#35 グローザー……アシュガル
全世界で始まったニューヒューマンの暴走による混乱は止まず。それに加え、ニューヨーク上空から発生した膨大な数の異形生物。無限とも思われるそれはニューヨークの空を追い尽くすだけでなく、その範囲を徐々に広げて行っていた。
海でも同種の生物と思われる怪物による襲撃があったと、太平洋の異変の調査に出撃し、そして消耗。最寄りの港へと入港した“ジョージ・ワシントンⅡ”から報告もあった。
空と海には怪物が、地上にはニューヒューマンが。
国々は抱えたる国民。つまりニューヒューマンの対応に追われ結束出来ず、アメリカ・ユニオンもまた直接怪物の襲来に見舞われ身動きが取れないでいた。
それでも戦うのは力を持つもの。国と国民を守るもの。そして国そのもの。
――しかしそれも、全てのものを救えるわけでは無い。
「助けてっ」
声を挙げて街を走る女性。彼女が抱えているのはまだ幼い子供であった。
子は母に言い付けられ必死に悲鳴も泣き声も我慢し、彼女の肩越しからその光景を見詰め続けていた。
ビルとビルの合間を跳ね回る、異形へと変わり果てたニューヒューマン――マン・ディープワン――たちと、空を覆い尽くした生臭い化け物――ディープワン――の群れ。それらは女性と子供と共に避難していた人々の悉くを食い殺し、仕上げに残るその二人を狙っていた。
追い付こうとすればすぐにでも出来たであろう。しかしそれをしないのは、ニューヒューマンたちはまだ賢しさを残しており、そして化け物たちは賢しさを持っていると言うことである。
必死に駆ける女性の脚はもう限界であった。ハイヒールはとうに脱ぎ捨て、ストッキングの薄皮だけを頼りに駆け続けた足には瓦礫の破片やガラス片が突き刺さりずたぼろ。彼女の後には赤い足跡がずっと続いていた。
重く、己のもので無いように動くことを拒否する両脚にしかし鞭を入れ、血飛沫を上げながら走り続ける女性の全ては抱える子供のため。
だが前だけを向いて走っていた女性は裂けて隆起したアスファルトに躓き、飛ぶように前傾し転倒する。子供を庇い、何とか上体を捻り側面から倒れることには成功したがそのせいで女性は頭を打ち裂けた頭皮から血が飛び散る。子供も遂には耐えきれず泣き声を上げ始めた。
猿のような声を挙げながら迫るマン・ディープワンズと、深海のような静寂を保ち羽音ばかりを立てるディープワンズ。
女性はせめてと子供を己の体の内側へと包み込み、その身を犠牲に差し出した。時であった――
「女性と子供に寄って集って。紳士とは言えないな」
ばちばちと叫ぶのは蒼白い閃光。それは宙を迸り、のたうち回って一つへと集まって行く。そこには光り輝くプラズマ化した避雷針があった。
雷たちの叫び声の中ただ一つ人の声があり、低く男性の声で穏やかな口調、その声に導かれるように女性が顔を上げると、そして子供は泣き声を止めた。
直後落雷の轟音が空気を震わせ、女性は持ち上げた顔を再び伏せる。
あまりの音に遠くなっていた耳へと聴覚が戻ってきた頃、女性がゆっくりと伏せていた顔を上げると、彼女の前には何者かの背中があった。
風になびく黄金色の髪と小麦色の肌をしたコート姿の男性。その両腕は肘から先がまるで機械のようになっていて、肘から突き出しているのは件のプラズマ化した避雷針。
女性も、そしてその子供も彼を知っている。彼の名、それを知っていた。彼女はその背中を見詰めながら、その名を口にする。
「――グローザー……アシュガル」
雷を従える、鉄腕の雷帝。
アルテッサ、雷の魔女に師事していた彼はアシュガル。その魔法の真理に辿り着きながら、師であるアルテッサを一度は越えながら、しかし雷の魔法使いを捨てた男だ。
彼の落とした雷はマン・ディープワンズ諸共ディープワンズすら焼き尽くした。しかしディープワンに到っては空を見上げれば幾らでもその姿を確認することが出来る。
「奥さん、まだ走れる」
アシュガルは空を睨んだまま女性へと訊いた。女性が走れると答えると、彼は横顔を女性へと向けて微笑んだ。彼のその目は琥珀色をしていて、女性の腕の中で子供が見詰めるその琥珀色の瞳はしかし徐々に紅へと染まっていった。
再び空を睨むアシュガル。彼は「ならば、再び走るんだ。兵隊さんたちに声を掛けてある。少し走れば、彼らが貴女たち二人を保護してくれる」 と女性へと告げたうえに急げと急かしつける。
そうしてようやく再び立ち上がり駆け出し始めた女性を見送ったアシュガルは、己の両の鉄腕を掲げる。両肘の避雷針の輝きが増すと、そこから雷が溢れ出し腕を伝い手へと這い上がって行く。
両手の指から放たれた雷たちはそれぞれが結びつき一つの巨大な雷へと変わる。やがてそれは膨らんで行き球形を成す。
そしてアシュガルがそれを左右の手のひらを近づけ圧迫した瞬間。雷球は炸裂し無数の稲妻と化して闇夜を引き裂いた。
それだけではない。光源にして熱源であるアシュガルへと、外灯に群がる羽虫の如く押し寄せてきていたディープワンズたちすら悲鳴のようなけたたましい音を奏で迸る稲妻たちは切り裂き焼いて行く。
アシュガルの周囲に煙を上げたディープワンズたちの残骸が降り注ぐ。雷球もその力の全てを放出し終え、既に彼の手中には何も無かった。しかし静寂を突き破り、体の半分を雷により寸断されたディープワンが一匹、半ば墜落しながらアシュガルへと迫り牙を剥いた。
――が、そこへと一直線に叩き込まれる鉄拳。稲妻の様なその拳はディープワンの牙を粉砕し、口腔から頭部を叩き潰した。
ばしゃりと音を立て地面へと落ちる肉塊は微かな痙攣を起こす。それをブーツの踵で足蹴にするアシュガルは、頭上で旋回し渦を作る怪物たちを見上げる。
「掛かってこい」
雷を身に纏い、拳を突き付ける。そうは言うが、状況はアシュガルにとって良くはなかった。
ディープワンは空を飛び回ることが出来るが、アシュガルにはそれを撃ち落とすような武器が限られているのだ。先程の雷球を作り出すだけでも避雷針に蓄えていた雷のほとんどを消費してしまっており、プラズマ化していたそれも今は輝きを失っていた。
こうなっては居直る他に無し。幸か不幸か、ディープワンはアシュガルを標的に定めているようで、ともすれば飛び掛かってきたものの悉くを叩き落とすだけだとアシュガルは身構える。
それを皮切りに、アシュガルの頭上に渦巻いていたディープワンたちが一気に降下を始める。
「――ッ」
そして間合いに入るその時をアシュガルが腰を捻り込みながら待ち構えた瞬間、空から降り注いだのは幾つもの紅い光線だった。
それは地面を削り空間を歪ませ、建物を切り裂きながらディープワンズを焼き尽くして行く。
アシュガルの周囲にも容赦無く降り注ぎ、彼の周りをずたずたにして行くそれから両腕でアシュガルは身を守る。
燃え上がり瞬間的に塵と化して行くディープワン。始め飛んだコンクリートとアスファルトの破片がアシュガルの鉄腕にぶつかり硬質感のある音を響かせる。
突然の混乱の中、すっかり根絶やしにされた異形から取り戻された夜空を片膝をつき身を縮こませていたアシュガルが両腕の隙間から見上げると、彼ははっとし立ち上がると共に両腕を空へと伸ばした。
「――アッシューーっ」
そう叫びながら暗い空にぼんやり浮かび上がるのは白い影。それはぐんぐんとアシュガルに迫ると、すぐに彼の胸へと飛び込んだ。
あまりの勢いで突っ込まれたアシュガルは数歩後退りしながらも、彼はしっかりと両腕でそれを抱き留め受け止める。そして後退する足も止まった頃、アシュガルは己の腕の中で蠢くそれを見下ろすと強張らせていた表情を綻ばせ、ふと笑いかけた。
「驚いた、ミュールじゃないか」
その言葉に「へへっ」 と笑いながら顔を見せたのは言葉の通り、太平洋にて“ジョージ・ワシントンⅡ”を救助しディープワンと戦闘を繰り広げていた“希望の魔女”ミュールであった。
ミュールはぎゅっとアシュガルの背中へと両手を回し抱きつくと共にその顔を彼の胸へと埋めながら「その通り、あなたのミュールちゃんですよ」 と告げてははにかむように笑うのであった。
しかしアシュガルはそんなミュールの肩へと両手を添えると、そっと彼女のことを己から引き離す。
「あ……えっと、ごめんなさい。色々ありすぎて私、嬉しくってつい――何か、マズかった……?」
ミュールも抵抗するでもなくアシュガルの体から離れる。しかし彼を見上げるその顔には隠しきれない不安の影が差していて、彼女は組み合わせた両手の親指同士をこねくり回しながら上目遣いにアシュガルを見ては訊いた。が、アシュガルと言えば相変わらず穏やかな笑みを浮かべたままで、そして徐に首を左右へと振った。
それを見たミュールはぱぁっと笑顔を咲かせるのだが、そうとなればどうしてハグを止めさせたのかという疑問も更に色濃くなる。アシュガルはまるでそれを悟ったようにふと鼻を鳴らして一つ笑うと、今の己のその腕をミュールの前へと差し出して言った。
「この腕は武器だ。そんなもので君の髪を、肌を穢すわけにはいかない。俺はもう人では無い、だから君に触れることは――」
かつて師により破壊された生身の体。それを蘇らせたのは機械であり、新たにした鋼よりも剛い今の体は兵器となった。
人と兵器なら、棲み分けはしなくてはならない。そう考えるアシュガルが引き戻そうとした腕は、しかし彼の思い通りにはならなかった。見ると、そこではその鉄腕をただの細腕に抱きしめるようにして捕まえたミュールが居て、彼女のアシュガルと同じ紅い瞳は彼のその瞳を真っ直ぐに射貫いていた。
「そんなの私だって一緒よ。私はベアトリクス……ううん、ママに魔人として生まれるように仕組まれて産まれてきた。ママが新しい体として使うためにね」
ミュールの生い立ちをアシュガルは思い出す。彼女の母親である最悪の魔女ベアトリクスが行ってきた所業については、その世界に居たものであれば知らないはずがない。
迂闊であったとアシュガルは後悔した。傷付けぬための行為が、かえってミュールの思い出したくもないであろう記憶を思い出させる事となってしまったからである。
謝ろうと思い至るために僅かに伏せていた顔を上げたアシュガルであったが、彼の目が映したのは己の冷たい鉄腕、その手の甲を柔く温かな頬に当てるミュールの姿であった。
彼女はにっと口角を上げ、持ち上がった頬で細くなる目でアシュガルを見詰めながら更に言った。
「だからアシュガルの体がどうであろうと、なんであろうと私は気にしない。それにぃ……ふふっ、せっかくつかまえたハンサムくんを私が手放すとでも思う? 観念なさい」
べっと舌を覗かせたミュールを相手に、アシュガルは敵わないなとでも言うように鼻孔から溜め息を抜く。そしてミュールが頬を寄せたままの手を動かすと、その鋼で出来た指先で彼女の頬を擽るアシュガル。笑みを見せ合う二人はしばし時と場所を忘れるのであった。
「――心掛けは認めてやるけどな、いい加減離れろ。この変態野郎」
轟。と風を薙ぎ払う音と共にわざわざスピーカーで拡声した台詞を響かせ、空から降りてきたのはバルチャースーツを纏うスパイクであった。
彼は敢えて落下の勢いにそれ以上の制動かけず、ある程度勢いが残ったままで地面へと着地。ずんと強かに両足で地面を踏み鳴らすと共に、残った勢いは右拳を地面へと叩き付けることで完全に殺しきる。
そしてアスファルトにめり込んだその拳を引き抜きながら姿勢を整えたスパイクは歩みを進め、ミュールとアシュガルの合間へ。
そのまま彼はアシュガルがミュールへと伸ばしている腕を押し退け横断すると振り返り二人を見下ろす。そこでは酷く鋭い目付きでスパイクのことを睨むミュールと、特に何も気にした様子の無いアシュガルが居た。
唇を尖らせて文句を言うために口を開いたミュールに先んじスパイクは彼女に「しっ」 と人差し指を突き付けその口を封じると、その指先を今度はアシュガルへと向けて彼は突き出した。
スパイクの指先はアシュガルのすぐ鼻先で止まると、寄り目がちにそれを見たアシュガルは次に装甲で覆われたままのスパイクの顔を見る。すると頭部を覆う装甲の全てを格納したスパイクが素顔を曝し、冷ややかな目付きでアシュガルを睨み返しながら一言。
「俺はテメェがミュールに相応しいとは認めてねえ」
「ちょっと」 とミュールがスパイクに物申そうとするが彼は「行くぞ」 と語気を強めてまるで聞く耳を持たない。
ミュールはそんなスパイクに一人ぶつぶつと文句を連ねていたが、そんな彼女の肩に手を添えたアシュガルは苦笑を浮かべつつも「“時と場所を弁えろ”、そう言いたいのさ」 そう告げる。
「――あと、ウォーヘッドもな!」
先を行くスパイクが再び振り返り、二人に指を突き付けながら言う。それに呆れ返り愕然とするミュールとさすがにぽかんとして己の頬を掻くアシュガル。スパイクは思い出した様にまた振り返ると今度は「パニッシャーもだからな!」 とミュールの飼い猫までもを巻き込むのであった。
そして三人が向かう先は渦巻く暗雲が中心地。スパイクはスーツに格納した翼を広げ、アシュガルはミュールの手に掴まると彼女が展開した魔力の力場に巻き込まれる形で共に宙に浮いた。
その時、飛行機が通り過ぎる時のような音――それにしても大き過ぎる轟音――を耳にしたアシュガルが近付く空を見上げると、そこでは追撃に出ようとするディープワンを次々に撃墜しながら巨大な戦闘機のようなシルエットが通過して行くのが見えた。
何かと彼はミュールに訊ねると、彼女はあれが“グレート・オールド・ワン”なる存在であることやその名をラフィングスと言うことを明かした。そして彼が今回の事件を解決するために必要な“仲間”であることも。
「グトゥグウェントゥルー。ヤバいヤツが来るらしい」




