、そう考えた。



          20


 『結婚おめでとう』

 河野から届いた暑中お見舞いには、そんな言葉があった。

 つるりとした葉書には、夏らしいイラストと共に、たくさんの写真が印刷されている。その殆どには、河野が弾けんばかりの笑顔を作って写っていた。彼のすぐ隣にはいつも、柔らかな顔をした男性の姿がある。

 『暑い日が続きますが、いかがお過ごしですか? 写真はゴールデンウイークに、彼氏と沖縄に行ったときのやつ。いつかサチとも旅行行きたいです。また飲みにいこうぜ リョウ』

 男のひとには珍しく流麗な文字で書かれた文言を読みながら、自然と笑みが浮かんだ。

「変わってないなあ」

 写真の中でピースサインを掲げる彼の目は相変わらず綺麗だった。彼氏という男性の顔もちょっと可愛らしい系で、好きなひとの好みも不変であることを窺わせる。

「なに、にやにやしてんの。あ、そのひと、例の高校の友達?」

 私が暑中見舞いを見ながらぼーっとしていることに気づいてか、旦那がこっちへやってきた。私の持つ葉書を覗き込んで、イケメンだなあと笑う。

「そうそう。このひとが、私がいつも言ってる、恩人のひと」

「Aセク教えてくれたひとだろ。もう何回も聞いてる」

 彼はまた声を出して笑った。よく笑うひとだ。

 旦那と私には、恋愛関係はない。俗にいうパートナーというやつで、戸籍上は結婚しているが性的接触をもたない間柄である。

 彼と私が出会ったのは、セクシャルマイノリティが集まるコミュニティだ。大学3年の春だったと思う。私は大学入学と同時期にセクマイの交流会を主催するグループに入り、その頃には団体のアセクシャル部門で幹部をしていた。そんな私に、「最近自認したのだけれど、コミュニティに参加するにはどうすればいいのか」と連絡してきたのが、彼だった。

 団体への加入をお膳立てしたのが私だったため、その後開かれたオフ会では私が彼を案内することになった。初めて会ったわりにフレンドリーだった彼は、しかし明るい笑顔のまま、

「俺、本当にアセクシャルなのか自信がない」

 と、そう零した。

 私は彼に、昔の自分を見ていたのだろう。気づけば年下かつ、ほぼ初対面の彼を会場の椅子にはりつけて、高校での経験を語っていた。

「だから、あなたの思いはよくわかる。自信ないままでもいいじゃん。それで自分が楽になれるなら、自分はアセクシャルってことにしておけばいい」

 柄にもなく熱弁を振るう私の姿に、同じ団体幹部の仲間は相当度肝を抜かれたようだった。

 彼はそんな私の拙い自分語りを、ふむふむと真剣に聞いた。終いには何故か私のことを「先輩」と呼び始め、

「先輩みたいになりたい。人生の目標にします」

 とまで言い始めた。

 そんな風に少し突拍子のないところがある彼だったが、どうしてか妙に話が合った。オフ会以外でも会う機会が増えて、アセクシャルと関係のない用事で一緒に出掛けることもあった。

(これがアセクシャル同士でなかったら、付き合ってるところなんだろう)

 そう思うようになった。彼のことは好きだったが、それは決して恋愛にはなり得なかった。そして、それは彼のほうも同じだったようだ。

 あるとき、夕飯を一緒に食べた帰り、都心のネオンを背にした彼が不安そうに、

「もし、先輩が普通の恋人になりたいと思ってるなら、ここで断っておきたい」

 と言ってきたとき、私は彼とパートナーを組もうと決意した。

「あなたとパートナーになりたいんだけど」

 その場の勢いで、夜の人混みを掻き分けながらそう告げた。彼はその意味をすぐ理解してくれた。心底嬉しそうに何度も首を縦に振る彼を見て、このひとが好きだなと思った。恋愛にはならない、別の形の好きだ。

 それは恋だ、と言われれば、そうなのかもしれない。けれど私は、この感情がそのような、ひとつの言葉で定義されるものではないと思う。例えていうなら、親が子に向ける愛情に近いような気がした。恋愛ドラマも性的接触も相変わらず吐くほど嫌で、ときめきなんて感じたこともない。もちろん彼に性的な魅力を感じたこともなかった。けれど、彼と過ごす穏やかな時間は、私に彼を選ばせた。

「婚姻届を出さないか」

 そう彼から切り出されたとき、私達はお互い就職もして、親元を離れてしばらく経っていた。私は高校での一件があって親にはアセクシャルのことをカミングアウト済みであったからよかったのだが、彼のほうはまだ親に何も伝えておらず、それ故にできるだけ早い結婚を望まれていた。それで、表向きは普通の夫婦として婚姻届を出して、共に住むことになった。

 結婚式もしたし、新婚旅行とやらもやってみた。いい経験になったと思う。新婚さんとしてちやほやされるのには蕁麻疹が出るような気持ち悪さがあったけれど、もうそんな私の感情が、私ひとりだけのものではないことを、私は知っていたからだ。

「俺、アセクシャルって自認してから、結婚なんて絶対しないって思ってた。けど結婚もそんなに悪くないな。家事とか半分になるし」

 ある夜、当然のように二部屋に分かれている寝室に帰る前に、彼は呟いていた。

「あんた、結婚だってどうせ『祝言返しがないままなのは悔しい』とか、そんな理由で決めたんじゃないの」

 私が軽口を叩くと、

「否定できないなあ」

 おおらかに言って笑った。

 そんな彼と、今、私はアセクシャルのひとを精神的にサポートする団体を設立しようとしている。仕事が軌道に乗って生活に余裕ができたため、二人でなにかのコミュニティを設立したらどうか、ということになったのだ。私達のような「恋愛関係のないパートナーシップ」を目指すひとたちにとって、私達「夫婦」が運営する団体はきっと、なにかの助けになるだろう。

「グループの名前は、サチが決めてよ」

 団体の骨子をまとめた紙に、所在なさげにぐるぐると落書きをしながら、彼は私に言った。

 設立に向けた本格的な話し合いを開くのは、ありふれた夏の午後、ふたりの自宅。窓の外から漏れ聞こえる、水を注ぐような蝉の声は、あの夏を思い出させた。

「え、なんでよ。グループつくろうって最初に言い出したのはあんたじゃない」

「だからだよ。俺がグループの主旨とか考えるから、お前は名前。そういうの、サチの方が得意だろ」

「そんなの得意なんて言ったことないよ……うーん、でもそうか、名前ね……」

 反発しつつも、満更ではなかった。子供の名前考えるときとか、こんな気持ちなのかな、なんて思う。そんなことを考えられるようになったことは、高校のときに比べれば大きな進歩だった。

 思えばこの団体は、私とこのひとの子供みたいなものになるだろう。

 そう考えればなおさら、とびきり良い名をあげなくちゃ、と思った。

 彼が落書きしたぐるぐるに、なんとなく花びらでもつけてみながら、あ、と閃く。

「エース、はどうかな」

 私の言葉に、彼は怪訝な顔をした。

「Ace? それ、アセクシャルの略称じゃん。そのまんますぎないか?」

「ううん、違う。カタカナで、エース、って書くの」

 凪いだ瞳が私にそれを言った、夏の日を思い描く。

『人生のエース』

 あのとき、私には自分がエースたりえる何かがなかった。ふらふらと、不安な気持ちを押し隠しながら、揺蕩うように生きていた。足のつかない海を泳いでいくようなあの心細さは、そう簡単に忘れられるものではない。

 けれど、河野が私に名前をくれたから、進むべき道のひとつを照らしてくれたから。私は今こうして幸せに生きているのだ。

 人生のエースになれたか、そう自分に問えば、答えはやっぱりノーで、そんなの当たり前だと思う。アセクシャルが、死ぬまでそのセクシャリティに確信が持てないように、人生で私がエースになれたかどうかは、死ぬその瞬間までわからない。それでも、エースを目指して生きることは、なにか自分をこの世界にしゃんと立たせてくれる、支柱になる気がする。

それに、

「私はエースだ、って、言えたらちょっとかっこいいでしょ」

 私は彼に、いたずらっぽく笑ってみせた。河野のはにかむような笑い方を、脳裏に浮かべながら。

 彼は薄く汗をかいた顔を、ぱっと向日葵みたいに綻ばせた。

「サチらしいな」

 あの日と同じようで違う夏が、窓の向こうでまた繰り返していく。



(終わり)

このような長編の物語をここまで読んで下さり、本当にありがとうございました。

自分が日々感じていること、考えていることを率直に表現しました。思ったように筆が進まず悩むこともありましたが、精一杯の努力ができたと満足しています。

アセクシャルとしての感じ方は人それぞれだと思いますので、こんなふうに思うひともいるんだなと思って頂ければと思います。

いつかセクシャルマイノリティなんて気にせず、誰もが自由にひとを愛し、自分を愛せる社会が訪れることを切に願います。

ここまでお付き合いくださり、本当にありがとうございました!


鷹条雪子

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