第十五話 Blues of boys & girls Part.1
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六月末、絵里たちの住む宮城県ではまだ梅雨入りもしておらず、今日も空は果てしなく青が広がっていた。しかし、やっとのことで中間テストを終えた絵里の胸にはどんよりとどす黒い雲がかかっていた。かろうじて雨は降っていないがそれも時間の問題、明日からは怒涛のテスト返却ラッシュが始まり大雨警報が鳴り響くことだろう。
「うが~テストなんか消えちまえ~」
部室。絵里は憔悴しきった顔で机の上に頬をこすりつける。それを麻美は心配そうに、菊之進は呆れた様子で見つめていた。
「テスト難しかったもんね、やっぱり高校の勉強は今までとは違うよね」
「全くだよね~」
「普段勉強していないからテスト前に苦しくなるんだ」
「だってギターの練習で忙しかったんだもの。さ、テストも終わったし思いっきり練習しよう!」
「お前はテスト期間もみっちり練習してたんだろ」
「そりゃあね、麗子さんも付き合ってくれるって言ってくれたから二人で勉強時間の倍くらいやったよ」
絵里は照れくさそうな顔をするとケースからギターを取り出して早速アンプにつなぎ始めた。それを見届けると菊之進と麻美も目を合わせて微笑んでから楽器の準備を始めた。
絵里はウキウキしながらギターを弾き始める。自分でも初めに比べて随分上達したものだと感じていた。Fコードなどもうさっぱり怖くない。今やコードをかき鳴らすのは得意中の得意だ。しかしまだまだピッキングや音の作り方には粗が目立つ。もっと練習が必要だ。
「お前も上手くなったもんだな」
チューニングを合わせながら菊之進が話しかけてきた。他人にそう言われると自然と顔が綻ぶ。
「うひょ、菊さんに言われるってことは本当に上手くなってるんだな」
「もちろんまだ手放しで称賛できるレベルじゃないぞ」
「そりゃあ分かってるよ。私もね、もっともっと上手くなりたいんだ。技術的にとかじゃなくって精神的に。麗子さんの受け売りだけどさ」
「精神的に、ね。そのためにはどうするんだ?」
「うーん、よく分からないけどとにかくがむしゃらにやってみるよ。…あ、そう言えば麗子さんが言うにはギター弾きは『ブルース』を聞くべきらしいよ。何でもいくら『プログレ』や『メタル』だけやって技術を上げても限界がある、その向こう側に突き抜けるにはもっと別の何かが必要だ、それが何かを突き詰めていくと誰だって『ブルース』に行きつくんだってさ」
「『ブルース』ね、まあ一理あるだろうな。歴史に名を残すロックギタリストのほとんどが『ブルース』を通っているし、『ブルース』自体『ロック』の親分みたいなものだ。聞いて損はないだろ」
「へー、私まだ『ブルース』が何たるかは知らないけれど何か凄いんだね。菊さんは聞くの?」
「結構聞くぞ。ハウリン・ウルフなんか最高だな」
「菊之進君ブラックミュージック好きだもんね」
麻美が笑いながら言った。
「私も少しは聞くかな…レッド・ツェッペリンだってファーストアルバムはバリバリのブルースロックだもん。あとはクリームとか初期のジェフ・ベック・グループとか」
「俺は白人のブルースは好きじゃない。クラプトンより断然バディ・ガイの方がいい音出す」
「で、でもデレク・アンド・ザ・ドミノスの時のクラプトンは凄いって!あんな重厚なギター、黒人でもなかなか弾けないよ!」
「あの時のアルバムはデュアン・オールマンの果たした役割が大きいだろ?あれをクラプトンだけの手柄にするのは間違いだ。俺は白人でもデュアンやレイボーンなんかは好きだな。あれは間違いなくブルースだ。大体アメリカ人とイギリス人じゃ音楽的ルーツに違いがるんだからそこに差が出るのは仕方がない」
「い、いや、私はデレク・アンド・ザ・ドミノスの時に関してはクラプトンのギターの方が勝ってると思うな。そ、そりゃその後のソロ作品なんかはアレ?ってなるのもあるけど、あの頃は精神的にも肉体的にもギリギリ感があって、それがギターの音に間違いなく乗ってるよ!」
絵里は目の前で繰り広げられている自分の全く理解できないお話にポカンと口を開けているほかなかった。春から『ロック』を聞き始めこの部室にあるアルバムを麗子に教えられて何枚か聞いたとはいえ、当たり前だがまだまだ聞き足りていない。そもそも菊之進の言う黒人と白人の音楽的違いというものがまだ分かっていない。アメリカンミュージックの沼というのは途方もなく深そうだ。
そんなところに麗子がギターを背負ってやって来た。どことなく神妙な顔つきをしている。
「随分賑やかにやってるな」
「麗子さん!今アサミンと菊さんが『ブルース』についてでバトルしてたんですよ」
「ほう、ぜひ私も混ざりたいところだが今日は用事があるんだ。練習も今日は三人でやってくれ。それじゃあまた明日」
そう言うと麗子は部室を去り、扉がバタンと閉まった。珍しいことである。テスト期間でさえほとんど毎日一緒に練習をしていた絵里からすれば非常に奇妙な気がした。雰囲気もどことなくいつもより真面目そうであった。
麻美が少し不安げに声を出す。
「用事って何かな…」
「うーん、まあ高校生だしいろんな用事があってもおかしくないけどね」
「そうだね、考えてみれば私たち麗子さんのことまだよく知らないものね、きっと家の用事とかで…」
「男だな、ありゃ」
菊之進の突然の発言にその室内が震えた!特に驚愕の表情を見せたのは絵里である。
「お、男ぉ⁉」
「ああ間違いない」
「い、いや、まさか、麗子さんに限って、そ、そんなこと…」
「あの顔は間違いないぜ、俺の第六感がそう言ってる」
しばらく絵里の青白い顔がその場の大部分を占めたが、彼女はハッと意識を取り戻すとギターを片付け始めた。
「何してるんだ?」
「何って、こうしちゃいられないでしょ!麗子さんの後をつける!」
「はあ⁉いいからそっとしておいてやれって。高校生なんだからそれぐらい…」
「いいや!麗子さんに釣り合う男かどうか私が見極める!」
絵里はギラギラした目でそう言うと、ギターをケースにしまった。
「さ、二人も早く!」
「え、私たちも行くの?」
「当たり前でしょアサミン!」
「でも…」
「仲間の危機を助けないでどうするのよ!」
「いや、危機って…」
「『危機』って言うところを『Close To The Edge』って言ってたなら行ってやってもよかったんだが…」
「菊さんも訳わからないこと言わない!さあ!」
麻美と菊之進は目を合わせてため息をついてから、しぶしぶと楽器の片づけを始めた。
2
S駅前にあるいすゞ橋通りはいつでも人でいっぱいだ。日が落ち始めている午後五時、歩道には学校帰りと見られる制服姿の高校生や、電話をしながら歩き回るサラリーマン、車道でも乗用車から運送用トラックまで様々な車が行き来している。
道の両側にはビジネスホテルやビル群が立ち並び、S駅近くには絵里たちが一度楽器を見に行ったショッピングセンターやボウリング場までがある。流石は県の中心地だ。
麗子はポケットに手を突っ込みながらそこを慣れた様子で歩いていた。背中にはいつものストラトキャスター、他にバッグは持っていない。今日まで定期テストであったというのに筆記用具や教材はどこにしまってあるのだろうか。
彼女は駅が右手数十メートル先に見えるくらいのところにあるホテルのところまで来ると、左にある人通りが比較的少ない小道へと曲がった。迷わずにガンガンと進んでいく。すると彼女がその小道に入って50mほど行ったところであろうか、背後の曲がり角に怪しい人影がうごめいた。何かもぞもぞと動いていると思うと、突然その角の人の膝のあたりの高さのところから人の顔が現れた。麻美である。角に手をかけている。次に同じポージングで麻美より高い位置から絵里が、更にその上から菊之進の顔が出現した。横を通る人々が不審そうに彼らを見つめていく。
「お前らチャップリンの『キッド』って知ってるか?」
「しっ!菊さん、ちゃんと集中していないと見失うよ!」
「一体どこに向かってるんだろうね…」
三人が角から麗子を見つめていると、彼女は再び右へと曲がった。
「行こう!」
三人はそろりそろりと走り出して次の角へと向かった。そして次の角でも同じようなポーズをとる。それを人々が凝視する。そしてまた静かに走る。それをずっと繰り返すのだ。
そんなことをしているうちに大分人通りの少ないところまで来た。周りにはマンションがいくつか建っており、コンビニも一軒視界に入る。また、古本屋や古レコード店まであった。S駅だって歩いて15分くらいである。なかなか住みやすそうなところだ。
そんなところに一つのライブハウスがあった。名前はBAR DAGE、高校生のライブからインディーズバンドのライブまで行われている場所だ。そこに麗子は入って行ったのだ。
絵里たち一年三人組はそれをあのポーズで見届けた。麗子の姿が消えて10秒くらい経った後、三人は歩いてその入り口まで来た。下に階段が伸びており、おそらくその先がライブハウスだと思われる。
「麗子さん入って行っちゃったね」
「ここはライブハウスだな。どれどれ…大人のバンドとかが出る企画やってるみたいだぞ」
菊之進が店頭に出ている小さな黒板に書いている文字を見て言った。
「何だ、ただライブを見に来ただけじゃない」
「いやいや、考えてみろよ。あいつがわざわざこんなライブ見に来るか?多分男が出演してんだよ」
「…よし、入ってみよう」
「待て待て、落ち着け。高校生の企画じゃない多分結構値段するぞ。お前そんな金あるのか?」
「持ってないから菊さん出して。あとでちゃんと返すから」
「は?いや、ちょ!」
菊之進が止める前に絵里は階段を下り始めてしまった。
「…とりあえず行こっか。足りなかったら私も出すよ」
優しく語り掛ける麻美の顔を見ると菊之進も流石に断りづらくなり、
「いや、今日は五千円持ってるから足りるだろ…多分」
と言って下へと下りて行った。