#3 いい加減にしてよね、もう
それは思わぬカウンターパンチであった。
よもや地上300mの高さから飛び降りる者が居るだろうか。少なくともスーパーパワーがあるとか、特殊な装備があるとか、最低限パラシュートでも無ければ飛ぼうとは思わないだろう。
迫る第二展望台が、迫るミュールの目の前で爆発を起こした。
その光景を前に背筋に冷たいものを感じたミュールの速度は更に増し、今まさに到着しようとした時のこと、煙に邪魔されていた視界が晴れて代わりに現れたのは子供を抱えた黄色いパーカー姿のマスクの人物。
ぎょっとして目を見開いたミュールの目の前でその二人は絶叫を上げながら彼女の傍らを落ちて行った。一瞬訳が分からず、思考が停止しその場で飛行を止め二人を目で追ってしまうが、すぐにあれが単純に落下していると分かると上昇から一転、ミュールは降下を開始した。が。
「俺が、俺がバットマンだッ!!」
風を受ける位置を調整し、空中で体の前後を入れ替えた謎のマスクマンことバットマン。でも無ければ自称スーパーヒーロー”U-フェンス”こと浅間勇作は左腕に少年を抱き締めたまま、右手にした多目的ガントレットを構え、握りしめたグリップに設けられたスイッチを掛けた親指で押し込んだ。するとガントレットに備えられたガス式のワイヤーガンからワイヤーに繋がった穂先が打ち出され、それは急降下するミュールの脇を過ぎて行くとビルの壁面へと命中し食い込んだ。
すぐにワイヤーは固定され、ぐんと勇作の右肩を衝撃が襲うがそれを堪え二人の落下は急停止。二人を追い掛け勢いのついていたミュールと言えばその予期せぬ事態につい宙ぶらりんの二人を通り越してしまう。
停止と共に空中で前転し彼女が再び一転上空を見ると、勇作と少年はワイヤーにぶら下がりながらビルの方へと向かって行くのが見えた。しかしその先には行き場を求めガラスを突き破り噴き出た炎が待ち構えていて、勇作はそれを前に表情を強張らせていた。
(ヤバッ……火!! そこまで考えてねえ……!)
以前映画で見た、特殊部隊がやるような懸垂下降。それをしてみようと思い立ち、そして実行したまでは良かったし、上手くもいっていた。だがそれだけではあまりにも浅はかすぎて、目の前に炎が待っているのにも関わらず止まることが出来ないでいる。勇作だけ、自分だけならば何とかなるだろう。無事に切り抜けるにしても、怪我を負うにしても、自分だけの責任なのだから。馬鹿やったと笑い飛ばすことも出来るだろう。だが今は違う、彼の腕の中には一つの命がある。馬鹿をやったでは済まされない理由がある。自分が浅はかで、それこそ馬鹿であったと勇作は歯がみする。どうすれば良い。
(どうする!? アレをやるか! いいやダメだ、不安定すぎる。出来なきゃこの子も僕も丸焦げだ。となれば……)
その時、ふと勇作は腕の中の少年の視線に気が付き、目を合わせる。そこには勇作を見詰める少年の不安そうな瞳があった。不安そうであるが、だが勇作、そしてスーパーヒーロー・U-フェンスならば何とかしてくれるのだろうという、他に縋るものも無いのだから当然と言えば当然ではあるが、彼に期待する少年の目が確かにあった。応えなくては。勇作は少年に強い眼差しと、そして笑顔を返した。
いったい何なのだと、飛んで火に入るなんとやら、まさにその状態の二人を見てミュールはこれまでに無い焦りを覚えていた。
これまで自ら危険に飛び込むような要救助者など目にしたことが無い。気が触れて、どうにかなってしまった人でもよもやこの高さから飛び降りはしないだろうし、決死のダイブ中にまさかバットマンの真似事をするなど思いもよらぬ。兎に角、彼らが丸焼けになるその前に掴まえなくてはならない。この点に於いては飛び出してきてくれたありがたかったと、再び上昇しあと一歩という所まで二人に迫ったミュールは思っていた。だが、それが仇となった。なってしまった。伸ばした両手に二人が収まる直後、まさかの事態が更に彼女を見舞う。
「――リロード!!」
その言葉と共に、ミュールの両手から、これからまさに掴まえようとしていた二人の姿が消えて失せた。両目を見張ったミュールの眼前には何故かリールと思わしき器具だけが宙に舞い。そしてそれを残して消えた二人はというとミュールの真下、再び落下を開始していた。
いったい何なのだと、いい加減ままならない展開の繰り返しに焦りは苛立ちに変わり、ミュールは落ちて行く二人を怒りの籠もった瞳で睨み付ける。すると炎への突撃を回避した勇作が再び右手の装備からワイヤーを放つのが見え、同じことを繰り返す姿が見て取れた。まさかあれで地上まで降りようというのだろうか、呆れ、その場で頭を抱えるミュールはいい加減に事態を収拾しようと直接の確保では無く、サイコキネシスによる中距離以上からの間接的な捕縛を決意。事ここに至り、初めからこうしておけば良かったと新たな経験を得たミュールはしかし別の意味で疲れたと溜め息を心の中で吐いた。
大丈夫だからね、ぼく。そう何度も、つい英語も忘れて日本語で繰り返す勇作は落下する最中、排除したリールの代わりに新たなリールをワイヤーガンに装填し、ワイヤーを射出。ビルの壁面に突き立てては停止を繰り返していた。
彼の装着するガントレットの機能の一つであるワイヤーガンはワイヤーを伸ばし切ったリールを排除し新たなリールを装填することで即時再利用が可能になる機構が備わっている。これは一度壁面や出っ張りなどに穂先を打ち込むとその後場合によっては穂先が対象から外れないという事態に備えた為のもので、勇作はその機能を利用して少しずつビルを降りて行こうとしていた。巻き取り機能があればより便利なのだけれど。そう思ったことは一度や二度では済まないが、それは内蔵できるモーターの出力の関係で無理があるのだとこれを開発した者は言う。兎も角、そもそも装着型のガントレットに内蔵できるほどにまで小型化されたワイヤーガン。それに用意されているリールの数は非常に少ない。少年に手伝ってもらいバッグの中の予備のリールまで引っ張り出して対処しているが、つい先ほど渡したリールが最後の一つだと少年は勇作に告げる。では、地上まで後どれくらいだろうと勇作が下を見れば、そこには多くの人集りがまるで砂糖に群がるアリの群体のように見えた。皆は恐らくミュールがいつまで経っても消火を済ませることが出来ず何を手間取っているのかと盛り上がっているか、もしくは宙ぶらりんの勇作と少年を見付けて騒いでいるのだろう。
本物のヒーローにさえ迷惑を掛けてしまって、その上少年まで助けられずに、勇作は自らの不甲斐無さにほとほと呆れ遂にはそのなけなしの自信まで喪失しようとしていたが、ふとあることが頭に過る。
「あれ、本物……ぉわ!?」
がくんと視界が上下に揺れ動いた後、何かと勇作が上を見る。そこでは壁面に不完全な形で食い込んでいたらしいワイヤーの穂先が今にも外れようとしていた。まずい。そう思った時にはもう穂先は壁を手放し、勇作と少年の二人は浮遊感に包まれていた。
もう換えのワイヤーは無い。地上まではまだまだある。このままでは少年が死んでしまうと、何とかしなくてはと勇作は考え、そして最後の手段を思いつく。このまま落ちてしまえば間違いなく少年は助からない。ならばせめて助かる可能性がある方法をと、ビルにずらり並ぶ窓の内、ガラスが割れている箇所を見付けると少年を両腕で抱え直し、そして襟首を右手で掴むとそこへ投げ込もうとした。
「そこまでよ。いい加減にしてよね、もう……」
まるで服が鋼鉄にでもなったかのようにそれに包まれた勇作の体はぴくりとも動かなくなった。どれだけ力を込めても指一本動かせない。それどころか、彼ら二人ともどういう訳か空中にそのままの姿勢で浮いている、というよりは停止していた。
唯一動かせる眼球を四方八方向けて、少年が無事なことを確認し、次いで声のした方を見る。落下してしまい混乱のあまりつい忘れてしまっていたが、そこにいたのは本物のヒーローであるミュール、”オーバーサイク”だった。
腕組みをして、むすっとした彼女の表情はメイルズと彼、勇作に振り回されたことによるものだろう。きっと二人が指一本動かせなくされているのは不機嫌な彼女のせめてもの仕返しと言ったところだろうか。視線も冷たく、可愛らしいというのに勇作は苦笑しか浮かべることが出来ないでいた。
ミュールの魔法で固められたまま、彼女の消火の作業を少年と見守り。そして地上へと降ろされた二人。そしてミュールは当然のように警察や記者らに取り囲まれ、その対応にも随分と慣れた様子が見て取れた。これまでは調子に乗ってよく浮かれた姿が新聞の表紙を飾ったものだが、今はそれも無い。
年寄りたちは孫の成長でも見るかのような反応で、しかしそうで無い人々も彼女の成長に一喜一憂。幼い人気者というのは異性絡みのスキャンダル以外であれば何をしても案外許されるものだ。
ところで、危険を冒した勇作と言えばどうだろう。少年の母親を捜して現場をうろついていたが先に救助されていたあの黒人の男性が声をかけると共に待機していた救急車へと足早に向かい、そこで少年と別れた後、いそいそとこの場を後にしようとしていた。それに気付いたミュールは自らを取り囲む人たちを魔法で僅かに浮遊させると、彼らが動揺している間にそそくさと輪の中から抜け出て勇作を追った。