#22 大変です。スッゴく! 大変です!
――存外にも人類の滅亡に時間が掛かっていることを茶化すと、グレート・オールド・ワンを名乗った異形、グトゥグウェントゥルーは激昂し、その咆哮を笑うベアトリクスへと向けた。彼の感情の起伏に合わせて、その顔面だけで無く体中から生えて巻き付いている触手が色を変えながら暴れ回る。しかしベアトリクスは動じない。事実には変わりないとして、その原因を問い掛けすらした。けれど解決に手を貸すつもりは無く、彼女はただ退屈しのぎに問答で時間を潰したいだけであった。
どれだけそうして時間を潰そうと試みたことだろうか、グトゥグウェントゥルーがこの都の封印を破壊し、配下の存在が外界へと溢れ出て行く。それを眺めながらベアトリクスは彼に幾度となく話し掛けてみたが、結局は何も返事は返ってこなかった。けれどある時からグトゥグウェントゥルーの様子に変化が現れ、ここぞとベアトリクスは彼に様子を訊ねるとやっと怒鳴り声を返されたことに愉快になり、こうして次々と彼に挑発をしてみる。次はどんな反応を返してくれるのだろうか、ベアトリクスはそんなことを期待しながら古の支配者を見詰めた。
「ベティ、ベティーッ! 大変です。スッゴく! 大変です!」
中々こちらに興味を向けてくれないグトゥグウェントゥルーをやはり駄目かと退屈そうに見詰め続けていたベアトリクスの元へと、長い金髪を踊らせながら走ってやって来たのは退屈に耐えきれなくなり此処を散歩してくると言ってベアトリクスから離れていたアンジェラだった。彼女に気付き、ベアトリクスがそちらの方を向くと、ベアトリクスの両目が見開かれる。
手を振り、ベアトリクスを呼びながら走るアンジェラの背後、まるで彼女を追うかのように巨大な怪物が駆けてくるではないか。その怪物は犬のような後ろ脚を持ち、両腕の手の爪の生えた三本指を拳にしてそれも使い四足で、大きく開いた顎からは触腕とも取れるような形状の舌を垂らし唾液を撒き散らしながら走り、やがて息切れして立ち止まったアンジェラをしかし追い越してベアトリクスの方へ。否、それは彼女の手前に鎮座したグトゥグウェントゥルーへと飛び掛かった。
その怪物に飛び掛かられる直前、立ち上がったグトゥグウェントゥルーはそれを受け止め、両腕両脚を使い彼に絡みつこうとする怪物をその勢いに体を回しながらそして固い地面へと叩き落とす。短い悲鳴を上げたその怪物であったが、床を数回転げ回るとすぐに起き上がり再びグトゥグウェントゥルーへと突進。彼が今度は六つもの目を持ったその怪物の頭を己の巨大な手で抑え込むと、そのまま力尽くでそれを地面へと押し付けた。怪物は数回鼻を鳴らす犬のような声を上げ、そして遂にはひっくり返ってその腹をグトゥグウェントゥルーへと見せた。
「血肉を得たか、ヴェンディエイゴ」
怪物の名か、ヴェンディエイゴと呼ばれたそれは急に跳び起きるとまたグトゥグウェントゥルーへと飛び掛かり口腔の触腕を伸ばして彼の顔面を触ると言うべきか、舐め始めた。しかしまた結局は引き剥がされた上で雑に地面へと叩き付けられたヴェンディエイゴであったが、戯れでしか無いのか至極楽しそうにグトゥグウェントゥルーの周りを歩き回り始める。
なんだこれはとその様子を眺めていたベアトリクスであったが、走り回って疲れ果てたらしいアンジェラがへろへろになりながら彼女の元へと歩み寄ってくるやいなや、また変な声を上げて明後日の方を見るものだからベアトリクスも釣られてその方へと首を回す。するとそこに今度は完全な二足歩行をする人型の姿があり、それに首は無く動体に埋まったような頭には捻れて在らぬ方向へと曲がった角が幾つも生えていて、やはり六つある目はその半数が潰れており、しかも口元には金属の枷が嵌められている。筋骨隆々とした体は爬虫類のようなひび割れた灰褐色の肌で覆われていた。その大男はのしりと大股で歩んではこれもまたベアトリクスたちを無視してグトゥグウェントゥルーの方へと行く。通り過ぎる間際、ベアトリクスがそれを見上げると3メートル程はあるだろうか。酷い体臭がしていて、アンジェラと共に彼女も顔をしかめた。
「ディトヘイル……それと、ボーホデイト」
目の潰れた大男をディトヘイル。ディトヘイルはグトゥグウェントゥルーの前へと到るとすぐさまにその膝を折り、彼の前に跪いて見せる。更にグトゥグウェントゥルーは渦巻く雲のある空を見上げ、ベアトリクスも同じものを見た。
ゆっくりと降りてくるのは、これも完全な人型、しかもその身長も2メートルあるかないかと言ったところか。新たに現れた怪物二つと比べて、圧倒的に人間にその姿は近い。それのことをグトゥグウェントゥルーはボーホデイトとそう呼んだ。ベアトリクスはそのボーホデイトを何処か面白くないと感じる。というのも、翼も何も持たずに空に浮く彼から、自分と同じものを覚えたからであった。正確には魔女と対を成す魔法使い、アレが男性であるとするならばそう呼ぶべきで、そして魔力のようなものを。
他のヴェンディエイゴ、ディトヘイルはベアトリクスらに一瞥すら向けなかった。しかし件のボーホデイトだけは、水死体のような白くぶよ付いた肌をした鼻の無い顔を彼女の方へと向け、その白濁した瞳から視線を遣ると、起伏のまるで無い唇をつり上げて笑ったのだった。
その後、ヴェンディエイゴを傍らに屈服させたグトゥグウェントゥルーの前にボーホデイトはディトヘイルと共に並び立つと、大仰な仕草で頭を彼の前に下げ、そして告げる。
「我らダーク・ワン、揃いまして、ただいま戻りました。我が主よ」
その声は酷く嗄れて、気取った調子は酷く耳に悪い。ベアトリクスも、少なくともアンジェラも同じ意見であるようであった。ベアトリクスの膝の上で目を醒まさないでいるスタークも、きっと同じであろう。ボーホデイトは残る二つを指して自分たちを”ダーク・ワン”と呼称し、それを聞いたグトゥグウェントゥルーもまた満足そうに鼻孔から取り込んだ外気を噴き出す。腹心と言ったところであろうか。ベアトリクスは興味深げに彼らのやり取りに耳を立てる。
「この星に残留した同胞が、我らに楯突いておる。この都から奴の注意を引く。ダーク・ワンよ、人の都へと向かうのだ。蹂躙しろ。……放ってはおくまい」
おそらくは彼を手こずらせている存在のことを言っているのであろう。ベアトリクスには知る由も無いが、グトゥグウェントゥルーのような見た目の生き物が此処以外でも闊歩しているのかと思うとどうにも気分が落ちる。そして、それを良しとしないグトゥグウェントゥルーはどうやら手駒の中でも信頼を置いている件のダーク・ワンたちを外に送り込もうとしていることが分かる。
しばらく考えて、膝で眠るスタークの前髪を撫でながら彼の顔を見て、やがて顔を上げると口を開いた。
「ねえ、私たちもお暇、したいのだけれど。ついでで良いから連れて行ってくれない?」
ベアトリクスの発言に一番に反応したのはヴェンディエイゴだったが、殆ど犬のようなそれは単純に反応しただけの様で、上げた頭もすぐに下げてそっぽを向く。そして次に反応を見せたのはやはりボーホデイトだった。
彼はベアトリクスを見て、その後すぐにグトゥグウェントゥルーへと顔を戻すと彼の言葉を待った。
「彼の者共の役目は既に済んでいる。帰してやれ。殺すなよ。一応の恩義はある」
「確かに……では……」
何が恩義か。グトゥグウェントゥルーはただベアトリクスたちを殺さないと言うだけだ。全ての人類を抹消した後、彼らのような存在が支配した地球で野垂れ死ねと、そう遠回しに言っている。そのことが気に食わずベアトリクスは鼻を鳴らすが、アンジェラとスタークがいる手前、無下にするわけにも行かない。
振り向き手招きをするボーホデイトに刺すような視線を向けつつもアンジェラと共に立ち上がったベアトリクスはスタークを魔法の見えざる手により掴み浮かび上がらせ、彼の元へと歩み寄って行く。跪き続けていたディトヘイルとヴェンディエイゴもボーホデイトの元に集まった事で濃く立ちこめる悪臭にベアトリクスは嫌な顔を見せるが、ボーホデイトはそれを嘲笑うばかり。
そしてグトゥグウェントゥルーと目による合図を交わしたボーホデイトは頷き、何をするのかとベアトリクスが注目する中で、驚くことに彼は一行の頭上に転移門を開いて見せたのだ。僅かに顔色を変えたベアトリクスに嘲笑を強めながら、ボーホデイトは更に彼女と同じ見えざる手を作り出し全員をそれで絡め取ると浮揚、そうして転移門へと入って行く。
転移門が閉じ、ディープ・ワンズの魂が転生し再び肉体を得て飛び立って行く音だけ、残る静寂の中でグトゥグウェントゥルーは咆哮を上げた。全身の触手が逆立ち、その色を真紅に染めて行く。そしてその手にした杖を地面へと突き立てる。そして紡ぎ始めた言葉は人の耳には届かず、理解されない彼らだけの言葉。その言霊を乗せ、今一度グトゥグウェントゥルーは咆哮する。何処までもそれが届くように。




