一章
一章「予想外の異世界転生」
目を開けると青空が見えた。鮮やかな緑の葉をつけた枝の隙間から覗く空だった。
「ん……。今何時だ」
和束遼はまず、そう考えた。自分はなぜこんな真っ昼間に寝ていたのだろう。今日は休日か?
「ていうか」
彼は身を起こした。周囲には背の高い、杉のような木が並んでいる。地面についた手には冷たい土の感触。
「どこだ、ここ?」
どうやらどこかの山道であるらしい。木に囲まれた、二メートルほどの幅の未舗装路。まるで見覚えのない場所である。
立ち上がると、軽い目眩と吐き気がした。自分の両膝に手を当てて前かがみになって耐える。
「俺、一体……」
まるで状況がわからない。服装は高校の制服のまま、ところどころ汚れていたが手で払うとすぐに取れた。どうやら晴天が続いているらしい道の、乾いた土が付いていただけのようだ。
とりあえず時間を知りたいのと、地図アプリを起動すれば現在位置がわかるだろうと上着の内ポケットからスマホを取り出す。ところがホームボタンを押しても反応しない。どうやら充電が切れているらしい。
「くそ。いざって時に使えねーとか……いや。常にクールに、冷静にだ」
つぶやき、気を落ち着かせようとする。現在地、時間ともに不明。自分がどうしてこんなところで寝ていたのかも不明。
周囲の風景から察するに、どこかの山だろう。陽の高さからまだ午前中、多分十時頃なのではないかと推測。
今自分が向いている方を前とするなら、こちらは緩やかに下っている。鬱蒼と茂る木々に左右を囲まれて続く道は、どこへ続くのかもまるでわからない。振り返ってみても登り坂になっているということ以外はまるで同じような道が続いている。
「登山がしたいわけじゃあ、ないからな」
とりあえず降りるしかないだろう、と決めて歩き出す。先ほど感じた目眩などは起こらず、体調も悪くないようである。
周囲の木々の奥から鳥の羽音や鳴き声が時折聞こえてくる。登山の趣味などない彼には学校行事で行った山くらいしか知らないが、それよりもっと人の手が入っていない場所のようだ。道は単に踏み固めただけの素朴なものだし、標高を示す看板や、不心得者の捨てていったゴミなど人工的な物が何も見当たらないのだ。
しばらく歩くうちに、木の隙間から下を見通せる場所があった。眼下に川が見える。そこにも人の姿は見えず、自分はまだそれなりに高い場所にいるらしい、という事だけがわかった。時々野生動物のものらしき鳴き声が聞こえるのが不安を掻き立てる。明るいうちはいいが、もし山の中で夜になってしまったら……。
上空を鳥が一羽飛び去った。ちらと見えたその種類が何なのか、興味も知識もない彼には見当がつかない。
「……暑いな」
制服のジャケットを脱いで腕にかける。わけもわからないまま、どこかもわからない未舗装の道を黙々と歩く。
「そういえば、俺……何か忘れている気がする」
ひどく重要な、何か。自分の人生に大きく関わるような……。
奇妙な気分のまま、さらに十五分ほども歩いただろうか。周りの風景に変化は見られず、緩やかに下る山道は続いている。
「ひょっとしてこれ、夢なのか?」
半ば本気でそう思った。それにしては妙にリアルだが、見ている最中はそんな風に感じるものかも知れない。
改めて現状を確認する。乾いた地面を踏みしめる革靴が土埃で白く汚れている。頬に感じる風、濃い植物の匂い、木々の隙間からさす陽射し……やはり夢とは思えない。
やはりこれは現実で、理由やら経緯やら全て不明なままだが、どこかわからない山道で自分は寝ていた。そこまでは認めるしかないようだ。
とりあえず落ち着こう、と手近の木の根を椅子がわりにして腰を下ろす。
すると急に不安になった。
おかしい。
夢ではないが、これは現実ではない。
そうだ、俺は
「電車に……」
彼の思考は騒がしい羽音で遮られた。
大きな鳥が頭上の枝に止まったらしい。反射的に見上げると、そこには意外なものが見えた。
枝からブラブラと揺れている二本の素足。草履のようなものを履いた、どうやら女の足だ。
「ええ、ええ。もちろんお見通しですとも。あなた様がこちらへ進んでくること、そしてこの木に腰をおろすことも。ミサキには視えていたのでございます!」
そう言いながら枝から飛び降りて目の前に着地したのは、やはり女の子であった。遼と同年代くらいの少女は、赤みがかった短めの髪で、墨で染めたように真っ黒な浴衣のような服を着ている。喪服を甚平にしたような服だと遼は思った。
どこか野性味を感じさせる得意げな笑顔で、座った遼を見下ろしている。
「でしたら」
急に背後から声がして、遼は座ったまま飛び上がるという器用な驚き方をした。
「もっと早く言うべきです。移動距離から推測して、この方は覚醒してすぐに半刻近く歩きました。いくら転生時の刷り込みがあるとは言え、異常な行動であると考察します」
木の後ろから着物姿の女性が現れた。黒地に鮮やかな花柄があしらわれた華やかな衣装で、見るからに高価そうである。カラン、と音をたてた足元は白い足袋に赤い鼻緒の下駄を履いており、まるで時代劇に出てくる武家の子女、といった服装であるが、その女性は金髪碧眼だった。
きめの細かい白い肌、高く通った鼻筋と大きな瞳が印象的な美しい女性。年齢は二十代半ば、といったところだろうか。
「そうは行かないのですエルザ様! ミサキが見通した通りに事は進むのですから、この方は目覚めてすぐに歩き出し、ここで休息をとる。これは決められていた事だったのです! ええ、ええ。そうなのです!」
「だから今まで黙っていたのですか」
「そうですとも!」
「あなた様が我々の客人であると推定します」
腰に手を当てて得意げに言うミサキを無視して、エルザと呼ばれた着物姿の白人女性が訛りのない日本語で言う。高く結い上げたブロンドヘアに華美なかんざしが似合っている。まるで外国人観光客が着付け体験をしているようであったが、妙に似合っているというか馴染んでいる。
「当方はエルザ、こちらはミサキと申します。和束遼様ご本人に相違ないでしょうか? と、確認します」
「ああ、確かに本人です。着物似合ってますね」
外人なのに、と遼はただ思ったままを口にしただけなのだが、
「遼様、遼様! ミサキは意表を突かれました! ええ、その様な反応をしてくるとは流石に見通せませんでしたとも」
喧しい相方を尻目に、エルザは美しい無表情で遼に近づいた。彼は座ったままだったことに気づき立ち上がる。彼女は自分より少し背が高かった。
「人格の再形成に不備があったのかもしれませんが……適応者の問題は我が主に委ねるのがもっとも適切であると判断します」
遼の目を覗き込むようにして言うと彼女は、着物の袖口から黒い丸薬のようなものを取り出した。
「これを飲んでください、と要望します。あと二刻ほど歩いて頂かなければなりません」
手渡された得体の知れない物を、遼は躊躇せずに飲み込んだ。現状に不明な点が多すぎて感覚が麻痺していたのと、どうやら目の前に居る怪しげな二人に頼るしかなさそうだと悟ったからである。信用できるかどうかはともかく、少なくとも事情はわかっていそうだ。
「お……気のせいか体が軽い。飲んでから聞くもアレだけど、何なんですか今の」
体に力がみなぎるようだ、と思いながら聞く。でもまさかそんな漫画のような便利アイテムが実際にあるわけがないし……。
「身体の回復薬です。害はありませんのでご安心下さい、と補足します」
ホントかよ、と思うが確かに楽になった。これならいくらでも歩けそうだ。ところで、二刻ってどれくらいだ?
「それでは参りましょう! 遼様、驚かないで下さいまし?」
何が、と問いかける前にミサキは羽音を立てて大きな鳥に変化した。
「うお、でけえカラス?」
思わず後ずさる。人間と同じくらいの大きさのそれは黒く丸い目を遼に向けると、
「ええ、その反応もお見通しでしたとも。鴉は鴉らしい大きさでないと人は落ち着かないもの……。そしてそれは鴉自身も同じなのです!」
そう言うや、するすると縮んでいく。やがて遼が知るカラス程度の大きさになったミサキは、それでは八咫鴉の先導で参りましょうと低空を飛び、山道を進み始めた。
「あれ?」
見間違いかもしれないが、今飛んで行く時に足が三本あったように見えた。現状の無茶苦茶さから言うと些細なことだが、三本足のカラス、という言葉に覚えがあるような気がしたのだ。それに、
「ヤタノカラス……?」
その言葉も、どこかで聞いたような気がした。
「一本道を行くだけなので先導など必要ないのですが」
エルザが言いながら、歩き始めた。
「八咫鴉の導きには強力な加護がありますので、今後の事も含めて無駄にはならないものと再考致します」
姿勢よく山道を歩く着物の後ろ姿を追って、遼も再び歩き出した。
「……ええ、それは時の帝の東征を先導していたときで御座います。御一行の行く手を阻む、急峻な岩場をいかにして超えるか……そこで八咫鴉たるミサキの力が」
道はずっと下りで、荒れた場所もない。単調な道程を黙々と進む遼とエルザ。
カラスに変化して二人の先導を続けるミサキは、自分が神の遣いである八咫烏としてこれまでにどれだけ重要な事を為してきたかを語り続ける。その内容はほとんどが神話のようなものばかりで、登場人物も帝や神様、龍や妖怪などだった。
遼は現状に関して色々と質問をしたのだが、肝心なことになると『それはまだ先のお噺で御座います』だの、『そう急かずとも宜しいではありませんか。ええ、先に楽しみは残した方が人生は輝くものですとも』などと言うばかりなので途中からは勝手に喋らせておいた。
「そろそろでございますよ、遼様!」
二刻……約四時間ほど歩くと木に囲まれた山道は終わり、視界が開けた。
山の裾野に広がる平地。田畑の間に点在する掘っ立て小屋のような民家がある。絵に描いたような農村だ。
「それでは、先導を終えたミサキは何も言わず静かに去るといたしましょう! ええ、ええ。別れに言葉などは不要でございますとも! 再びその力が必要になったとき、八咫鴉は姿を現すのでございます故!」
騒がしく別れを告げる三本足の鴉に遼は軽く手を振る。
「ああ。じゃあまたな」
それよりも到着した村に興味が向いていた。村というより集落とでも言った方がしっくりくるな、と内心思いながら。
「随分と淡白でございますね遼様! ええ、それすらもお見通しではございましたが!」
そしてミサキは早々に飛び去ります、と言いながら姿を消す。
「なんだか、急に静かになりましたね」
集落へと続いている道に立って遼が追いつくのを待っていたエルザに言う。
「その感想に同意します」
村では農作業をしている人々の姿が見受けられた。広い田畑に数人ずつが固まっており、遠目に見ると服装はやはり時代がかった和装のようである。
「エルザさん、ここが?」
「はい。最初の目的地として目指しておりました、安佐の村です」
エルザは長時間の移動に疲れも見せず、そう言った。
遼は思う。多分ここは過去の世界だ。具体的な時代はわからないが、まだ自動車も電車もなく、主な移動手段が徒歩であった頃。
そして先程まで一緒だったミサキや、目の前のエルザも歴史の闇に潜んでいた存在、神話の時代から存在していた人ならざるモノ……神やその使い、あるいは妖怪や魔物のような存在なのではないかと推測する。
つまり俺は、タイムトラベルをしてしまったのだ。今なら思い出せるが、自殺しようとした女子中学生を助けて自分が電車に轢かれてしまった。その瞬間、どんな理屈かは知らないが何らかの不思議パワーで時間を遡ってあの山道に飛んだのだろう。
「まるでSFだな」
遼のつぶやきにエルザが振り返る。
「えすえふ? 当方の知識領域にない単語ですが、どのような意味でしょうかと質します」
小さく首を傾げ、しかしまったくの無表情で尋ねる。
「見た目外人なのに、中身は完全に時代劇なんだな」
「再び知識にない単語です。外人というのは異人の同義語と類推しますが、時代劇とは」
「俺が居た未来の世界から見た、過去の時代の劇ですよ」
タイムトラベラーとしてわかりやすく説明してやると、成る程とつぶやいた。
「現状に対する認識に錯誤があるのですね。それは後ほど、我が主より御説明致します」
さくご? 何だそりゃ。わがあるじ、ってさっきも言ってたけど。
「こちらへ。初日にかなりの負荷をかけてしまいました為、その肉体の疲弊が不安です。休息を摂るのが必要と判断します」
都会育ちの遼には見慣れない、畑の間を真っ直ぐにのびる畦道。山道から出てほぼ真っ直ぐに、集落の奥へと進んでいく。単純な道筋ながらまったく躊躇のない足取りで進む、着物姿の白人女性。陽の光を受けてきらきらと輝くエルザの金髪は遠目からでも農民たちの目を引くようで、こちらを見てはひそひそと言葉を交わしている。
「お。子供も居るよなそりゃ」
いつの間にか、二人の後ろを数人の子供たちが距離をおいてついて来ていた。粗末だが不潔ではなさそうな着物姿の、いかにも田舎の子供たち。
振り返って手を振ってみると一目散に逃げ出した。
「……そんなに怖いか? 俺」
やれやれと歩き出し、しばらくして振り返ってみるとまた先ほどの子供たちがいた。数えてみると男の子が四人、女の子が二人。こちらを好奇心と警戒心が半分ずつの表情で窺いながら離れて尾行してくる。
また逃げられるのも嫌だし、と気づかぬふりをして歩き続ける。やがて道の終点までたどり着いた。
集落の一番奥にある、他よりはマシ、という程度に立派な小屋の前に、禿頭で白い口髭を生やした老人が少女に付き添われるようにして二人を出迎えた。
「長のトウジ様で御座いましょうか。遠くからの客人をお連れしました。かねてより申しておりました通り、暫し逗留させて頂きます」
深々と頭を下げるエルザ。トウジと呼ばれた村長は更に低く頭を下げて、
「エ、エルザ殿! その様な……勿体のう御座います! どうぞ頭をお上げください」
老人の動きに合わせるように隣の少女も頭を下げる。
大人同士の時代がかった挨拶をぼんやりと見ていた遼に、
「おお。あなた様が、この村を……いえ、この世界をお救い頂けるという神の御使いでございますか……!」
トウジ翁は遼を拝み倒すようにして、そう言った。
とにかくお上がりくだされ、何もない所ですがと老人に言われるまま遼とエルザは長の家に上がる。
どうやら老人は足が不自由なようで、付き添っているハナという少女が介助の役目を担っているようだ。
小屋に入ってすぐの土間で靴を脱ぐ。上がってすぐの板間には囲炉裏がある。三方を粗末な板戸で仕切っているそこは決して広くはない。せいぜい六畳程度のスペースだ。これが村長の家なのだからこの村の貧しさが知れる。
とはいえ、あのまま一人だったら山の中で野宿する羽目になっていたわけで、こうして泊まる場所ができた事に感謝すべきだと遼は思った。
「エルザ殿はそちらに、ご客人はこちらへ」
トウジ翁は左右の板戸を示す。ちゃんとひと部屋ずつあてがわれるらしい。
「あ、俺は和束遼といいます。お世話になります」
遅ればせながら挨拶すると、
「おお、ワヅカリオ様! この村に来て頂いたことに感謝致します」
老人にまた拝み倒されて困惑する。俺は一体、どういう枠でこの時代に来ているんだ?
とにかく落ち着こうと向かって左手の板戸に向かう。すっと、無言で少女が先に立ち、戸を開けてくれる。
「あ、ありがとう。えっと、ハナちゃんだっけ?」
遼が声を掛けると少女は何度も小刻みに頭を下げるが、顔を伏せて目を合わせようとしない。
「ワヅカリオ様、申し訳ございませぬ、ハナは口がきけないのでございます。それ故このような老人の世話役に……」
いかにも恐縮した表情で長が言う。
「あ、そうなんですか。でも、耳は聞こえてるんですよね?」
顔を上げたハナは遼に同意するようにうなずく。
「ありがとう。ハナちゃん」
その時だった。微妙に表情を明るくした彼女の頭上に文字が浮かんだ。
『よかった。神さまのおつかいだというからどんな方かと思っていたけれど。普通のひとみたい』
遼の能力による現象が起きたのだ。
ふと、思いついて言ってみた。
「うん。俺は普通の人だよ。神の使いだって話も、さっき聞いたばかりなんだ、実は」
ほんの悪戯心のつもりだったが、ハナは驚き顔色を変えた。そして必死に口をパクパクとさせながら何かを訴えるように遼を見つめる。
そこでやっと、遼は気づいた。自分の罪深さに。
「あ……ごめん、俺は自由に人の心が読めるわけじゃないんだ。勝手に読まされるっていうか、自分でもいつ読めるかわからないんだよ」
その言葉で、ハナの表情から期待が消え、ゆるゆると失望に変わった。
「ごめんな」
ふるふると首をふり、うつむいたまま質素な部屋へと遼を案内する少女。
室内は、あまり質の良くなさそうな木の床、木の壁。調度品の類は一切なく、一箇所だけ開いた窓を除くと空箱のようだ。
かえって落ち着かないな、などと思っていると、ハナが何かを腕に抱えて部屋に入ってきた。
ワラを紐で束ねた固まりを床に置き、無言で一礼して出ていく。
見ると、どうやらそれは質素な座布団であるらしかった。腰を降ろしてみると意外にクッションが効いている。多分硬いところを取り除くなど細かい気配りがされているのであろう、座り心地も悪くない。戸口に立ったトウジ翁が言う。
「ワヅカリオ様。この様な狭苦しいところで恐縮ですが、どうぞお寛ぎ下さい」
陶器の湯呑に入った水を一口飲むと、今更ながら生き返ったような心地がした。ただの水がこんなにもうまいと思ったのは初めてだった。
「ありがとうございます、トウジさん。でも俺はそんな大層な人間じゃないから、あまりかしこまらないでください」
何を仰しゃいます滅相もないと老人が恐縮するので却って申し訳なく感じた遼は、それじゃあと板戸を閉めた。
「ふう……。結局なんなんだ?」
見知らぬ山道で目を覚まして、どうやら普通の人間ではない二人に導かれてこの農村にやって来た。村長の家に招待されて、神の使いだのと崇められた……。
「ひとつだけわかったのは、この時代でも俺の能力は健在だってことくらいか」
無駄と思いつつスマホを取り出してみるが、やはり電源は入らない。もし充電が残っていたらホーム画面の時計には何月何日と表示されるのだろう。カレンダーアプリを開けてみたら戦国時代だったりして、などと思ううちに瞼が重くなってきた。藁の座布団を枕にして横になる。そのまま、あっという間に眠りに就いた。
「ん……今何時だ」
目を開けると薄暗い天井が見えた。低い、木を組み合わせた質素な天井。遼の意識は急速に覚醒していく。そうだ、俺は過去にタイムスリップして、どこかの村に来て……
「お目覚めですか」
すぐ近くで声がして跳ね起きる。
エルザが背筋を伸ばして板間に正座していた。
「ちょ……ああ、お早うございます。足、痛くないですか」
常にクールに冷静にと意識している遼は、例え驚いてもこうした反応ができる。
「はい、問題ありません。それより、お疲れのところ申し訳ないのですが、これより御足労願いたいと所望します」
彼女は相変わらずの無表情で返す。
「いいですけど、どこへ?」
「妖怪退治に……いえ、その下見にと、言い直します」
妖怪、ね。いよいよ冒険の始まりってところか、と遼は心中クールにつぶやいてみた。
部屋を出ると、ハナが囲炉裏で何かを煮ているところだった。
「エルザ殿、ワヅカリオ様! あとしばしで夕餉の用意が整いますので」
慌てたように言うトウジ翁に、
「では、それまで御使いに村の様子を見て頂いて参ります。半刻ほどで戻りますので」
トウジとハナの二人に見送られて小屋を出る。陽は傾いて空は夕焼けになっていた。田畑に人の姿はもうない。
「エルザさん、どこへ行くんです? 妖怪退治って?」
先に立って歩く彼女に声をかける。
「現地にてお話します。暫しお待ちください、と要請します」
こちらの問いかけを拒否するように言い、歩いていく。どうやら再び山へ向かっているようだ。
「改めて見ると、かなりでかい山だな」
青々と木の茂るそれは、目の前にすると威容を誇るように聳えていた。
「この地方では最も高い山です。そのため、童子のための場所に選ばれたのではないかと思われます」
エルザは一方的に意味のわからないことを言って山に入っていく。それから三十分程も山道を登っただろうか。
「ここです。間に合いました」
立ち止まったそこは、しかし何の変哲もない山道でしかない。
「ここで、何があるんです?」
木に覆われた山道は薄闇に包まれていた。
「こちらへ」
闇に紛れ始めた和装の金髪美女は木の陰へと遼を誘う。
「これより、旅の者がここを通りがかります。そして、妖怪との接触が行われます。それを見て頂きたいと要請します」
あっさりと未来予知のような事を言うエルザに、
「ミサキの予知ですか。それを見るだけでいいんですか?」
ええ、とエルザは息をつく。
「遼様は冷静ですね。その通り、ただ見ていてください。旅人に危険はありませんので隠れて見ていて下さい、と重ねて要請します」
「わかりました。そりゃいいけど、妖怪ってどんな……」
自分が冷静さを保つために心の準備をしたかったのだが、エルザは静かに、と小声で制した。
「……来ます。声を立てずに、と更に重ねて要請します」
素直に頷いていると、山道を足早に下ってくる足音が近づいてきた。
笠をかぶり、荷物を背負った旅装の男。その姿を見て、今は江戸時代くらいなのかな、と遼は思った。
男は木の根に腰を下ろし、背中の荷物を解き始めた。どうやらここで野宿をするつもりらしい。すると急に風呂敷の結び目を解く手が止まった。
「……誰だ?」
隠れている遼たちに気づいたのではない。旅人が来た道にいつの間にか坊主頭の白い着物を着た背の高い男がひとり、立っていたのだ。
座っている旅人からは、その男は坂の上に居ることもあり見上げる形になる。
すると、坊主頭の男はするすると大きくなっていった。最初の身長の倍ほど、目測で四メートルくらいありそうだ。
「ひいっ! ば、化物ぉ!」
旅人は慌てて逃げ出す。確かに、何も危害は加えられなかったなと遼はその後ろ姿を見送る。振り返ると、既に大きな坊主の姿はなくなっていた。
「エルザさん、今のが妖怪?」
「ええ。一度の遭遇で大きくなる速度が分かりました。ほぼ想定内と確認しました」
何やら納得したように頷いているので収穫があったのだろう。しかし、ただ大きくなるだけで消える妖怪なんて、別に放っておけばいいんじゃないかとも思うが……。
「あの妖怪、見越し入道は人間が自分を見上げたという認識をすることによってその体を大きくします。次は先ほどの大きさで現れますので更に大きくなる事を付け加えます」
それは……
「ちょっと、まずいよな」
放っておいたら巨大怪獣みたいになっちまうじゃないか。
「日も暮れました。夜道は危険ですので帰りましょう」
エルザは冗談のようなことを言って歩き始めた。
翌朝。遼が目覚めると既に陽は高く、窓を開けて外を見ると畑には農作業に勤しむ人々の姿が見えた。
部屋を出ると、囲炉裏端にハナが一人、座っていた。遼の姿を見ると、そばに置いてあった椀を手に、こちらへ問いかけるような表情をする。
「ああ、朝ごはん? ありがとう、いただくよ」
ハナの用意する質素な朝食を採り、エルザはと聞くと外を指さしたので出てみることにした。
「お早うございます、遼様」
またも後ろから声をかけられたが、だいぶ耐性のついてきた彼はクールに振り返り、挨拶を返した。
「慌ただしいですが、すぐにここを離れなければならなくなりました、とお伝えします」
相変わらずの無表情だが、どこか申し訳なさそうな雰囲気が感じられたのは気のせいか。
「昨日の妖怪がらみで、何か進展でも?」
「ミサキが次の出現場所を視たそうです。ただ、昨夜のように正確なものではなく漠然としたものですが」
そこへ、トウジ翁が足を引きずりながらやって来た。
「おお、どうされましたか? 何かございましたら……」
「村長、これより宇戸へと発たねばならなくなりました。入道はそちらへ移動したようですので、この村に災いをもたらす事はないと確約します」
それはまた急な、それでは旅の支度をと言う長をエルザは制する。
「お気づかいは不要です。宇戸へは特殊な方法で参りますので」
「おお、神のお力ですか?」
「肯定します」
また色々とわからないことを、と思う遼に振り返り、
「では遼様、身支度だけ整えて頂くよう要請します」
トウジとハナの二人に見送られ、村人たちの好奇の視線にさらされながらあぜ道を歩き、再び山に入る。なんだか昨日からこの道を行ったり来たりしているような気がする。
だが、山に入るとすぐにエルザは立ち止まり、着物の袖口から銀色のペンライトのような物をとりだした。
「遼様、これより空間転移の呪術により町へ参ります。そこから我が主、天狗の屋敷まで徒歩で移動していただきます」
よくわからないながらも了承すると、それではとエルザはペンライトの先端の光で何もない空間を上から下へ切るようにした。
するとそこに、切れ目が生まれた。
「なんだ、これ……」
思わず遼が目を剥いて言うと、先刻すでに、とエルザは無表情を崩さずに、
「空間転移の呪術であると申し上げました。これはそのための呪器です。この切れ目をくぐり、別地点に転移します」
瞬間移動出来るってわけか、と遼は理解した。
「では参ります」
エルザは着物の裾が乱れないように空間の切れ目に足を踏み入れた。
「当方が先に。後から遼様も続いて下さい、と要請します」
そう言って着物姿の白人女性は切れ目の中に姿を消した。遼も続く。
一瞬目の前が真っ白い光に包まれ、すぐに視界が戻った。
背の高い雑草が茂る川原。薄暗いそこに着物姿のエルザが立ち、遼を待っていた。
薄暗いのはふたりの頭上に陽の光を遮るものがあるからで、それは川の対岸までアーチを描くように続いており、その下には木組みの脚が設置されている。川に架かる橋の下に出たのだ。
橋は二~三〇メートルほどの幅があり、下から見上げる遼には余計に大きく感じられた。多くの人に利用されているようで、今もそこを通る人の足音や話し声、喧騒が響くように聞こえてくる。明らかに先程まで居た農村とは違う、多くの人々の活気が感じられた。
「それでは少々難儀ですが、ついて来ていただきたいと要望します」
と、先にたって川原を歩き出した。遼の革靴よりも歩きにくそうな下駄を鳴らして小石や雑草に足を取られることもなくエルザは進む。すぐに橋の下から出た。
やがて彼女は川原から上へ向かう小道……草を踏み固めただけの通路を登り始めた。
着物でよくそんなに動けるな、と感心しながら続く遼はやがて眼前に開けた風景に息を飲んだ。
「な……なんだ、ここ」
整地された川べりの道。向かって右側に、先ほど下から見た大きな橋が掛かっているのが見えた。
そこを往来する着物姿の人々。木製の荷車を引いていたり、肩に天秤棒を担いでいる男たち、下駄を鳴らして優雅に歩く着物姿の女性、風車を手にして嬉しそうに走る子供。実に様々な人々が行き交っていた。
「あの、エルザさん。ここって」
傍らの白人女性に問う。彼女のような人種は見る限りおらず、皆黒髪の日本人のように見えるが、まるで……
「この国の中心都市、宇戸です」
まるきり時代劇のようだった。まさにテレビや映画で見るような。華のお江戸は八百八町、というフレーズが耳に蘇る。
「やっぱりタイムトラベルか。でも、ウド……? 江戸じゃなくって?」
呆然とした心持ちで呟くと、昨夜拡張した知識領域に拠れば、と口を開く。
「タイムトラベル、とは時間旅行の意味です。やはり遼様は自身が時間を遡ったとお考えであると推察します」
冷静そのものの口調でエルザが言う。いかん、クールになるのを忘れているぞと遼は自分を戒める。
「ですが、その考察は誤りであると指摘します」
その言葉に遼が問い返す間も与えずにエルザは歩き出す。
「先程も申しましたように、ここから徒歩にて我が主の屋敷まで移動していただきます。主は気の短い気性ですので、遅くなると機嫌が悪くなるのは容易に推測できます故、すぐに移動を開始していただきたいと要望します」
遼はその後ろ姿を追って歩き出す。川べりの道はやはり舗装されていなかったが、今やそれが当たり前のように思われた。大きな橋まで来ると、圧倒的なリアリティを持って町の喧騒が伝わる。橋を渡らずにエルザは左へ折れる。宇戸と彼女が言った町へと足を踏み入れたのだ。
そこは大通りのようで、優に数人がすれ違えるような幅の広い道がまっすぐに続き、その両脇に種々様々な店が軒を連ねていた。もちろんすべてが木で出来たものであり、茶屋の店先で茶をすすったり団子を口にする者も、質という看板の出た建物へ入っていく者も、乾物屋から風呂敷包みを手に出てくる者もみな、着物姿で草履や下駄履きばかりであった。
だが、
「ちょんまげじゃ、ないんだな」
圧倒されながらも妙に細かいことを気にしてしまうのは遼の性質である。女性は着物姿にふさわしく髪を結い上げているが、男は皆、長く伸ばした髪を首の後ろでくくっている。頭の上を剃り上げた、いわゆるちょんまげではない。
遼のつぶやきに、エルザは歩を止めて振り返った。
「ちょんまげ、とは武士の髪型です。現在当方どもが居る地点は宇戸の東部、商家や平民の住居が集まっている場所であり、ここで武士に遭遇する可能性は低いため、遼様が髷を結った人物を見ていないのはむしろ当然である、と指摘します」
遼が何かを問うよりも先に、再びエルザは歩きだした。大通りを堂々と闊歩する彼女はやはり周囲から浮いているのだが、道行く人々から好奇の目を向けられることもあれば(それは後ろに従っている遼の服装のせいもあるのだが)、
「おう異人の姐さん。今日も別嬪だねえ」
などと声をかける男もいる。彼女はこの町の人間なのだな、と遼は思う。
やがて町の喧騒を抜け、閑静な住宅街らしき一角に入った。
ひとつひとつの住居が大きく立派で、その周りを生垣や木造の塀がぐるりと囲んでいるので格式を感じさせる。
そのうちの一つの前でエルザは立ち止まった。
「こちらが、我が主の屋敷です。御足労をかけましたと感謝の意を表します」
人の背よりも高い板塀に囲まれたその屋敷は、門構えからして立派であった。
門を抜け、エルザは中に入る。
「クールだな」
だいぶ気分が落ち着いてきた遼は、やや茶化すように言った。
「クール、とは冷たいという意味の外来語です。現在の気温と遼様の服装から判断すると冷たさを感じるのは体調不良であると判断します」
「い、いや違う! 今のクールってのは違う意味で」
いわゆる武家屋敷、あるいは日本家屋そのものである。門から飛び石の通路が屋敷の入口へと続く。庭には小さな池があり、手入れの行き届いた木々が茂る。
エルザが屋敷の扉を引き、どうぞと遼を招く。入ってすぐの土間で靴を脱ぎ、板間へ上がる。襖が開かれるとそこは十二畳ほどの部屋になっていた。調度品や装飾の類が一切ない、質実剛健な部屋。やはり武家屋敷という印象は正しかったかと思う。
質素そのものの座敷の中央に、妙にきらびやかな人物が座っていた。
「待ちわびたぞ、よう来たの。さ、苦しゅうない。近う寄るが良い」
「……あー、えっと?」
後ろに控えていたエルザに問いかけるような視線を送ると、彼女はひとつ頷き、
「あの方が我が主、天狗様です」
そう紹介された彼女は、細かな細工の施された扇子を勢いよく広げると、
「さよう。わらわが天狗である。和束遼、そなたをこの世界へ転生させたのも、そこなエルザを遣わせたのもまた、わらわである」
そう高らかに宣言したのは、十二単に身を包んだ、小学生くらいの少女であった。美しいまっすぐな金髪を下ろし、華美そのものといった着物を着たその身体は透き通るような白い肌で、瞳はエルザよりも濃い色調の青。
わかりやすく言うと、十才くらいの白人少女が平安貴族のコスプレのような服装で出迎えてくれたわけである。
普段からクールに振舞うのを信条とし、常識はずれのことばかりが連続して精神的な耐性が出来上がりつつあった遼だが、それでも意表をつかれた。
エルザの主が白人なのは良い。それが幼い少女なのもまあ、認めよう。フィクションではよくある事だ。しかし何故、江戸時代的な世界観の中に平安貴族なのか。例えばここが大奥のような所ならまだしも、質実剛健な武家屋敷の座敷に一人で待っていたというのも、どこかちぐはぐで滑稽な印象だ。
「あの、天狗さん。俺わからないことだらけなんだけどさ」
彼が砕けた口調でそう言ってしまったのも、そうした心情によるものであった。
「遼様、お控えください。我が主は神の御遣い。いわば神そのものです。そうした認識を持ち、態度を改めていただくよう要請します」
強い口調で後ろに控えるエルザが諌めるのを、
「よい。いかにもわらわは神の如き存在ではあるが、その者はわらわが招いた客人である。特別に親しみを込めて、天ちゃんと呼ぶことを許すぞ」
「主、それはあまりに……」
「控えよ! わらわに意見するか!」
立ち上がりかけたエルザを鋭く制する天狗。閉じた扇子を突きつけたそのポーズは堂に入っており、彼女が他人に命令するのに慣れていることを窺わせた。
「遼、りょう……。おなごのような名じゃの。もうちっと男らしい名にせぬか? りょうすけとか、りょうのしんとか」
急に自分の名前にダメ出しを食らった遼は、しかしそれでも冷静に応じた。
「じゃあ、遼介で」
これ以上驚くこともあるまい、と腹をくくった彼はすっかり自分を取り戻していた。
「そうか。では遼介よ。そなたは一度死んでおる。それは、わかっておったか?」
ふたたび開いた扇子で口元を隠し、流し目をくれながら天狗は言う。
「ああ。俺は知らない女の子を助けようとして電車に轢かれたんだ」
やはり自分は死んだのだと改めて思う。そして、先ほどの転生という言葉。
「俺を生まれ変わらせてくれたんだな? 天ちゃんが」
遼の背後でエルザが立ち上がる気配を見せ、自重した。
「うむ。理解が早いの。ここはそなたの生きていた世界とは違う、もうひとつの世界じゃ。異世界へそなたは転生したのじゃ。遼介よ」
タイムトラベルではなかったのだ。異世界転生。言葉としてはよく聞くが、まさか自分が経験するとは思わなかった。しかも異世界がこんなに和風な世界だとは……。と、そこで彼はまた細かいことが気になった。
「転生、なんだな? 異世界召喚じゃなくて」
一度死んで、生まれ変わった。それにしては生前のままの姿で、服装はもちろんポケットにスマホまで入っていたのだが。
「うむ。しかし死後に別の人間としてもう一度生まれたのではない。わらわの術によって元の世界の意識をこちらへ引き寄せ、その器としての身体も複製してこちらの世界に成り立たせたのじゃ」
……つまり、魂のようなものは異世界へふわふわと引き寄せられてきて、体はコピペされてそのままこっちに貼り付けられたってことか?
「そなたは本当に理解が早いの。さすがは適応者じゃ」
「適応者って?」
まあ、そう急くなと天狗は扇子を閉じた。
「さて、安佐の村で怪異を見たそうだが」
あんたがそうするよう命じたんだろうに、と内心思いながら遼介はうなずく。
「山の中でね。見越し入道、っていったっけ。有名な妖怪マンガで見たような気がするんだけど」
遼介は国民的人気を誇り、何度もTVアニメになっている漫画を思い浮かべて言った。あれではどうやって倒してたんだっけ?
「そなたの知っておる妖怪と同じかどうかは解らぬが……見越し入道は実に厄介な怪異じゃ。見上げる度に大きくなる、というのは聞き及んでおるな?」
遼介の首肯を確かめると、十二単姿の幼女は言葉を続ける。
「最初のうちはただ大きくなり、見た者を怖がらせる程度のものであるが、数を重ねるうちにさらに大きく、凶暴になる。こたびの遭遇で入道はいかほどになったのじゃ?」
今度は後ろに控えているエルザに問う。
「目測ですが、元は六尺程であったものが倍の大きさになったと観測されました」
「ほう、倍にな。するとあと二度ほどで『成って』しまうの……。尺よりも間で数えた方が良いかもしれぬな」
遼介にはわからない事をつぶやき、小さく笑う天狗。何だか楽しんでいるようにも思えて彼は疑問をぶつけてみた。
「なあ天ちゃん。あの山に出た時には、あれだけ正確にわかってたんだから、例えばあの旅人に事情を話して入道が現れる前に移動してもらうとか、もっと対処の仕方があったんじゃないか? 次は宇戸に出る、って事しかわからないんだろ?」
わざと音を立てるようにして天狗は再び扇子を開いた。
「その慧眼、天晴れじゃ。見越し入道は自分が見下ろされ、『見越した』と言われると消える。確かにそうした退治をする事は容易であった。事実これまではそのように対処してきたのであるが、昨今この宇戸……いや、日出全土に妖怪や怪異の類が異常に増えてきておるのじゃ。その原因はわからぬ。文明の発展とともに夜の闇や人の手の入らぬ場所が減りつつあり、それまで闇に潜んでおった魑魅魍魎が行き場を失って迷い出てきたのかも知れぬし、昔ほど怪異を恐れなくなった人間に対する怒りやも知れぬ」
この文明レベルでそうなら、自分たちの世界は化物で溢れているはずだが、と遼介は和束遼として思う。逆に妖怪たちも愛想を尽かして居なくなったのかもな。神も仏も一緒に人間はどうしようもない、って。
などとニヒルな想像に浸っている遼介に天狗は、そこでじゃと続ける。
「人を愛する神の意志を受け、平和を脅かす妖怪を退治しようと動き始めたわけよ。そのために今までのようなその場凌ぎでない退治をする。完全にこの世界より葬り去るのじゃ」
モンスターハンター、ってわけか。そう言や天ちゃんは神の使いとか言ってたもんな……って、まさか俺はそのために?
「そうじゃ、遼介。お主は適応者として選ばれ、その寿命の尽きると同時にこちらの世界へと転生されたのじゃ」
「いや俺、何も言ってないぞ。もしかして天ちゃんは他人の考えが読めるのか?」
俺と違ってガチのやつか?
「ふ。お主が言うか。なに、遼介の表情が分かり易いだけよ。わらわは天狗じゃ。ヒトではない目を持っておる故な」
そう言って遼介の目を覗き込む。その海のような濃い青色の瞳が急に不気味に思えた彼は反射的に目を逸らそうとしたが、思い直して視線を戻した。ずっと嫌いだった自分の能力が今こそ起きてくれないかと祈る。この得体の知れない金髪幼女の考えていること、その本心の一端だけでも掴めたら……。
「ほれ、分かり易いのう。無駄じゃ。わらわやエルザにお主の能力は通じぬ。いくら待っても文字は浮かばぬぞ」
…………!
そこまで知られていたのか。いや、考えてみれば相手は死んだ自分をこの世界に蘇らせたくらいなのだから当然といえば当然か。
「そうか。じゃあ安心だな。二人と一緒に居る分には能力のことは気にしなくていいってことか」
あえてうそぶいてみる。強がりに聞こえないよう気を付けながら。それにしても、
「てっきり俺自分が適応者だの異世界転生だのに選ばれたのって自分の能力のせいだと思ってたんだけど。だってそれ以外には取り柄っつーか、変わったところなんてないし」
冷静な自己分析を吐露すると、
「まさにそうじゃ。お主はその能力ゆえに適応者足りうる」
それってどういう、という遼介の問いかけを、
「急くなというに。その話はエルザに聞くがよい。今後のことも含めてな。何にしろまだ準備不足で見越し入道一匹相手にするのですら覚束ぬ。時に遼介よ」
またしても肩透かしを食らった遼介は、それでも冷静になんだと応じる。
「ふふ。少し不機嫌になったか? では詫びも兼ねてエルザとともに宇戸見物にでも行ってくるが良い。……して、お主元の世界より何かを持ってきておろう?」
何か……というと。
「ああ、そう言えばポケットにスマホが入ってたよ。ズボンのポケットに財布と家の鍵も入ってたはずだけど、そっちはなかった。まあ、どれもここじゃ使い道がないけど」
「すまほ? それじゃな。苦しゅうないぞ遼介、そのすまほとやらをわらわに献上するが良い」
どんだけ上からだよ、と思いつつどうせ使えないし、と素直に差し出す。
「けど充電切れてるから使えないぞ? この世界には電気なんてないんだろ?」
少なくとも室内にコンセントはないよな。町に電柱もなかったし。
「電気……エレキの事であるか。うむ、民草はその存在すら知るまいな。いずれこの世界の民もその力を使いこなすことになるだろうがの」
へえ、知ってはいるんだな。
「これが、お主の寄り代になる」
「よりしろ、ってなんだって聞いてもどうせ教えてくれないんだろ?」
もう期待しないぞと遼介は言う。
「ふ。そういう事じゃ。物分りが良いの。何、いずれ分かる。そう遠くないうちにの」
ああそうかい、と遼介は匙を投げた。
「わらわはこれより忙しくなる。エルザ、あとは任せたぞ」
ははっ、と平伏するエルザ。それを尻目に立ち上がった平安貴族のような金髪幼女は、充電切れのスマホを手に流し目をくれ、
「楽しんで参れ。すぐにお主も忙しくなる」
と、思わせぶりな台詞を残して部屋を出て行った。
天狗の屋敷は武士階級の住居が並ぶ地域の東の外れにある。ここより西……より正確に言うと、宇戸城の外堀に沿って北西方向に武家屋敷が集まっている。
「そういや、士農工商だっけ? この世界も武士が一番偉いんですか」
エルザが用意した木綿生地の着物と雪駄を身につけ、だいぶ現地の人に近づいたと自分では思っている遼介は、天狗の屋敷から宇戸の下町へと向かう道すがら、この世界についての説明を受けていた。
「ええ。かつて国の中心であった古都より帝を宇戸城の大奥へお迎えし、その御身を守る『守護大将軍』が実質的にこの国の政を担っています。よって武士がこの国の最上階級であるというのは形式上、間違いではありません。ですが戦乱の世が終わり長い年月が過ぎた泰平の世にあっては武士の身分よりも商人の財力が重んじられるようになっているのが現状です」
江戸時代と同じように戦争のない状態が長く続いているんだな。世界でも類を見ないほどの長期間大きな戦争がなかった時代だったと習った。
「細かいところは違うみたいだけど、本当に似ているんだ。じゃあ、天ちゃんやエルザさんの仕えている神様ってのはどういう存在なんです?」
するとエルザは歩を止めて遼の顔を見つめた。
「そちらに、興味を持つのですか。少々長い話になりますが宜しいですか、と確認します」
どうせしばらく歩かなきゃならないならと遼介は応じる。
それでは、とエルザはこの国をつくった神の話を語り始めた。