第十七話 Blues of boys & girls Part.3
春。外で流れている小鳥のさえずりが微笑ましい。丸皮中学校、一年二組の教室では給食を食べ終えて昼休みに入った生徒たちが騒がしく暴れまわっていた。馬鹿みたいにうるさい声を発しながら教室内でかけっこをする男子生徒、教室の机の上に座ってみっともなく足を広げながらおしゃべりをする女子生徒、それに興味を示さず給食の後片付けを手伝っている教師。
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「多分どこでも一緒だと思うが、中学生というのはある意味小学生よりも馬鹿な存在だ。ただただ無意味にはしゃぎまわってそれで何を得られるわけでもない。楽しいならいいじゃないかという奴もいるが、たいてい思い出してみると楽しさすら覚えていない。自分はもう小学生じゃない、大人になったんだ、もう大人になったんだから何をしたっていいんだ。きっとそういうことを体で証明したいんだろうな。まだ大人であるわけもないのに」
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「ちょっと男子~うるさいんだけど~」
輪を作って喋っていた女子たちのうちの一人が走り回る男子生徒に向かってにへらにへらと笑いながら言った。そこにいる他の女子たちも同じような笑い方をして見つめている。
「お前らの方がぺちゃくちゃぺちゃくちゃうるさいよーだ!」
「何よ~静かにしてよ~」
「走りまわるなら校庭行けば~」
「そうよそうよ~」
文句を言う割に顔は薄気味悪く笑っている。それは男子生徒の方も一緒だ。どこか不気味である。
そんなことには少しも興味を払わずに窓際の席で頬杖をついて外を眺めている一人の少女がいた。黒くて長い綺麗な髪、透き通るような肌の白さ、キッチリと着こなした制服、そして耳にはイヤホンを着けている。これが中学一年生の烏丸麗子であった。
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「え、ちょっと待ってください」
絵里が右手を挙げて口をはさんだ。
「ん?何だ」
「麗子さん、制服着てたんですか?」
「…中二の途中までは着てたよ」
「えー!めっちゃ見たーい!すごくレアじゃないですか!」
「ええいうるさい!話を続けるぞ!とにかく私は周りの人間と関わりを持ちたくなかったっていうのもあって休み時間はいつも音楽を聴いていたんだ。もっとも中学では電子機器を持ってきたりするのは校則違反だったが、まあいいだろ。別に誰にも迷惑はかけていないし教師も何も言ってこなかったしな」
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音楽を聴きながらずっと一人で外を眺めている麗子であったが、美人ではあるから話しかけてくるものはいた。しかし、麗子自身が心を全く開かない。誰かが問いかけてもイヤホンを着けてそっぽを向いたままである。しまいには入学一か月後辺りには誰もその存在に注意を払わなくなった。
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「…それは流石にお前が悪いんじゃないか、いくら何でも無視はないだろ」
今度は菊之進が口を挟む。麗子は苦虫を嚙み潰したような顔になった。
「だあ!確かにあの頃はちょっと精神的におかしかったのもある。それは反省点だ。だがな、私に話しかけてくる奴の大半は私を蔑んだ目で見つめてきやがったんだ。この子は友達がいないんだ、可哀想に、私が友達になってあげよう、こんな子と友達になってあげる私ってなんて優しいんだろうって感じでよ。そういうのがビンビン伝わってくるんだ。…まあそいつらのことは置いといて、もう誰も話しかけてこなくなったころに一人の男が突然現れる。それがあの『The Blues Boys』のギタリスト、倉重凛空だ」
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その日、外を眺めているのも飽きたのか、麗子は机の上に突っ伏した。もちろんイヤホンは着けたままである。彼女は完全に音楽の世界に浸っていた。こっち側ではなく、向こう側の世界―。と、そんな彼女に突然前の席の男が声をかけてきた。
「ねえねえ、いっつも何聞いてるの?」
倉重凛空である。先日席替えをした結果麗子の前の席へとやって来た人物だ。短い黒髪をかきあげている。
麗子は聞こえてはいたが何の反応も見せなかった。こういう場合は音楽のせいで聞こえていないふりをするのが一番だ。
「ねえ、何聞いてるのってば。ねえ」
まだ声をかけてくる。しつこい男だ。とっとと諦めてほしい。
ずっと突っ伏したままでいる麗子を見て凛空は残念そうな顔でため息をついた。それから「やれやれ」と呟くと、何の前触れもなく突然麗子の両耳からイヤホンを取ると自分の耳に着けてしまった。
「よっと」
「‼なっ、てめえ!何しやがんだ!」
麗子は遂に顔を上げた。何という非常識な男がいたことか、しかもよりによって自分にとって最も大切な時間を邪魔してくるとは、一発殴ってやらねば気が済まない!そう思って凛空の顔を見ると、彼の目はキラキラと輝いてどこか違うところを見ていた。真剣な顔つきをしている。麗子は不審に思って振り上げていた右手を止めると、少しためらってから凛空の耳からイヤホンをかっぱらった。凛空は驚いて麗子の顔を見つめる。その瞳は潤んでいた。
「…ったく勝手に人のイヤホンを取るんじゃねえ。私とお前はまだ話したこともないし、私はお前の名前も知らない。そんな奴に私の時間を奪われたくはないんだよ」
「でも俺は君の名前を知ってるよ。一年四組十二番、烏丸麗子だ。因みに俺の名前は倉重凛空。よろしく」
「あのな、よろしくとかじゃなくてな」
「それよりも!さっき聞いてた曲何⁉何つーか、今までに聞いたことのない音楽だった。俺、語彙力ないから上手く説明できないけど、とにかく感動したんだ!ねえ、教えてくれよ!」
凛空は興奮した顔つきでいきなり麗子の肩を掴む。麗子はおびえて、少し体を縮こまらせた。
「…クラプトンだよ、クラプトン。『Layla』っていう曲だ」
「くらぷとん?人の名前かい?」
「ったく、クラプトンくらい知っておけよな。エリック・クラプトンっていうイギリスのギタリストだ。世界三大ギタリストの一人とも言われている。この曲はクラプトンがアメリカ人と組んだバンド、デレク・アンド・ザ・ドミノスが唯一出したスタジオアルバムに入っている『Layla』って曲だよ。まあ、クラプトンの最高傑作だろうな」
「それって所謂『ロック』なのかい?」
「んー、まあクラプトンは『ロック』でもあり、『ブルース』でもあるかな」
「へえ、凄いな、麗子ってそういうの詳しいんだね!俺はてっきり『クラシック』とかを聞いているもんだと思ってたよ」
「まあ、聞かねえこともないけど、あんまし好きじゃないし」
「そうか…クラプトン、ね、よし!分かった!ありがとう!俺もちょっと聞いてみるよ!」
「お、おう」
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「で、次の日には私よりもクラプトンに関しては詳しくなってた。すんげえ話しかけてきたんだけど、私ソロとかあんまし聞いてねえからさ、その方面に関してあんまり聞かれても知らねえ!って感じだった」
「はあ…なんか、凄い人ですね」
「まああいつはもともとセンスがいいんだろう。それは認める。そんなこんなで私とあいつはちょくちょく話すようになった。というか一方的にあいつが話しかけてくるようになった」
「麗子、やっぱり『ブルース』っていいよね」
英語の授業が終わって休み時間になった途端、突然凛空が振り返って話しかけてきた。麗子は頬杖を突きながら眠そうな目で凛空を見る。
「何だよ唐突に」
「いやね、スティーヴィー・レイボーンを聞いたんだけどすごくかっこよくってさ。本当にたまらなく『ブルース』で最高なんだ。あんなギターどうやったら弾けるんだろ」
「レイボーンね、ありゃとんでもないギタリストだな。『ロック』の本筋から少し離れるから意外と聞いていない奴が多いが、私は史上最高のブルースギタリストの一人だと思ってる」
「だよね!まあ俺はクラプトンのが好きだけど」
「私はジョニー・ウィンターの方が好きだ」
「ジョニー・ウィンター?また知らない名前が出てきた」
「『100万ドルのギタリスト』の異名を持つギタリストだ。アルビノで髪の毛も肌も真っ白、体も生まれつき弱いんだが、ギターとなると超人的で次々と豊富なフレーズを目にも止まらぬ速さで繰り出してくる。その音は非常に力強い。まあ『ブルース』よりも『ロックンロール』畑出身の人なんだがな」
「そういうのって何で見極めるの?」
「聞けば分かるだろ」
「そんな簡単なものなの?」
「まあ自分で実際に弾いてみたりすると何となく分かるぞ」
「え、麗子ってギター弾くのか?」
「弾くさ」
「ちょっと待ってくれよ、初耳だ!」
「まあ言ってないからな」
「一体どんなギターなんだい?」
「どんなギター?うーむ、どんなっつうか、Fenderのストラトキャスターだけど」
「麗子がギターを弾く…なんてこった、こうしちゃいられない!」
凛空は突然立ち上がると横にかけていたバッグを机の上に引き上げて、荷物をまとめ始めた。麗子は眉間に皺を寄せてそれを見ている。
「…お前、何やってんの」
「何って、見りゃ分かるでしょ。帰る準備をしているんだ」
「…勘違いしているのかもしれないが、今終わったのは五時間目で今日はまだもう一時間あるぞ」
「知ってるよ。でもそんなのどうでもいいさ。それじゃあまた明日!」
そう言って凛空は呆れた顔の麗子を置いて教室を脱兎のごとく出て行った。
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「もう何となく分かっているだろうが、次の日凛空はギターを背負ってやってきた。訳の分からない野郎だ。しかもストラト!完全に真似しやがってきたんだ、あいつは」
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「なあ麗子、バンドをやろう」
凛空が麗子の机の両端を掴んで力強く言う。麗子は相変わらず呆れた顔をしている。
「それはお前と私とで組もうって言ってんのか?」
「そうだよ。きっと俺たちなら上手く出来る」
「あのな、まずバンドをやるってんならドラムとベースは最低限必要になるだろ。お前にはその当てがあるのか?」
「あるよ。どっちも楽器とかやったことない奴だけど多分俺たちと同じようなセンスを持っているよ」
「…その根拠は?」
「勘だよ」
「…あのなあ」
「麗子はやりたくないのか?折角ギター弾けるんだもの、バンドやった方がいいよ」
「そりゃあ…私だってやってみたいさ」
「じゃあやろうじゃないか!俺もギター練習し始めたばかりで全然弾けないけれど、これから練習するからさ。Fコードだっけ?あれも今は弾けないけどそのうち弾けるようになるさ」
「はん!私は一発で弾けたぜ」
「それに追いつけるようにも!頑張るからさ、なあ、やろうよ」
真剣な顔つきで目の前に迫ってくる凛空から少し顔を離しながら、その熱意に負けたのか、麗子は「分かったよ」と言って承諾した。
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「まあ結局私たちはバンドを始めたんだが、その時私はどうせメンバーが集まらないだろって諦めていた。だが、驚いたことに凛空は二週間でメンバーを集めてきた。全員それまで特別音楽を聞いていたわけでは無いような奴らだ。それなのに凛空が自分の好きなバンドの曲だとかを聞かせたらみんな一発で気に入って、すぐバンドをやるって決めやがったんだ。ドラムの後藤、ベースの井戸山、この二人は初心者で、キーボードの十郎だけは一応経験者だった。まあそんなこんなで私たちはバンド活動を始めたんだ。因みにバンド名は『The Blues Children』」
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『The Blues Children』のメンバーは初めての練習をするためS市内のスタジオハウスに来ていた。濃い緑色の重い扉を開けて中に入る。中はたばこやコーヒーの混ざったようなにおいが充満していた。各部屋から練習中のバンドの音が漏れ出ている。狭い通路を少し行くと右側に受付があった。
「すいません、二時から予約してた烏丸ですが」
麗子が少しかがんで受付の中に声をかけると、椅子に座っていた坊主で無精ひげを生やした男が上目づかいで彼女を見ると、手元の紙をペラペラとめくり始めた。
「ん…あー烏丸さんね、G1スタジオです。マイク何本いります?」
「えっと、とりあえず四本で」
「はい、どうぞ」
マイクの入った籠を渡された五人は言われた通りG1スタジオに入った。
各々が楽器の準備を始める。麗子は手慣れた様子でやるが、他の四人はそうも行かない。なかなかてこずるようで何度も麗子に助言を求めた。
「麗子、ギターの音が出ないんだけど」
「あ?…んー…なんだ、ギター本体のボリュームを上げてないんじゃないか」
「麗子、ベースのアンプ点かないんだけど」
「あー…と…コンセント入ってないからそりゃ点かねえだろうな」
「麗子、キーボードのアンプってどれ?」
「あっと…確かこれマイクのミキサーと同じのに繋ぐんじゃないっけか」
「それってどうやるんだ」
「私も知らねえよ。そこら辺に書いてるから自分でやれ」
「麗子、このドラムのハイハットどうやって調整するの?」
「知るか!私はポールやプリンスじゃないんだ、何でも出来ると思うなよ!」
四苦八苦しながらも何とか四人はそれぞれの楽器の準備を終えた。しかし、その時既にスタジオに入ってから一時間も過ぎてしまっていた。残りの練習時間は一時間である。
「ったく、折角二時間取ったのにもう半分かよ」
麗子は困ったように言う。
「でもさ、俺たち何の曲やるかもまだ決めてなかったし、別にいいんじゃない?」
「そうだよな、今日一体何やるんだ?」
「俺はバンドとかやったことないし任せる。コード決めてもらえれば適当にキーボード弾くよ」
「俺も任せるよ、とりあえずリズム刻んでればいいでしょ」
「えーと、じゃあ『ブルース』の曲にしてほしいな、俺それしかベースライン弾けないし」
「俺もそうして欲しいよ、『ブルース』だったらクラプトンばりのギターを弾ける気がする!」
「まだFコードも弾けないくせにか」
「そう言わないでくれよ、麗子…で、じゃあなんか『ブルース』ナンバー決めてもらえる?」
「そうだな、やっぱり『Sweethome Chicago』だろ。キーはEメジャーだ。イントロは私が弾いてどこで入るかは合図を入れる。分かったか」
四人は同時に頷いた。それを確認して麗子は手元を見て、一度息をついてから目をつむった。彼女が手にしているのはもちろん白いストラトキャスターだ。右利き用のものを左で弾く。
ピックを口にくわえた。
一度天を仰ぐ。
そして、目をつむったまま、指で、『ブルース』を奏で始めた。
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「『The Blues Children』は『ブルース』をやるという点で完璧なバンドだった。最初にセッションをした時にすぐ気づいたさ、これはいけるぞってな。個々の自己意思がバンドという一つの集合体に取り込まれた上で上手く溶け込んでいた。それまでバンドをやったことのなかった私はやっと知ったんだよ、歴史上のギタリスト達が経験してきたその感覚を。初めのうちは演奏技術は大したことなかったがやはり絶対的なセンスが違ったと私たちは自負していたし、段々上手くなるにつれて私たちの感覚は確固たるものへと変わっていった。そしてライブをすることに決めた。確かどっかの公園でやってる音楽会みたいなものでそんなに観客も多くなかったけれど、精いっぱい、それでいて楽な気持ちでパフォーマンスをした。あの時やったのは『Crossroads』と『Tell Me』。初めてのライブとは思えないほど洗練されてたぜ。最も私たちにとっては何も驚くことはなかったけどな。丁度その時県内で活動してるそこそこ有名なおじいさんバンドが対バンしてたんだがその人たちが目をかけてくれてな、その後のライブに何度か誘ってくれて中学生ながらいろいろなところでライブをこなしていった。そして着実にレベルを上げて行った。中二になるころには県内の中学生バンドでは、いや高校生バンドですら適うものはなくなっていただろうな。そうは言っても私たちは基本的にさっきも言った様な大人のバンドが出る企画にしか出ていなかったからほとんど中学界隈で知名度はなかっただろうが。こんな充実したバンド生活を送っていたんだが、そのころ私は少し疑問を覚えていた。というのも『The Blues Children』はその名の通りやる曲が『ブルース』に振りすぎている。もちろん私は『ブルース』が大好きだぜ、でもな、根底が『ロック』の人間なんだ。一つのジャンルばっかりだけでなくいろいろなものに手を出したい、もっとたくさんのものに触れてみたいと思い始めていたんだよ。丁度そんな時期、そう、中二の夏休みにあの事件は起こった…」
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いつもの様にスタジオに練習に来ている『The Blues Children』。もう誰も楽器の準備にてこずることはない。既に皆がベテランのごとくそれを進めていた。
麗子はアンプに体の正面を向けて音作りをしていた。使うエフェクターはファズ系である。
そんな中、少し他のメンバーより遅れて凛空がスタジオに入ってきた。
「ういーす」
すぐさまケースからギターを取り出して準備を始める。麗子はそれに特に注意を払わず『Red House』を弾き始めた。約五分間、ジミヘンばりのギターを披露する。弾く時は大体目を瞑っていた。
演奏を終えて目をゆっくりと開くと、凛空が準備も途中のままで麗子をじっと見つめていた。
「何だよ」
麗子は少しイラついた様子で聞いた。するとそれに対して凛空が一言言い放った。
「いや、前から思ってたけど麗子の『ブルース』は何か気持ち悪いよな」
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「…え?終わり?」
絵里、麻美、菊之進の三人はポカンと口を開けて麗子を見つめた。彼女は憤然やるかたない様子で腕を組んでいる。
「あ?そうだよ。以上だ」
「…なんか、もうちょっと大事なのかと思ってました」
麻美が申し訳なさそうに言うと、麗子はその綺麗な顔をひきつらせて起こるような口調で、
「十分大事だろうが!あの野郎、私の『ブルース』を気持ち悪いとか言いやがったんだぜ、調子に乗るんじゃねえこのひよっこが!」
と喚いた。麻美は怖くなって菊之進の後ろに引っ込んだ。それを苦笑しながら見ていた絵里が口を開いた。
「…まあ、確かに暴言ですね。で、その後はどうなったんですか?」
「あ?もうぶちギレてバンドをすぐ辞めた。他のメンバーには悪いと思ったが何としても凛空だけは許せねえ。そして問題なのはそれからだった。あの野郎は自分の失言に気付いたらしく何度も何度も謝ってきたんだ。それでも私は取り合わない。そのうち諦めると思ったからな。ところがどっこい、あの野郎の行動はヒートアップしていく。ある日私が朝家を出ると、どうしたことか、凛空の野郎が家の前に立っているではないか!恐ろしいのは私はあいつに自分の家を教えてなんかいないってこと、それなのにあの野郎は私の驚愕と恐怖の入り混じった顔を見てにっこり笑うと当然のようにおはよう、と声をかけてきた。それだけじゃない、あいつは自分の家と方向が真逆なのに帰宅する時に着いて来ようとしたし、修学旅行の時同じ班になろうとしたし、挙句の果てには家に帰ると私の部屋にあいつがいたことがあった」
「…」
三人は唖然としている。麗子のバンド経歴を聞いていたはずがいつのまにやらストーカー被害の相談のようになっている。彼女たちの中で倉重凛空という男の評価はナイアガラの滝のごとく急激に落ちて行った。
「そんでもって高校は何としてもあいつと違う学校が良かったから、途中まで一番偏差値の高い学校にしてたがギリギリになってばれないように醍逸高校にした。あいつのことだ、放っておけばついてくるに決まってる。案の定あいつは気づかぬまま最初に第一志望にしていたところに行ったからな」
「それは何というか…正解だと思います」
三人はそろって頷いた。
「だろ?全くあの野郎は…」
「あれ?麗子じゃないか!」
突然ライブハウスの方から男の声が聞こえた。麗子の体がすべての動作を止めて石造のごとく固まる。絵里たちが声のする方を見ると、果たしてそこには先ほどステージで見た男、倉重凛空がいた。三人もどきっとして身を縮こまらせる。
「何だ麗子、来てくれてたのか!言ってくれればいいのに」
凛空はぐんぐん近づいてくる。絵里たちはガチガチの体で彼を避け、肩を掴まれそうになった麗子は体をのけぞらせてよけた。凛空は全く気にする様子がない。するとバンドの他のメンバーもやってきた。そのうち、ドラムを叩いていた男が、
「久しぶりだな…この子たちは?」
と絵里たちを指して麗子に聞いた。麗子はそちらの男には特段嫌がる風でもない顔を見せる。
「私のバンドメンバーだよ」
その言葉に彼ら過去の仲間たちは驚いたが、その中でも凛空の驚き方は尋常でなかった。
「ば、バンド⁉お前バンド始めたのか⁉」
麗子は凛空に顔を向けず、ドラムの後藤に向かって話し始めた。
「全員私より一つ下だ。ちっこいのがドラムの麻美、男がベースの菊之進、馬鹿っぽいのがギターの絵里。バンドの名前は『Electric Ladyland』」
それを聞くと後藤は笑って「よろしく」と三人に向かって言った。彼女たちも頭を下げる。
「そうか、やっとバンドを始めるんだな…良かった」
後藤とベースの井戸山、キーボードの十郎も嬉しそうに麗子を見る。
「まあ、これから対バンすることもあるかもしれんからよろしく。さ、お前らもう帰るぞ」
そう言って麗子が背を向けたので絵里たちも失礼しますともう一度礼をして麗子についていこうとした。
「ちょっと待ってくれ!」
突然凛空が麗子の腕を掴む。その時皆がぎょっとしたのは言うまでもない。
「何だこの野郎!掴むんじゃねえ!」
「なあ麗子、頼むからもう一度一緒にバンドをやってくれよ、この子たちのバンドと掛け持ちでもいいからさ」
凛空が嘆願するように言う。麗子はそれを蔑むように見る。
「もうその話は終わったはずだ。それじゃ」
麗子が腕を振り払って颯爽と帰ろうとしたが凛空という男、そう簡単には諦めない。なかなかその手を放してくれぬのだ。流石の麗子もぞっとした様子でいたが、そこに助けが入った。絵里である。
「あの、凛空さん」
おびえた様子の絵里を凛空は不思議そうに見つめた。
「何?」
「その、お初にお目にかかります、尾山絵里と申します。凛空さんのギター素晴らしかったです。めちゃくちゃ感動しました」
「それはありがとう」
「でも…私は麗子さんのギターの方が好きです」
凛空はきょとんとした目で絵里を見つめていたが、しばらくすると突然大きな声で笑い始めた。
「ははは!そうかそうか、麗子のギターの方が好きか…ははは、俺もそうだよ、自分のギターより麗子のギターの方が好きだ」
それを少しうつむいて聞いていた麗子は一度はあと息をつくと、覚悟を決めたかの後尾t苦凛空を真剣な目で見つめた。因みにこの時まだ凛空は麗子の腕をがっしり掴んでいる。
「おい凛空、お前にチャンスをやる」
笑いを止められずにいた凛空は麗子の真面目な態度に気付き笑うのを止めた。
「何だ?」
「三月にある高校生バンド大会、私たちも出るからお前らも出ろ。そこでお前らが優勝したら私はお前らのバンドに入る。こっちと掛け持ちもしない。だが私たちが優勝したらもう金輪際この話は無しだ。いいか?」
その場の全員が凍り付いた。麗子という女、とんでもないことを考え付く者だ。凛空以外の者たちは衝撃から抜けきれなかったが、凛空はすぐにその顔を緩ませると、遂に麗子の腕を放した。
「本当にいいのか?俺たちと競って勝てるのかい?」
「ああ勝てるさ。楽しみにしてろよ」
麗子は再び背を向けて歩き始めた。それに絵里たちも急いでついていく。凛空は笑ったまま麗子の姿を遠くまで見つめていた。