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魔がさす  作者: kawano_rin
1/1

宝くじに当たる

それは降って湧いたように

「おはようございまあす」


生徒達に声を掛けられ、朔子はおはよう、と返事を返す。その生徒が行く先に教員の姿が見え、それが先日話題の的になっていた田村だということに気が付く。

朔子は職員室内の自分の席に着くと、隣の席の高橋と挨拶をしようとするが、高橋は欠席の連絡の電話を受け取ったようで軽く会釈だけ返してくれる。


―先日の会議でのこと。

その日は保護者からのクレームを教頭が紹介するという一幕があった。問題に挙げられたのは以前から何度も話題にされることが多かった部活動での指導について。今回保護者からのクレームという形で来たものだったが、野球部で体罰が行われており、本人から陳述があったということらしい。


「自分にはまったくそういう意識はないです。周りの生徒達だって同じことを言うと思いますよ」

そう言い、そして田村はまったく動じずに会議の資料を先へとめくったのだった。


「あれは陳述の形でしたが、本当は何件も別のタイミングで保護者やら、生徒から声がもうばんばん、来てたっていう話です。」


隣の高橋は資料を揃えながら朔子へと話す。


「私も聞いてます」

朔子は背後の田村の席をちらと見る。


「それからまだ、問題もあって・・・体育の時の熱中症対策。あれもまだ全く指導していないみたいですよ。田村さん」


「まあ。今年の夏も暑いっていうのに。」

高橋もため息混じりに頷く。高橋が話すように、去年の猛暑のさなか何度か部活動の生徒が保健室に運び込まれることがあった。


「・・・高橋さん。宝くじって当たったことあります?」


朔子はなんとなく、尋ねてみる。

「うーん。僕は買わないです。でも、実家の父が一万円くらいなら、あったかな…買うんですか?」


「ええと。うちも父と、どうしよっかなって。」

朔子はそう言って笑う。書類を束ね、所帯を持つ高橋の後ろを横切るときにじゃあ、と言って自分の受け持つクラスへと向かう。


いつも通りに教壇に立つ頃にはベルが鳴り、朔子は出欠を取るが、問題の野球部の生徒が一人と他に病欠の一人が休んでいるようだった。

あらゆる問題はこんなふうに、本人が知らぬ間にひろがっていくのね、と朔子は何か憂鬱な気配のように感じていた。



夕方、朔子は帰宅すると車庫に車を留め家へと入った。居間にいつも通り座る父を見つけ、その背中に向かって、「どう。大分、実感わいてきた」と尋ねてみる。


「おお。でも、なあ。母さんでもいれば、旅行に行ってみるかと思うかもしれんけど、何か空恐ろしいな。こんな大金は」

仕事ではそりゃあ、何千万って触れてきたけどなあ、父が呟いた。

父は、昼間のうちに手続きを済ませたようだったが、金が振り込まれるまでには数日かかるらしい。


―「おい、当たった。当たったぞ」

それは、今朝のことだった。父が騒がしくしていると思い、朔子は洗面所から居間を覗いて見たが、父が顔色を変えて言うのは月末に買った宝くじのことらしく、顔にまだ石鹸のついている朔子の方へと新聞を持って近づいて来た。そして確かにそこに、父が手から差し出した宝くじとひとつとして違わない番号が載っていたのである。

父は、手続きの際にもらってきた「当選者の方々のための手引き」という冊子をテーブルの上に置き、朔子もそれをぺらぺらとめくって読んでみる。向かいに居る父へ、朔子は「運がいいってことよ。けど確かに,怖いといえばこわいかもね…」と笑い、さて自分は、この父の持ち家の中で暮らし、何不自由のない暮らしをしている中の大金によって、いったい何が変わるのだろうか…と考えてみる。


「何かこれって、子供、みたいなもんかしら」


「はあ。」


「だからお金。授かり物、っていうのかな。三億円なんて、想像がつかないでしょ。百万円とか、十万円なら何か、ほしいものって思いつくけど。」


「ばかいうな。お前。子供、っていったらもっと大変なものだぞ。金よりも未知数なんだぞ」


朔子は首を傾げる。それから、化粧っけの無い顔で笑う。

父は、数年前にがんで亡くなった母とは違い仕事にばかり熱意を燃やす朔子のことを、しょうがないが、けれどまだかわいかったころの面影そのままに見える気がして、一人ため息をついた。



数日後。

その日、朝から30度を超える猛暑で、クーラーのついていない教室では窓を開け放つくらいしか対策がなく、生徒もみな一様に耐え凌ぐだけのような時間が続いた。

唐突に、外から大きな音がした。それから授業の歓声とはまた別の声がグラウンドから聞こえてくるようになり、教室内がざわついてきた。外を見るとそこには人だかりが出来ていた。

授業が終り朔子が職員室へ戻ると生徒が熱中症で搬送された、という話題で持ちきりになっていた。今日授業があるらしかった田村が席をずっと外しているのを見て、隣の席の高橋はしかし動じずに「本当のことを言うと、田村さんが殴ったみたいですね。」そう言って朔子を驚かせた。


「それで、生徒の方も負けじと」

高橋は手をぐーにして、前にあるファイルフォルダに向かってパンチをする素振りをする。


「ええっ。本当ですか。・・・そんな漫画みたいなこと」


「ええ。田村さんもあれなので、おさまりが付かなくなったようで、それを見た何人かの生徒が呼びに行ったんですね。用務員の竹本さんを」


「ああ…」


「どうなるんでしょうね」


「うーん。」


朔子はちらと騒ぎの方を見ながら言う。「田村さんも気が若いから」


「いや…って言うか、うーん、まあ。」二人は笑い合う。

「とにかく二人が説明しないことには僕らが何か言っても。」


「そですね」


高橋は整理していたプリントをクリップで留め、やれやれという感じのため息を吐いた。



「ん。」

鞄の中にある携帯電話をちらと見ると着信が入っていることに気が付いた。一件は父からで、もう一件は先日会ったばかりのかつての同級生からの番号だったので、朔子は少し驚く。昼休みに父に電話をしてみるが留守番電話になっていた。

朔子は帰ってから、父が背中を向けて新聞を読んでいる姿を見つけ「ただいまあ」と声を掛ける。


「おう。」


「昼頃、電話した?」


「ああ。まあ別に、急ぎじゃないんだ。今日銀行に行ってな。話を聞いて来たんだ」


「ふうん」


「ん」

…でもこういうことって、なるべくなら家族以外の親戚にも、言わない方がいいんじゃないかな。朔子は言う。父も、神妙な顔をして返した。それから、夕食の支度をしたあとで着替えを済ませて朔子はまた家を出た。


朔子は車を走らせ駅前へと向かう。待ち合わせをしていた店を確認をし、駐車場へと車を停車させてから車内でみずからの化粧を確認した。それから店内でよく知っている顔を見つけ―たった一か月前に会ったばかりだが―その席へと座る。向かいに座るのは朔子が学生の頃に数年付き合ったことのある長谷川という男で、朔子が地味な服ばいかり選んで着るという事を差し引いても服や鞄、いやそれ以上に態度がどこか派手な印象だった。


「おう」


「うん。どうしたの」


「いや、別に」

しばらくして店員が席に注文を聞きに来る。それが去ってから長谷川はふと、客か向こうの照明を見ながら「俺、さあ…この間、忘れ物しなかった」と呟く。


「ん?」

朔子はメニューから目だけ上げて言う。

「忘れ物、って?」


「いや。別に。

あ。この間あげた茶、飲んでみた?」


「うん。お父さんと」


朔子がそう言うと男は明らかに、まだそんなところに住んでるのかよという顔をする。

男が先日、朔子を数年ぶりに呼び出したかと思うと会うなり手渡してくれたのはバリへ旅行してきたという土産物で、それから「ついで」の話も携えてきていた。男は仕事を数年前に辞めある事業を設立したのだが今は、支店を作るための資金を集めているそうだ。その為銀行を周り、それからかつての取引先を回り、今は友人にも声を掛けている、と目前の男は一か月前に話していた。朔子はしばらく男を物珍しく眺めまわしていたが、金なんてない、とも言いきらない朔子を、長谷川は食事の後はカラオケまで誘って、それから肩へと手を回して来たのだった。暗い室内で、酔っ払った長谷川はだらしなくマイクを握りながら、眠りこけてしまった。

朔子はそれを見ながら、一曲、二曲と歌ってみて、それからマイクを置いてその日部屋から出ることにした。


「あっちでは、けっこう薬とかもいろいろあるんだよ。

合法のもあれば、あれは違法のも扱ってるよっていう店もあって。そういうところ、行ってるうちおれ、夜なのか朝なのか分からなくなってさあ…」


男がそう話していたのを朔子は覚えていた。今日、目前で話している男はそれについて、ほとんど覚えていないのかもしれない。朔子は、今更のような自分達の関係よりもこうやって生態を丸出しにしてくれる相手の挙動をなぜか、いまは目に焼き付けているのだった。


「ねえ。本当に金ないの。」


「・・・・・」


「例えば、貸すんじゃなくて預けるっていう感覚で、社長とか事業主は皆やってくれてるんだけど…まあ、わからないか。お前には」

ないよ、金なんて。だってうち、お母さんの闘病ですっからかんだもの。そう言い、朔子は早めに席を立った。自分のことを見上げる男の顔を見ると男は「癌だっけ。」という言葉を吐く。


「うん、そう。昔の人だから、検査を受けるって言う感覚もなかったんだもの」


「ふうん。」

男はつまらなそうに、吸っていた煙草を灰皿に押し付けた。「俺も死ぬのかな。いつかは」


帰る時、朔子は胸をなでおろしていた。男から連絡が来た時、なぜか宝くじのことを知っているのじゃないかと思ったのだ。

人のいい父も、かりにも金を扱う仕事をしていたが、話し込んだ相手にそれが伝わったとして、そこから、とりとめもないような金の匂いが、普段自分なら気にもしていないようなことが漏れ出していて、虫みたいに金に飢えているような男ならば、父のことを嗅ぎつけてまたやってきたのかと思い、恐ろしく感じていた。





田村教員は、数日前に倒れてから回復することなく、搬送先の病院へ入院することになった。

慌しく代理の教員や、部活動などの対応をさせられることになったのだが、生徒が無事だったということに何よりも皆が胸をなでおろしていた。


「そこ。いなければ居ないで、寂しいですよね」


高橋は後ろをペンで指し示し、朔子へ話す。「ええ。ほんとう。」


朔子は笑い、それから―後ろをちらりと見る。

普通であればそこには資料やノートパソコンの類が置いてあり、向こうの机には席に誰かがいるかいないかしか分からない程度の隙間しか空いてないが、田村の場合はなぜかそこに物を殆ど置かないで居た。その為、ふと振り向いてみるだけで田村がそこに座っているときは目が合うか、仕事に集中している頭頂部を見つめることになっていたのである。


「…でも一体、どうしたのかしら。本当に熱中症だったのかなあ。」


うーん、どうなんでしょ。と高橋も軽く応えただけだった。



夕方、朔子が帰っても父は未だ趣味のパークゴルフ仲間の集まりへから帰っていないようで、家には誰もいなかった。朔子は簡単な夕食を済ませた後で二階にある自分の部屋へと一人で向かう。雑然としていた自分の机を片付け、パソコンを起動させている間に、窓の下に置いてある棚の一つに目を留める。そこには、長谷川から以前もらったバリ土産の茶が置いてある。一月ほど前に一度開封し、中身を確かめてからは淹れもせずに置きっ放しになっていた。

それからふと、その隣に置いてある空の瓶に目を留める。単なるジャムの瓶で中には何も入っていないがよく目を凝らすと、虫のフンのような塊が一つ二つと底にへばりついているように見えた。

朔子は瓶に手を伸ばし、それから何も入っていない中身を見つめる。


帰宅した父は朔子に、通帳の数字を見せてくれ、それからもちろんこれは家族で使うが、でもくれぐれもあてにはするな。と真面目くさって言うので朔子は可笑しくなった。何しろ人と言うのは単純なもので、何かが起きた時はその後の考え方の方にそれが及んで来るようだった。「一体なぜ、それが当たったのか」を誰かから聞かれなくとも朔子も父も、最近考えるようになっていた。


「でも、もし言ったら皆、驚くかなあ。えっどうしたのって。でもお父さん、お母さんが死んでからは仕事の虫みたいになって働いて、遊びもそこそこにしてきたものね。」

ああ…と父は呟いたが、とっくに何度か考え込んでいたことだったのか、まあお前以外に金、使うようなこともなかったしなあ、と呟く。

父はまず、趣味のゴルフのクラブを買い替えたようだったが、それ以後はまったく目減りしない残高のままだった。改めて朔子は仕事に捕らわれ続け、父はこの家に捕らわれたまま、変化のない毎日を送るのだと言う気がし始めていた…



それから、多分一週間もしないうちのことだった。

―田村は死んだ。


入院先で意識不明の重体になり、それからは一晩超えないうちに息を引き取ってしまったらしい。

朝の職員会議で校長が神妙な顔で告げたあとで、一部の教師たちが集まって何やらこの先の予定や役職について慌てて話しているようだった。


田村の葬式の後、にわかに職員室へ警察が出入りするようになった。それに対して生徒の反応は賑やかなもので、朔子もそれを鎮めるためには事細かに説明したほうが良いのか、一切を無視したほうがよいのか頭を悩ませた。教員や、それから高橋、朔子も一応取り調べを受けた。けれど警察はそれよりも、田村という教師の問題の多さに辟易していたようである。

「はあ、そうですか。」そう言い、手元の資料に何やら書き込んでいる若い男は警察だということを意識しないと忘れてしまいそうな程普通の容貌だったが、周りから出て来る話がいつも同じようなものだったらしく、さらには一部には何か話し相手を得たかのように長々と講釈を始める職員もいたようである。

昨年、一昨年と記憶のある出来事、たとえば、委員会の在り方への改造を述べ、欠席しがちな生徒に対して心無い対応をし続け、そしてそれらが、殆ど保護者を呼び出す問題にまで発展させた事…触れれば触れるほど、そこから頑固な、そして周りを否応なく巻き込む教員の姿が浮かんで来るようだった。


「持病とかじゃなかったのね。ここへ聞き取りに来てるってことは」

朔子は、同じ学年を受け持つ教師とだべっているところで、窓際のコピー機の置いてある場所に居る。


「本当。大きな声じゃ話せないけど」


「警察は、まあ何かが見つかるまで働くものなんでしょうね。私たちだって田村さんに対しては遠巻きに見てるくらいしか出来ないわよ」教師は、あんな堅物、と呟く。


「事件、になるのかしら」


「どうかしら。こういうのって調べるだけ調べて、何もありませんでした、って事実確認して終わるものなんじゃないのかな。きっと」

かえって、生徒がかわいそう。そう教師はこぼし、朔子もそのことを考えると胸がざわついた。


「でもまさか、死ぬなんて思わなかった。あんなに、見るからに健康そうな人」

朔子は田村の席を見つめて言う。


「…そうね」


「いつだったか。あれは、私が入って来たばかりの時だったかな。田村さん、みたいな人の存在ってはじめは分からないでしょう。だから、会議があったときびっくりしたのよね。なんだったかな。あれ。小林先生と…」


「言い合いでしょう。しょっちゅうなんだから。あれ、始まるともう田村さんなんて思考回路捻じれまくっちゃって」

そうして新米教師として右も左も分からないような時期に、強面の田村から当てつけるように柳本、と呼ばれてぎくりとしたことを思い出す。


「あれから、ずうっと私なんて田村先生の目前に座っていたんだから」


朔子と田村の席の位置関係を知っている教師は笑い、それからはたと口を押さえる。朔子もそれを見て口元だけ笑って見せる。


「死ぬんだとしたらきっと、生徒かこっちの方だっていう感じだったよね。田村さんて」


ああ、そうねえ。教師は「確かにね。あれだけ考えを持って、熱心な人だもん」と言う。


「それで、その小林先生がいちばん、事情聴取の時間長かったんだって」


「まあ。」

一体何聞かれたのかしら。教師は呟く。




「おい。脱げ。その靴下」


…あれは、いつだったか。田村が生徒を呼び止め、その女生徒は振り向いた。

生徒は,ごく普通の身なりだった。特に変わったところは見受けられないが、その色が指定のものとは違っていると言う事だった。それからその生徒は次の瞬間、泣き出してしまった。もちろん田村は弁明などしない。ただそれを眺めて,生徒がどうするかを教師として問いかけて居るだけだった。



それから警察の出入りは二週間ほどでぱたりと途絶えた。教頭によると田村の死因は薬かなにかの中毒症状だったということらしかった。


「ふーん。焼きが回ったということなんですかね。」


それ以上の詮索はもとより警察に任せた、と言う感じがし、高橋は呟いた。確かに、教師という役職を忘れていつまでもしゃべっている場合ではないのだろう。

朔子はノートパソコンの字に目を留める。それからそれを、一度どこかで見たことのあるものだと思って、クリックした。

それから、田村の葬式のことを思い出した。朔子はその日二年生担当の代表として呼ばれ、特に断る用を思いつかないだけだったのだが、数年前に着たきりの喪服に手を通して懐かしい気持ちがしていた。こじんまりとした祭壇の上に置かれた、田村の平時の写真。それはこちらを見て微笑んでいるが、何年前に撮ったのかと思うほど、輪郭は似ているとはいえ学校でいつも見ていた顔つきとは兄弟くらいに違って見えた。









――数週間前。


(あら?)


朔子は長谷川と別れを告げた後帰宅してから土産の茶を包んであったビニールを取り、それから蓋を外してみた。

中を覗き込むと茶色い茶葉の中に、黒くうごめくものが見えた。悲鳴をあげるより、まじまじとそれを見ながら朔子はインターネットでそのかたまり―一匹のちいさな蜘蛛の名前を調べてみた。


偶然とはいえ、空輸で別の国から運ばれて来たかもしれない小さな蜘蛛。それはスナグモという毒を持つ蜘蛛だった。気づかないうちに触れなくてよかった、と朔子は安堵し、すぐに台所から持ってきて入れた瓶を眺めてみたが、一体どうしたものか、と考えていくうちに長谷川の薬についての話を思い出した。あのとき、真面目には聞いていなかったがへべれけに長谷川は酔っ払っていて、あらぬことまで言ってしまったばかりか、もしかすると荷物まで取り違えたのかもしれない。


・・・・・ここにいる蜘蛛のことを誰も知らないのか。朔子は思う。

朔子はそれを机の上に置き、しばらく見つめていた。蜘蛛はとっかかりのない瓶を器用に腕を使ってはい回り、巣を作るのでもない。こんなふうに蓋がしまっていなければすぐにどこかへ行ってしまうのだろう。朔子はまた、パソコンのボタンをクリックした。そうして、どこへ行きつくかもわからない毒についての文面を真剣に読んでいく。仕事ばかりに明け暮れ、テレビや本を見ることもほとんど忘れていた朔子が、たった一匹、どこから来たのか分からないままの蜘蛛の背景をふと追い求めて―

それはその国では一年の間に何人も被害が出ている毒蜘蛛で、かつてはその毒を取り出し親戚や恨みを持つ相手に一服盛るという手段にも使われていたらしい。



相変わらず父はあちこちに出歩き、最近は町内会の集まりにも顔を出して居る。近所の寄合所へ朝から出向き話合いをしたり何かの資料を作るために休みの日の朝から出かけることも時々あった。

そんなある日,日曜の昼過ぎに電話がかかってきた。朔子の携帯電話ではなく、居間にある置き電話から呼び出し音が鳴って居る。


「はい。もしもし」


「柳本さんのお宅ですか。」

電話の向こうにいる女が朔子に尋ねる。


「はい」…


話を聞いてみるに、父は、町内会の下準備で集まって居るときに階段から踏み外し、階下まで転倒してしまったらしい。父は,そのまま知り合いの車で病院へと運ばれ,骨折のために入院することになった。

朔子が慌てて支度をし、病院へ駆けつけると呑気に6人部屋の中テレビを見ている父がいた。


「ねえ。大丈夫?」


「ん…ああ、朔子か。すまんな」


「ううん。でも、思ったより元気そうでよかった。」


「ああ。」

朔子は、父の足を見てみるが、少し薄汚れたズボンを履いた足をベッドの上伸ばしたままで、どうなって居るのか分からない。


「よりにもよって,足を怪我するなんて」


「ああ…あれだよあれ。」


「なに」


「厄払い」

父は朔子を見ながら真面目くさって言う。


「まさか。そんなことするような事」


「うん。」


「…もう。気づかないうちに、浮かれてるのかもしれないよ。」


「ああ。恥ずかしいけどな」


「…」


「たしかに、何かに、使ったほうが良いのかもなあ。溜め込んでくよりも、きっと何か良い方法があるのかもしれない。お父さんは今日ちょっと思った。」


「使ったほうが、て…お金のこと,言ってるの?」

父は黙って居る。

朔子は父の心境も分かるような気がしたが,黙って頷いた。

外はまだ真夏日である。病院の待合室から窓越しの外を眺めると,暑い日差しが中庭に差し込んできており、内側のクーラーの風でそれは誰もが感じられないように思えて居るが,けれど数分前までその中にいた朔子にはうんざりするような熱気だったと思えた。





「あっ!」


ごめんなさい、と朔子は言い、田村の足元に落としたボールペンを拾うためにしゃがみこむ。その時、見えた田村の足元に、手を伸ばしたようにも見えたかもしれない。田村はいつも、スニーカーを履いている。


「大丈夫ですか?」

田村が朔子を覗き込む。朔子は微笑む。それから、自分が持っていたもの―小さな花の種くらいなら入るようなスポイト状のもの―をポケットにしまいこんだ。




朔子は目の前を横切る老人を眺め,それから、待合室の中央に置いてあるテレビに見入る患者がどれくらいいて、誰が真剣にそれを見て居るのかを横目で確かめてみた。

あの時の生徒のように,自分はそれを恐れて泣いて居たのだろうか。朔子は玄関の扉がじりじりと音を立てて開くのを待っていた。

…それとも、それが不快で堪らないと言って,手段を無くした誰かのように、偶然に、降って湧くような…何かが当てはまる時を待っていたのだろうか。







・・・・あなたは、視姦、って知っていますか。


小さな頃からわたしはずうっと、人の目が嫌いでした。学生時代、それから教師になってからも…ずっと厚めの眼鏡をかけて、世界のすみずみまでを見ないようにしていました。


…どうせわたしには足なんてつかないから。

私は彼からの連絡なんて待ってもいなくて・・・まるでそれは、多分そう、何かに偶然当たったみたいな感じがしました。


その中年が後ろの席に座ってわたしのことを見ているのが、ある時からの日常になりました。そして当たり前に、何も変わることなくそれが数年続くんだと思っていました。

彼は…遠慮のない人間でした。遠慮のない人間に、ずけずけ言われることは、慣れてます。むしろどうして、一方的にわだかまって、それを当てつけては争ってるのかが理解できません。

それと比べれば、ほんとうにささいな、ささやかな、殺意、でしたが、彼の再来は私にとってはちょうどいい機会でした。


……私にはクモが、あの時、何もせず逃げ出してしまってもよかったんです。






あいつが死んだとき、ざまあみろとも思わなかった。わたしは視姦されなくなってよかったとただホッとした、それだけだったんです。


きっと皆さん驚くでしょうね。私みたいな人間が、人を殺したいと思うことがあるっていうことに。


わたしは多分、動物なんだと思います。あなたはきっと、一体どうして草食動物が普段は肉を食べないのかわからないでしょう。

わたしだって、あなたがた人間が怨念や執着で人を殺す時の気持ちが理解できません。


…わたしはただただわたしを、ものと同じような目で並べて見られることがとにかく嫌いなのです。





「やなぎもとさ~ん。虫よけ剤か、それか薬とか持ってませんか」


その日の昼休み。朔子の顔を見るなり、隣の席の高橋が聞いてきた。高橋は腕をぼりぼりと搔いている。


「ええ。持ってない・・・どうしたの?」


「昨日の夜、蚊に刺されたんですけど。今日も何か、僕んとこわんわん寄って来てるんです」


「まあ。」

朔子は、そういえば自分は今年まだ一度も蚊に刺されていないなと思う。


「絆創膏しか持っていないの。ごめん。

でも虫よけ・・・て」

朔子は今さら、と思い吹き出してしまう。


「赤くなるんです。すぐ」

ほら、と言って高橋は自分の腕を見せる。

ふう~ん、と言いながら朔子はそれを凝視してみるが、たしかに、そこは自分が子供の頃にブヨに刺されたとき位しか見ないほどにはれ上がっているように見えた。

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