第一章 僕
僕は、浅深い眠りの中に居る素直なお子様。
小さな悪戯でも起きてあげない悪いお子様じゃない。
……起きてあげない理由も、早々には見つからない……。
虚ろな感覚の中、ヨルは瞼に微かな力を集めた……。
そっと、さらにそっと……瞼を開いて見せる。
その瞳に飛び込んだ光景は薄明るく、同時に少し肌寒い石造りの部屋が存在した。
そして、僕の左側には、肩まで伸びたブロンドヘアーとブロンドアイ。 黄色のドレスシャツと、赤色のスカートで着飾った女性が立ったまま見つめているのを強く感じた。 定かではないのだけれど、幼友達ではない事だけは、単純に認識できた。
まだ不思議な感覚が頭に残る中、僕が体を起こす動作に入る前に、再びその女性が声を掛けてくれた。
「お目覚めですね――ヨル様。 まだ意識が遠いのですか?」
唐突に問われた為か、何故眠りの中に居たのかが最も疑問に感じた……。
見知らぬ女性と、見知らぬ部屋。 何より実の家のベッドよりも、固くざらついた感じに不快感を感じずには居られなかった。 しかし、不思議とその女性の声だけは、素直に受け止める事が出来る気がした。
「――ここは?」
酷く単純 酷く単純で、酷く短い言葉に映るだろう。 でも、これが精一杯の視認への反逆だった。
「ここは――名も無き廃城の――名も無き部屋の一室。 です」
酷く気になる言葉が僕の耳に留まったが、まずは体を起こすことにした。
僕に声をかけてくれたその女性は、そっと僕の背中に手を添えてくれた。
起き上がると同時に、僕は部屋中を好奇心と共に見回した。
どうやら病院ではないという事だけは把握できた。 壁の罅と石畳の罅が目立ち、所々着色の剥がれが気味の悪さを演出していた。
「廃城と――言ったよね――? 僕の家の近くでは一度も見たことがないのだけれど、ここはどこなのですか――?」
尋ねられた女性は、少し自信化な顔付きで答えた。
「ここは――夢の大陸にある、名も無き廃城なのです。 ふふふ」
ヨルは小さく頷いた。
僕は間違いなくまだ自宅のベッドの上で眠っている。
明日、朝を迎えるのがこんなに楽しみになるなんて考えた事もなかったし、人生十二年と六ヶ月にして、少しばかり悟りを開いた気分になった……。
同時に、早く現実世界のベッドの上で目覚めたいとも思えた。
「困惑されていますねヨル様。 その――お気持ちはお察し致しますが――」
「困惑――? それは二度も廃城を強調されたから――ね。 夢の大陸? これも聞き慣れない何かのセリフの一部なのかな。 ははは。 はあ――」
弱気とは無縁のヨルなのだが、夢の中の住人と論争する気にはなれなかった。
ただ一つの疑問を除いては。
「教えてほしいのですが――何故僕に様付けで名前を呼んでいるのです?」
女性は不思議そうな顔で問いに答えた。
「私はヨル様の秘書官ですので――様を付けるのは礼儀だと思われます――」
「ははは。 僕に秘書さんが付いているなんて夢のよう――夢ですからっ――」
秘書と名乗る女性の顔から笑みが膨らんだ。 夢の中だと思い込もうとしているヨルが、余りにも可愛いと感じたからだ。 一瞬の間を取り、秘書の女性が話し始めた。
「はじめましてヨル様。 私の名前はアルミ――ヨル様所有のカードブック担当秘書官となります。カードブックとは私の右小脇に抱えています一冊の本のことを指します。 そして、何より先にお伝えしますが、こちらのカードブックは命と同等の価値だとお思いください ふふふ」
話し終えたアルミはそのままヨルに歩み寄り、小脇に抱えていた古めの本を差し出した。
ヨルは無言のまま差し出された本を両手で受け取ると、アルミは一歩下がりヨルの様子を静観した。
尚更に頭の中が困惑する。
負けん気の強さが災いし、疑問に質問をぶつけることが出来ずに居る自分に対してさえ、歯がゆい気分になった。 何故なら、その全ての答えはこうだ。
夢じゃん。
夢、ヨルの全身から湧き出す痛烈な文字。
何を言われようが、何が起きようが夢だと思い込んだヨルには悪戯な嘘さえも届かない。
ズシリと重い重厚な茶黒い革で覆われた本を手渡されたことさえも、夢だと思い込んだヨルには毛程も価値も重みも感じなかった。
暗黙の時の流れが苦手なのも手伝い、カードブックと説明された本を無意識に開こうとしたその瞬間……。
「あっ、ヨル様。 まずはお茶にしましょう! 紅茶のお時間です!」
「え? あっ――うん」
手渡されたカードブックを、汚れの目立つベッドに置き、石畳に素足を着けた。
冷やりと足の裏が冷たくなり、少しだけヨルの顔にぷっくり笑顔が膨らんだ。
何気なく目線をアルミに向けると、脱初心者紅茶セットなるものを手に取り、手慣れた風で紅茶を淹れてくれた。
部屋には小さめのテーブルに椅子が三席あり、そのテーブルを二人で囲んだ。
しかし、あえて言おう……。
「電気――あるんかああああっい!」
驚きと喜びの感情を剥き出しにするのは決して悪いことではない。 ヨル自身、夢の中での出来事と割り切っているし、何より電気の存在は夢の中とはいえ有難かった。
「ヨル様。 こちらの世界は過去、現在、未来。 その全ての物が在ります。 ある方のご意向で――」
「ある方――?」
アルミは、何者かを匂わせて置きながら、何も告げず部屋の隅に在る大きなバルコニーへ歩いて行った。 揺れるレースのカーテンの隙間から、夕暮れの蜜柑色だけが強く射し込んでいた。
アルミの背を見つめながら後を追ったヨルは、バルコニーから見える壮大な森と大きく横たわる川に圧倒された。 廃城の、おそらく三階からの眺めは絶景だった。
「本当に夢なのかな……こんなに自然に囲まれた風景見たことがないよ……」
「ふふふ。 ヨル様。 そろそろお認め下さい。 こちらの世界に来た時から、ここはあなたの現実となりました。 そして――私達の王様なのです」
実のところ、ヨルの内心は半信半疑なのである。 あまりにも現実化している光景をまざまざと目の当たりにすると、嘘も嘘ではなくなる。 よくある、複数人で一人を引っ掛けて驚かせるテレビ番組を思えばいい。 ヨルもこの短時間で認めたくはないものだな状態に突入しているのを、肌で感じ始めていたし、何より小気持ち良い感覚に囚われていた。
「アルミさんって――歳上の女性だと感じていたけれど、見た感じ――もしかして、僕と同年代なのでは――ないですか――?」
「ふふふ――私達の年齢はお仕えが決まったご主人様のお歳で決まります。 ですので、私も十二歳と六ヶ月の体なのです。 それは、決定事項なのです」
決定事項きたああああっと叫びたい気持ちを押さえ込み。 見た目は少女……中身はおね……いや、なんでもない……。 そして、アルミの何気ない私達という言葉も気にはなったが、ヨルはアルミに最大の疑問をぶつけることにした。
「この僕に……アルミさんは何を求めているのです?」