魔法使いは記憶に焦がれて。
目覚ましというには早すぎる時間にクァツルが窓を叩いてきたので、今日はまだ暗いうちに日記を書いている。
クァツルはカラスと同じような大きさだが、青のりみたいに濃い緑色をした鳥だ。
先週、つい餌をやってしまってから、朝日が昇る頃にこちらの部屋に訪れては窓をつつくようになった(という訳で今日は例外だ)。
今では夕食用のパンをひとかけら残しておいて、それをやるようにしている。自分の分け前を減らしてまでと思ったが、こうして餌をやっていると、とても心が落ち着くような気がするのだ。
しかしこいつは本当に旨そうにパンをつつく。
手のひらに残ったパンくずも漏れなく食べてから、「ぴぃ」と元気よく朝焼けのさなかへ飛び立っていく姿を見ると、すこし羨ましくもある。
今の自分は決して自由ではないが、この恩を返すまでは仕方ないだろう。なにしろアリアが僕の潜在能力に着火してくれたおかげで、この国の言語を数日で理解し話せるようにまでなったのだから。
この世界に暮らせば暮らすほど、最初に出逢った人間が彼女で良かったと感じるようになった。
日本よりもずっと命が軽いことがわかったし、人間をモノのように扱う度合いがひどい。
そうした価値観もアリアは買ってくれたらしく、僕をこうして生かしてくれているようだが、日本的な感覚からすればボロ雑巾のように使役されている。
専属料理人という肩書だけは貰ったが、仕事の中身は多岐にわたる。炊事洗濯、書類の整理から何から何までアリア様の仰せのとおりに。
驚いたことに魔法使いに休みはないというので、自然とこちらにも休息の日はない。
でも意外と慣れてしまうのだ。慣れてしまった、と言ったほうが傷心っぽく映るだろうか。
最後に。そろそろと知ってはいたが、スマートフォンの電池が切れてしまった。
ほとんど電源を消しながら三週間といったところだろうか。上出来ではあるが、結局電波が入ることは一度もなかった。今年分のカレンダーは書き写してはいるのでひとまず安心だが、それよりも先、この世界に残っていたとしたらと思うとゾッとする。
いや、その可能性のほうが高いだろう。
なにしろ、今の今まで「異世界で暮らしていました」なんて事例、ニュースで見たことがない。
カレンダーの続きがないのは、自分なりの悪あがきだ。戻ろうと思う気持ちがなければ、きっと元いた世界に戻れない気がするから。
皆、僕がいないことに驚いてくれているだろうか。
そうであってくれると嬉しいし、今となっては母さんのつくるカレーが食べたくて、恋しい。
■
アリアはとにかく肉の類が苦手だった。
この国(オラーゼかオラーツェと住民は呼んでいる。違いはまだ不明)では、羊と牛をミックスさせたようなザナンという家畜が多く食用されており、市場でもよく骨付きで並んでいるのをよく見かけるが、アリアはそれを見るたびに鼻を指でつまんでいる。しかめた顔はちょっと可愛らしい。
「そこまで臭いものですか?」と訊くと、
「ええ、それはもうプンプンするわ。あんなのを食べようなんて野蛮人のすることよ」と返してきたことをよく覚えている。
魔女の鼻は常人では考えられないほど鋭いのか、当方の感覚が弱いのかを天秤にかけたが、もう一区画先のクァツルが吊るされているのも嗅覚のみで当ててみせたので、前者の説を推してゆきたい。
実は異世界の肉の味には興味があったし、日本で習ったばかりの骨付き肉を使用した煮込みを試したい気持ちではあったが、アリアは野蛮人を求めていないだろうから諦めた。
だから僕にとっては、朝やってくるクァツルも食材ではなく、かわいいペットみたいなものだ。
「さっきから手が止まってるけど、主より先に食べ終わるぐらいの礼はわきまえてるわよね?」
頬を熱気が撫ぜた矢先に、剃り残しの産毛が焼ける匂いがして、その事態に気がついた。
しまったと目線をあげると、アリアがご立腹な様子で短く鼻を鳴らしていた。
「申し訳ございません。考え事をしておりました」
あまりに早く起きたものだから、妙に頭が回ってしまったらしい。こういうときは簡潔に謝ったほうがいいというのは、ここに来てから充分に学んだ。
アリアは長い言い訳がひどく嫌いだ。それで一日メシを抜かれたこともあるので注意が必要だった。
「食事のときぐらい、食事のことだけ考えなさい」
もっともだ。
木で出来たおたまのようなスプーンで、豆の煮込みをすする。これはオラーゼでの伝統料理で、一晩水につけた白豆を崩れるまで煮込んでから、塩とハーブで味付けしただけの簡易的なもの。
「まずはこれを毎朝つくりなさい」と最初にレシピを渡されたぐらい、アリアのお気に入りだった。
ついこの間前まではもっと高度な料理の勉強をしていただけに腕が鈍りそうだったが、これはこれでシンプルで美味しい。
彼女は豆類を好んで摂るので、肉でタンパク質を補給しなくても健康でいられるというわけだ。
「もうここでの生活には慣れたかしら?」
「ええ、おかげさまでようやく。とはいえ、アリア様の同行なしに外を歩いたことがないので、本当の意味で慣れたとは言えませんが」
すると、アリアは目にかかった臙脂色の前髪を払い除けて、口の端だけをぬるりと上げてみせた。
どう見ても年下であるはずなのに、幾分も含みのある表情をする。それがアリアだった。
「そうよ、カイト。あの時私に出逢っていなければ、世間を知らなすぎてその日のうちに骨だけになっていたでしょうね」
気分がよくない例えではあるが、違いない。
不自由はすなわち、護られていることと同義だ。
この世界の弱者は力のある主に仕えることによって、自身を生き延びようとさせている。
自分は偶然、その状況が降ってきただけ。
すぐに獣に食われていたのかもしれない未来は茶飯事だってことぐらい、新聞と同じ役割を果たす回覧草が教えてくれている。
「今日は食欲がないのね」
根菜を煮出した茶を一気に飲み干したアリアが、対面のこちらへ歩を進めてきた。
見ると、自分の豆の煮込みはあと三すくいほど皿に残っているではないか。
まだ食べ終わっていないことへの懲罰かと身をかがめたが、どうやらそうではなかったらしい。
「そんなにいつも暴力的だって言うの?」
雪と見紛うほどに透き通る頬を膨らましていたのは想定外だった。
いつも魔法で暴力してきますとは口が裂けても言えなかったので、「いえ。以前の職場ではよく殴られたので、反射的に」と方便をかましたものの、頭をあげることはできなかった。
「ひどいところね。そんな世界なのに人殺しがめったに起きなかったというのも奇妙だけど」
「超えちゃいけない線引をわかっていますから」
「その言葉、この世界の全員に聞かせてあげたいわ」
言って、アリアがおもむろに左手を握ってきたものだから、のけぞってしまった。彼女の手は柔らかく、しんと冷たい。
「なによ、失礼ね」
「今日のアリア様がおかしいからです」
アリアは眉を寄せてから、握った手を離してゆく。
――よく言うわ。
そうして目尻を掻いた彼女はややあってから、口を開いた。
「今日は特別よ。まだお腹は空いてるわね? もう一度左手を貸しなさい」
「アリア様、それに何の意味が」
「いいから」
結局手首を持っていかれ、最後にはまた握手するように格好になってしまう。
するとどうだ。先までは冬の小川のように冷え切っていたアリアの手が、火のように熱いではないか。
「すこしの間、辛抱しなさい。負けないように」
その灼けるような感覚は血流を一気に駆け上がる。脳すらも焦がれるほどの大波は全てを飲み込んで。
目の前には見慣れた光景が映っていた。
「ご飯もうちょっと要る?」
あとしゃもじ一杯分と答えると、やがてルーも大盛りにかかったカレーがやってきた。
母さんを待って、いただきます。
我が家のカレーは人参抜き。大きくなっても続いた好き嫌いは、今もこうして甘やかされていた。
大ぶりに切ったチキンに、とろみの少ないルー。きっと自分がつくったほうが美味しくできるけど、これでよかった。これがよかった。
「そういえば成人のお祝い、なにがいい?」
「いい。無理しなくて。ただでさえ実家暮らしで甘えてるし」
「遠慮しなくていいのに」
「じゃあ、またこのカレーをつくってよ」
二人だけの食卓はどこまでも温かくて、今度は守ってゆきたくて。
けれど一口、また一口とスプーンを繰ってゆくたびに、その視界はおぼつかなくなっていった。
「母さん待ってくれ、まだ食べ終わっていないのに! 母さん!」
「――これで記憶は全部よ」
起こしてくれたのは母さんではなく、かなしそうな目をしたアリアだった。
「せめてもの礼のつもりだったけど、つらかったのであれば謝るわ」
「今のは、いったい」
確かにあれは母さんとの食事だった。幻覚よりもはっきりとしていて、夢よりも鮮明で、あれはまさしく本物だった。
「今日のカイトはいつもと違うから、あまり気が進まないけど心を読ませてもらったわ。あなたは元いた世界に帰りたいと心から願っていた」
心を読まれたからには嘘をつくことはできない。かといって、世話になっている身ですぐに首肯できるわけでもない。紡ぐ言葉を逡巡していると、アリアが「いいのよ」と手を振った。
「私は魔法使いだけど、あなたを元いた場所に戻す術を知らないわ。それでも私は炎の魔法使い。せめてあなたが心の奥で欲していた母の味を、その記憶を再燃させようとしただけよ」
彼女の話を聞いて、あの燃えるような感覚を思い出した。そう、出逢った当初も僕は魔法をかけられた。こちらがオラーゼの言葉を話せないと見るや、アリアはこうして手を握り、言語の潜在能力を強く引き出してくれたのだ。それは固まった燃料が一気に燃え上がるような体験だった。
「私ね、食事の時間が嫌いなの」
「食事がですか」
「ええ、大嫌い。痛いのよ、つらいのよ。私の魔法がそういう仕組みだから」
するとアリアは手の平をかざし、火の玉をつくりだした。これで豆が数粒分ねと呟いて、火を消した。彼女にしては簡単すぎる魔法だった。
「私の魔法は生き物かそうであったものの記憶を吸い取って、それらを燃やすことで成り立っているわ。私が肉を食べられないのは、彼らが首を刈られる記憶も噛み砕かないといけないから。魔女のくせに弱いものよ」
その面持ちは出逢ってから見せたことのないくらいに、魔女よりも人間らしく、等身大のそれだった。
「野菜はまだ生々しくないから幾分かは我慢できるけどね。けれど、つまれたり引っこ抜かれる記憶は、それでも痛い」
でもね、とキッチンにある鍋から残っていた豆の煮込みを自身の皿に移すと、アリアは目を細めた。
「あなたが前の世界で料理人でよかったわ。この煮込み、死んだ母さんの味にそっくりだから」
「あれはレシピ通りにつくっただけですから」
アリアは嫌いだと述べたはずの食事を続けた。
「そんなことはないわ。私がやってもこうはならないもの。いつもはつらい食事が、記憶が、母との温かい思い出で満たされたわ」
それからアリアはぽつりぽつりと、彼女の母親のことを教えてくれた。
魔法使いの父が早くに死んでから女手一つで育ててくれたこと。母親は魔法を使えなかったが裁縫はすこぶる得意で、それで生計を立てていたこと。朝ごはんには決まって、豆の煮込みをつくってくれたこと。母親との思い出を語るアリアはどこまでも優しい瞳で、過ぎた日々を懐かしんでいた。
そして。
「あなたが来てから楽しかったわ。あとごちそうさま。がさつな魔女で住みにくかったでしょうけど、これでも感謝しているわ」
突然そんなことを宣うと、アリアは懐から取り出した地図を指差した。
「この印のある場所へ向けて、もうすぐ迎えがくるわ。今度の主は私の腐れ縁だけどそれなりに頼りになる人。大農園の食堂で働いてもらうから、ここより腕の振るい甲斐があるはずよ。寝床だって貧相なうちより良いはずだわ」
まるで全てが決まっているという口調で、アリアは両腕を広げたが、理解できなかった。
「ちょっと待ってください! どうして急にそんな話になっているんですか? なにか気に障ることでもしましたか? ここにはもう住んではいけないということですか?」
矢継ぎ早に質問をぶつけると、彼女はゆっくりと首を横に振った。
「さっき、魔法は記憶を燃やすと言ったけれど、実はもう一つ大切なものも燃やさないといけないの。それは自らの寿命よ」
「そんな……」
「私がこのまま魔法を使い続ければ、あとオラーゼの季節が何周かしたら死ぬでしょうね。これは魔法使いの職業病みたいなもの。重い魔法ばかり使ったから、父さんよりも早死にね。笑えないけど」
なぜ今まで話してくれなかったんだ。その歳で、日本で言う成人にたどり着く齢で彼女は死んでしまうというのか。その魔法は出逢った頃だって、今日だって使ってしまったではないか。
「魔法を使って寿命が削られるのなら、いっそ使わなければいい! 街には仕事もあるでしょう」
無理よ、とアリアは肩をすくめた。
「魔法使いは元々忌み嫌われているの。他人と違って死の臭いを嗅ぎ分けられるし、何より魔法で人に手をかけることもよくある話よ。物騒な世の中だけど、ここまで野蛮な輩は街にも溶け込めないわ」
彼女が揶揄していた野蛮という蔑称を自らに当てはめてもなお、彼女は魔法使いを全うするという。
「カイト。あなたはオラーゼの言葉を話せるようになったし、この世界での勝手も理解したはずだわ。もう、この世界で生きてゆける。だから先の見えている主に仕える必要なんてないわ」
「ですが」
「皿の片付けはいいから、部屋で準備をなさい」
躊躇っていると、アリアの怒号が響いた。
「命令を早く聞かないと、魔法で焼き殺すわよ!」
「それならなぜ命を削ってまで、僕のために魔法を使ってくれたのですか!」
「うるさい! 魔法使いが魔法を使って何が悪い!もうこの減らず口はそのまま家から出ていけ!」
それからは滅茶苦茶だった。アリアは棚から皿という皿、果ては芋まで投げはじめ、追いやられるように外へ弾き出されてしまった。
「もう二度と帰ってくるな!」
今にも倒れそうな木張り小屋の前で、彼女が叫ぶ。
僕はその姿が忘れられない。怒っているのにさめざめと泣いているような表情も、最後に捨て台詞のように呟いた一言も、頭にこびりついて放れない。
「――あんなにこき使ったんだから、もっと嫌いになりなさいよ。ばか」
焼ききることの出来ない、強い記憶が。
■
農園から運ばれてきたカムガイ(小麦粉のようなもの)を使って、パンを焼き上げるのがすっかり日課になった。
数日で飛び出してしまったのにもかかわらず、こうして原料を卸してくれるようにもなったのだから、彼女の腐れ縁は本当に良い縁なのだと思う。
元いた世界で着ていた服を高値で買ってくれたり、はては改装まで手伝ってくれたのには頭が下がる。
いつかお礼をしなければと考えているが、果たしてこのカフェが軌道に乗るのはいつになるやら。
彼女は、彼女が思っているほど野蛮で嫌われる人間ではない。強がりで、寂しがりやで、おせっかいな女の子だ。
魔法使いを辞めてから、少しずつではあるが彼女との会話を楽しみにやってくるお客さんも増えてきている。
はじめはぎこちなかったけれど、今では給仕の仕事にも慣れたようで、笑顔を見る日も多くなった。
それでも恐らく、削り続けた命は人並みには残っていないだろう。
だからこそ、彼女の残りの一生を目立たなくとも幸せに輝かせてあげたい。その優しい灯火を見届けてあげたい。
それが彼女に対する恩返しだ。こうして出逢ってしまった以上、僕らもきっと腐れ縁だろう。
おっと、のんびり日記を書いていたらアリアから呼ばれてしまった(最近会話でも「アリア様はやめろ」と言われている。僕が店主だからとのことだが、どうにも慣れない)。
昨日遅くまで仕込んだカレーはいい具合に寝ているだろうか。スパイスなど代用品ばかりだが今回はだいぶイメージに近くなったはずだ。豆の煮込みはいつものように上手く出来たが。
さて、看板鳥になったクァツルに餌をやってから、今日も朝日と共に元気に店を開けることにしよう。
「カイト、早くして! お客さんがきてるのに!」
「ごめん、アリア! 今行く!」
もう僕らはかなしくなんて、ないはずだから。