#10 我が都”ル・リエー・ラ・イラー”、浮上の時!!
それそのものが深淵の闇か、それは遙か遠き時代の幻影か。しかしそれは確かにそこに存在した。巨大な両腕は異様な長さをして、肘が二つ。二つのアーチを描きながら湧き出た闇の上に二つの親指を持つ手のひらを押し付け、その二本の腕はそれを引き上げて行く。
「――不細工な姿ね」
暗闇に浮かび上がる紫色の十個の輝き、それは瞬きを行いながらその全てが侮蔑を吐いたベアトリクスへと向く。当のベアトリクスはそれに視線を覚えあれが目である事を見抜いた。そしてくすくすと喉を鳴らして、ますます不細工だとそれを嘲り笑う。
闇がまるで嵐の海のように渦を巻き、波を作りベアトリクスたちを飲み込もうとした。しかしベアトリクスもアンジェラも、己が誇る力で以て渦を吹き飛ばし波を押し返す。それで終わりか。強気なベアトリクスの挑発に、再びその声が都中に響き渡った。
無数の呻きが、否、それは深きもの共の主が帰還を果たしたことを狂喜乱舞する亡霊共の乱痴気騒ぎか、これまでただベアトリクスたち肉持つものを羨ましく妬ましく恨めしく思いながらも、しかしそれをただ見ているしか出来なかった哀れなるものたちが栄えある主の声に共鳴し、都中を飛び交い、ベアトリクスらを包囲する。
「あははっ、なんだかスゴいですねぇ……お祭り騒ぎですねぇっ……わたし、スッゴくわくわくしてきましたよ」
「アンジェラ! 今は抑え、ろ……? ぅ、ん――!?」
自らの力を存分に発揮できる機会に巡り会えたことではしゃぐアンジェラをなだめるのはいつだってスタークの役割である。このような時であってもそれは変わらない。このような時だからこそ、最強の舵取りは冷静に行わなければならないのだ。アンジェラを制御し、ベアトリクスの為に動かす。スタークはいつも通りそうしようとした。
「スターク、どうかした……?」
「……ベア、トリクス……す、すみ……ません……っ……」
「スターク!」
直後、片手を赤熱させたスタークはその手をベアトリクスへと差し向ける。直前の彼の様子からベアトリクスはそれがスタークの意思ではないことを知りながらも、しかしスタークの今の能力は危険極まりない。故に魔法の見えざる手から彼を解放した上でベアトリクスは両目から魔力を放出し衝撃にしてスタークを自らの側から弾き出した。
力無く手足を投げ出し落下を始めるスタークをアンジェラは咄嗟に掬い上げようとして髪で出来た翼を羽ばたかせて前のめりになるが、それを制止したのはベアトリクスの伸ばした腕であった。彼女が止めるというのであればアンジェラは文句も疑問も抱くことは無い。
そしてベアトリクスが見詰める先で落ち行くスタークはその体をまるで風に吹かれた羽根のようにふわりと舞い上がらせた。そのまま姿勢を整え、闇の上へと足を付けた彼はその目を開ける。闇に浮かび上がる十個の目と同じ、紫色の輝きを放つ双眼でベアトリクスとアンジェラをスタークは見上げた。
「――その無礼、今は許そう。……堕落せしもの」
その声は紛れもないスタークのものであるが、しかし彼では無かった。スタークの口から、スタークの声で喋るのは誰か。ベアトリクスの冷ややかな瞳が映すはスターク、その背後に現れた巨大な影。
遂に姿を現したそれは長大な腕を持ち、獣のような脚をしていた。全身を黒い蔦が覆いその下には筋繊維のようなものがあちこち覗いている。全身至る箇所から蛸と烏賊を掛け合わせたような触手を蠢かせるその姿は酷くおぞましい。特にその頭部は触手の塊と形容して間違いないだろう。蠢く触手の合間から件の目玉は覗いていた。そして十個あるそれは全て、己を見下ろすベアトリクス、彼女のことを見上げていた。
「その子を返してもらえるかしら。あなたのものではなくってよ?」
ベアトリクスを”堕落せしもの”と呼ぶ、スタークの声を借りたその存在に露骨にも不愉快そうな表情を浮かべた彼女は両目から魔力を溢れさせ、直後彼女の背後へと舞い降りたアンジェラが己の神威たる力をベアトリクスに供給、増幅された魔力、その赤の光をベアトリクスは全身に纏い、そして自身の周辺に展開した幾つもの陣を組み上げ造り出した無数の槍の穂先を一斉にそれへと差し向ける。
「弁えろ、如何にその役割を与えられた存在であろうと、矮小な人の身が我に牙を剥くものではない。生かしてやろうというのだ、人よ。忌まわしき楔を取り除き、我をこの世へと再び回帰させたその手柄故にな……納めるのだ! この世に在りしものは全てこの”グレート・オールド・ワン”、この我”グトゥグウェントゥルー”のものである!! その牙を納めよ!!」
直後、スタークの怒鳴りにそれの咆哮が重なり木霊する。
”グレート・オールド・ワン”、支配者と自らを言って退けたその正体は”グトゥグウェントゥルー”。これとの交信を不幸にもしてしまった哀れな人は後に語り継がれる、彼を”クトゥルー”と己の本へと書き残した。
スタークの背後でそのグトゥグウェントゥルーが全身の触手を逆立て暴れさせる。漆黒をしていた体表も感情に反応するのか黒から白、青を経て赤く染まる。それを繰り返すのは彼らグレート・オールド・ワンというものの特性か、もしくはグトゥグウェントゥルーという種族特有のものなのか、それを知るものは彼以外いないことだろう。海に住む生き物である蛸や烏賊も、危険を感じた時や興奮した時など、体表の色を変化させ隠れたり威嚇したりをする。それはつまりそれらもまた彼のものとの繋がりがあると言うことなのだろうか。
しかし威圧、抑圧に曝されることを嫌うのはベアトリクス、そしてアンジェラも同じであった。故にベアトリクスは差し向けた矛を退かせることをしないし、アンジェラもそんなベアトリクスに矛を退くよう説得するようなこともしなかった。だが結局、宙に固定されていた魔法の槍はその形を解いてやがて全て消えて無くなってしまった。その時のベアトリクスの表情は酷く詰まらなそうであった。
と言うのも、ベアトリクスは槍の穂先をあくまでグトゥグウェントゥルーへと向けていたのだが、その射線へと宙に浮かび上がったスタークが割り込み遮ったのだ。どのようなからくりがあるというのかグレート・オールド・ワンに操られたスターク自身の意思では無いだろう。そしてきっと彼であれば自分を顧みる必要は無いと告げるはず。だがそれを知っていても、ベアトリクスは槍を納めた。詰まらそうにする彼女のその表情は果たして屈辱に歪もうとするそれを隠すための仮面か。スターク、否、”グレート・オールド・ワン”グトゥグウェントゥルーこそが嘲笑に表情を歪ませる。
「――よ、良い……主の前にはひれふ、伏すがお前たちの定めよ。コレ、はもう……必要、無い」
しばしの間ベアトリクスとグトゥグウェントゥルーの視線が交錯する。変化があったのはグトゥグウェントゥルーであった。触手の塊であったその顔が変化を始め、左右上下から閉じ合わさるような構造のくちばしが出現、そしてそれが開くとその奥には上下に開く人のそれに似た唇と歯が現れ、そこを上下させながら更に奥にある人で言う舌の機能を持った触手が蠢きグトゥグウェントゥルーはまだ慣れない言葉を話した。
それと同時に言葉の通り操られていたスタークが糸の切れた人形のように崩れ落ちて行こうとするので、ベアトリクスは彼へと魔法の見えざる手を急ぎ伸ばし受け止めた直後に自らの元へと引き寄せる。
グトゥグウェントゥルーの奏でる歪み、濁った耳に不快を覚えるその声にベアトリクスはその感情を隠すこと無く眉間のしわを深める中で、すぐ手元までスタークの身を引き寄せ意識の無い彼の顔を覗き込みながらその頬を撫でる。一先ずは意識が無いだけで肌のぬくもりもあれば呼吸も安定していて命に何ら別状は無いようであった。そしてベアトリクスの視線は再びグトゥグウェントゥルーへ。
「――今こそ帰還の時……我らが大地、我らが星を返して貰おうでは無いか」
そこでは直立しながらも地面へと付いてしまうほど長大な両腕を掲げた異形の支配者の姿があった。既にその口調からたどたどしさは見受けられず、輝きを強めた十個の瞳が一際強い閃光を放ったかと思えば、グトゥグウェントゥルーは右手に握っていた硬質の杖を両手に握り締め、そしてそれを力強く自らの足下へと突き立てた。
その衝突音はただ硬い物同士がぶつかり合った音と言うには凄まじく。まるで爆発を起こしたかのような轟音と共に実際に圧力を伴った衝撃が地面と杖の先から生じ発せられ、スタークを庇うベアトリクスとアンジェラはその衝撃に後退を余儀なくされる。
そして再びベアトリクスが逸らしていた顔をグトゥグウェントゥルーへと向けると、そこには彼を中心に幾重にも張り巡らされた幾何学的な紋様とそれに乗った輝くルーン文字の様なものが漂い陣を形成していた。それは魔法に近い概念でありながら、超常とはまた違う、どちらかと言えば科学的な様相を持った術式のようにベアトリクスには見え、それが魔力を用いない結界であることに彼女は気付く。
おそらくはあれがこの領域を隔絶していた原因にして正体。
二人の見守る中で、グトゥグウェントゥルーが光を放つ地面に飲み込まれようとしている杖をまるで錠に挿入した鍵を回すかのように捻るとその直後に光の中から杖が弾き出されグトゥグウェントゥルーもまた大きく仰け反った。それだけでは無い。同じくして硝子の砕け散る様な音も同時に鳴り響いており。実際に都中に張り巡り浮かび上がっていた数式陣はそこから粉々に砕け消滅していった。
そして始まる地鳴り。ベアトリクス、アンジェラ共に周辺を警戒しつつ都のスケール同様人が登るには大き過ぎる階段状の段差の一段に着地をすると、依然寝た切りのスタークを抱えたベアトリクスはその場に腰を下ろし彼を膝へと寝かせる。アンジェラは何処か愉快そうにグトゥグウェントゥルーの行動を観察し続けていた。
「――封印は破られた! 今こそ、我が都”ル・リエー・ラ・イラー”、浮上の時!!」
激しさを増す地鳴り。グトゥグウェントゥルーの号令に歪な咆哮とも鳴き声ともつかない歓声を上げる亡霊たちの存在を今やベアトリクスたちも感じ取ることが出来た。
見上げると、重々しい灰黒い雲に覆われていた空が明るくなり始めていた。そして塔の消滅した箇所から栓が抜かれたように渦を巻く雲のその中心には、間違いない、ベアトリクスたちの世界の青空が覗いていた。




