第三話 突き抜けろ!(向こう側へ)Part.2
絵里は階段を一つ一つしっかりと上がっていく。そしてだんだん息が切れていく。一年生の教室がある二階から五階まで一気に上がるのは非常に体力のいることだ。運動音痴で全く体を動かしてこなかった絵里には苦行そのものだ。
なぜ校舎を五階建てなどにしたのだろうと頭に来ているうちに五階までたどり着いた。ふー、と息をつく。さあ、目指す場所はすぐそこだ、準備はいいか?私は出来ている!
意気揚々と用具室Bの方に向かうとその扉の前に誰かが立っている。近づいていって目を凝らしてみると、それは先ほど教材をぶちまけまくっていたあの女子生徒だった。彼女は扉をじっと見つめて突っ立っている。絵里には気づいていないようだ。
「あの~」
「うひゃっ!」
絵里が話しかけると彼女は驚いて後ろにのけぞり、そのまましりもちをついてしまった。
「ちょっ、大丈夫?」
「あ、はい、大丈夫です、すみません」
よく謝る娘だなと絵里は思った。
「あの…同じクラスだよね、私たち」
「あ、はい、あの、さっきはごめんなさい…」
「いいんだって別に。私もぼーっとしちゃってたからさあ。ところであなたお名前なんて言うんだっけ」
「あ、えっと和屋麻美って言います」
「麻美ちゃんか、私は尾山絵里、よろしくね」
絵里がそう言うと麻美も小さな声でよろしく、と言った。
「ところでアサミンはひょっとしてここのバンドの人なの?」
麻美は突然あだ名で呼ばれたことに驚いたが、少しうれしくもあったようで顔を赤らめた。
「い、いや、ずっと興味を持ってたんだけど、怖くて一回も来れなくて、今日が初めて…」
「そうなんだ、じゃあ私と一緒だね。いやあ、仲間がいて助かったよ、一人じゃとても入る勇気がわかないからさあ」
「う、うん」
二人は扉を見つめる。この扉の向こうに未知なる世界が開かれているのだ。今こそこの扉を開ける時…向こう側へと突き抜ける時だ。
「…行こうか」
絵里が声をかける。
「…うん…い、行ってみよう…えりぴょん」
ぴょん?何か聞き間違えたかなと思ったがあまり気にせずついに絵里はその手を扉のノブにおき、扉を開けた。
3
扉を開けたその先には誰もいなかった。
「すいませーん…」
絵里と麻美は部屋の中に入る。そこには木の机といすが数個置いてあった。そのそばにはエレキギターが二本、アコースティックギターが一本、ベースギターが一本、ドラムセットが一つ、アンプが三台。そして何よりも目を引いたのは壁際の棚にしまわれたレコードやCDだ。それらが壁中を埋め尽くしていたのだ。
絵里はそれまで見たことの無い数のレコード達に圧倒された。
「…これ、凄いね…」
その言葉だけが口から漏れてきた。
「…うん、凄い…こんなにレコードやCD持っているの山下達郎ぐらいだよ…」
「…それ誰?」
「えっ?誰ってそりゃ、えーと、あ…ごめんなさい…」
またしても謝られてしまった。かえって申し訳ない気持ちになる。
「いやーこっちこそごめんね。私全然音楽とか詳しくないんだよ。詳しくないというか、もう知らないっていうレベル」
「そうなんだ…それなのにここに来たの?」
絵里はぐっと言葉に詰まった。そうだ、その通りだ。私は音楽なんて全く興味を持ったことが無かった。ましてや『ロック』なんてただうるさいだけのものだと思っていた。それなのになぜここに来たの?なぜ?なぜ?なぜ…その理由はただ一つだ。それは…
「私は…」
「てめーら、そこで何してやがる」
「!」
「!」
突然後ろの扉の所から声が聞こえた。振り返るとそこには一人の女が立っていた。その女は紛れもなくあの烏丸麗子であった。
「何もんだ?軽音楽部のスパイか?」
麗子が二人に問うた。近くで見るとなかなかの美人であり、その声も心に染みわたるいい声だ。
「あ、あの、私たち、その、スパイなんかじゃなくて…えっと…」
麻美はパニック状態になり何をすればよいのか分からなくなった。麗子が疑わしい目で二人を見ている。
「…あ、あの…すみま…」
「見学に来ました!」
今にも泣きそうになっている麻美を見かねて絵里が言った。ずいぶんとでかい声だ。それでも麗子は怪しげな目で二人を見つめる。そして二人に近づき様々な角度から二人をじろじろなめまわすように観察した。絵里は胸がギュッと締め付けられるような感覚がした。
しばらくして麗子がやっと口を開けた。
「お前ら私と一緒に『ロックンロール』をやりたいのか?」
少しの沈黙。麻美は舞い上がっている。絵里が答えなくてはならないようだ。
「その、今日は見学にですね…」
「違う!違う!そういうのはいらないんだ。私と一緒に『ロックンロール』をやりたいのか、それが大事なんだよ。どうなんだ?」
再び沈黙。どう答えるのが正解なのか、下手なことを言ったら無傷では帰れないような気さえしてくる。
「あ…っと…」
絵里の頬を冷たい汗がつーっと落ちる。ごくり、とつばを飲み込む。さあ、どうする?
「…」
「まあ、いいや」
麗子がやっと口を開けた。
「とりあえず二人とも適当に椅子に座れよ。茶を出すことも出来んけどな」
多少は緊張がほぐれた二人は麗子の言葉に従い椅子に座った。改めて麗子を見る。やはり美人だ。この間体育館のステージで暴れまくっていた人物とは思えない。もっとも服装は相変わらずだぶだぶのデニムと派手な色のシャツである。
麗子は胸ポケットから小さな箱を取り出し、そこから短く小さい棒のようなものを手にしてから口でくわえた。絵里はまさかと思ったがどうやら『ココアシガレット』のようで安心した。
「そっちの方、名前は?」
麗子が麻美の方をあごで指して聞いた。
「あっ、えっと、一年四組の和屋麻美、です、宜しくお願いします」
ぺこりと頭を下げる。
「麻美ね…何でお前はここに来たんだ?何をしたかったんだ?」
麻美は少し間をあけてから話し始めた。
「…私、お父さんが昔のロックとか好きで、小さい頃からよく聞いていたんです。その、全然詳しくとかはないんですけど、聞いてると楽しくって、そのうち自分でもやりたくなって、私、人と話すのが苦手で、でもロックやってる時だけは人にきちんと思いを伝えられているような気がして、だから高校ではバンドを組みたいと思って、でも自分と同じような音楽を聴く人もなかなかいなくって…」
いったんつばを飲み込む。
「…でも、この間の麗子さんのステージを見て、私、この人とならやっていけるって思って…だから、なかなか勇気が出なかったんですけど、何とか今日、来ました」
麻美が麗子を見つめる。それを麗子が見つめなおす。沈黙。
「なるほどね、大体は分かった。ところで担当の楽器は何だ?」
しばらくして麗子が尋ねた。
「えっと…ドラムです」
麻美のその答えに麗子は少なからず驚いた表情を見せた。
「ドラム?お前が?叩けるのか?」
「…はい…一応」
「ふーん…好きなドラマーとかは?」
「一番はジョンボーナムです、レッド・ツェッペリンが好きなので。あ、でもお父さんには、お前のドラムはボンゾというよりキースムーンだって言われました」
麗子はシガレットを指で挟み息をふーっと吐いた。煙は出ない。
「とりあえず、叩いてみるか?」
麗子はシガレットでドラムセットの方を指した。
「い、いいんですか?かなりうるさいと思うんですけど…」
「いいっていいって、かまいやしないよ。下手糞吹奏楽部の方がよっぽどうるさいや」
そう言われて麻美はゆっくりとドラムセットに近づき、その椅子に座った。
「ほい、このスティック使っていいから」
麻美はスティックを受け取ると、ゆっくりふーっと息を吐いた。絵里はその光景を見て胸を高鳴らせていた。この娘はいったいどんなものを私に聞かせてくれるのだろう?ドキドキ、ワクワク。
「それじゃ、いきます」
次の瞬間、絵里は驚愕した。いや、彼女だけでなく麗子も同じように。それはそれまでの大人しい女子生徒と同一人物とは思えないパワフルなドラミングだった。重いバスドラ、軽快なタム回し、見事なハイハットさばき、上手いとかそういう次元の話ではなく、凄まじいのだ。
麻美は別人のように恍惚としてドラミングを続ける。絵里と麗子はそれをじーっと見つめていた。麗子の目が輝きだしているのは明らかだった。