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ACE  作者: 鷹条雪子
1/2

前編

【注意】

この小説では、セクシャルマイノリティについて扱っております。苦手な方はご注意ください。また、作中で扱うセクシャルマイノリティについての解釈は個人的なものであり、一般的なものとは異なる場合がございます。知識などが間違っている可能性もありますがご容赦ください。

作中に登場する一切は実在の人物・団体とは無関係であり、特定の個人や集団を誹謗中傷する目的などはございません。

Copylight©2020-鷹条雪子


ACE


 これは、恋愛の物語だ。しかし、恋をする物語ではない。



          1


 私は夏が嫌いだ。汗で張り付く制服のシャツも、喧しい蝉の合唱も、強すぎる日差しに灼けた校舎の壁の眩しさも。からだじゅうがどろどろになって、私という存在なんて全部溶けてなくなってしまうんじゃないかと思う。

 夏のこざかしいところは、それだけじゃない。夏は、ひとに期待をさせる。

 私のいとこのお兄さんは、高校三年の夏休み前には「この夏休みさえあれば、俺は日がな一日勉強して、模試で絶対A判定がとれる」と思っていたという。でも実際には、九月の模試ではC判定。「夏休みなんて幻想だった。サチも油断すんな」と私に忠告したお兄さんは、ちょっと渋い顔をしていた。

 いまは高二だから、夏休みが勉強への熱意でいっぱいになるとか、そんなことはないけれど。でも夏に期待をかけているひとは沢山いる。

「夏休み終わったら私、生まれ変わってるから」

「え、どういうこと、それ。一回死ぬの」

「違うっつの。恋して、彼氏つくって、もうすんごい良い女になって帰ってくるから」

「ないわー。絶対ないわ。アカリに彼氏とか百年早いわ」

「なんだとコラ。シホつんの方がないだろ」

「つか、どこで出会うつもりなの、その彼ぴっぴと」

「それを今相談してんじゃん!」

 高二B組、いつもの席で、自称「夏の戦士」たちは盛んに作戦を練っていた。

 エアコンが故障しているからか、窓という窓が開け放たれている。しなびたカーテンを揺らして通り過ぎる風は存外爽やかで、夏がすぐ隣にいるな、なんて私はぼんやり考えていた。

「ねえー。聞いてんの? サチ」

 アカリが不満げな顔を私の方を向けた。慌てて笑顔を浮かべてみる。

「ごめん、ぼーっとしてたわ」

「あっついもんねえ。エアコン、夏休み中に修理するらしいけど」

「もう終業式終わったし、次学校くるのいつ? 夏休み中の登校日? だからもう直すの諦めたんだよ。先生たちも」

 シホがのんびり欠伸をする。午前中の終業式が終わって、もう殆どの生徒は、来る夏休みに向けて足早に学校を後にしたころである。帰宅部でこれといった用事もない私達は、こうしてこの夏をどう有意義に過ごすか、について会議をしているのであった。

 野球部のランニングの掛け声が、窓からそっと聞こえてきた。

(もう部活始まってるんだな)

 私の意識は、すぐにふわふわ浮遊していく。夏のせいだ。だから夏はだめなんだ。

「この夏が勝負ですって、石ちゃん先生も言ってたよね」

「それな。高三は勉強しなきゃだし、そうなると長い休みってこれだけだもんね」

「少なくとも恋、始めないと『人生経験』まじで成績やばい!」

「私はハヤトくんがいるから。ポイントばっちりよ」

「付き合ってないから良くても3しかつかないじゃん、早く告れや」

 さっきから自称「夏の戦士」ことアカリとシホは、しきりにこの夏「恋愛」をすることの重要性について語り合っていた。無理もないことだ、と思った。


「恋」には、成績がつく。

 それが、この世界の理だった。

 誰かに恋をすれば、学校生活を健康に送れているとして先生から良い内申がもらえ、大学進学にも有利だ。さらに恋が実って恋人同士になれば、さらに良い数字が出る。

 この、「恋」を扱う科目は俗に『人生経験』と呼ばれていた。進学校でも何でもない、私のところのような高校から名の通った大学へ推薦入学したい奴なんかは、『人生経験』での高評価獲得を目指して奮闘しているようだ。

 いつからこの制度が日本で始まったのか、私の記憶にはない。少子化対策のために国が始めた取り組みだった。授業では、三十年ほど前に法制化されたのだと習ったような気がするけれど。

 この制度がなかった頃の高校がどんな感じだったのか、私には想像もつかなかった。女子校や男子校なんかもあったらしい。男子だけ、女子だけの学校なんてちょっと変な感じだ。

 あの頃の高校生は、きっと恋だ彼氏だなんてあんまり考えなくて、好きな時に好きなひとと好きなことをしていたのだろう。それとも、内申が足りなくて勉強ばっかりしていたのだろうか。

「サチは? 『人経』大丈夫そうなの?」

 シホが尋ねる。私はわざとそっぽを向いた。

「私はまだ彼氏とかいいの」

「あんたそれ、高一から言ってんじゃん。いつになったらサチの青春は始まるのよ? もうお母さん心配で心配で」

「いつから私はシホの娘になったの。私はまだ全然好きな人とかいないし、恋愛も興味ない」

 いささかつっけんどんに言った。

「またまた。出たよサチの『恋愛いらない女子』キャラ。サチがクールなのは知ってるけどさ、もうそういうこと言ってる場合じゃないってば」

「キャラじゃないし、別に」

「アカリの『恋愛興味あるのになんかモテない女子』キャラもどうかと思うけどねー」

「なんだとー。シホつんは告る勇気ない系じゃん、私よりやばいよ」

「でも『人経』は私のこと、ちゃんと評価してくれるもんね。それよりさ、真面目にサチはそろそろ考えたほうがいいよ。『人経』一学期いくつ?」

 ぐっ、と私は詰まった。恐る恐る、数字を吐き出す。

「……1です」

 うわーっ。二人は大げさに仰け反った。からかってる訳じゃなく、本当に驚いたみたいだ。

「1は流石に見たことないよ。先生から面談とかあった?」

「昨日、石ちゃんから声掛けられた。夏休み中に一回、三者面談するって」

「ほらあ。マジでこの夏は好きな人作りな? ちょっと気になってる男子とかいるでしょ、一人くらい。夏ってやっぱ、恋が芽生える季節だし」

 彼女たちは、夏のことを一体なんだと思っているのだろう。辟易したふうをなるべく表に出さないように気を付けながら、乾いた笑いで私はその場をやり過ごした。


 私に「恋」そのものが存在しないと知ったら、彼らはどう思うだろう。

 さっきみたいに、「ええーっ」って驚いてくれるだろうか。

 それとも。


「サチさーん。ついてこれてる?」

「あ。ごめん。何の話してたっけ?」

「だから、私達がサチを応援してあげようって話じゃない。合コン的なことでもしないと出会いとかないしさ。手始めに、学校の男子となんか遊びに行こうよ」

「え?」

 驚いて、私は二人の顔をまじまじと見つめた。アカリもシホも目をきらきらさせている。

「バーベキューとかよくない? 青春っぽい」

「それいいー! あ、サチは強制参加ねー。優しい私達のありがたいお誘いなんだから」

 私は思わず目を閉じた。面食らったとはまさにこのこと。突然すぎる話の展開に頭がついていかない。どうしてそんな流れになったんだろう。

「まじで? 私そういう、合コンとか無理だよ」

「いや大丈夫。サチはかわいいし、クールなのも男子ウケいいよ」

 アカリがけらけらと笑い、私の肩をバンバン叩いた。そういう問題じゃない、と怒鳴りたいのを必死に抑える。

「じゃあ細かいことは後でLINEするから。サチの青春は私達に任せといて!」

 アカリとシホの、無邪気なガッツポーズに反論の気力が失せていく。

本当なら、今すぐ椅子を蹴って、このうだるような教室を出ていきたいくらいだった。この二人を置いて、まとわりつくような空気を振り払って、炎天下の下へと飛び出していきたかった。

(……そうしないのは、彼女たちが友達だから)

月並みでも、それが私の行動原理だ。

 友達でも、いや、友達だからこそ、「話せないこと」って沢山あると思う。

 たまたま私にとってのそれが、「恋」だっただけ。

 湿った生ぬるい風が一迅、窓から舞い込んで私の胸をいっぱいにした。息がしづらい。

 野球部の声は、いつの間にか聞こえなくなっていた。


『私とアカリの作戦会議により、八月にバーベキューやることになったよ!』

 ベッドに放り出したスマホが震え、通知を伝えている。手を伸ばせば届く距離にあるそれを、うつ伏せになった私は憂鬱な気持ちで眺めていた。

 家に帰っても両親は仕事でおらず、もやもやした思いを抱えながら着替えもせずにベッドに飛び込んで、今に至る。なんだかとても疲れていた。

 いつもそうだ。友達と喋るのは楽しいし、クラスメイトも優しいし、何も気に病むことはないはずの、私の学校生活。特に今日は終業式しかやることがなかった。部活も入っていない。馬鹿な男子みたいに、ギリギリまで荷物を持って帰らずに、最終日に悲鳴を上げながら大量の教科書を担いで家に帰る、みたいなこともしなかった。疲れる要素なんて何もない。

 けれど、一日学校にいて帰宅すると、私はいつもどっと疲労感を覚えるのだ。それは、張り詰めていた糸をぷつんと切ったときの、だらりと垂れたその切れ端のような。このままの心地良い学校生活を維持しようと気を使って、そのために私は常に多くのエネルギーを消費している。

 ともあれ、明日からは夏休みだ。夏は好きじゃないけれど、夏休みは素直に嬉しい。

『ねえサチ』

 アカリとシホと私のグループLINEは、すでに50ほども通知をため込んでいる。その中でアカリが不意に私に呼び掛けた。仕方ないので手を伸ばしてスマホをつかみ、既読をつける。

『ごめん今見た。どうしたの?』

『なんか、合コン、流れでカナコも参加することになっちゃったんだけど…』

『カナコって、渡辺? でもあいつ彼氏いるじゃん』

『だから、彼氏と参加したいんだって。彼氏がハヤトくんと仲いいから』

 文面だけでも、アカリの不機嫌な様子が思い浮かぶようで、私はちょっと頭が痛くなった。

『は? なにそれどういうこと? 意味わかんない』

 シホも流石に反論している。

『でもあいつが付き合ってるの河野だよ。彼をカナコから奪うのもワンチャンじゃない?笑』

『えっ、カナちゃんの彼氏って河野だったんだ』

 河野といったら、学年一のモテ男子だ。『人経』の成績も一番だという噂である。

『待ってサチ知らなかった? マジか。六月ごろから付き合ってるよ、あいつら』

『河野から告ったんだって。あの顔で来られたらやっぱ落ちるよね』

『かっこいいもんね河野。あたしはタイプじゃないけど』

 二人が盛り上がって、トークがどんどん更新されていく。他人の恋愛事情にあまり興味のない私は、それをぼんやり眺めた。どうしてこう、恋愛の噂を話すのが好きなんだろう。

『まあ河野いれば、ハヤトくんが来てくれるもんね。私はもうそれだけでいいかな』

『じゃあ男子の方は、河野とハヤトと、あと誰?』

『松岡ってわかる? C組の。河野と幼馴染らしくて、来てくれるんだって』

『え、喋ったことないけど、結構顔かっこいい人だよね。アカリいけちゃうんじゃない?』

『いやいや。今回の主役はサチだし! あと、ノリでユウスケ呼んだから』

『え、あのユウスケ? まじか! やばそう! 絶対うるさい』

 私も画面を見ながらちょっと顔をしかめてしまう。

ユウスケは面白いヤツで、クラスでもムードメーカー的な立ち位置にいる男子だ。夏休み前最後の登校日である今日、全ての荷物を背負って帰る羽目になったバカの典型例でもある。いい人なのだが、お調子者過ぎて時折ついていけない。明るい性格だからバーベキューにはもってこいだとは思うけれど。

 しかし、もうこの時点で、私にあてがわれたのは松岡とかいう男子だ、というのは正直わかってしまった。ハヤトはシホの思い人だし、ユウスケの相手ができるのは派手好きのアカリくらいのものだ。残り二人はカップルで来る始末だし。こんなんで、合コンなんてやる意味あるのかな、と思うのも、無理はないんじゃないか。

 結局、後でアカリが合コンメンバーのグループLINEを作るということで、一旦トークは終了した。再びスマホを枕のそばに投げ出し、私はふう、とため息をついた。

 LINEですら、気が抜けない。迂闊なことを言ってはいけないような、妙なプレッシャーで緊張する。これは私だけのことなのだろうか。

 ベッドで仰向けに転がって黄ばんだ天井を眺めた。エアコンを入れたはずなのに、部屋は相変わらず蒸し暑くて、しつこい夏を思い知る。

 夏。だから何だ?

 恋をすれば成績が上がるから、恋をする。百歩譲ってそれを正しい行いと割り切っても、夏だから恋をする、というのは流石に合点がいかない。いや、そもそも成績のために恋をするってどうなの。それって本当に恋なの。それとも、本当の恋なんてどこにもないの?

 『人経』の授業で聞いた話によると、Iotや人工衛星の進歩により、人間のバイタルは外部からほとんど観測できるようになったらしい。そして、ある一定の発汗、心拍上昇、ホルモン分泌、その他いろいろなバイタルサインを総合して、「人間が恋をしているか」は客観的に判断できるようになった。

 そこで、少子化対策と豊かな人間性を育てる教育を兼ねて、恋愛を示す生理的な特徴を「成績」とか「内申点」に含んで恋愛を奨励するようになったのだとか。

 右肩下がりだった日本の人口は、この制度施行後10年で確かに持ち直した。この法律の普及に伴って避妊技術も進歩したし、LGBTやジェンダー問題を学校でオープンに語ることさえ厭わなくなった。思い切った対策の効果は如実に表れているだろう、とは、教科書の文言である。

 スマホのバイブ音がして、目をやるとグループができていた。のろのろと「参加」ボタンを押すと、すぐ後に「河野リョウ」が『河野です。よろしく』と送ってきた。スタンプで返し、気まぐれに河野のアイコンを見ると、カナコ……カナちゃんとのツーショットだった。うわ、と思う。ディズニーかなにかの壁を背景に、二人で顔を寄せ合って笑っている、まるい綺麗な写真。イケメンと美人の幸せそうな笑顔。すごいな、とは思っても、うらやましいな、とは全く思わなかった。

 世の中のほとんどのひとにとって、恋愛は当然そこにあるものだ。苦しいこともあるだろうし、失恋したら辛い。それでも恋愛を楽しんでいるひと、恋愛で幸せになれるひとは多いし、誰でも一度は経験する。そして、人間として強くなる。

 そう、教えられて育ってきた。

 事実だとは思う。河野なんてヤツは、それこそ人生に恋愛が絶えないだろうし、本人もそれが楽しいんじゃないか、と思う。あまり喋ったこともないし、イケメンでモテまくりの、女子から告白が絶えない運動部男子、ということくらいしか知らないけれど。高一には河野のファンクラブもあるらしい、という噂を聞いた程度だ。ああいうひとにとっては、この世の中はどれほど生きやすいんだろうな、とつい考えてしまって、卑屈な自分に嫌気がさした。

 寝そべったベッドの中から窓の外を見やると、真っ暗な闇がそこにあった。

(この夜が明ければ、夏休み……)

 ちょっと考えてから、私は窓を開けてみることにした。せっかくエアコンで冷えてきた部屋だったけれど、少しだけ、夏を感じてみるのもいいかな、と思ったのかもしれない。実際、どうして窓を開けようと思ったのか、私自身にもよくわからなかった。

 部屋の温度で冷たくなった鍵をひねって、窓をすこし開く。途端、むわりと生暖かい空気が頬を撫でた。湿った、南国みたいな匂いの風に、やっぱり閉めようかな、という思いがちらつくが、せっかく開けたのだし、ともう少し開いてみた。

 私の部屋の窓の外には、ほんの小さなベランダがついている。マンションの一室だし、大したスペースでもないから、特に有効に利用したことはないのだけど。

 そろりと足を踏み出して、狭っ苦しいベランダに出てみる。風の温度はそれほど高くないのか、日中よりはずっと過ごしやすかった。じわりとシャツに汗が染みるのも、昼間ほど気にならない。

 あふれ出すような蝉の声。この蝉たちは、恋の相手を探すために夜通し鳴くのだという。いつか聞いた、そんな言葉を思い出しながら、私の意識はまた思考の彼方へと泳いでいった。


 私は、ほかのひとと同じようには生きられない。

 物心ついたころから、ひとの気持ちに疎いほうだった。気持ちだけじゃなくて人間そのものに疎かったのかもしれない。ひとの顔がなかなか覚えられず苦労し、相手の気持ちを汲めずに傷つけることもしょっちゅうだった。

 中学に入るころくらいからはひとの気持ちを察しようと神経をつかって生きるようになり、他人に関心がない性格はクールということで押し通した。クールという周りのイメージに合うように、髪を長く伸ばすのをやめて、ショートカットを貫いた。ピンク色のものを持たなくなった。その結果、「たまに鋭いことを言う冷静キャラの女の子」という立場を獲得したのだ。

 しかし、新たな問題が浮上してきた。そのことに気づいたのは中二の修学旅行。同室の女子たちが夜になると、やにわに布団から頭だけ出して顔を突き合わせ、興奮を隠すようにひそひそと話し出した。ぼけっと聞いていたらそれは所謂恋バナというもので、恋愛経験のなかった私は、自然、相槌を打つことに徹することとなった。

「サっちゃんは? 好きな人とかいる?」

 当時仲の良かった子にそう尋ねられ、答えに窮した。今までひとを好きになったことがない、というと、「一人くらいいるでしょ」「もったいない」「これからいい人が現れるって。心配しなくてもいいよ」の嵐。まるで、恋をしていないことが悪いことみたいな言い方だった。そこで初めて私は、自分と周りとのあいだにある、「恋」に対する温度差に気が付いた。

 高校に上がってからは、事態はいっそう深刻さを増していった。『人経』の科目が始まり、女子が集まれば必ず一回は恋愛の話をするようになった。「彼氏がほしい」は誰しもの口癖として女子の会話の端々に登場し、それに「恋をしたい」が続く。彼氏を欲しいと思ったことのない私はみんなから取り残された。嫌われても困るので「私も人生で一回くらい凄い恋をしてみたい」などと心にもないことを口走って話を合わせていたけれど、温度差は日ごとに大きくなっていくようだった。年配の方々から「恋を強制されている」と批判が絶えないこの教育制度に対しても、彼らはむしろそれを楽しんでいるように見えた。

 私にはそれができない。恋という感情がわからない。他人の恋愛に関心がなく、ドラマや少女漫画の恋愛描写にはキュンとするどころか嫌悪感がわいた。彼氏が欲しいという願望もなく、誰かに触れたいという欲もない。好きな男性のタイプもこれといったものがなかった。

 人間として大切ななにかが欠けている。そう思わざるを得ないのだ。

「……ごめんね。私、わからないよ」

 好きなひとの話を嬉しそうにする友人に向かって、何度飲み込んだかわからない言葉。

私はそれを、ひとりぼっちのベランダでそっと口にした。

 ふと、目の端に何かが揺れた。闇の中で目を凝らすと、ベランダの柵の間になにかがある。

「……これ、何だろう」

 見るとそれは、なにかの植物だった。ひょろひょろの茎が弱弱しく伸びて、柵の陰で夏風に吹かれている。その細っこい茎の先には、小さな蕾がついていた。

 こんな貧相なベランダでガーデニングを始めた覚えはない。どこからか、種が飛んできたのだろう。もともと手入れなんてしていないベランダであるし、ここが一階だということもあって、その茎はほかの雑草と入り交じり、今にも押し負けそうだった。

「生えるなら他のところにすればいいのに」

 そう呟いたけれど、植物は自分が育つ場所なんて選べない。種が落ちたその場所で、生涯生きていくしかないのだ。

 抜いてしまおうか、とも思った。何かの拍子に大きく育ってしまっては面倒だし。けれど、こんなしょぼくれた茎のくせして、蕾をつけているこの無名の草がどうしても気になった。

「……蕾が開いてからでいいか」

 この弱気な草が、どんな花を咲かせるのか。見てみるのもいいかもしれない。

 そんなくだらないことを思いながら、ふわりと吹いてくる夏の風に何とはなしに身を任せていると、ポケットに入れたままのスマホが震えて、意識が現実に引き戻される。

 通知を見るのも億劫で、私はその無機質なブルーライトから目を逸らした。

 どうしてだかわからないけれど、無性に泣きたくなる。

「……行きたくないな。バーベキュー」

 夜空を見上げながら、虚空に向かって小さく呟く。番を探そうと必死に鳴く蝉の音量に負けそうなこの声は、しかし私の胸にずしんと重く響いてきた。

 行きたくないのは、ほんと。でもアカリとシホは、『人経』が危機的な私のためにわざわざ企画してくれたのだ。あの二人は私と違って恋ができるけれど、私にとって大切な友達だ。それを断ってしまうのは、本当に私のなかの人間的でない部分を認めてしまうことになるような気がした。

 あーあ。とまたひとつため息をついて、私はベランダを後にした。またベッドに無造作に横になり、スマホをぼんやり眺める。親が帰ってくるまであと三十分ほどだろうか。LINEを開けると、河野のアイコンが表示されたままになっていた。

河野とカナちゃんは、恋をしてるんだな。そんな、当たり前なことが脳裏に現れ、泡のように消える。

 ベランダのあの蕾は、いつ咲くのだろう。ふと、そんな疑問が浮かんだ。



          2


 あれほど雨が降ればいいのにと願ったバーベキューの日は、泣きたくなるくらい雲一つない晴天であった。

 アカリとシホが見つけてくれたキャンプ場に着くと、それは敷地内に小川が流れ、芝生に小高い丘、小さな森まであるような絶好の環境にあった。夜になれば蛍もみられるとかで、私の沈んだ気分も少しは持ち直す。バーベキューも、なんだかんだで美味しかった。自然の中で食べるから、いつもと同じ野菜やお肉でも違う味わいになるのだろうか。

 バーベキューの時間中は盛り上げ役のユウスケがひたすらはしゃぎ、それにアカリが突っ込みを入れる様子がおかしくて、無理に笑わなきゃと気を張ることはなかった。

 ただ、河野とカナちゃんはやはりいつも一緒にいて、二人の間には他の人にはない独特の空気が流れているようだった。これが恋人ってやつか、と何かにつけて思ってしまう。

 河野リョウ、というひとは、私がイメージしていたよりずっと普通のひとだった。

 彼はユウスケのように馬鹿騒ぎをするわけでもなく、かといってテンションが低いわけでもなく、たまに軽口を叩きながら品の良いはしゃぎ方をするひとであった。やはりクラス一、いや学年一の伊達男という異名をもつだけあって、どこか落ち着きがあり、自分がどう見られるのか全てわかっているような男だ。

 均整の取れたからだに似合うジーンズと白のスウェットがこなれていて、「これが俗にいう『かっこいい男子』かあ」と納得する。髪も染めず、服も着崩さず、整った顔立ちと大きな瞳を飾らずに曝け出す様子は心象が良くもあったが、同時に自分への自信を表しているみたいで、私には少し近づきがたく感じられた。

 そんな河野にぴったり寄り添うカナちゃんもまた、細い脚にショートパンツがよく似合っていて、長い茶髪を揺らして笑う姿は女の私が見ても可愛らしいものだった。万年ショートヘアの私とは大違い。

カナちゃんとは高一から同じクラスで、以前はよく話す間柄だった。けれど今年に入ってからはぱったりと話さなくなってしまったのだ。ちょうどカナちゃんが河野と付き合い始める頃くらいだろうか、私とカナちゃんが疎遠になったのは。

 だんだんと陽が落ち、バーベキューがひと段落する。やがてみんなが思い思いに過ごす時間になると、それなりの高さを保っていたテンションもやはり少しきつくなってきた。

 どういうわけか、いや予想はしていたのだが、男女ペアになってキャンプ場を散策するような雰囲気になってしまったのである。私は一気に心もとなさを覚えた。

 驚いたのは、アカリが松岡という男子と仲良くなったことだ。

「松岡くんも、私と同じバンド好きなんだって! 今度一緒にライブ行こうかな」

 嬉しそうに、でも少し申し訳なさそうに私に耳打ちするアカリに、

「よかったじゃん。行ってきなよ」

 私は本心からそう言った。別に私としては松岡狙いで来たわけではない。

「ありがと。サチはそう言ってくれると思った……」

 アカリは男子とわいわい騒げる派手な女の子だが、中身は結構ピュアなのだ。アカリが幸せなら、それでいいかな、と思う。そうまでして欲しい彼氏では、もともとないのだし。

 もう一つ、驚いたことがある。ユウスケがやたら私に絡んでくることだ。

「霧島お前、文系? 理系? あ、もしかして芸術? やってそうー。油絵とかできそう」

 当たり障りのない、もっと言えばどうでもいいことをひたすら私に尋ねては、私が答える前に一人で続けて納得している。よくわからないひとだ。

「普通に文系だよ。数学できないし」

「あー俺も! 数学ってあれだよな。なんか、お高くとまってる感じで、無理だわ」

 ユウスケは独特な感性で喋る男だった。ある意味すごい才能でも秘めているのかもしれない。だがユウスケの才能がどうであれ、鬱陶しいことに変わりはなかった。おおかた、男女ペアで余ってしまったので仕方なく声をかけているのだろう。

「蛍! 蛍見に行こうぜ。夕方になってきたし、そろそろ出るんじゃね」

「出るってお化けみたいに言わないでよ。ていうか、あそこは多分、シホとハヤトくんがいるんじゃない? カップルで見るのがいいじゃん。蛍とかは」

 私の言葉に、ユウスケは分かりやすく狼狽えた。

「あ、あー。そうだよな。付き合ってないヤツが行くとなんか、変だよな」

 言いつつ、ちらちらこっちを伺ってくる。いよいよ面倒なことになってきたらしい。

「ごめん。ちょっと、お手洗い」

 半ば強引に話を切って、私はユウスケから離れた。

(……あーあ。気分悪いな)

 どろりとした嫌悪の気持ちが体の奥で渦巻いた。これは、ユウスケに向けたものではない。ユウスケが私に示してきた、「好意」の感情に対するものだ。

 昔からそうだった。今までも誰かから好意のようなものを寄せられたことはあったけれど、その度に嫌悪感で吐きそうになるのだ。何が一体そんなに私の生理に合わないのか、まったくわからないのだけれど。

 ともかく、せっかく自然の豊かなところに来ているのだし、新鮮な空気を吸ってひとりでリラックスしようと思った。草原のなかをとりとめもなく歩くことにする。

 朝からじりじり照り付けていた、皮肉めいた太陽は西の空に朱色を滲ませるのみとなり、あたりは夜に沈みつつあった。都心からすこし離れたこのキャンプ場では、日差しがなくなるといささか涼しい。高く広い空と深緑色の地平線を見ていると、さざ波のような蝉時雨も手伝って、まるで海の底にいるような錯覚を覚えた。綺麗だな、と世にも陳腐な感想が胸を支配する。それほど、眼前に広がる夏の宵は私を夢中にさせた。

 この目を見張るほど美しい夏の中で、三組の恋人たち、恋人未満たちが泳ぎ揺蕩っている。この恋のゆりかごで、私だけがひとり、そう、ひとりだ。

「あ、ユウスケもひとりか。……あれ。誰だろ」

 私は思わず呟いた。目の端に、人影が映ったからだ。

 人影は一人で、一本の木のそばで立っていた。薄暮のなかでその人影に気づいたのは、その人物がスマホを見ていたからだった。液晶が放つ青白い光が、ちらちら揺れている。

 確か、キャンプ場のこの周辺には私達のグループしかいなかったはずだ。ユウスケが追いかけて来たのだろうか。

 人影は向こうを向いていた。私には気づいていない。そろそろと近づいていくと、スマホに照らされた横顔がようやく見えた。

 河野である。

 おかしいな、と私は首をひねる。先ほどまで河野はカナちゃんと一緒に丘に座って、仲睦まじく話していたはずだ。喧嘩でもしたのだろうか。

 声を掛ければいいのだけれど、ろくに話したこともない相手なのでなんとなく気が引けて、そっと彼が凭れている木まで近づいた。木の後ろから、彼の後頭部を覗き込む。一体私は何をやっているんだろう、と心の中の冷静な私が突っ込んできた。

 河野はどうやらイヤホンをして、何かの動画を見ているらしい。道理で私に気が付かない訳である。ちょっと悪戯心が働いて、スマホをちらりと見た。そして、あれ、と驚く。

 バーベキューの最中の動画だった。確かに、河野が面白がって動画を撮っていたことは知っていたが、どうせ彼女であるカナちゃんを撮っているのだろうなと思っていた。

 だが、河野が再生している動画に映っていたのは、松岡だった。

 松岡が野菜を焼いていて、いろんなひとに分配しているだけ。たった十秒ほどの動画だ。松岡は母子家庭で下に兄弟がいるから、どことなくお母さんのようで、今日のバーベキューでも大活躍していた。もともと可愛らしい丸顔のため終いには「おかん」というあだ名までついてしまい、彼は少し照れ臭そうにしていたっけ。

 その松岡が野菜を焼くだけの短い映像を、河野は何度も繰り返し再生していたのだ。

 私の頭の中は疑問符で溢れかえった。どうして河野は松岡を見ているんだろう。

 あまりに疑問だったので、私は自分の頬に虫が止まっていることにしばらく気が付かなかった。

「うわっ」

 慌てて虫を払う。

そして払ったことで、河野の肘に思いきり手をぶつけてしまった。

「わーーーーー!」

「わーーーーー!」

いつの間にか背後にいた私を見て叫ぶ河野。叫ぶ河野を見て人生の終わりを感じて叫ぶ私。

「い、いつから、そこにいんの」

尋ねてくる河野の声は震えている。それはそうだ。

「あ、いや、ほんのちょっと前だよ。ほんと、今ちょうど来たとこ。河野こそなんでこんなところにいるのよ」

 しどろもどろに私は返した。河野は答えない。こちらをずっと見ている。薄闇の中で、河野の疑いの籠った瞳と目が合う。僅かに不安が滲んでいるように見えた。

「……俺が何見てたか、わかる?」

「え……」

「見ただろ。俺がしてること、お前見ただろ」

 ぎろりと睨まれた。怒気を孕んだ口調に足の裏がひやりとした。怒らせている。河野のこんな怒りの表情なんて、当たり前だけれど私は見たことがなかった。

下手に嘘をついたら、ばれたとき何が起こるかわかったものではない。私の防衛本能が、そう告げていた。

「……動画」

「おう」

「……松岡の……料理してるところ……見てたよね。なんで、」

「絶対言うなよ。誰にも」

 河野は鋭い声で、私の言葉を遮った。

「……カナちゃんにも言っちゃだめなの」

「だめに決まってるだろ。誰にも言うな」

 紋切り口調で、河野は言った。目を逸らせてくれないのが最高に怖い。

けれど、他人を威圧して抑え込もうとする姿勢には、場違いにも少し腹が立った。

「じゃあ、理由を教えてよ」

「理由?」

 私は河野を睨み返した。よくもまあ、この状況でここまで強情になれたもんだと思う。私は、恋にかまける女は苦手だけれど、女を追従させようとする男もずいぶん嫌いだった。

相変わらず、河野の剣幕に足の裏が汗をかいている。それでも、私はあえて強い声を出した。

「どうして松岡を見てたのか、どうして隠さなきゃいけないのか教えて。理由も教えずにひとに何か要求するのは理不尽だよ。納得すれば私は従うから」

「は? お前、秘密なんてそんな簡単に話せるわけないだろ」

「あんたの秘密は私の秘密でもなんでもないよ。だから、それを私とあんたの秘密にしてよ。そうしたら私は秘密を絶対に漏らさない」

「はっ、信用できね……、女は口軽いし」

 私はいよいよ苛ついてきた。女は、女だから……そういう事を言うやつはもっと嫌いだ。

「落ち着いてくれない? あんたに歯向かってきた女は私が初めてで焦ってるの?」

 河野はぐっと顔を引きつらせ、反論しようと口をあけた。しかし、思い直したように首を振り、はあ、とため息をついた。

「わかった。お前ほんとしつこい女だな」

「女っていう言い方やめて。むかつく」

「はいはい。お前、確か霧島サチ? って言ったっけ」

「うん」

 河野は長いため息をつくと、疲れたような顔で、髪を雑にかき上げた。イケメンだから様になっている。

「暗いからスマホつけていい?」

「え? あ、うん。そうだね」

 急に普通に話しかけてきたので、私はびっくりした。さっきまでの威圧感は何だったのだろう。私もスマホを取り出して画面を起動させた。二人分の顔が夕闇に浮かび上がる。

「ほんとに誰にも言うなよ。俺死ぬから、マジで」

「わかったから、なに?」


「俺ゲイなんだよね」


 ゲイ、という単語を聞いて、少し頭がフリーズした。いやに平坦な声だった。一拍おいて、とりあえず何か言わなきゃ、と思った。

「あ、……そうなの」

「うん。俺ゲイ。実は」

 蝉時雨が、一瞬鳴りやんだように感じた。

 河野が、ゲイ。

 どうしてだか急に、居心地が悪くなった。ゲイだと言った河野がどんな表情をしているのか、見えているはずなのに情報として入ってこない。

 内容としては、驚くべきことではないような気がした。LGBTについては授業で扱ったし、昔に比べて差別は格段に減っていて、どこにいてもおかしくない存在だった。

 けれど、そのLGBT、性的マイノリティと言われる存在と、先程まであれだけ抵抗していたのに妙にあっさりその単語を口にした目の前の同級生とが、どうしても結びつかない。磁石の同じ極同士のように、近づいても直前でふいっと逸れてしまうような感じだ。現実感がない。

何と返していいのかわからなくて、勝手に目が泳ぐ。

「えーと」

「なに」

 どうしよう。性的マイノリティの当事者と会うのは初めてだった。何か不用意なことを言ってしまうと傷つけるかもしれない、でもそれなら何を言えばいいのだろう。とりあえず、拒絶だけは避けなければ、と思った。

「へ……偏見とかはないよ。大丈夫」

「当たり前だろ。今時ホモはきもいとか表立って言うやつはそんなにいねえよ」

 河野の口調が、僅かに吐き捨てるようなものになった。そこで初めて、このひとはセクシャルマイノリティなのだ、という実感が胸にきた。彼の口調は、そうやって侮蔑の言葉を受け止めたことのある者の言い方だった。

 やっぱり私は、不用意なことを言ってしまったようだ。居心地の悪さは最高潮である。だから、無難な返事を選んだ。

「……あー、ありがとう。話してくれて」

「お前が迫ってきたんだけどな」

「あ、そうだったね……いや、っていうか、あれ?」

「どうした?」

 ここで、私は大事なことを忘れていたことに、やっと思い至った。

「カナちゃんは? 付き合ってるんじゃないの?」

 そうだ。今日だって河野はカナちゃんと、恋人同士でこのバーベキューに参加したはずだ。

 河野のやたら整った顔に詰め寄ると、大人の女性みたいなシャンプーの香りがした。

「付き合ってるよ」

「え、でも、ゲイでしょ。なんで女の子と?」

 河野はちょっとうんざりした風に、そこまで聞くのかよ、と小声で呟いた。

「ごめん。話したくない感じだったら別にいいよ」

「いや、大丈夫。ただ、俺がゲイだって気づかれたくなかったから、付き合ってるんだ」

 ブルーライトで照らされている河野は、少し目を伏せた。

「『人経』、あるだろ。あれのせいで、恋なんかしてるとすぐ気づかれる。でも俺は、なまじ女…女子からの告白とか多いからさ。恋の兆候は出てるのに誰とも付き合ってなかったら、先生に怪しまれる。どうして恋してるのに付き合わないんだ。まさか恋の相手は、ってなるだろ。だから、カナコと付き合うことにした」

「……」

「カナコも『人経』上げたかったみたいだし、ウィンウィンだろ? 『人経』は誰に恋してるかまでは把握しないしな」

 河野の話を私は圧倒されたような気持ちで聞いていた。女子からの告白が多いことも、彼が言えば嫌味にならないような気さえする。しかしまさか、この二人に恋愛感情がなかったなんて。私はあまりよくわからないけれど、彼らは学年でも理想のカップルで、誰もが羨む青春ラブストーリーを地で行っている、というように思われていたはずだ。

「……流石にびっくりしてる」

「霧島がびっくりしてるの見るの初めてかも。ずっとクールだし落ち着いてるひとだと思った」

 河野は、ここでやっと笑顔になった。私も少し肩の力が抜ける。

「……じゃあ、松岡のことが好き、とか?」

 私が尋ねると、途端に河野は暗闇でもわかるほど狼狽えた。

「う……まあ……そういう感じ……」

「へえ。いつから好きなの」

 聞きながら、なんだか恋バナをするアカリやシホの台詞みたいだな、と思った。

「幼稚園から」

「長っ! あ、でもそうか。幼馴染だっけ。どういうとこが好きとかは」

「……は? 需要ねえだろ! 何聞いてんだよ」

 口元でごにょごにょと反論する河野はおそらく耳まで真っ赤だ。なんだか微笑ましくて可笑しい。

「でも、なんか、河野がゲイって聞いて私、ほっとしてるかも」

「はあ? なんでだよ。お前もセクマイもってんの」

「いや、そういう訳じゃないけど。なんか、人間っぽい。そっちのほうが」

 クラスにいるモテる男子、というだけだった河野が、いきなり近くなったような気がする。私にとって河野リョウという人物は、『人経』の成績が一番、という最も遠い存在であった。恋も処世術みたいに器用に扱って、うまく生きているひとだと思っていたのだ。そんな人間離れしたイメージで勝手に固めていた河野というひとを私は、今初めて視界に入れたように感じた。こんなにも良い意味で「普通」なひとだったとは。

(人間らしくないのは、私の方だ)

 心の中で、不意にそんな声が囁いた。

(河野は恋をしてるんだ。恋がわからないお前なんかより、ずっと人間だ)

 脳内で響く声は、つめたい。

「霧島さあ」

 河野が、不意に呼びかけた。

「お前、なんか他の女子と違うよな」

 聞いて、背筋が震えた。気づかれてしまったのだろうか。恋を抱けない、人間として不完全な私のことを。

「……な、んで」

「いや。ちょっとかっこいいなって。お前男だったら惚れてるわ」

 河野は、にっと笑った。笑うと黒目が大きく見えて、幼げな印象になった。

「かっこいい……は、あんまり言われない」

「そりゃそうだわ。でもお前、絶対かっこいいよ」

 なぜか譲らない河野に、私も思わず笑ってしまった。かっこいい、の意味はよくわからなかったけれど。ああ、さっき強情に理由を聞かせろと強請ったから、男勝りに思われたのだろうか。

 他の女子と違うことを、肯定的に言われたことはこれまであまりなかった。「冷めてる」とか「不愛想」は悪口だし、「クール」「穏やか」「落ち着いてる」は、自分があえてそうなろうと作っているものだから誉められたようには感じなかった。

 そうか。「かっこいい」なんて風に捉えてくれるひともいるんだな。

 そう思うと、さっき心の中で私を糾弾した声のつめたさも幾らか忘れることができる気がした。

「そろそろ肌寒くなってきたな。帰るか」

 河野の声で我に返ると、あたりはすっかり暗くなっていた。星さえ顔を出しそうな夏月夜。森が音を吸い取るのだろうか、絶え間ない蝉のさざ波の他に、人工の音は何も聞こえない。

「お前、先帰って。俺ら一緒に登場したらカナコに誤解されて面倒だし」

「あ、そうだね。じゃお先に」

 河野の提案に乗って、私は宵闇の落ちた草原へと踏み出した。なるほど確かに、ここで二人が一緒に帰ってきたらいろいろまずいだろう。

 河野はああやって、いつも様々なことに気を使いながら生活しているのだろうか。ゲイである自分を隠すために。カナコとの関係を語った彼の、伏せた目を思い出す。

 嘘をつき続けること。そのために神経をすり減らすこと。

 そのつらさは、そっくりまるごと、水が半紙に滲むように私の胸に染みてくる。隠すものは違えど、私達は毎日なにかの「嘘」にがんじがらめになっているのだ。

(……同じだ)

 この先話すことがあるかもわからないクラスメイトに背を向けて歩きながら、私は言いようのない興奮に体がだんだん支配されていくのを感じていた。例えかたちの違う嘘でも、その苦しみを同じように抱くひとがいた。そのことが単純に嬉しくて、私は緩む口角を抑えられなかった。あんなに遠かった河野の存在が、この短時間ですごく近い位置に降りてきた気がする。

草いきれを孕んだ風に促され、アカリたちのいる方向へ、私はゆっくりと歩みを進めていった。

 私の予想通り、それから私と河野は、合コングループが解散するまで一度も話すことはなかった。親しいそぶりも見せず、目が合うこともなかった。

 ただ、時折、松岡と話す河野の大きな瞳に滲む寂しさを、私だけはせめて捉えていたいと、それだけを思っていた。



          3


 河野から個人でLINEが届いたのは、それから一週間も経ってからのことだった。

『話したい事あるんだけど、どっかで会えない?』

 突然、こんなLINEが来たからびっくりしてしまった。こういう彼氏みたいなトークはカナちゃんにしてやれよ、と思いつつ、わくわくしている自分がいる。私にしては珍しく、通知を見てすぐ返事を返した。

『〇〇駅の前にス●バあるからそこで』

 すると、すぐ返事。『ス●バ高くて無理。サ●ゼにしよう』

 笑ってしまった。普通の高校生なんだな、と当然のことを実感する。私には河野のことがどうしても、まだ自分とは違う世界に生きるひとのように思えてしまうらしい。

 三十℃を超す気温と容赦ない日光に急かされるような、真夏日の某日。私は、河野に会うことにした。

 昼過ぎ。待ち合わせ場所にしていた、学校の最寄りになっている駅の前に私が着いたとき、河野は逆ナンに遭っていた。専門学校生と思しき、年上のど派手なお姉さん4人にしきりに絡まれている。河野は愛想笑いを浮かべているが、困り果てているのが丸わかりだった。

 私の姿を見つけると、「助かった」という顔をしてこっちに走ってきた。お姉さんたちを必死に振り切っている。私は、このひとと恋人に見えるのは河野に申し訳なくて嫌なので建物の陰に隠れて、河野を迎えた。

「マジでしんどかった。あんなのに囲まれて嬉しいやついる?」

「ユウスケは喜ぶだろうね」

「確かに」

 それで、二人でユウスケが逆ナンに遭う場面を想像して笑った。ここで、河野とすでに、旧友のように親しげに話せていることに自分でも驚いた。

 駅前のサ●ゼリヤは、午後であるということもあり、そこそこ混んでいた。エアコンが聞いていて心地よい。河野は店員が指し示した手前の席ではなく、奥まった席を選んで座った。

 今日の河野は白いシャツにスキニージーンズという、シンプルな出で立ちだった。それでも素材がいいからか、モデルのように決まっている。

「話ってなに? 私が呼ばれたってことは、なんか進展あったの。松岡と」

 ドリンクバーのウーロン茶を飲みながら、私は早速本題に入る。私と河野の接点なんて、この前聞いたあの話以外にはないからだ。

 しかし、河野はけろりと答えた。

「いや、別にない」

「え。ないの? ……ないの?」

「ない。てか、あるほうが俺は嫌だな。イツキとは幼馴染のままでいいし」

 そうなのか。てっきり他の女子と同じように、恋人になりたいのだと思い込んでいた。

「だって、男が男に告って、OK貰えるほうが珍しいだろ。だいたいが何となく一緒にいるのが気まずくなって、疎遠になって終わり」

「そういうもんか……」

 私はそれを聞きながら、恋愛って本当に難しいな、と思う。

「俺はイツキに嫌われたくないからな。今のままでいいんだ」

そう言ってコーラを啜る河野の声が、自分に言い聞かせてるように聞こえるのは勘繰りすぎだろうか。

「じゃあなんで私を呼んだの」

「そうそう。お前らとバーベキュー行ってからすぐに、俺とイツキとハヤトで旅行行ったの。箱根に」

「箱根かあ。いいじゃん」

 私も一度、家族と訪れたことがあった。友達同士で行くには手頃な距離だし、美味しいものも沢山ある。

 河野はそこで少し眉をひそめ、小声になった。

「でさ、話したいことがあって」

「それはもう知ってる」

「あの……怒らないで聞いてほしいんだけど」

「なに、私を怒らせるようなこと言おうとしてんの? ちょっと待ってよ」

 それとも私、そんなにすぐ怒りそうに見えるのかな。それはそれで失礼な話である。

「違うって。だけど霧島、恋愛とか恋バナとか嫌いだって聞いたから……」

「なんでもいいからはやく話してくれる?」

 ちょっと急かしてみると、河野は少し間をおいてから、決心したように顔を上げた。

「じゃあ、言うからな。イツキがめちゃくちゃ可愛いって話」

「……は?」

 ……結局、彼は一時間ほど、自分の思い人がいかに旅行中に可愛かったかを力説した。

 旅行前日に『荷物が詰め終わらないのに、妹たちが絵本の読み聞かせをしろとせがんでくる』と河野にLINE電話で泣きついてきたことから始まり、一日目に来ていた服がピンクで可愛かっただの、アイスを買って喜ぶ姿がすごく可愛かっただの、家族へのお土産を選ぶ様子が健気でめちゃくちゃ可愛かっただの。挙句の果てには、旅館の露天風呂でのぼせた感じがなんか、いろいろキツイとまで言い出した。

「ちょっと待って」

「え? あっごめん。やっぱ恋バナ苦手だからしんどい?」

「そういう問題じゃなくて……なんていうか……甘さが渋滞してるっていうか」

「どういう意味?」

 スマホにこれでもかと撮りためた松岡の写真をいちいち見せながら、立て板に水のように話し続けていた河野は目を瞬かせた。

「要するに、あんたの話は恋バナいくら好きでもきついよ。糖度が高すぎて」

「……すまん……」

 みるみるうちに萎れていく河野。私が抱いていた、そつなく恋を操るモテ男子のイメージとはまるっきり逆である。

「俺がゲイだって知ってるの、お前だけだから。こういうの発散できる相手って、霧島しかいねえんだよ……」

 もごもごと言い訳している。子供っぽくて笑いそうになるのをぐっと堪えた。どうやら今日はこの惚気を聞いてほしかっただけのようだ。もしかして、私にゲイだと伝えたのは、都合のいい吐き出し口が欲しかっただけだったのではないかとすら思えてくる。

 だが、不思議と嫌な感じはしなかった。男性同士の恋愛の話であり、自分が本当に無関係であるからだろうか。いつも感じていたような気分の悪さやイライラは、なぜかほとんど胸に沸いてこないのだった。自分が取り残されたような感覚も、恋愛を正しいことのように扱う雰囲気も、彼との話の間に上ってくることはない。

 そこにあるのは、誤魔化しようのない河野の恋の感情だった。このひとは感情に正直なたちなのだな、と思う。

 そういえば、とふと思い立ち、私は彼に問うた。

「ていうか、両親はゲイなこと知らないの? 他の友達も?」

「うん。親は結婚して孫を抱かせてくれっていつも言ってるから、打ち明けたら大変なことになりそう。友達なんか論外だよ。どこからバラされるかわかんねえし、それこそイツキの耳に入ったら俺たち、元に戻れねえもん」

「でも最近は、LGBTへの理解も進んでるらしいじゃん。カミングアウト、だっけ? それをしても拒絶されることはないでしょ? 『人経』の成績だってマジョリティと同じように付けられるって先生も言ってたし」

 性の多様化はこの現代では、そんなに特別視された問題ではない。同性婚も性転換手術も認められている。『人経』にも影響がないなら、わざわざ女の子と付き合って恋心を誤魔化さず、同性カップルを組めばいいのではないか、と思ったのだ。

河野は、うーんと唸る。自分の気持ちを表す適切な言葉を選んでいるようだった。やっぱり感情には誠実なひとであるらしい。

「……カミングアウトも、ずっと考えてた。でも、ゲイだって知ると、俺のこと『ゲイの河野リョウ』って目で見るだろ。そういう風に見ないようにしてても、結局どっかでそういうフィルターができちゃうと思うんだ。『人経』の成績欄にも、LGBTは『特記事項』として掲載されるらしいし。俺がこの先生きていくときに、そういうフィルターとかなしで、俺は『俺』として扱われたいっていうか……。

イツキにも、ゲイだから可哀そうだし付き合ってやろうかなとか、思われた日には、俺、つらすぎて死んじゃいそう。好きなひとにも社会にも、『ゲイであること』を、俺のこと評価する定規にしてほしくない、みたいな……ごめん、俺もよくわからない」

 河野は時折考えるように目を泳がせながらも、一生懸命話してくれた。

 すごいな。と、シンプルに感じる。私はこの先どうやって生きていくか、ひとにどう評価されるのが幸せか、なんて考えたこともなかった。今を生きることで精一杯で、余裕がない。しかし現実がつらいのは、むしろ河野のほうであるはずなのに、彼はこんなにも自分のことについてちゃんと考えをもっているのだ。

 私は自分のことを嘆くばかりで、その実私の胸の中にあるのは甘えなのではなかろうか?

「はあ、なんか話せてすっきりした。ありがとな霧島、呼び出して聞かせたのがこんな話で」

 コーラを飲み干し、伸びをする河野。私のウーロン茶はほとんど飲まれずに汗をかいていたけれど、そのことにも気を掛けず、私は思わず言った。

「……別に、気にしないよ。むしろ、これからもたまに私のこと呼び出せば?」

「え?」

「私、良くも悪くもひとの惚気話聞いても全然羨ましくないから。恋バナは苦手だけど、あんたの話はちょっと面白かった。私しか話す相手いないなら、たまになら聞いてやるって」

 河野の恋の話は、私が今まで聞いてきた恋バナとは何かが違う気がした。それはやはり、女性である自分にかかわりがない話であるからかもしれない。けれどそれ以上に、LGBTという特性を抱えながらも、全力で恋をする河野は、何かが違う。私に「好きなひとくらい作ったほうがいいよ」と言ってくる女子たちの、『私にないもの』を突き付けてくる感じがない。

 河野の恋は、私になにかの片鱗を掴ませてくれるような気がした。

「……まじで?」

 河野は目を丸くした。

「俺が言うのもなんだけど、女子って惚気話するの好きなくせに、他人が惚気ると怒るもんじゃねえの?」

「まあ、わりとそういう子は多いかも。恋してるひとの気持ちがわかっちゃうから、幸せそうで羨ましいとか思うんじゃないかな」

「霧島はそうは思わないってわけ」

 河野の目が、私を覗き込んだ。びっくりするくらい綺麗な目だった。

そのビー玉みたいな瞳から逃れるように、体が勝手に動いて、目を逸らす。

「……私は恋できないから」

「できない?」

 河野になら、話せるような気がした。河野はゲイという、ひととは違うセクシャリティを持っているから、「他人とは違う」私のことを受け入れてくれるような予感がある。

けれど、今はやっぱり怖かった。欠陥品のような自分をここで曝け出したら、河野はもう私に恋の話などしてくれないような、そんな不安で手の先が冷たくなった。だって、恋のわからない人間に恋の話をして、一体誰が面白いと思うだろう。

「ごめん。なんでもない。でも、あんたの惚気話に嫌な感じがしないのは本当。じゃんじゃん話しちゃってよ」

 誤魔化すようにわざと茶化した口調で言うと、河野は一瞬もやっとした顔をした。けれど、すぐに笑顔になる。

「霧島って変な女」

「だから女っていう言い方やめて」

「な、霧島、俺のこと好きなの? もし好きだったり、これから好きになりそうなら、もう会わない方がいいよ」

 河野のこの自信は、いっそ清々しい。私は笑いながら、皮肉たっぷりに言ってやった。

「お生憎様。あんたのことそういう風に思ったことないし、多分ずっとそうだわ」

「言ってくれるじゃん。安心した」

 結局、その日は河野が惚気話をぶちまけるだけで終わった。



          4


 それから私のLINEには、河野からの誘いがちょくちょく入るようになった。本当に胸の内を曝け出せる相手を欲していたのだろう。彼が恋に関して、私を拠り所にしようとしているのは明らかだった。だから、私も予定が合えばできるだけ会ってやることにした。

 場所は、決まって駅前のサ●ゼ。畳みかけるような蝉の合唱から逃げるように、私達はいつも足早に店に入っていく。

「昨日は松岡と電話したんだ。弟が友達の家に泊まりに行ってて、家事が減ったから時間余ったんだと」

「へえ。それで」

「それだけ」

「…ああ、そう」

 河野との不思議な「逢瀬」……恋抜きのデートは、たいがいがこんな調子だった。

「なあ知ってる? イツキってすげえ歌うまいんだぜ」

「知らないよ。同じクラスになったことないし」

「一回聞いてみろよ。本当にうまいから。俺スマホにあいつのカラオケしてるときの動画入れてるから聞かせてやる」

「ちなみに本人の撮影許可は……」

「ない」

「……ですよね」

 河野の愛の重さは、一応女子である私も思わず引くほどである。

「あいつ、本当はギターやりたかったんだって。曲つくって歌ったり」

「歌うまいし、器用だもんね。松岡は」

 実際には私と松岡は、ほとんど話したこともない。なのにここ二週間ほどで、ずいぶんと彼に詳しくなってしまった。妙な気分である。

「イツキのおばさんはシングルマザーだろ。やっぱりギター買う余裕はないみたいなんだ。進学はギリ許されてるみたいだけど、大学入ったら今よりもっとバイトに明け暮れるつもりなんだっていつも言ってる」

「そうなんだ……言い方悪いけど、勿体ないよね」

「俺もそう思う。あいつは絶対そっちの才能があるよ、好きな相手だからとか関係なく。イツキは音楽やるべきだ。だけど俺がいくらそう思っても、どうにもならねえし」

 悩んているときの癖なのだろうか、しきりに眉間に皺を寄せる河野は、至って真剣だった。よく恋人のいる女子が言っている、「好きなひとのためなら何でもしてあげたい」って、こういう状態のことを言うんだろう。と私はひとり納得した。

 あるときは、河野から電話がかかることもあった。

『聞いてくれよ霧島。あ、なあ、霧島って長いしサチって呼んでいい?』

『は? 別にいいけど、急になに?』

 河野のよくわからない馴れ馴れしさにも、いい加減慣れてきた。

『悪い悪い。でさ、さっきイツキが送ってきた画像が超面白くて』

 河野からの電話は、「逢瀬」に輪をかけたどうでもよさであった。

『イツキが夏休みの課題やってる写真なんだけど、弟と妹がすごい邪魔してるんだよ。それを一番年上の弟が面白がって撮ったやつを送ってきてて、マジで笑った。イツキの変顔がやばくて』

『なにそれ、見たい。私にもちょうだい、その画像』

『え、嫌だ。サチにこの写真は刺激が強すぎる……』

『なに言ってんの』

 その写真が河野から送られると、電話口で、私達は軽く五分は笑い転げることになった。本当に、松岡には申し訳ないことをしているな、と思いながら。

『松岡の家って、賑やかでいいよね』

『そうだよなあ。俺も弟いるけど、あんまり喋らないし。というか親とも全然会話とかしてない』

『そうなの? 私もだよ』

 私の家は両親が共働きで、家族が揃うことは少ない。加えて一人っ子である私は、一日の殆どを自室で一人過ごしていた。夏休みである今などは、一日のうちに河野以外誰とも話さない、なんてこともざらにあった。

 そのことを河野に話すと、電話の向こうの声は少し重くなった。

『俺は母さんが専業主婦だから家にいるけど、母さんも父さんも俺には勉強しろ、いい大学に行けって、それしか言わないんだ。家が結構、代々続く家系ってやつでさ。父さんが医者だから俺にも医学部に行ってほしいみたいなんだけど、煩いから全然喋らない』

『そうなんだ、私とは全然違うな…私はむしろ勉強しなさいとか、言われたことないや。放任主義みたいで』

『そのほうが気楽でいいじゃんか。親は両方とも、俺がレベル高い大学に行くことしか考えてないんだぜ。弟もいるから国公立大学に行かないとまた怒られるし。『人経』だって親が内申点をあんなに強調してこなけりゃ、こんなに気使っておん……女子と付き合ったりしない』

 河野の家はどうやら、典型的な学歴重視の家庭であるらしい。私は親から干渉されたことがないのでわからないが、この分だと結婚の時期まで親に決められているのだろう。

 それにしても、どうして河野がここまで『人経』の点数や『人経』の内申に書かれる「マイノリティ」の項を気にしているのかが、何となく掴めた気がした。きっと彼の家庭では医大を受けるために内申を良くすることと、家を継ぐために結婚することが義務であり、喜びなのだろう。「マイノリティ」のレッテルを張られれば、家系を存続させるような結婚は難しい。

『俺の家は考え方が古いんだよ。いい奥さんを貰えることが一番の幸せだと思ってる』

 今のご時世にはかなり珍しい風潮ではあるが、日本ではまだ「家」という存在が幅を利かせている節があると河野は言った。

『俺は、家なんて続かなくてもいいと思うよ。俺は一番好きなひとと幸せに生活できればそれでいい。……いや、なんかすごい恥ずかしいこと言ってるな、俺……』

 電話の向こうではきっと、河野が顔から火を噴いているだろう。思わず笑ってしまった。河野は私が思っていたよりもずっとロマンチストなのだった。



          5


 珍しくリビングに這い出してスマホを弄っていた私の耳に、テレビが流すサイレンの音が飛び込んできた。それで、ああ、今日は八月六日か。とぼんやり思った。夏休みというものは、どうしても日付の感覚を狂わせる。テレビの中では、この辺では聞かない蝉が引き絞るように鳴いていた。今日が何日何曜日かを、夏休みでとろけた私の脳みそに刻み付けでもするようだった。

「サチ。ちょっと」

 母が不意に私を呼んだ。今日は仕事が休みで、両親は家にいる。先ほどまで皿洗いをしていた母は、いつの間にかエプロンから外出用に、ちゃんと着替えていた。その声が妙に堅いので、嫌な予感がする。

「今から、お母さんと学校行くわよ。三者面談。早く着替えなさい」

 ああ、やっぱりきたか。

 夏休み前最後の登校日、担任の石ちゃん先生が言ったことをいまさら思い出す。大方、『人経』の成績がピンチだからという内容だろう。

 それにしても、三者面談の日取りを、私は今の今まで知らなかった。今日だったのか。たまたま河野とも他の友達とも会う約束がなかったけれど。

(どうして私の問題なのに、私には教えてくれないの?)

 当然といえば当然な疑問が、私の脳裏に去来した。しかし、そんなことを言っても、どうにもならないことくらいわかっている。だから私は、黙って制服を引っ張り出した。

 制服のシャツが一枚だけ、丁寧にアイロン掛けされていて、一瞬息が詰まった。


 人気のない夏休みの学校は、初めての場所みたいに余所余所しかった。

 正午の日差しが差し込むリノリウムの床を、私の上履きと母のスリッパがひたひたと進む。青白い光に満ちた廊下は、どこか別の世界のように異質に感じられた。

「サチ」

 前を向いたまま、歩みを止めずに母が私に呼び掛ける。

「お父さんお母さんと話すのは、帰ってからよ」

 母の声は、この無機質な廊下に似て酷く平板だった。有無をいわさぬ母の言葉に、指先が冷たくなる。

「…わかってる」

 蝉の合唱にかき消されそうな弱々しい声が出て、少し驚いた。

 いつもの教室に入っても、そこが現実世界ではないかのような感覚は消えなかった。隣に家族がいるからなのか。はたまた机が移動され、中央に4つの机がくっついた島ができていて、あたかも三者面談であるという雰囲気を醸し出しているからなのか。

 それとも、開いた窓からしらじらしく差す炎天の光が、そう思わせるのか。

嘘みたいな、普段と同じ教室に私は思わず唾を飲んだ。

「ああ、ごめんなさいね、お待たせして。暑かったでしょう」

 母と私が島になった机に掛けて待っていると、ガラッと建付けの悪い扉が開いて、担任の石ちゃん先生が慌てたように入ってきた。大粒の汗を額に光らせ、小太りな体を小さく丸めて母に謝る。

「ちょっと、先生方との会議が長引いて。『人経』の成績の扱いについてなんですがね。あ、申し遅れました。俺、わたくし、あの、霧島サチさんの担任の石原です」

 ポケットから草臥れたハンカチを出して汗を拭うと、石ちゃん先生はにこっと人のよさそうな笑みを浮かべた。

「サチの母です。いつも娘がお世話になっています」

 母の声は依然として平べったい。仕事に穴を開けなくてはいけず怒っているのだろうか。

「今、空調が故障してまして。窓を開けているんですが、暑いですよね。これでご勘弁ください」

 石ちゃん先生はどこからか持ってきた扇風機のコードをコンセントに差しながら、後程事務のほうがお茶を持ってきます、と早口に告げた。その間も、へらりとした笑いを顔から消すことはなかった。

 私はその一部始終を、母の半歩後ろで黙って聞いている。石ちゃん先生は、普段から少しへらへらしたところがあって、面白いひとだが頼りがいはあまりない。現国の先生だからなのか、義理人情に厚いみたいなところがあって、生徒からはそこそこ人気がある。けれど、私は彼のことがそこまで好きではなかった。今だって、生徒には向けない大人用の笑い方を貼り付けている先生が、すこし怖かった。

 お茶が運ばれてくると、やっと石ちゃん先生も席に着いた。ほんの一瞬、沈黙が降りた。

 扇風機のモーター音だけがやけに大きく聞こえる。

沈黙を破ったのは、母だった。

「サチは……娘は」

 母の声は震えていた。

「どこか、おかしいんでしょうか」

 私は思わず、隣に座る母の方を向いた。母はこの暑い教室でも汗ひとつかかず、病人のように青白い顔をしていた。こちらをちらりとも見ず、母は続ける。

「『人経』が振るわないということは、高校一年のときから私達も心配してきました……でも、これはあまりにも」

 母の手元には、成績表が握られていた。いつの間に我が家に郵送されて来ていたのだろう、ちっとも知らなかった。

石ちゃんが汗を拭きふき、母を宥めにかかる。

「お母さんが心配される気持ちもわかります。確かにこの時期で1という数字はいささか厳しいと言わざるを得ませんが、過去に前例がないわけでもありません……ひょっとしたら、監視機構が見落とすほど、穏やかな想いをお持ちなのかも」

「先生は」

 母の鋭い、上ずった声が石ちゃんの言葉を遮った。

「石原先生は、うちのサチが、『人経』の評定も下せないほど心無い、感情のない子だとお思いなんですか!」

 ぐしゃり、と音がして、母の手の中の成績表は紙くずになった。

「今の技術で、恋心が監視から漏れるなんてあり得ません、そうですよね? 子供の些細な気持ちもちゃんと拾って評価してくれるのが、このシステムでしょ?」

「お母さん、落ち着いて。確かにこの技術は確立されたものですが」

「ならどうして、私の子供に成績がつかないの。この子が誰のことも好きになれないっていうの? サチは、そんな冷たい子じゃありません」

 母の顔はどんどん青くなっていく。きんきん響く声が脳内にこだまして、私は耳を塞ぎたくなった。

「勿論学校としても、サチさんを最大限サポートします。今からでも遅くありません、これからきっといい出会いがあります。人間はひとそれぞれですし……」

「……そういうことじゃないんです…サチはもともと、人付き合いが得意なほうではないのよ。そんなこの子を今度は『人経』で苦しめなきゃいけない親の気持ちにもなってよ」

「……」

「とにかく、私の子が恋をしてないなんていう、『人経』の評価は、私は信じられません。この子は感情のないロボットじゃないわ」

 母はそれだけを乱暴に言い放つと、「もういいですか?」と、私を急き立てて教室を出た。帰り際、振り返ると、石ちゃん先生が困り果てたように、またへらへら笑っていた。

 生徒のいない、冷たい廊下を再び歩く。母はやっぱりこちらを見なかった。

 母の顔は、握りつぶされた成績表みたいにくしゃくしゃだった。

 家へと帰るまでの道のりも、母と私の間に会話はなかった。

 気温はもう30度を超えているだろうか。コンクリートの道を反射した日差しのせいで、視界がゆらゆら揺れている。頭がぼうっとして、考えがまとまらない。

『この子は感情のないロボットじゃないわ』

 そう言い放った母の声が耳の奥で蘇った。いつも仕事で忙しく、私の学校生活にはほとんど干渉してこない母。その母が、私をどう思っているかが、今日はじめてわかった。

「サチ、お昼ご飯は外にしようか」

 突然、平たい声が話しかけてきて、私は思わずびくんと肩を震わせてしまった。それを悟られないように、わざと明るい調子をつくる。

「いいよ。暑いし家で食べよう」

 本当は、こんなどろどろした気持ちで母と向かい合ってご飯を食べることが苦行のように感じたから、そう言った。家ならばどこでご飯を食べようと自由だ。

 母はそんな私の思いを知ってか知らずか、

「そう」

 と短く返事をしただけだった。そして、また黙々と帰路を急ぐ。

 家に着く頃には、私は昼ご飯を食べる気力も失っていた。やるせない気持ちで自分の部屋に入り、昼食を食べるように言う母に生返事を返して、ベッドに飛び込んだ。

 夏休み前、最後の登校日の放課後を思い出す。あのときも疲れ切って、そのままベッドに直行したっけ。けれど、今はあのときとは比べ物にならないほど、全身を思い倦怠が包んでいた。

(感情のない、ロボット)

 母はきっと、未だに恋の兆候がない私を心配して、私のために『人経』の評価が不適当だと怒ってくれたのだろう。そんなことはわかっている。そう信じている。

 でも、そう自分自身に言い聞かせればするほど、母の思いを裏切る私のこころが浮き彫りになっていた。

 恋をしていないという事実を、「我が子は冷たい子じゃない」と切って捨て憤慨した母は、恋という感情を持てないひとをロボットと形容するひとなのだった。そのことに、気づいてしまったのだ。

 胃の奥がぎゅうっと縮まって、喉が閉まって苦しい。気持ち悪い。

 私は重たい体を引き摺って、のろのろと立ち上がった。ベッドから降り、洗面所へと向かう。顔でも洗って、このどす黒い気持ち悪さをどうにかしたかった。

 洗面台で顔を雑に洗って、ふと目の前の鏡を見る。そこには、青白い顔をした、およそ女らしくもないショートヘアの人間が映り込んでいた。生気のないまなざしが交差する。

(……お母さんに、本当のことを伝えたら)

 私が、恋ができないひとであること。誰かを好きになれず、恋愛や性を嫌悪し、彼氏も結婚も子供も、他のひとみたいに望むことがない。そんな事実を伝えたら。

(……私を、ロボットだと言うだろうか)

 冷たい子だと怒り、失望するだろうか。気味悪がるだろうか。

 私はやっぱり、人間じゃないんだろうか。

「……きっついな……」

 絞り出すような呟きが、知らず口から零れ落ちた。涙は出ない。ただ喉の奥だけが、ひりつくように痛くて、声帯が勝手に叫び出しそうだった。

 鏡の中の自分が、淀んだ目をして私を覗き込む。お前は人間の欠陥品だ。ひとを愛せないのに、どうして存在しているんだ。そう責め立てる声すら聞こえるようだ。

 顔を洗っても、気分はさっぱり晴れなかった。これ以上、鏡に映る自分を見ていられなくて、私はまた重い足をなんとか動かして部屋に戻った。

(外の空気、吸いたい……)

 そう思って久しぶりに出たベランダは、皮肉のようにあっけらかんと広い夏空を背に、静かに日に焼けていた。よろめく足取りで踏むコンクリートが熱い。

 柵の間には、あのとき見つけた植物の蕾があった。よく見ると、暑さでへばっているのか、茎は勢いをなくして力尽きようとしていた。

 私はしばらく立ち尽くして、しょんぼりと下を向くその蕾を見つめていた。

 自分でも、私はおかしいのだと思う。

 どうしてこんなに私が性と恋愛を嫌悪するのかはわからないけれど、これが私の性格からくるものなのだとしたら、私はなんて薄情でつまらない人間なのだろう。男のひとを、いや女のひとでも、誰かひとを好きになることが私に本当にできないのだとしたら、一生このまま生きていくのだとしたら、私はなんて冷たい、ひとでなしなのだろう。

 友達との温度差。親からの無自覚な言葉。そのひとつひとつが微小の刃のように、私の心を抉っていく。

 河野の顔も浮かんだ。河野のあの、まっすぐな瞳。それに目を合わせていられない自分、という事実もまた、心を刺す刃となる。

(……恋愛って、そんなに無くてはいけないものなのかな)

 逃げだ、現実逃避だとわかっていても、そんなことをつい考える。いっそ恋がなくなってしまえばいいのに、と思った。そうすればみんな、夏が恋の季節だなんて言わなくなって、私も夏を好きになれるのに。

 恋なんてなくなれば、きっと私は、自分を好きになれるのに。

「あんただって、頑張らなくていいんだよ」

 朽ちようとするあの蕾に向かって、私は呟いた。

「疲れたら、やめちゃえ。花咲かせるのなんて」

 名もない花の枯れゆくさまを見ていると、目の奥が熱くなった。

 恋を知らない、恋に疲れた女が流した涙は、蕾を潤すこともなく、灼熱のコンクリートへと吸い込まれていった。



          6


 八月も十日を過ぎる頃には、駅前のサ●ゼは私と河野の秘密基地も同然となった。

 部活のない高二というのは気楽なもので、集合は決まって午後一時。いつも私はたらこパスタを、河野はドリアを注文する。あとはドリンクバーを五往復ほどしながら、夕方六時頃まで私達はそこに居座った。

 ちなみに、最近まで私は河野がサッカー部かなにかに所属していると思い込んでいたのだが、彼は驚いたことに私と同じ帰宅部であるらしい。ただ、運動が何でもこなせる河野は様々な部活にピンチヒッターのように呼ばれては顔を出しているため、何らかの運動部に在籍しているように見えているらしかった。運動神経がいい奴も大変なんだなと、体を動かすのが嫌いな私はただただ尊敬の眼差しを向けるのみだ。

 だがその河野もこの夏休みは運動部からの呼び出しが少ないらしく、毎日を無為に過ごしているとのこと。きっと部活で河野に会えるのを心待ちにしていた女子だって少なくないだろうに、と私はすこしその女子たちに同情した。

 五日ほど前の三者面談のことを、私は河野にも話せないでいた。いつになく沈んでしまう私を見ても、河野は気づかないふりをしてくれる。詮索されるよりよっぽど楽だった。

「あー暑かった。ここ入ると生き返るぜ」

 サ●ゼに入って席に着くと、河野は決まってぐーんと伸びをする。ずいぶんとリラックスしてるみたいだね、と聞けば、いつも学校では「モテる勝ち組男子」というレッテルが貼られているため、なかなか素が出せないのだという。そんなレッテルならいいじゃないか、とも思うのだが、彼もそれはそれで苦労しているのだろう。

 加えて、ストレート(異性愛者、の意味らしい。河野から言われて私は初めてその言い回しを知った)であるという嘘をつき続けなければいけない身だ。本当に気を抜いている河野の姿を見られる女子は私くらいなのではないか、と思ったりする。

「でも夏はこれくらい暑くねえとなあ」

「ええ? 私は嫌だな、夏がこんなに暑いの」

「そうか? 俺、夏けっこう好きなんだ。テンション上がるっていうか」

 いつものことだが、河野と私が話すとき、実際に喋っている時間は私が一に対して河野が九くらいだ。専ら河野が松岡のことや家の愚痴、『人経』のことなどを次から次へと話し続け、私はそれにひたすら相槌を打つ。たまに尋ねられて私の近況を話したり、ちょっとからかってみたりすることはあるけれど、大概私の台詞には、十倍程度の分量のリアクションが返ってきた。もともと明るく、人好きのする性格である彼は話も上手い。聞いていて飽きが来ないのだ。だから私は聞き役に徹しながらも、彼との会話を十分楽しむことができていた。

 今日も今日とて、河野は畳みかけるような話術を盛大に披露している。

「夏のさ、なんか、匂いっていうの? そういうのがし始めると、うわー夏休みだ! って。海だ! 西瓜だ! 夏祭りだ! って、ならねえ? サチは」

「私は苦手。じめじめしてるし、蝉は煩いし。あと、無駄に爽やかなイメージがちょっと」

 頼むものなんて決まっているくせにメニューをつらつら見ながら、私はそう返す。

 河野は鞄から桃色のハンカチを出して汗を拭きながら、きょとんとした顔をした。いつも思うが、河野は常にハンカチを持っていたり絆創膏を携帯していたりと、そんじょそこらの女子より女子力が高い。

「陰気なこと言うんじゃねえよ。夏っていったら青春と恋の代名詞だぜ」

「そういうとこが好きじゃないの」

 思わず、そんな風に突っぱねた。言ってから、河野の顔を見やる。彼の、「理解しかねる」という文言が顔に書いてあるような表情に、私ははっとした。しまった、と思った。余計なことを言った。

いつもの私なら、ここで口を噤んでいただろう。けれどどうしてだか、今日の私は少しおかしかった。あの面談のせいで、気持ちが沈んでいたからだろうか? 思っていることが口の中で堰き止められない。

「夏といえば青春。青春は恋。そういうの、おかしくない? 夏がそういう季節だって、誰が決めたの」

 早口で、そう言った。

 映画や音楽や小説で、夏を舞台に甘酸っぱく繰り広げられる恋の物語が、どうしても苦手だった。誰に言っても、この気持ちを本当に理解してもらえることはなかった。

 やっぱり、この前の面談のことを思い出してしまう。喉の奥が閉まるような息苦しさがまた私を襲った。

 河野も私をロボットだと思ってしまったら、私はどうすればいい?

「へえ…。そういう考え方もあんのな」

 河野は、私の考えを否定こそしなかったが、しっくりこないとでもいうように首を傾げた。ここで丁度、店員さんが気怠そうに注文をとりにやってきたから、この話題はここで打ち切られることになった。

  それ以来、私は自分の「恋」への考え方を話すことはなくなった。河野のことは信用しているけれど、まだ自分のことを話すことは私にとって高いハードルだ。三者面談のことも、心の中にしまっておくことにした。

 河野に拒絶されることは何よりも、私が私でいられなくなることだと思った。



          7


 お盆休みの時期になると、「逢瀬」はだんだんと、単に河野の惚気話を聞くだけの会合ではなくなっていった。高二といえども、恋にうつつを抜かしてばかりはいられないのだ。

「なんで文系の私も数学を解かなきゃいけないの……」

「仕方ねえだろ、夏休みの課題っていうのは全教科あるんだから。何のために理系の俺がいるんだよ? どこが分からない?」

 いよいよ夏休みも折り返し地点を越し、私達ふたりの間にあるテーブルは夏休みの課題たちが陣取るようになった。『人経』は勿論成績に大きく影響するが、ほかの科目だって当然内申に関わってくる。

「じゃあ、問二と問四、後で解説するから、終わったらこの古文の現代語訳教えて」

「おっけー」

 お盆だからか、家族連れやらカップルやらで賑わう店内はいささか暑苦しい。滲む汗もそのままに、私達は目の前の課題にかじりついていた。『人経』導入と共に従来よりも厳しく改正された教育なんとか基本法のおかげで、やたらに宿題が多いのがこの時代に生まれた私達の宿命なのだった。

 「どうせなら、文系のサチと協力体制を敷きたい」という河野の提案のもと、私達はお互いの得意分野を教え合うことにしていた。私は古文、河野は数学。医学部を目指させられていると彼が語ったとおり、河野は理系科目がとてもよくできた。流石は医者の息子である、とは、嫌がるだろうから言わないけれど。

 その代わり河野は文系の科目が壊滅しているので、私が逐一解説を宣うことになった。私の方は、『人経』はお話にならないが他の科目はそこそこ良い成績なのである。

「百人一首ってさ、俺嫌いなんだよね」

「え、なんで? 他の古文に比べたら簡単じゃない?」

 河野はテーブルに半ば突っ伏しながら、百人一首についての問題が載ったテキストを死んだような目で眺めている。せっかくのイケメン顔が台無しだ。

「いや、確かに簡単かな、とは思うけどさ。恋の歌多すぎるだろ」

「ああ……それは確かに」

 私もこの性格だから、そのことは勿論、何度か思い起こしたことがある。昔も今も変わらず、ひとは恋の話が好きなのだ。そんな恋バナ文化が千年前からこの日本に根付いていたことが、百人一首を初めて知ったときの私には軽く衝撃だった覚えがある。

「それに、俺は内容もちょっとむかつくんだ」

「どこがよ」

 河野のようなロマンチストは、私と違って共感こそすれ、反発するようなことはないと思ってしまう。

「例えばこれ、『忍ぶれど 色に出にけり我が恋は ものや思ふとひとの問ふまで』ってやつ。忍んではいるんですけど、どうしても表に出てしまうほど恋心が大きくなってます、って意味だよな?」

「そう。あってるよ」

と言っても、つい三日前に会ったとき私が教えた現代語訳なのだけれど。

「でもこの歌を詠んでる時点で、その恋は世間様の目の前に晒してるじゃんか。要するに、恋心の大きさを例えるために、忍ぶれど……って言葉を使ったわけだ」

「いいじゃん、例えとしてはグッとくるものなんじゃないの」

「ダメだね。こいつ……この句を詠んだやつは、本当に恋を忍ばなきゃいけない奴の気持ちがわかってないよ」

 そう言いながらコーラをぐいと飲む河野の目は澄んでいた。

「恋を隠さなきゃならない今の俺から言わせれば、『忍ぶ恋』ってやつを、恋愛の駆け引きとか愛を示す道具だと思ってるやつらは、くそくらえって思う。恋を良い感じにするアクセサリーとでも思ってるんじゃねえの」

 私は思わず、うーんと唸った。今日の河野は、虫の居所が悪いらしく、よくわからないいちゃもんをつけ続けていた。ただし河野が言うだけあって、なんとなく筋が通っているような気もする。そもそも恋心の大きさを何で例えようが、私自身に実感としてそれが掴めることはないのだ。

(それに、あんなまっすぐな目でそう言われてみれば、納得もするよ……)

 私はウーロン茶をひとくち含み、河野の綺麗な目からまた視線をずらした。河野とこうして気兼ねなく話せるようになっても、この目線だけはどうにも苦手だった。私の人間らしくない部分まで、全てを見透かされているような気持ちになるのだ。

「あ。百人一首といえば、この前面白いこと聞いたんだよね」

 河野がふと言った。

「え? なになに」

「百人一首って、秋の歌とか多いじゃん。でも夏の歌って、四首しかないらしいぜ」

「そうなんだ。少ないんだね」

 だろ? と河野はいたずらっぽく目を細めた。

「しかもさ、百人一首はさっき言ったみたいに、恋の歌だらけだろ。けど、夏の歌の4首はどれも恋の歌じゃないんだ」

「ええ、嘘」

「マジマジ。意外だろ。調べてみろよ」

 そう言われてみれば、俄然真実のほどを知りたくなる。私は河野に促されるままに、そばに置いてあった古文の教科書を開いた。巻末付録についている百人一首は季節ごとに色分けがされていたから、探すのにさほど時間はかからなかった。

『春過ぎて 夏来にけらし 白妙の 衣ほすてふ 天の香具山』

『夏の夜は まだ宵ながら あけぬるを 雲のいづこに 月やどるらむ』

『ほととぎす 鳴きつる方を ながむれば ただありあけの 月ぞ残れる』

『風そよぐ ならの小川の 夕ぐれは みそぎぞ夏の しるしなりける』

 確かに、百人一首のうち「夏」が季語の句はこの四つしかなかった。そして、どれも季節の移り変わりや夏の名残を詠ったもので、恋を題材にしたものはひとつもなかった。

 夏が来たことを言祝ぐ歌、夏のうつくしさを愛でる歌、過ぎゆく夏をおくる歌…四つの歌はいずれも、純粋な季節への思いに溢れている。

「綺麗な歌だね」

 夏という季節は好きではないけれど、この四首はすべてが綺麗だと思えた。

「な。だからさ、夏が恋の季節っていうのは、ちょっとおかしいのかもしれないな」

 河野はにやっと笑った。そこで初めて、私は河野が、以前私が「夏が恋の季節だというのは納得できない」とちらりと零したことを、覚えていたのだと気づいた。だから河野はわざわざ百人一首の話を持ち出したのだ。

「昔のひとは、夏を純粋に綺麗だと思ってて、恋の季節だとか、そういう発想はなかったんじゃないかな。青春って言葉だって、入ってるのは夏じゃなくて春なんだぜ」

「……ほんとだね」

「だから、サチが思ってることは間違ってないよ」

 私は、はっと顔を上げた。河野はやっぱりにっこり笑っていて、穏やかだった。

「……私、変じゃないかな」

「変じゃねえよ。あと、夏は恋なんかなくても、いい季節だし」

 妙に自信たっぷりにそう言う河野を見て、私はつい吹き出した。

「おい、なんで笑うんだよ」

「いや、何でもない……河野って案外真面目だよね」

 悪いかよ、と不貞腐れる河野は、しかしずいぶん嬉しそうである。それで私は、この優しい友人は私を元気づけようとしてくれたんだなと思い至った。

「ありがと、河野。夏、ちょっと好きになったかも」

「え? おう。それよりイツキが昨日グラタン作ったらしくてさ。ちょっと聞いてくれよ」

「はいはい」

 あの面談以来巣くっていた喉の苦しさは、もう見当たらない。百人一首の教科書に顔をうずめて、私はそっと河野にもう一度、ありがと、と呟いた。



          8


「お、サチきた! めちゃくちゃ久しぶりじゃん」

 待ち合わせ場所に私が着くと、アカリとシホがわいわい騒ぎながら迎えてくれた。

「別に会ってなかったの二週間とかだよ? 全然久しぶりじゃないって」

 いつものように多少つっけんどんに応じながら、なんか変な感じがするな、と思った。今日はこの二人組と一緒にお昼を食べに来ているのである。

「でも私達寂しかったんだよ! サチってば、バーベキュー以来誘っても全然遊んでくれなかったんだもの。サチに干されたーって泣いてたんだから」

 シホが嬉しそうに笑いながら、泣き真似をしてみせた。それがおかしくて笑いながら、ああそうか、と冷静な私の部分が何かに気づく。

 ここは、いつも河野と待ち合わせをしていた駅前だ。私の夏休みのほとんどは河野としか会っていなかったから、この場所で待ち合わせているのが河野ではないことが、なんとなく奇妙に感じたのだった。

 サ●ゼではなく、少し値段の張るレストランへ入る。メニューを見てやんややんやとひと騒ぎしながら食事を注文した。やっぱり友達と話すのは楽しい。けれど、どこかで気を張っているような、油断ならない感じが私を常に取り巻いていた。それで、河野と話す時がいかに気楽だったかを思い知る。

 アカリが生き返るー、と言いながらジンジャーエールを啜り、

「マジな話、サチ夏休み何してるの? 私達とも遊ばないしインスタも全然見てないじゃん。ずっと家にいるってわけでもないでしょ」

 単刀直入に聞いてきた。やはり聞かれたか、とつい身構える。

「……家にいるの。夏バテしてて、ほんと外出る気にならなくてさ」

「まあサチらしいけど。もしかして隠れて誰かに会ってたりとかは?」

 二人が、きゃーっと黄色い声を出した。彼氏? 学校のひと? と問い詰められて、私は内心やれやれとため息をついた。まさかこの二人に河野のことを話すわけにはいかないので、適当にお茶を濁すことにする。

「彼氏じゃないですー。そういうの今は興味ないって言ってんじゃん」

「いやいや、そういうこと言ってるひとほど、ちゃっかり彼氏できたりするんだよ。これ鉄則でしょ!」

 シホのこの発言は、恐らく励ましやフォローの気持ちからだろう。何万回と言われてきたこの言葉に胸がずきりと痛んだ。

「シホつん、その後、ハヤトくんとはどうなんですかー?」

「えー。そんな話すことないって。ちょっとLINE続いてるけどさ」

「おおー。進展してますなあ。その調子でグイグイいっちゃえ」

「ちょっとアカリ、私そんな積極的なタイプじゃないの知ってるでしょ! 無理無理!」

 相も変わらず、二人は絶好調のようだ。ああ早く彼氏欲しい、デートなら今流行りのあそこに行きたい。結婚は二十五くらいがいいかな、子供も欲しいし。そういえばこの前のドラマ、超キュンキュンしたよね。そんな他愛もない、高校生の誰もが一度はするテンプレ会話が、今日もつらつらと繰り広げられていた。

 そんな、お天気の話くらい当たり前に話題に上るこれらのトークテーマに、何一つ共感できないときの気持ちを想像してみて貰いたい。たぶん言うなれば、ジャニーズのファンが間違ってコミックマーケットに来てしまったみたいな気持ちだ。話している内容は理解できるけれど毛ほども興味がない。これが意外に堪えるのである。

 私は、恋愛ドラマや少女漫画は極力見ない。結婚願望はないし、子供を作るような行為にはどうにも吐き気がする。デートスポットに関心がないので知識もない。だから、こういう時間は大抵、適当に相槌を打ったり、考えたこともないような男性のタイプなんかを喋ったりしながら、ただ会話を傍観するだけだった。

 それでもそれなりに楽しむことができたし、彼女たちは根が優しいため私にもちょくちょく話題を振ってくる。そして、私に親切心からくる恋愛のアドバイスをくれる。全て良心によるものとわかっているから、私はそれをはねつけることもできなかった。

「アカリこそ、松岡くんとはどうなのよ」

 松岡、という名前がシホの口から発せられて、私は思わずどきりとした。

「んー、ライブいこうって話はしたんだけど、まだちゃんと連絡とってないや。向こう家のことで大変って言ってたし、恋愛してる余裕ないのかもね」

 つまらなそうに話すアカリだったが、言葉の裏に寂しさが滲んでいた。男女の普通の恋愛においても、困難は付き物ということだ。それにしても、アカリの話を聞いて、(ああまだ松岡と付き合ったわけじゃないんだ)と安心してしまう自分がいて、自己嫌悪に苛まれた。アカリにとってはつらい状況のはずなのに。

「サチもはやく、いいひと見つかるといいね。サチ、『人経』以外の成績はいいんだから、あれさえなんとかできれば、すごい高い大学狙えるっしょ」

「それにサチはちょっと初対面怖そうって思われがちだけど、根はめちゃくちゃいい女だってみんな、気づいてないだけだよ」

 二人はそう言って、違いないという風に笑った。私はそんなことないよ、と謙遜したように笑い返す。ご飯が運ばれてくると、私は食事に夢中なふりをして、空気みたいな存在になろうとした。

「そもそも、ひとを好きになるときの体の調子で成績がつくんだから、最悪、芸能人とか、漫画のキャラとか思い浮かべれば『人経』ってオッケーなんじゃね?」

 アカリがもっともなことを言った。シホが反論する。

「ダメだよー。最近の技術って、そういうの区別できるらしいよ。ほんとの恋がやっぱり、人生には必要ってことだよ」

「えー、じゃあシホは漫画のキャラがダメだから、仕方なくハヤトくんにしたの?」

「違うし! 漫画好きだけどガチ恋とかしないよ。ハヤトくんはもう、別格って感じ」

「きゃあ。甘いわー」

 話を聞きながら、気持ちがどんどん後ろ向きになっていくのを覚えた。どうしてこんなにこのひとたちは、いや、この世の中は、恋愛至上主義なのだろう。『人経』なんてものを考えたひとは、きっと物凄くロマンスが好きな、人生の勝ち組だったんだろうな。

 私の仄暗い心とは裏腹に、話題は恋愛と『人経』から容易には離れようとしなかった。

「あーあ。はやく結婚したい。サチもそう思うっしょ」

「え? あ、……うん、結婚はね、いいよね」

「それな。私、料理できて車の運転できる旦那がいいわ」

「わかるー! 独身もいいかなって思うことあるけど、やっぱ孤独死は避けたいよねえ」

 ひとりだけ早く食事を終えてしまった私は、手持ち無沙汰にドリンクをちびちび飲んでいた。二人は盛り上がり、のんびりとご飯を口に運んでいて、とても楽しそうだった。いいなあ、私もそんな風にはしゃげたらな。少しだけ、二人が羨ましかった。

 何よりも、こんなに無邪気に生きる二人に、嘘を吐き続けることが、私には酷く辛かった。

 どうしてだか、河野に会いたいと思った。



          9


「そういえば今日、あれがいた。ヒグラシ」

「え、ほんと? 早いね」

 いつもの席に座りながら、河野がそんなことを言った。今年は暑さが始まるのが早かったからだろうか。季節の移り変わりも、少し駆け足なのかな、と思う。

「昨日はいつもの面子と勉強会だった。イツキとハヤトは文系だけどな」

 メニューを見るより先に、河野が報告する。何の雑談もなしに、まあ私と河野の会話は殆ど雑談なのだけれど、前置きもなく松岡の話をするときは、決まって何かあったときなのだ。今日も河野にとってのイベントが発生したのだろう。まだ話すようになってひと月も経っていないのに、私はそういった河野の生態をずいぶん把握していた。

「もしかして、松岡の家でやったの?」

「ご名答。ハヤトがいなかったら俺、何してたかわかんねえ。ハヤトに感謝だな」

 『恋人にはなりたくない』と言っておきながら、ちゃんと年相応の不埒な考えを持っている河野である。今はもう、河野が世慣れた完璧な恋愛上級者、というイメージはだいぶ失われているから、別段そのことにも驚かなかった。

「ちゃんと勉強できるの、それ? 絶対集中してないでしょ」

「それなんだよ。正直、イツキの部屋ってだけでうわー、と思って、全然内容入ってこなかったわ。まあ、何とか誤魔化したけど」

 ゲイという特殊なセクシャリティを抱えて十八年を生きてきた河野にとっては、気持ちを誤魔化すことなど造作もないのだろう。元来が器用なたちの男なので、嘘を吐いているという自覚もなく、いつだってうまくやってきたのだ。

「イツキの部屋はな、入り口がここだとしたら、ベッドがこの辺で、机がここにある。本とか適当に入ってる棚があって、ポスターとかはあんまりなくて、独特の香りがして」

 と、頼んでもいないのに松岡の部屋のもようを逐一レポートしだす河野の話を、今日も私はのんびり聞いていく。

 松岡のことを話す河野はいつも本当に嬉しそうで、あの透明度の高い大きな瞳が普段以上にきらきらしていた。大仰な手振りで松岡がどれほど魅力的な男かを解説する、目の前のピュアな同級生が、私にはすごく眩しい。

「それでな、イツキのやつちゃんとギターの楽譜もちゃっかり持ってるんだよ。指摘したらすごい恥ずかしがってたけどな。あと、机の上に亡くなったお父さんのプラモがあって…」

 すらすらと部屋の様子を報告している河野が何とも言えず可愛らしくて、私はつい茶化したくなってしまう。

「そんなことまで覚えてるの。あんた暗記科目苦手なくせに」

「当たり前だろ。歴史の年号は覚えられなくても、イツキのことだと頭にすっと入ってくるんだよ。好きなことって大体よく覚えられるもんだろ」

 そうなのかな、と思った。確信が持てないのは、私が小さいころからこれといった趣味もなく、好きなことに熱中するという経験に乏しいからだった。ロボット、という言葉がまた脳裏を掠めたが、知らないふりをした。

「好きなやつのことなら、何でも知りたいとか、教えてほしいとか思うわけよ。サチはあんまりそういうのなさそうだけど。他の女子の友達、シホとか、そういう話してない? カナコはよくそう言ってるぞ」

 河野の口からカナちゃんの名前が出たので、私は少しびっくりした。河野と、こうやって話す間柄になってから、一度も河野は自分の彼女であるカナちゃんの話をしたことがなかったからだ。

 それで、思わず尋ねてみる。

「ねえ、カナちゃんとどういう話するの」

「え? なに、どうしたんだよ、急に」

「ちょっと気になっただけ。ね、何話すの?」

 不意に食いついた私に、面食らったように眉を上げる河野。いつも河野がひたすら喋り、私は聞き役で、私の方から河野に話題を振ることは少ない。驚くのも無理はないだろう。

私自身も、どうして急にそんなことを聞こうと思ったのかはわからない。けれど、心のどこかが、『普通の恋人』の生活がどんなものなのかを知りたがっているような気がした。

「えー、何って、別に普通だよ。テレビ番組とか食い物とか服とか。ツイッターで流行ってる漫画の話とかかな。勿論、松岡の話は絶対しねえし、なんだったらちょっとでも俺がゲイじゃないかって勘繰られるようなことは一切しゃべらない」

 考え考え、河野は言った。ひょっとしたら、私がカナちゃんに妬いていると思っているのかもしれない。まあ、そんな心配は全くの杞憂なのだけれど。

「ああ、あと、お前と話すときみたいな、真剣な話もないな」

「真剣な話? LGBTとか、そういう?」

「それもそうだけど、家庭の話とか、将来の話とか。カナコはそういう、重いというか、真面目そうな話は嫌いなんだ。友達や恋人とはどうでもいい話だけしたいタイプらしくて」

 ああ、なるほど、と合点がいった。確かに私と河野は、きっかけがセクシャリティであっただけあって、あまり他の友達とは話さないような、深刻な話題を取り上げることがよくあった。それは例えば、この前の百人一首でもそう。家庭が過保護だとか、そういう話も、きっと彼は他の友人や恋人とは話さないのだろう。

「まあ確かに、私もアカリやシホとはそういう話、したことないな。ていうか、河野と話すまで、自分でもあんまり真剣に考えたことなかった話題もあるし」

「あ、そう? 俺が役立ってるってこと? それは普通に嬉しいわ。例えば?」

 そう問われて、私はしばし思案する。河野に気づかされたことは、あまりにも多い。

「えーと、将来どうやって生きるか、とか」

 恋愛についての価値観のことは隠しておきたくて、ふと思いついたことを言ってみた。

「何それ、そんなこと話したっけ」

「話したじゃん。ゲイであることを隠してる理由、自分が将来ゲイっていうフィルターで見られたくないからだって。多分、私とあんたが最初にここで喋ったときだよ」

 あのとき、河野とまともに話すのが正味二回目であったにも関わらず、思いがけず河野の真面目な一面を目にして驚いたことを覚えている。

「あー、そんな話したわ。よく覚えてるな」

「だって、びっくりしたもの。モテモテな同級生が実はゲイってだけでも驚きなのに、まさかあんなにしっかり、自分の未来のこと考えられてるなんて、って。私なんてずっと惰性で、今しか見えてなかったのに」

 すると河野は、やおら難しい顔をして腕組みをした。何かをぼそりと呟く。聞こえない。

「え? なんて言った?」

 河野は、はっとした顔をした。しかしすぐににこりと笑い、手をひらひらと振る。

「いや、何でもない」

 なんだろう。少し気になったけれど、深入りするのもどうかと思い、私はその小さな疑問を置き忘れたままにしておくことにした。

「河野は友達とか恋人とか、そういうひととは、どんな話がしたいタイプなわけ」

「うーん。あんまし重すぎても、キツイけど。でもやっぱり深い話も腹割って話せるほうが、俺はいいかな。特別感あるじゃん」

 なるほど。特別感か。そう言われると、素直に嬉しい。

「じゃ、今日も真剣な話しよう。河野の人生のモットーについてとか」

「はぁ? モットーとかねえよ。人生なんて壮大すぎるだろ。どうしたサチ」

「いいから。なんかないの? 座右の銘とかなんとか」

 今日はやたら質問してくるなあ、と河野は照れくさそうに頭を掻く。どうせ河野のことだ、モットーなんてない、と言いつつ実のところは、自分の信念のひとつやふたつくらい用意している。

 それが酷く眩しい。目がくらむほどだ。そう思ってしまう自分が情けなくて、私はそれを振り払うように質問の答えをじっと待った。

「ええ……と、座右の銘っていうか、どこかで聞いた言葉なんだけど」

 河野はまた、考え考え答えた。言葉を探し求めるように視線が泳ぐ。

 思ったよりも長い沈黙ののち、やっと彼は言った。


「『人生のエースであれ』」


 その言葉は、なんだか不思議な呪文のようで、どこか遠くで響いているようだった。

 沈黙の長さに、質問したことをちょっとばかり後悔していた私は、

「え?」

 と思わず、阿呆のように聞き返してしまった。

 私の呆けた顔が可笑しかったのか、河野は吹き出した。

「わけわかんねえ、って顔してんな」

「いや、……わかるというか、わからないというか」

 自分はさぞかし可笑しな顔をしているだろうと思いながら何とかそういうと、

「だろうな。俺も最初そうだったし。説明してやるよ」

河野はすこしいたずらっぽく目を細めた。

「俺さ、サッカー部にも野球部にもよく助っ人にいくんだけど。スポーツだと大抵、キャプテンとエースがいるだろ。キャプテンは部長だったり、まとめ役だったりして、リーダーみたいなポジションじゃんか」

「うん。あ、エースってそれか」

「そうそう。で、エースは、試合とかで一番活躍できる、実力があるひと。『あいつはサッカー部のエースだ』って言ったら、そいつは試合で最もうまいプレーができる、チームを力で引っ張る存在ってことだ」

 うんうんと聞きつつも、流石にそんなことは帰宅部の私でも知っているぞ、と思う。彼は一体、どういう解説をしているのだろう。

「キャプテンとエースを兼ねるひとも多いけど、この二つはやっぱり、ちょっとずつ意味が違うんだよ。チームを動かす方法というか。キャプテンはチームをまとめて、統率する。エースは試合で輝けるひとで、まとめるのが仕事じゃない……そういうところで。わかる?」

「ま、まあ」

 私の反応が面白いらしく河野は何故かウケている。ここからが大事な話だからな、テストに出るぞ。とふざけながらも、河野は一段、声を低くした。

「人生ってさ」

「は、え?」

「いや、お前が始めたんだろ、この話題。そんな引くなって……まあいいや」

 どうやら興が乗ってきたらしい河野は、その瞳に得意げな輝きを宿しながら、にやりと笑った。

「人生において、人間ってキャプテンみたいな存在になると思うんだ。人生をひとつのチームだとするだろ。そしたら、自分の一生なんだから、俺らはどうしても自分でこのチームを引っ張っていかなきゃいけない。自分の人生をちゃんとコントロールして、自分の力でまとめていくわけ」

 サ●ゼのお馴染みのBGMが、だんだん遠ざかるように感じた。

 河野の瞳が今日も、まっすぐにこちらを見る。

「でも、俺は人生のキャプテンってだけじゃなくて、エースでいたい、って思うんだ」

 ぴたり、と、周りの喧騒が消える。河野の言葉と私だけの世界が、目の前に現れた。

「確かに人生をマネジメント……っていうのかな? そうするのは重要だけど、それはみんなが無意識にやってることだろ。俺はそれだけじゃなくて、人生っていうチーム、試合のなかで、俺が一番輝いてる存在になりたいんだ。どんなことでもいいから、何かひとつでも、人生で一番、俺がエース! って言えることを持つ。それが俺の目標だ」

 自己中って言われたらそれまでだけど、と照れたように付け加える河野の声を、私は音楽かなにかのように夢中で拾っていた。穏やかな声だった。

あの苦手な視線から目を逸らすのも、いつの間にか忘れていた。

「例えば、どういう……?」

 半ば無意識のように、先を促す。

「え? ……あー。俺がエースになれるのは、例えば何か、ってこと?」

「そう」

「なんだろ。俺は、ゲイってことが、そうだって思いたい」

「……」

 予想外の答えに、私は言葉を失った。

「もちろん、ゲイってことはずっとコンプレックスだったし、今も自分がストレートだったらどんなに楽か、って思うよ。でもさ、ゲイっていう事実は変えられないことだし、それ含めて俺なんだって思う。認めざるをえない、ってことだけど」

 変わらない、柔らかな声で河野は続けた。

「だから、ゲイというか、恋愛とかそういうのに関しては、俺は人生で出会う誰よりもマジでいたいんだ。今はゲイを隠さなきゃいけないけど、いつかは自分もゲイってことを受け入れて、周りにもわからせてやってさ。それで人生の登場人物で一番、すげえって思われる恋愛ができる奴になるんだ」

 エース。その言葉が耳から脳へ、そしてどこにあるかもわからぬ私の心へ、そうっと入っていく。

じわりと、なぜか視界が滲んで、慌てて私は現実に引き戻された。音が、喧騒が、再び空間を支配した。

 あの綺麗な目に気づき、慌ててテーブルへと視線を落とす。

「ってのがまあ、どこかで聞いた言葉の話。なんか忘れられなくてさ」

「……」

「……なんか自分語り激しいな、俺。なんかごめん」

「え、あ、いや、気にしないで」

「てか、いつも考えてることでも言葉にするってほんと、難しいな。俺の言いたいことわかった?」

 いつまでも放心している私を訝ったのか、河野は眉を寄せてこちらを伺っていた。

「俺、ボキャ貧だから。サチだったらわかってくれるかなって思ったんだけど。説明不足だよなあ、人生とかってなんか痛いし」

 私があまりにリアクションしないので、理解できていないと踏んだのだろう。誤魔化すように笑う河野がどうにも寂しそうで、私は滲む涙を振り払いながら大慌てで言葉を探した。

「そんなことない。めちゃくちゃわかりやすいよ。なんか感動したし」

「ほんと? サチは気遣い屋だからな……でもまあ、これが俺の座右の銘ってことで」

 いつにもまして深刻な話をして恥ずかしくなったのか、はいこの話はおしまい、というようにぶんぶんと手を振り回す。

 悲しいことに、河野の言葉の意味が痛いほどよくわかった、ということを伝える語彙力すら、私は持ち合わせていなかった。それが苦しいくらいにもどかしくて、また目が熱くなった。


 河野と別れ、家に辿り着いたのを見計らったかのように、雨が降り出した。生暖かい雨は熱されたアスファルトを叩き、街は湿った空気に閉ざされて沈黙した。

 今日も両親は仕事で家にはいない。ひとりきりでいつもの夕食を済ませ、シャワーを浴び、そこでふと、

(あの蕾はどうなっただろう)

と、そんな思いに襲われた。

 自分でも訳がわからないまま、ほとんど衝動のままにベランダの窓を開けた。最近、こんな風に自分の心の動きを見失うことが増えたような気がする。

 外は雨のせいか、湿気がむわりと体に纏わりつくようだった。ここしばらく、聞き飽きるほど溢れていた蝉の声の代わりに、雨音だけがそこにあった。夏らしい夕立が、私の住む町をしとどに濡らしている。

 夏を詠む、四首の句が頭をよぎった。あの句たちのおかげで、私は今、夏もそんなに悪くない、と思えている。

 水たまりが至る所にできたコンクリートを踏みしめながら、シャワーは後にすればよかったと、今さら正気に戻って後悔した。それでも蕾を見ないことには、この雨の宵が越せないような、そんな気がしていた。

 蕾は相変わらず、狭苦しい柵の隙間で雑草に取り巻かれながら伸びていた。この前のように蕾が下を向いてこそないが、やはりひょろひょろした茎は頼りない。重そうな蕾を支えてやっとこさ生きている、という感じがした。未だに蕾は開く気配がないから、何の花なのかはよくわからないままだ。

 それでも私は、この小さな蕾になぜか愛着を感じていた。どうしてだか忘れられないのだ。そして今日のように、ごくたまに突然、蕾を見なきゃ、という思いに駆られてしまう。

 窓のすぐそばに立って雨を凌ぎながら、私は今日河野が言った言葉を反芻した。

(人生のエース……)

 意味なら、十分すぎるほどわかった。自分の人生である以上、キャプテンになることは難しくない。でも、エースになることは、並大抵のことではないだろう。

 私は自分の一七年足らずの生涯で、自分がエースたることができる事柄を探してみた。けれど、まあ当然ながら、そんなものはちっとも見当たらなかった。当たり前だ、と思う。誰かを愛することもできないやつが、何を以て、人生で他のひとより輝くことができるだろうか。

 友達のことも思い浮かべた。アカリは服飾に進みたいと以前言っていたとおり、服のデザインがすごく好きだった。シホは確か漫画が好きだから、漫画の編集者を目指していたはず。話に聞くばかりである松岡も、歌や楽器で自分を輝かせることができるだろう。カナちゃんは……思い出せないけれど、彼女みたいに可愛い子はきっと何か、これなら自分は誰にも負けないというものの一つや二つありそうな気がした。

 そして、そうか、と思い至る。河野だけじゃない、みんな、エースになれるような事柄を目標に生きているのだと。

 ゲイであること、恋をすることが自分をエースにしてくれることだ、と言った河野は、そうすることでセクシャルマイノリティである自分を受け入れることが人生の目標になっているのだ。きっと他の子も、ひとそれぞれ違うもので、みんなエースを目指して生きている。

 じゃあ、私は? 私は何のエースになれるの?

 考えても、やっぱり答えは出てこなかった。

(羨ましいな)

 急に、そんな感情が沸いた。河野に対してだった。

(あのひとはいつだって、私よりずっと先を行っている……恋愛ができない私なんかより、ずっと人間らしく生きている)

 ゲイであるのを認めて、いや、ゲイだからこそ、自分を表現しようとする河野。一途に誰かを好きになって、全力で恋をする河野。その姿が眩しくて、羨ましいと思った。

 いや。羨ましいというには、余りにも情けない、どす暗い感情だ。

 それは劣等感だった。

「どうしてあんなふうに、なれないんだろう」

 誰にともなく放ったひとりごとは、名もない蕾だけがそれを聞いていた。



          10


『ちょっと一瞬だけ話聞いて。電話していい?』

 そんな必死なLINEがきたのは、夏休み中の登校日も押し迫った、ある夜だった。それは松岡から送られた写真が可愛かった、というような、いつものくだらない惚気話ではなかった。

『今日、イツキとメシ食いに行ったんだけど、そこで、好きな人ができたかもしれないって言われた』

 あるとき、風呂上がりに部屋でのんびり音楽を聴いていた私を直撃した電話は、こんな一言で始まった。私は思わず嘘、と大声を出してしまう。

『サチ、今から会えねえ?』

 河野の震えた声が、縋るように言った。

『もう、俺、ひとりでいると、どうにかなっちまうよ。やばい、ほんと、すごい迷惑だってことはわかってる、けど』

『河野、……』

『話せるのが、サチだけだから。会いたい』

 そんな風に弱々しい声で懇願されれば、流石に断るべくもない。私の足はひとりでに、弾かれたように動いた。

 いつもの場所で、と約束して電話を切ると、私はスウェットから適当な服に着替えて、充電の切れそうなスマホを掴んだ。どたどたと忙しない音をたててリビングへ向かうと、両親はのんびりとテレビを見ていた。

「ちょっとサチ、今からどこ行く気なの」

 咎めるような母親の声が飛んでくる。

「今九時よ。一体どうしちゃったのよ」

 すると、普段ほとんど私の言動に口を出さない父までが、

「こんな夜中に歩き回るなんて、どうかしてるぞ。ちゃんと説明してから行きなさい」

 と、いつになく鋭い声音で言った。

 けれど、私には一刻の猶予もなかった。実際には少しばかり遅れても問題ないはずだが、このときの私はどうしようもない焦燥感に駆られていた。

「友達が、すごく辛いことになってて。行ってあげたいの」

 河野のことを親は知らないから、何もかも端折って説明した。

「その友達って、誰よ。アカリちゃん?」

「言えない」

 私がきっぱりそういうと、親は頬を引き攣らせた。

「それ、どういうこと」

「教えられない。でも、大変なの。今すぐ私が行かなきゃならない」

 電話口で訴えていた河野の涙声が耳の奥でこだまして、全身がかっと熱くなった。逸る気持ちで心臓がどくどく波打っているのがわかる。

「サチ、あんたお人好しすぎるのよ。どうしてこんな深夜にあんたが行かなきゃいけないの。全くあんたって子はいつも、何考えてるかわからないわ」

 母はそう言ってため息をついた。その言葉が、私の沸騰した脳みそを直接ひっぱたいたようだった。喉がひりついて、気が付くと、吠えるような声が出ていた。

「……何よ、普段私のこと全然見てないくせに」

「ちょっと、サチ、」

「私のこと、わかろうともしてないくせに。こういう時だけ親面しないで!」

 私はそれだけ叫ぶと、勢いよくリビングを出た。玄関を乱暴に開け、外に飛び出す。外は思いのほか冷えていて、街の明かりがちらちらと揺れていた。

 後ろからサチ、と呼ぶ声がしたけれど、振り返る気はさらさらなかった。微かに秋の虫が聞こえる夜の街を、私は全力で走った。


(早く、行ってあげなきゃ)

 どんどん上がる息のなかで、私はそれだけを思い続けた。

(あいつには、私しかいない。あいつがちゃんと辛いって言えるのは、私だけだ)

 駅前に着くと、河野はもう来ていた。どうやら相手も相当焦って、家を飛び出してきたらしい。腫れた目をした河野はぐっしょり汗をかいていて、駅のどぎつい電灯に照らされた顔は、私を見つけてくしゃっと歪んだ。

 店に入る時間も惜しくて、私達は駅近くの公園へと向かった。そこは駅前の不夜城のような明かりから切り離された、静かな空間だった。ひぐらしの声が仄かに響いている。

「……好きなひと、とは、言われたけど」

 河野は、ぽつりぽつりと話し始めた。

「まだあいつ自身も、よくわかってないっぽい。でも、俺はひょっとしたら、高木のことなんじゃないかって思うんだ」

 高木とは、アカリのことだ。そういえば夏休み始めのバーベキューでは、なんだか意気投合したと見えて話も弾んでいたようだし、アカリは連絡をとってみる、と言っていたっけと思い出す。

「イツキのやつ、気になるかもしれない奴がいるって俺にそれ言う? なんで俺? いや友達として信用されてるのはわかるし嬉しいけどさ。ああーくっそ……」

 河野は頭を抱え、闇雲にぐしゃぐしゃと掻き回す。その声は激しくて、掠れていた。ひとしきり泣いたあとなのかもしれない。いつもにもまして畳みかけるように話すさまが、河野の混乱と絶望を物語るようで、柄にもなく私も涙が出そうだった。

キャンプ場でアカリと松岡について話した会話が蘇る。あのとき、たとえ演技でもアカリに松岡を諦めるように言えばよかったと、たらればを願ってしまう私がいた。

「それで、誰にも言うなって言われて、俺なんて言ったと思う」

「うん」

「おめでとう、よかったなって言ったんだよ。これでお前も『人経』の成績ばっちりじゃん、留年回避だなって、茶化して言ったんだよ」

「うん」

 河野が俯いて、沈黙した。私は何も言わず、次の言葉を待った。

「……イツキ、すげえ嬉しそうだった」

 俺みたいなやつはいつもそうだ、と河野は呻くように呟く。

「男は女を好きになる。女は男を好きになる。それがやっぱり普通なんだよな。いくら俺らLGBTがキモがられたり、差別されたりしなくなっても、少数派なことに変わりはないんだ。俺みたいにゲイを隠してるやつは、失恋する可能性が九十九パーセントなんだよ。ゲイに生まれた俺は、恋がちゃんと自分に返ってこない。空しいよ」

 河野の表情は、伺うことができない。

湿った声を聞きながら、私は自分が、彼を慰める言葉を何一つ持ち合わせていないことに気が付いた。こういうとき、何と返せばいいのだろう。これから新しい恋がきっと見つかるから大丈夫だ、とでも言えばいいのだろうか? それともまだ希望はある、松岡だって河野のことを憎からず思っているはずだ、とでも?

 どんな言葉を選んでも、その全てが薄っぺらい音の塊で、河野の苦しみには何の助けにもならないことは容易に想像がついた。それは、私が恋愛の経験を持たないから、というのも理由のひとつにある。恋をしたことのない、恋が理解できない奴に恋愛を語られても、それは机上の空論にしかならない。

 しかしそれ以上に、河野が苦しんでいるのは「河野と松岡」という「個」の問題だけではなかった。もしまた河野が仮に新しく好きなひとを作っても、そのひとが再び別の女の人を好きになってしまえば、河野は同じように苦悩するだろう。

 つまり、彼が抱く苦しみは、今だけのものではなかった。ゲイである河野が、もしかしたら一生抱えていかなければならない宿命なのだ。それを励まそうとする私が、今だけを見て耳障りのいい言葉をいくら並べ立てても、何の解決にもならない。

 彼が今本当に欲しているのは、「松岡」をどうすればいいか、ではなかった。

 「恋」をどうするか、なのだ。

(……だめだ、私)

 悔しい。私は、血の滲むほど唇を噛んだ。悔しい、悔しい。

 ほんとうに私ってやつはだめだ。河野がここまで自分の恋を曝け出せるのは、私だけだというのに。

「俺、やっぱりつらいわ。ゲイって、やっぱ、しんどい」

 か細い河野の声が、電流みたいに私の脳を焼き尽くした。ざわざわと、風が木々を揺らす音が湧き出すように鳴っていた。

『人生のエースになりたいんだ』

『俺は、ゲイってことが、そうだって思いたい』

 底抜けの笑顔と透明な目をして紡がれた、言葉を思い出す。あんなに自分とちゃんと向き合おうとしていた河野の「生き方」が、その軸が、揺らいでいるのが目に見えるようだった。

 私は今まで恋についてあれだけ悩んで、怒って、苦しんできたつもりだった。だから河野の痛み、辛さをわかっているつもりだった。自分にも他人にも嘘を吐き続ける生き方がどんなものか、分かち合っているつもりだった。

 でも、今、自分を貫く「生き方」を変えてしまうような苦しみを抱えた彼に対し、私はいくばくの励ましの言葉すら、掛けてやることができない。恋を真剣に捉えていると思い込んでいただけで、その実私は何も掴めていなかったのだ。

 (「恋が理解できない」なんて言って、そんなの、ただの逃げじゃん)

 自分の気持ちが、どんどん自分自身に棘を向くのがわかった。嫌な汗が背中を伝う。こんなに後ろ向きな気持ちは、今まで感じたことがなかった。自己嫌悪、という言葉では足りないほどのどす黒い奈落に落ちていくようで、眩暈がする。

 最低だ、私。河野を元気づけることができないばかりか、この期に及んで自分のことばっかりだ。

 先ほど、両親に食って掛かったことで、不安定になっているのかもしれない。忍び寄る自分という影を、どうにかして振り払おうと思った。

「……河野」

 私が言葉を続けるより先に、河野が言った。

「……ごめん。取り乱してたわ。こんなことサチに言っても仕方ねえよな……」

 ぎこちない動きで顔を上げると、声を詰まらせながらも、河野は乾いた笑いを漏らした。明らかに無理をしている。公園の心許ない電灯が、濡れた彼の頬を不自然に青白く光らせた。

 なにか、なにか言わなければ。河野が私に秘密を打ち明けた、あの夏休み最初のバーベキューでの瞬間にも似た、ざわざわとした焦りが私の体を駆けた。あのときも、ゲイだと告げられて、必死に当たり障りのない言葉を探していたっけ。

 押しつぶされそうな重い沈黙が二人の間におりた。夏も盛りを過ぎたからか、必死に相手を求めるような忙しないひぐらしの声だけが、私達を取り巻いた。

「……河野、あの、」

「いいよ。サチに妙に気使われるのも、だるいし。ほんとごめんな、こんな夜中に呼び出したりして」

 じゃあ帰るか、と取ってつけたような笑顔を向けて踵を返そうとする河野の背中に向かって思わず私が言った言葉は、

「私は、羨ましいよ」

 だった。

「……は?」

 河野はぱっと振り返ると、放心したように、目を丸くした。

本当は、励ましの言葉をかけるつもりだった。けれど、この一言を発した瞬間に、胸のあたりがじくりと痛んだ。取り返しのつかないような感情の爆発を予言しているみたいで、自分が怖くなった。けれど一度言葉を発してしまうと、どんどん体があつくなって、もう止められなかった。

「私、私ね、恋愛ができないんだ。恋って、したことがないの。興味もない。恋バナ苦手って言ってたけど、あれ、私が恋っていう感情を理解できないからなの」

「…サチ」

「隠しててごめんね。でも本当だよ。ひとの恋愛見てるとすごく気持ち悪くなるし、彼氏も結婚も性行為とかも何一つ、全然良さがわからない。なにか一つのものをすごく好きになるみたいな、愛みたいなの、私には存在しないんだ。おかしいよね」

 私は、息を継ぐことも忘れて、思いつくままにまくしたてた。心の中の冷静な私が、滑稽だなと笑ったような気がした。どうして今、こんな話をしているのだろう。これを河野に告白するつもりはなかったのに。

 でも、私の言葉は、堰き止めた小川が石すら蹴散らして下流へと流れ出るように、どんどんあふれ出てきた。

「だから、河野みたいにちゃんと恋ができるひとは、羨ましいって思う。私ほんとに冷めてて気持ち悪いひとだから、河野が一生懸命恋愛してるのは、いいなあって思ってた、ずっと。私なんてロボットみたいなのに、あんたはいつも、人間らしくて」

 目の前で驚いたように立ち竦む河野の姿が、ぐらぐら揺れた。ああ、喉が焼けるように痛い。蝉がうるさい。纏わりつく暑さに吐き気がする。私はいつしか響き渡るような大声で、叫んでいた。


「恋ができるだけ、あんたは幸せなんだよ」


 言ってから、河野の顔をみて、私は途端に冷静になった。頭から氷水が降ってきたみたいに、急に熱が冷めていく。

 河野は、子供が別れに耐えるみたいな、苦しいような、淋しそうな表情をしていた。

「……サチ、お前」

「……あ……ごめん、私……」

 河野の声で名前を呼ばれ、夜でもはっきりそれとわかる透明度の高い瞳が私を捕らえた。怖い、と思った。遅れて、自分が何を言ってしまったのかがだんだんわかってくると、私はほとんど無意識に、駆けだしていた。

 河野の横をすり抜けて、公園を出る。がむしゃらに走って、家を目指した。河野が追ってくることはなかった。

(最低、私、なんて最低なこと言っちゃったんだろ)

 走りながら、最低、最低と何度も呟いた。汗が滝のように流れ、息ができなくて頭が朦朧とした。足がもつれて何度も転んで、その度にまた最低、と言葉が零れ落ちた。

 私は河野が今、苦しんでいるからと家を飛び出してきたんじゃないか。なのに、『羨ましい』なんて、『あんたは私より幸せだ』なんて、傷つけるにきまってる。

 なんて自分勝手な台詞だろうか。彼の辛さを理解者みたいな顔をして聞いて、その実ほんとうは羨ましくて。そんな醜い感情を、彼のように思えない劣等感を、よりによって一番しんどい思いをしている相手にぶつけるとは。河野の純粋な恋心や、私に向けてくれた信頼を、ことごとく踏みにじってしまったのだ。

 もう、取り返しはつかなかった。自分の外に出してしまった言葉は、二度と元には戻らない。

 私と河野が同じ、だなんて、もう言えない。

 家に着くと、両親が玄関先で、小言のために待ち構えていた。しかし私のぼろぼろの様子をみて、怒りも引っ込んだようだ。確かに私の顔は汗と涙でぐちゃぐちゃで、転んだためか全身擦り傷だらけで、目も当てられない状況だった。何より、憔悴しきった私の掠れた「ただいま」の声は、自分でも別の人のもののようだった。

 両親はもはや何も言わずに、私を部屋に通してくれた。「やっぱり振られちゃったみたいね」という勘違いも甚だしい母の声が聞こえたけれど、もうどうでもよかった。何とでも言っていろ、と思った。

 部屋のドアを乱暴にこじ開ける。霞む私の視界に飛び込んできたのは、あのベランダへと続く窓だった。もう夜一〇時を周り、外は闇に沈んでいる。開けたままだったカーテンから覗く窓ガラスは、見慣れた私の部屋を別世界のもののように反射させていた。

 あのガラス窓の向こうには、いつかの蕾の姿は見えなかった。けれど私には、あの小さな植物が弱った茎を懸命に伸ばすすがたが、目に浮かぶように思えた。

(いまは、もうあの蕾に会わす顔がないや)

 私は河野を傷つけた。恋ができない私の自己嫌悪を押し付けてしまった。そんな自分を、あの蕾は全て見透かしているように思えてならなかった。どうしてなのか、今はあの蕾を見ることは許されないような、そんな気がした。

 「……最低……」

 もう一度、かすれた声で呟いた。全身が痺れたように痛くて、気が付くと涙が溢れていた。

(嫌だ、涙……泣く資格なんてないのに)

 私の願いとは裏腹に、熱い涙は後から後から流れて、どうしようもなかった。



(後編に続く)


こんなに長い物語をここまで読んでくださり、本当にありがとうございます。こんな最後まで読んでくださる方がいるかわかりませんが、いらっしゃったら感謝しかないです。

コロナ禍で暇を持て余し、なにか形になるようなものを残したくて制作しました。

なお、この作品はとある大きめの文学賞に応募し、2次選考で落選してしまったため、ここで公開することにしたものです。

拙い小説ではありますが、後編もお付き合い頂ければ幸いです。

本当にありがとうございました!


鷹条雪子

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