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『グレイ』

謁見の間を離れたグレイは、みかどを引き連れてそのまま自室に戻った。

――グレイの部屋。

その扉が音もなく閉じられると、まるで世界が切り替わったように、静寂が支配した。

そこは黒い高塔の中でも特に異質な空間だった。

くすんだ赤紫の壁。割れかけた鏡。散乱した書類や空の酒瓶。

空気はどこか湿っていて、生ぬるく腐った花の匂いが漂っている。部屋の隅には用途不明の鎖や鉄具が乱雑に置かれており、まるで拷問室と貴族の応接間が融合したような退廃の空間だ。

グレイは何の躊躇もなく、ぼすんと重たくソファーに体を預けた。

「……さて。お掃除の時間ですよ、みかどさん。」

淡々とした声が落ちる。

みかどは、能面のまま、黙って膝をついて雑巾を手にした。

身体は治癒したばかりでその動きはまだぎこちなく、まるで慣れない義肢を使っているようだった。

白い指が、乾いた床を這う。だが手元は不安定で――

ガタン。

バケツが揺れ、見事に倒れた。

ぬるい汚水が床に広がり、赤い床を濡らしていく。

「あらあら」

グレイの目にあきらかに嘲りが浮かんだ。

「本当に申し訳ありませんが……床掃除くらい、もう少し上手くできませんか?雑用係として雇っているわけではないんですが、せめて役に立っていただきたいものですねえ?」

ソファからゆっくりと立ち上がり、濡れた床をざっ、と歩いてみせる。

わざと水を踏みつけ、靴底に吸い付く音を響かせながら、バケツを蹴った。

カン、と鋭い音とともに、バケツは壁にぶつかって転がった。

グレイはしばしみかどを見下ろし、笑みを深めた。

だが――

「……まあ、今回はお許ししましょう。ええ、ええ。

 あなたを“壊す”のは、もう少し先で構いませんので」

唇だけで笑いながら、再びソファに腰を落とす。

「お姫様からは“兵器”として使うようにと命じられておりますし……。今ここで殴って壊してしまっては、さすがに怒られてしまいますからね。私、叱られるの嫌いなんですよ。面倒くさいですし。」

ククッと笑いながら、帽子を深く被る。

「さあ、拭いてください。びしゃびしゃの床は滑りますので。……私が転んだらどう責任を取るおつもりですか?」

毒気のない口調で、だが舌に含んだ嫌悪だけはそのまま吐き出すように呟く。

みかどは濡れた床を手で押さえながら、じっとグレイの顔色を伺っていた……

グレイはソファの背にもたれかかり、帽子を顔にかぶせてしばらく休息をとった。

部屋にはぬるい湿気と、みかどが水拭きを続ける微かな擦過音だけが漂っている。

「……ふぅ」

帽子の下から漏れる息。

 それは溜息なのか、あるいは退屈の果ての惰性なのか。

数十分ほど経ったころ、グレイはようやく体を起こし、のびをした。

「さて……そろそろ“お仕事”といきますか。休んでばかりもいられませんからねぇ。」

言葉とは裏腹に、その声音には緊張も使命感もなく、ただの面倒ごとへのうんざりが滲んでいた。

みかどを軽く手招きすると、グレイは自室を後にする。

重厚な扉が静かに閉じられ、退廃の空間は再び沈黙に包まれた。

□□□

黒い高塔――その下層階の一角、兵站区域。

ここは兵士たちの休息と待機の場であり、闇の組織が擁する部隊の心臓部のような場所だ。

その広間の中には赤黒い魔力が満ち、兵士の掛け声、獣の唸り声、そして甲高い羽音が混じる。空間は常に揺らぎ、蒼い炎のような光がところどころに灯っていた。

グレイが姿を現すと、周囲の兵士たちが一斉に身を低くする。

分厚い鎧に覆われた戦士。軍服をきた人型の魔物。うごめく怪物たち――

それらは全て、グレイの命令一つで動く“道具”だった。

「お集まりいただき、ありがとうございます。ええ、ええ。いつもながら、忠義深くて助かりますとも。」

にこやかに言葉をかけながらも、眼差しには一片の感情もなかった。

「……“アイス”とかいう娘の迎撃に出ます。」

グレイはみかどを振り返り、一言。

「一緒に行きましょうね。あなたの“使い道”を、現地で見極めさせていただきますから」

みかどは無言のまま頷いた。

恐怖の気配はまだ微かに残っているが、それを表に出すことはなかった。

彼女の歩みに迷いはなかった――ただ命令に従う機械のように、静かに前へ進む。

やがて、黒い高塔の巨大なゲートが音もなく開いた。

冷たい風が吹き込む中、グレイはあくびを一つ漏らす。

「さあて、殺しに行きますか。……」

グレイは帽子をくいと押さえ、外の世界へと足を踏み出した。

その背に、兵士たちとみかどが続いてゆく。

激しい戦いの幕が、今、上がろうとしていた。

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