#8 反吐が出る
”異次元ポータル”。天才レオンが研究している技術でもあり、恐らくレオンとイヨがこちらの世界へと迷い込んだ原因でもある。それの再現のためにレオンが開発した装置を使い、イヨは一度氷の世界、つまり異世界へと転移することに成功した。否、成功というのは間違いである。そこへの転移は偶発的かつ事故的な物であって、レオンがイヨを回収できたのもイヨが装置の片側を持っていた故、それをアンカーとしてこちら側から線を繋ぐことが出来たからであった。サンプルこそ手に入れた物の、現時点で同じ現象を起こすことは叶っていない。
しかし、それが今まさにベアトリクスらの目の前で起きていた。視界を埋め尽くすオレンジの輝きはやがて七色に変わり、あらゆる時空と可能性、そして”世界”をフィルムがコマを送るように映し出した。それは視覚になのか、あるいは直接脳に見せているのか、それすらも分からない酷く曖昧な感覚で、けれど確かに三人はそれを記憶して行く。
「……深追いしては駄目よ、二人共。所詮、私たちには関わり合いの無い……そう、関係の無い私たちよ。だから私を見ていなさい。此処に居る私だけ……」
「あはぁ……だいじょうぶですよ。わたし、昔っから似たような夢を見てましたから。スタークも、ベティ以外を見てるはず無いですしぃ……ねぇ~?」
「うるさい……見れるわけ、ないだろ……こんな恐ろしい……」
心配する必要は無かった。ベアトリクスはそんな二人の様子を見て柔らかな頬を綻ばせた。転生の魔法を完成させ、無限に強くなる術を手に入れた今、ベアトリクスは憑き物が落ちたように笑顔をよく見せるようになっていた。果たしてこれが娘たるミュールと決別する以前に成せていたならば、そこまで考えてベアトリクスはその思考を破棄する。彼女がそう考えると、まるで見せ付けるかのようにこの空間に瞬く可能性の数々が頭の中へと流れ込んでくるのだ。あり得ない。そうしてベアトリクスはその可能性を否定して行く。例えそれがこれからの事であったとしても、同じく否定する。
そうして、やがてアンジェラが声を上げた。スタークの背中に飛び付き、その頭を両手で掴むと己と同じ光景を彼に見せようとする。自分で見られるとスタークが顔を向けると、ポータルの終わりがそこには広がっていた。それはまるで底無しの穴のようで、先の見えない漆黒があった。
降下から始まり、それ以降は落下しているのか進んでいるのか曖昧であったポータル内部だったが、一度振り返りスタークとアンジェラの二人をより自らの近くへと引き寄せたベアトリクスは彼らに気を確り強く持つようにと告げると、再び振り返り小枝のような両腕を左右へと開く。ベアトリクスの両目に瞬いた輝きがその両腕の先、両手へと宿るとそれは魔法となりより狭い範囲で次元断層をより深い物へと変えて行く。その絶対的な防壁の前にはあらゆる物が遮断される。――筈だった。
「さむい……スッゴくさむいですよベティ……見てくださいほら、とりはだ! しかも……くちゅんっ……ぅぅ、はなみずも……」
漆黒の中へとその身を投じる。そして押し寄せる冷気をベアトリクスの防壁はこれまでのようにその一切を遮断する筈だった。しかしどういう理由だろうか冷気は次元断層をまるで無いもののように通り抜け三人を見舞った。その中で最も薄着をしていたアンジェラが一番始めにその寒さに苦を唱えたのは道理であろう。二の腕の中程から剥き出しになった両腕の肌には栗が生じていて、互いの腕を撫でながらそのことをベアトリクスへと知らせる最中、冷気を吸い込んだのかアンジェラはくしゃみまで披露し片方の鼻孔より鼻水を落とそうとしていた。
防壁が機能していないわけでは無い。しかしそれがこの冷気を防いでいないことはベアトリクスも分かっていた。より高位の魔法、もしくは魔法を無効にするジャミングの一種であろうか。魔法にせよ科学にせよ、最強の一つであるベアトリクスのそれを無効にすることは容易ではない。けれど現に彼女の魔法はこの冷気の前に無力である。やむを得ないとベアトリクスは判断すると、ただ体力を浪費するだけである防壁を解除し浮遊のみに魔法の作用を絞り込んだ。
鼻水をぶら下げながら青ざめるアンジェラはもとより、平気そうにしているものの密かに奥歯を鳴らしているスタークも凍える寸前であった。ベアトリクスもまた然り。魔法による護りを期待できないのであれば、もっと単純に。ベアトリクスは立てた人差し指を一振りする。すると瞬く星々が駆け巡り、まずアンジェラをそれが取り囲んだ直後である、ぽんと出た煙が彼女を包んだかと思えば、それが晴れる頃にはアンジェラはその身をルバシカ、ドゥブリョンカ、そしてウシャンカと言う如何にもロシアンな格好へと早変わりを見せる。早いところが毛皮の帽子とコートを身に纏ったわけだ。
「ほえ~……なんだか今までで一番魔法っぽい魔法を見た気がします。もこもこ、あったかい……♡」
そして次にスタークにも、ベアトリクスが彼を見ると、しかし当のスタークと言えば強がって首を左右へと振り、そして言った。
「大丈夫です、ベアトリクス。今の僕は炎を操れる。有象無象のよくある力ですが、便利だから。こんな時にもちょうど良い……アレ」
持ち上げた両手、スタークがそこへと意識を集中すると指先から発熱を始め、やがては手の全てが白熱。そして遂に炎が燃え上がった。が、その炎は瞬く間に冷気により掻き消えてしまう。そもそも能力の発現時点で体には熱が蓄積して行く筈なのだが寒さは相変わらず。気が付けば手足の指に痺れを覚え、震えも奥歯を打ち合わせる音が外からでもはっきり聞こえるほどになっていた。
「私も寒いんだから、無理しないの」
血色を失い唇も真っ青、全身を震わせているスタークの姿は見るに堪えない。ベアトリクスもいい加減彼の強がりに付き合い続けるわけにも行かない状態であり、問答無用でアンジェラ同様にスタークにも防寒具を着せる。
そして己にも同じようにファーコートや帽子を纏わせ、しかしそれだけでは凍えてしまうためその他にもカイロや温かな湯の入った水筒など、あれこれと体を暖められる物を転移門の片側に手を突っ込み取り出して行く。転移門の応用であり、途中の空間に物を放置しておくことで素早く必要な物を取り出すことが出来る。この魔法はものぐさで有名な魔法使いが作り出したものであるが、結局は事前に必要な物を件の空間に用意しておかなければならないためその魔法使いはこれを活用していたとは伝わっていなかった。
そもそも召喚魔法と言うものがあり、自宅から転移門すら介さずに直接物を呼び出すことがベアトリクスには出来るのだが、この空間はどうやら他の空間とはそれこそベアトリクスの次元断層のようにずれているか異なった場所にありポータル以外では繋がりが無いようで、魔力のシグナルが届かないことをベアトリクスは少し前から感じていた。ポータルの光は真っ黒な雲に覆われた空に消失し、転移門は元の空間とは繋がらない。三人が戻ることはこのままでは不可能。
「まるで封印ね……気に入らないわ。早く用事を済ませて帰るとしましょうか」
そうして三人は思わぬトラブルに見舞われながらもようやくのことその地へと足を付けた。
そこは石か鉄かも分からぬ未知の物質により組み上げられた、出入り口も窓も無い不可解な建造物の数々が形作る謎の都。冷気に凍てつき、物音一つしない空虚な都。そこに足を踏み入れたベアトリクスら三人は異物以外の何物でも無かった。
雪も霜も無い、まるで冷蔵庫のようだと水筒から熱いココアを空けて口にしていたアンジェラが言うと、面白いとしてベアトリクスが笑い声を上げた。殆ど黒く見えるほど深い緑色をした平行がたわんだような歪な形状をした建物の数々にはいずれもドアや窓と言った物が無く中を窺い知ることは叶わず、不可解な模様が彫刻されたその壁面をスタークがノックするもその音はしかし中に響いて行くようであった。どうやら中身が詰まっている訳では無いらしい。
「……中に何かあるのか……? むっ……誰だ!」
こういう時、透視など出来る能力があればといまいち己の使い勝手の悪い能力を恨みながらも、ニューヒューマンとしての力が使い物にならないこの空間ではどのみち無意味かと諦めを付け、進むベアトリクスについて行きつつも連なる巨大な建物を観察していたスタークであったが、何らかの気配を感じ取り建物と建物の間、狭い路地の方を睨むと同時に叫んだ。
「んぁ? どうしたんですかぁ、スターク」
一瞬の静寂。割り込んできたアンジェラがスタークの見詰める路地を覗き込むもそこには誰も何も居らず、くるりと彼に振り向いたアンジェラは首を傾げた。
「今、誰かが僕を見ていた気がする……気がした……」
「気にするだけ無駄よ、スターク。気配だけだろうから。いわば幽霊みたいなもの、あちこちから見てる。でも私たちが見ることは出来ない。陰険で悪質……どこかの町みたいね。反吐が出る」
「あはっ、それってこの前ベティが聞かせてくれた町のことですかぁ? 私あのお話とっても好きです。また聞きたいなぁ……」
何の話だ。僕は聞いたことが無いぞ。と、アンジェラが言うベアトリクスの町の話、スタークはそれを知らずフェアでは無いと声を大にしながら先に進んで行く二人を追い掛けた。
そんな三人を見詰める者たち。深き者たち。
ベアトリクスは彼らを幽霊と言った。それは正しく、幽鬼とも言い、今の彼らに肉体は無い。しかしもうすぐ、今のこの惨めな姿から解き放たれる。そして血と肉で出来た体に戻ることが出来る。それへの期待感から彼ら深き者たちはこうして惨めな姿を曝してまでこの深き底にある都へとやって来た来訪者を見にやって来たのである。
ベアトリクスたちの目には決して映らないその姿を深き者たちは有らん限り集め、集い、そして地へと這いずり頭を垂れた。跪くのはしかしベアトリクスにでは無い。それは彼女が向かう都の中心にして最も高く巨大にそびえた歪の塔。遙か太古から全ての支配者であった、しかし今は古き支配者。誰も知らない、知り得ない支配者に跪く。
唯一その存在を知り得た人間は、その存在を架空の神話として世へと語った。彼もそれがまさか実在したものだとは露にも思っていなかった事だろう。その脳みそがその時ばかりはこの深き場所の深き者たちの主のものとなっていたことも気付かずに。
その者が残した本は人から人へと伝わり、彼の者の軌跡は架空のものとしてこの世の新たな支配者たちの間に広まった。そして名付けた。
旧支配者、と。