2.こーる
「しゃべったぁ?」
夕飯の準備をしながら、仕事を終えて帰ってきた蓮に今日の報告をする。娘が初めての言葉を話しましたよ、と。
「…………うん」
「で?なんて言ってたんだ?」
少し浮かれた声で聞いてくる蓮は、「パパ」とか「ママ」とかいう言葉を期待しているんだろう。
「……………………ろんぐろんぐ顎ー」
「……は?」
「だから、ロングロングアゴーって言ったの」
ぽかんとした蓮だったが、すぐに笑った。
「ばっかだな。今までまともに単語もしゃべったことない赤ん坊がそんな複雑なこと言うかよ。聞き間違いだろ」
「だって何回も言ってたし!」
「たまたまそう聞こえただけだろ」
まったく信じてくれない。妻のことをなんだと思ってんだ。まだ耳が遠くなるほど耄碌しとらんっちゅうに。
一人床に座り込みぬいぐるみで遊んでいた楪を、蓮が抱き上げる。
そういえば楪は、驚くほど手のかからない子だ。あまり泣くこともなければ、家事の邪魔をすることもない。気付くとおとなしく一人遊びをしている。まだまだ若いあたしが投げ出さずに子育てできているのは、この子の性格のおかげもあるかもしれない。実際子育て始めて拍子抜けしたもんなぁ。もっと大変だと思ってたのに、って。
「ゆず、パパって言ってみ?」
蓮は自分の目線まで楪を持ち上げる。
楪は無表情でじーっと蓮を見つめ、小さな口を開いた。
「おとーひゃん」
何ぃ!?
またしても高度な言葉を口にした楪に、今度は蓮が固まる。
「ほら、ほら、ちょっと聞いた!?これならロングロングアゴーって言ってもおかしくないでしょ!?」
「…………じゃなかった」
「え?何?」
蓮がぽつりと呟いたが、声が小さ過ぎて聞こえなかった。
「パパじゃなかった!娘にはパパって呼んでほしかったのに!」
「そこかよ!」
思わずツッコミを入れてしまう。なんだろう、男の人って子供の成長に疎いのか?赤ちゃんには難解な単語を話しただけではなく、蓮の言葉に答えてそう言ったならば、こっちの言葉が分かっているということだ。
もしかしてこの子は天才なのだろうか。神童?いやいや、天才も二十歳過ぎればただの人って言うしなぁ。今から多大な期待はするまい。
おっといけない、軽く現実逃避していた。
あたしはそろーっと蓮の横から楪に顔を近付けると、にっこり笑ってみせた。
「お母さん、って言ってごらん」
あたしは別に呼び方にこだわったりしない。だけど、母親を差し置いて父親が先に呼ばれるなんてずるくないか?さあ娘よ、心置きなく母を呼ぶがよい!
「おかーにゃん」
ああああ!舌足らずなところがまた可愛い!
すでにあたしの頭には、なんで顎という単語の発音が完璧だったのかなんて疑問はふっとんでいた。
「ちょ、待て待てゆず。言うんならパパ、ママにしろ」
ショックから復活した蓮が変なこだわりを要求をする。
「もー。いいじゃん、お父さんお母さんだって。大人になってから苦労して呼び方変えさせるくらいなら今からそのままでも」
「息子ならそれでいいけどな、大人になったって娘にはパパママって呼んでもらうんだよ!」
「え、何その必死さ。そして何その呼び方に対する執着。好きに呼ばせたらいいじゃん」
「じゃあお前将来クソババアなんて呼ばれてもいいのか」
「ううん、ぶちのめすけど」
クソババアは極端じゃなかろうか。
「俺にとってはお父さんお母さんはクソジジイクソババアって呼ばれてるのと同じことなんだよ!」
世の中のお父さんお母さんに謝れ。
その後パパと呼ばせることに成功したものの、次の日になったらまた呼び方がお父さんに戻っていたことに落ち込みながら、蓮は会社に行った。
やれやれ、男の人って難しい。繊細なのか、ただの馬鹿なのか。
まあでも娘よ、気が向いたらパパって呼んであげてね。