#19 ジョージ、まだ何とかなる
深きものども、"ディープ・ワンズ"。
そう呼ばれる邪悪の手先は海中を、空を自在に動き回り、戦闘機も戦艦もまとめて翻弄していた。仄暗い空を触手の合間に広げた膜で以て飛翔し、空の帝王たるイーグルらとの空中戦の果てに複数でまとわり付き、遂には撃墜してしまう。ディープ・ワンズの最大の強みはその数だった。
対空火器を総動員し狙わずとも当たるような、空を埋め尽くした異形を相手にイーグルだけではない、攻撃の要たる鷲たちの巣である空母”ジョージ・ワシントンII”を守護する護衛艦たちも奮戦していた。ミサイル、機関砲、高い性能を誇るそれらを以てしてもあまりの数のディープ・ワンズ、その突撃を食い止めるにはそもそもとして数が足りない。
”ジョージ・ワシントンII”を守護する護衛艦らが搭載したそれはレーダーで捕捉した目標を自動で追尾し、その六つもの砲身からなるガトリング砲で迎撃する。その砲口がけたたましいと言うのも生易し程の爆音を上げて火を吹き続け、迫り来る怪物たちを次々と爆散させて行く。近距離から吹き飛ばされたディープ・ワンズの肉片とライムグリーンの体液を被りながら、それは勇ましく咆哮を上げ続ける。だが、そこへと荒れる海中から飛び出した魚顔をした人のような姿のディープ・ワンズが纏わり付くと、うろこ状の堅牢な外皮に守られたその剛腕で高速回転する砲身を抱き抱える。すると凄まじいまでの金属音が響き渡り、火花と煙、そしてディープ・ワンズの開いた口からは悲鳴が漏れる。そしてとうとう砲身はディープ・ワンズの膂力の前に屈し、機能不全を起こしその動きを止めてしまう。
これまで弾幕を形成していたその機関砲が沈黙したことで、その護衛艦へと一斉に空のディープ・ワンズたちが群がりに降りてくる。機関砲を止めた件の人型のディープ・ワンズは明るい緑色の体液をうろこが剥がれ動かなくなった両腕から垂れ流しながら、飛び出た目玉で艦橋を見上げる。人のような歯が並んだ大口を開けて咆哮したそれは艦橋に向けて駆け出そうとするが、その時発射されたミサイルの噴射炎へと飲み込まれ、消える。爆発が空で起こり、その中から燃えるディープ・ワンズたちが護衛艦へと降り注いだ。死に絶えたもの、まだ息のあるもの、動けるディープ・ワンズが艦橋を襲った。そして防護ガラスが砕かれる音と共に殺到する異形。銃声と異形、人双方の悲鳴が溢れ、透明なガラスは赤く染まった。
ディープ・ワンズたちは空以外にも海中からすら攻めてくる。イーグルと護衛艦だけでは”ジョージ・ワシントンII”を守り切れないことは明白であり、その艦長であるジョージJr.は旗艦を後退させる。それは次々にその機能を停止して行く護衛艦や、撃墜されて行く鷲たちの状況を見た上で下した撤退であった。数機のイーグルと護衛艦は怪物であるディープ・ワンズを引きつけるための囮となり戦闘を続行、その間に旗艦”ジョージ・ワシントンII”および残りの護衛艦はそれを護衛しつつ最寄りの港までの退路を目指した。
既にアメリカ・ユニオンは元より、各国へと発したSOSを頼りに、ディープ・ワンズたちに蹂躙されるよりも早く救援がやって来ることを祈りながら、仲間を見捨てることに裂けて血が溢れるほどに下唇を噛み締めたジョージJr.が敵を睨む。船内にある指揮所故に、もちろん彼は直接ディープ・ワンズを見ているわけでは無い。だが彼の頭の中にいつまでも浮かんでいるのだ、その醜い姿が、それはもうはっきりと。それはきっと敵も同じであろうと、ジョージJr.はその時漠然と感じた。彼がそれを怒りに燃える眼で見詰めるのと同じように、それも彼のことをその白濁した眼で見詰めている。まるで彼の下した判断、それが無駄であると嘲笑うかのように。
”リセプショナー”。それは仕組まれたもの。全てに於いて邪悪が勝利するため。
ディープ・ワンズの群れが進路を全て”ジョージ・ワシントンII”へと向けたことを、他でもない囮を買って出た護衛艦、そしてイーグルらから警告が来る。驚くことに、囮を殲滅すること無く怪物たちは退避する旗艦を目指したのだ。動揺が指揮所に広がる中、やはりかとジョージJr.だけが納得していた。どういうことなのかと囮に目もくれないディープ・ワンズが分からず狼狽する船員を見ながら彼は、敵と自らが繋がっているからだと口の中で言った。
敵は、邪悪はいつまでも嘲笑っている。どうしたところで彼が逃げられないことを。逃げるためのたった一つの方法を理解しながらも、それは彼には出来るは ずが無いと。
ジョージJr.の手は腰のホルスターへと伸びる。ボタンを外し、冷たいその塊を握り締めるその手はそれでも震えていた。汗がにじみ出て、すぐにグリップを濡らし気持ち悪くも温めた。手だけでは無く、体中からぬるりとした嫌な汗が溢れ出てくる。喉が渇き、唇も乾き、呼吸が乱れる。目眩が鬱陶しくて、彼はまぶたを閉じるが、そうするとそこに降りてくるはずの闇の中に娘の顔が浮かんだ。それと共に幻聴、聞こえるはずのない娘の声が聞こえてくる。酷く呼吸が乱れる中、ジョージJr.が固く閉ざしたまぶたを堪らずに開けると、映るのは彼を見詰め動きを止めている船員たちであった。皆は何をしているのかと彼が思った時、彼と最も親しい、友人と呼べる船員の一人がゆっくりと歩み寄り語り掛ける。
「……艦長、ジョージ……銃、下ろせよ」
「あ……」
その言葉に、脂汗に塗れ血色を無くした顔をしたジョージJr.は我に返る。そして見てみると、ホルスターにあったはずの銃が自らのこめかみに当てられていることに気が付いた。しかもそれは、ジョージJr.自身が押し当てていた。正気を窺う友人に、しかしジョージJr.はこうするしかないのだと告げる。だが、結局は引き金を引けなかった。恐怖が、ジョージJr.に決断を鈍らせる。敵が嘲笑うのは、そんな彼の弱さであった。
「ジョージ、まだ何とかなる。諦めないで戦い続ければ……」
「無駄だ……何をしても、奴らは俺の目と耳を使って……俺が死ねばまだ……だが娘は、妻は……クソ、ああっ、クソクソクソ!!」
引き金を引こうと込めた力はしかし指を動かすことは叶わず、こめかみに銃口を押し付けるばかりだった。船員たちの説得の声や、最愛の家族。離れたくないと、ジョージJr.の中に恐怖がこみ上げてくる。全て、邪悪の思い通りなのだ。それが悔しくて恐くて、遂にジョージJr.は泣き出してしまう。何かの弾みでも良いから引き金を引かねばならないと思いながら、そうしなければ皆死ぬと分かっていても、けれどもどうやっても引き金が引かれることはない。ジョージJr.に自らの命を絶つことは出来ない。頭の中に響き続けていた娘と妻と家族、友人や部下たちの笑い声が混ざり合い、やがて異形の歪な声へと変わって行く。浮かび上がる数々の顔が重なり合い、ぐちゃぐちゃになって異形の顔へと変わって行く。その全てが、ジョージJr.を弱いと嘲笑っていた。
静まり返る指揮所に、鈍い音が響いた。それはジョージJr.の手から銃が落ちた音であり、彼の友人はすぐにそれを拾い上げ後ろ手にジョージJr.から隠す。しかしジョージJr.はそんな彼に自らを殺すように懇願するのだ、絶対に殺せるはずが無いと分かっているからこそ、友人である彼に。
そんな弱り切った男が嗚咽混じり懇願する声だけが響く指揮所に、護衛艦から防衛線が突破されディープ・ワンズが”ジョージ・ワシントンII”へと接近しているとの報告が届いた。”ジョージ・ワシントンII”に搭載された迎撃システムや乗船している兵士たちが一応の抵抗をするだろうが、無数の敵の全てが押し寄せいている以上耐え切れるはずはない。絶望が支配する。
「……待って……何か上で……何ぃ!?」
そんな中で通信士が唯一声を上げた。ジョージJr.以外の全員が彼を見る。通信士は甲板から通信してきているらしい兵士の一人と話をしているようであったが、向こうはかなりの動揺をしているようで話には取り留めがなく、しかも戦闘の真っ最中であるためかその音で大変に聴き取り難い。それでも熱心に仕事に打ち込む通信士が驚きの声を更に上げた時、ジョージJr.の友人である男が本来問うべきジョージJr.に代わり彼に何事かを尋ねた。すると通信士はすぐに振り返り、その顔に引きつりながらも笑顔を浮かべ彼に、皆に伝えた。
「――お、オーバーサイクと、オーバーサイクとイーグルガイです。現れました……き、来てくれた……俺たちを、俺たちを助けに来てくれたんです!!」
*
――Wooohoooo!!
そんな歓声が響き渡る甲板上では、ライフルを抱えた兵士たちがそれを掲げて上空を皆で見上げていた。
押し寄せる異形、ディープ・ワンズ。まるで空飛ぶ絨毯のようで、巨大な蛇のようなそれを引き裂いた閃光は二色。白と赤。ディープ・ワンズの群れを引き裂き、海水へと到達したそれは海水を蒸発させ巨大な水の壁を作り出す。
降り注ぐ塩辛い雨の中を、しかし沸き立つ兵士たちは歓声を吼え続けた。彼らが見上げる空にはぽっかり空いた漆黒の穴が開き、それから現れた二人を見詰める。白き髪を靡かせた少女と、鋼鉄の翼を羽ばたかせた鉄人。
”オーバーサイク”と”イーグルガイ”だ。




