転落
コロナ禍で病院は一番悲惨だったかもしれない。毎日のように多数現れるコロナ患者を受け入れなくてはいけなかったが、一般患者との区別がつかず車の中で簡易検査を行うために病院の駐車場には車が列をなし、まるで宇宙服のような重装備で検査キットを持って歩く医師や看護師が奇異に映った。さらに大変だったのは医療機関で勤める医師や看護師がコロナウイルスに感染しているかもしれないという事で、その家族も含めて差別の対象にすらなっていた。
大阪市立中央病院勤務の看護師の佐久間美佳(24)は、病院で感染防護服を着て、コロナ感染で重篤な症状の入院患者に寄り添って病院に泊まり込み、一週間ぶりにアパートに帰ると、管理人がドアをたたいた。出てみるとマスクをした管理人は
「あんた、コロナ病棟から帰ってきたんやろ。アパートの住人たちが一緒にこのアパートに住んでいることを心配しとるんや。どこか他のアパートに変わってくれんか。ただ仕事がコロナ病棟の看護師やって言うと貸してくれる部屋はないかもしれんけどな。とにかくわしとしても死活問題や。あんたがここに住み続けると、下手したら他の人がみんな出て行ってしまうかもしれんからな。頼むで」と言ってそそくさとドアを閉めた。まるでばい菌でも避けるように。
佐久間美佳は呆然とした。疲れ切って帰ってきてとにかく眠りたいと思って帰ってきただけである。病院では目の前の患者のために必死で戦って来たのに、アパートの住人たちは自分のことをばい菌扱いする。一生懸命体も心もずたずたにしながら世の中の人たちのために頑張ってきたのに、なぜ差別されなければいけないのか。アパートで暮らしていくために病院を辞めなければいけないのか。管理人は出て行ったがその場から動けず、ボーとしてドアを眺めていたが、やりきれない気持ちでそのまま外に出て、病院に戻ることにした。
病院に戻ると更衣室に入り、仕事着であるナース服に着替え、その上から防護服を着て隔離病棟に戻っていった。病棟の看護師長が佐久間を見つけて
「佐久間さん、さっき帰ったんじゃないの。どうかしたんですか。」と問いかけてきた。佐久間は思わず涙を流しながら師長に
「師長、働かせてください。アパートに帰れないんです。アパートではコロナが移るからって出て行けって言われるんです。」と訴えかけた。師長は
「わかったわ、とりあえず仮眠室で横になって休みなさい。」と優しく言ってくれた。佐久間は興奮した気持ちを押さえながら、布団に入って眠った。
それからというもの、佐久間は荷物を取りに帰ることはあってもアパートに長居することもなく、病院で寝泊まりすることが多くなった。しかし病院の仮眠室ばかり使っていると他の看護師が眠るベットを奪うことになるので、ネットカフェを利用したりすることも多くなった。
ネットカフェでマンガを探している時、同じ年ごろの桜町隼人が声をかけてきた。
「君さ、今日はここで泊るの?」と言うので佐久間は
「そのつもりだけど。」と素直に答えた。まじめに高校から看護学校まで暮らしてきたので、ナンパされる経験などなかった佐久間はドキドキして舞い上がっていた。
「こんな殺風景なところじゃなくてカラオケでも一緒に行かない?」と言われ病院とネットカフェの往復しかしてなくて誰かと話したいという気持ちを持っていた佐久間はあまり深く考えずに
「カラオケだけなら・・・。」と言ってカラオケスタジオに行くことになった。だがナンパ師の桜町がカラオケだけのつもりはなかった。知らない男と2人きりだったが、お酒も入り警戒心が薄まると桜町の手は佐久間の肩から胸へ。カラオケボックスはラブホテルの部屋と化してしまう。それまであまり男性経験が豊富でなかった佐久間はその刺激に自らの自制心が崩れていくのを感じていた。
そこからの佐久間の転落は早かった。桜町隼人はひどい男だった。病院で働く佐久間に自分が働くホストクラブに来て自分の売り上げを伸ばしてくれることを頼んできた。看護師としてしっかり働いていた佐久間は4年間で数百万円の貯金を持っていたが、数か月で底をついてしまった。それでも彼女の稼ぎをあてにして、桜町の部屋に転がり込んだ佐久間から部屋代を請求していた。しかし病院勤務で精神的に追い詰められた佐久間の心は桜町によって満たされた。
貯えが底をつくと桜町は佐久間に
「病院の稼ぎより、北新地公園で立ちんぼしたほうが儲かるよ。俺が客引き手伝うさ。」と言って佐久間を病院から退職させてしまった。
北新地公園で立ちんぼをして売春を始めると、毎日顔を合わせる2人連れ」と仲良くなった。商売敵だが客を回し合えば共同でやっていけるし、3人組の男性客であれば3人一緒に客を取れた。野坂陽子と山中美樹だった。3人の仲は不思議でお互いを助け合う関係でもなかった。しかし不遇な境遇を朝方のファミレスで話し合っているうちに、親近感が増しお互いに体調を心配しあうような関係性が生まれた。1人客が来ると、3人で目配せをして今度の順番は佐久間だとか、3人そろった男性客が来ると6人いっぺんにホテルに入って、集団プレイを楽しむこともあった。そのうわさはネットで広まり、コロナ禍でも一定の客が来て、3人のグループを探すようになっていた。
しかし有名になると野坂の借金取りが現われるようになった。野坂はその日以来挨拶もなしに姿を消した。風の噂では北陸に身を隠したらしい。それでも残った2人は共同作業を続けていた。こんな世界に佐久間を引きずり込んだ桜町は、長い期間をかけて少しずつ弱らせて、自然と死んでいくように仕向け、結論は出ていた。
ある日、いつものように北新地公園の脇の道で2人で立ち話をしながら客の声掛けを待っていると、怪しい男が近づいてきた。黒いジャージに黒いニット帽をかぶり、マスクをしたその男が山中美樹の背後から襲い掛かってきた。何が何だか分からず佐久間は倒れてくる山中の身体を受け止めたが、男は佐久間にも襲い掛かってきた。
男はすぐにその場から逃げ去って、雑踏の中に消えていった。倒れた山中の身体を見ながら、佐久間美佳は腕から血を流し、立ちすくんで考えていたが、その場に倒れ込んで救急車が来るのを待った。
病院では目をふさいでいたが、意識はしっかりしていた。近くで話していた警察官の声が聞こえていた。
「刺された女性は即死でした。ナイフが肝臓を貫通して、出血多量です。もう一人の女性は命に別状はない。意識が戻ったら身元を確認して事情聴取だ。」と言っている。佐久間はいろんな思いを錯綜させていた。
「このチャンスを逃す手はない。桜町隼人を殺す事には成功したが、うまくいけば山中美樹と入れ替わって桜町とのつながりを消す事ができるし、山中美樹には佐久間美佳として桜町隼人の依頼殺人の罪を背負って死んでもらう事ができる。そう考えると山中美樹に成りすます以外の選択は考えられなかった。
ゆっくりと目を開けて、意識が回復したふりをすると、一斉に医師や警察官が寄ってきた。
「あなたの名前は?」
「あなたの住所は?」
「死んだ2人との関係は?」
「犯人に心当たりは?」
すべて目をつむっている間に想定した質問だった。完全犯罪の完成の瞬間だった。
病院を退院するときには容疑は晴れて、完全に被害者として同情を受けた。そこからは運が巡ってきた。山中美樹として生きていくことは難しくなかった。山中には身寄りがなかったので、知り合いも少なかったのだ。しかも最後に客として来てくれた人が証券会社の人で彼が
「今が底だから、みんなが売りに回っているけど買いを入れるのが賢い人のやり方だよ。一番手っ取り早いのは、仮想通貨と株の先物取引だよ。」と教えてくれた。佐久間はひどく納得して、病院時代の給料の一部を財形貯蓄していたものを利用した。
幸に、桜町に見つからずに隠し通してきたへそくりだった。100万円程の資金は時代の流れに乗って毎年2倍に跳ね上がり、価格が上昇した株を担保に銀行から融資を受け、また株や金を買った。利益は瞬く間に億を超え、5年で100億に成長し、そこからは投資顧問会社の設立にこぎつけたのだ。




