お兄さま、可憐はお兄さまのことを、愛しています!
こういう時、俺の行動は素早い。
可憐が自分の部屋に戻っている間に、とっとと部屋を飛び出して、一階まで駆け下りた。
期待はしていなかったが、あの友垣さんはちゃんとフロントにどっしり座っていた。
どうやら、通常業務中らしい。
「どうされました?」
俺を見て、早速尋ねてくれた。
「いや、実はここだけの話、妹が――」
「いつもと違うと?」
「そ、そうなんですよっ。まさか、なにかしましたかっ」
さすがに口調がキツくなったが、友垣さんはゆっくりと首を振った。
「ここは元から、そういう場所なのです。ここに来ると、人はより素直になります……ただし、溜め込んだ悪心を解放するという意味の素直さではなく、普通の時なら望んでいて踏み込めないようなことでも、知らぬうちにそっと背中を押してくれるのですな。それが良いことである限り、という制限はありますが」
「そ、それって魔法みたいなアレですか?」
「私は使えませんが、オーナーの魔法です、ええ」
おお、認めやがったぞ。
ここで俺が「なにが魔法だ、嘘つけゴルラァア!」と喚かなかったのは、自分も些細な魔法じみた力を持っているからだ。
それに、知り合ったばかりの空美ちゃんなんか、半ば本物の魔法使いっぽくなってきたしな。だから、いちがいに嘘だと決めつけられない。
「……そういえば、啓治様はどうも、あまり様子が変わったように見えませんね?」
気付けば、執事みたいな友垣氏が、俺をしげしげと見つめていた。
「ご自分で、どこか変化したような気はしませんか?」
「えっ――」
思わぬ質問に、俺は一瞬、ぎょっとした。
想定外の問いかけに、焦ってしまう。
「そ、そうですね……いやぁ、言われてみれば、ちょっと変わったかなあ。ははは」
いかん、完全な棒読み口調だった。
余計に疑われそう。
「――兄さん!」
幸い、後を追いかけて可憐が、俺の窮地を救ってくれた。
「いつのまに消えたと思ったら、なにをしているんですか、もうっ」
膨れっ面でそばへ寄ってこようとするのを、俺は手を振って止めた。
「今、戻る!」
わざとらしく肩をすくめ、俺は友垣さんに低頭した。
「お騒がせしました。戻ります」
「どうぞ、ごゆるりと。お食事は、一階奥のレストランでいつでも摂れますので」
「……どうも」
俺は乾いた礼を述べて、素早くその場を辞した。
説明を受けて感心はしたが、納得はしていない。だいたいだ、考えようによっては、それって洗脳に近い気がしないでもない。
ひねくれた見方なのは認めるが、俺は可憐を守る立場なんで、あっさり「うわぁ、パラダイスに来たなぁ」なんて油断は禁物だ。
「なにか用事があったんですか?」
可憐が早速、訊いて……しかも、腕を組んで訊いてきたので、俺は今、友垣氏から聞いた話をざっと説明してやった。
「つーわけで、ちょっと用心した方が――」
言いかけて俺は絶句した。
わざと階段を上って説明する時間を作ったのだが、元の部屋に戻る頃には、可憐が幸せそうな微笑みを全開にしていたからだ。
「おまえ、俺の話、聞いてたか?」
「聞いてました!」
可憐は弾けるように述べて、口元に両手を当てた。
なぜか瞳が潤んでいたりした。
「ああ、それでいつもの心の壁も感じなければ、奇妙な焦りも感じないんだなぁって。わたしはとうとう、昔の頃の自分に戻ったんですね……お兄さま」
「えっ」
ドアを開けた俺は、入り口で足が止まったね。
「おまえ、今――」
「ええ、今は呼びたくてもどうしても呼べなかった枷が、そっくり消えています、お兄さま。お話を聞いて納得したことで、最後の疑問も消えたからでしょう」
「いやおまえ、それはしかし、単なる洗脳の類いである可能性が」
しかし可憐は、ろくに聞かず、俺の手を両手で握った。
「今ならちゃんと言えます……お兄さま、可憐はお兄さまのことを、愛しています!」
愕然として口も利けない俺に、可憐は潤んだ瞳でそっと続けた。
「今も昔も、少しも変わることなく」
……それは、誰よりも俺が一番わかっていることだが。
本当にこれでいいのか。こんな簡単に――
そう疑問が湧いた瞬間、可憐が背伸びして俺に口付けした。