その117 『全力』で走る
「おい、気を付けろよファラ。ネズミの死体を下水に蹴落としただけならいいが、ランタンとか他のアイテムだと面倒なことになるぞ」
汚ねえし、回収するのがかなり大変だ。下水に流れていっちまうし、回収出来たとしてもものすげー汚れちまうし。
「へ? 何のことですか?」
「何って、いま何かを下水に……」
……っ! そこで俺ははっとする。いまの音がファラのものではないとしたら……っ。
「ファラ! 気を付けろ! 何かが下水にいるぞ!」
「え⁉」
そのとき、またバシャンッ! と音がして、視界の端の下水面を何かが跳ねた。それは一瞬でまた下水の中に潜っていき、バシャバシャッと水飛沫を上げながら下水を進んでいく。
「ジークさん、いま何か!」
「逃げる気だ! 追いかけるぞ!」
まるでサメやシャチが海水を進むように遠ざかっていくそれを、俺とファラは追いかけ始める。そいつは下水の流れに逆らって、俺達の走る速度と同じくらいのスピードで下水を突き進んでいく。
「速えぞあいつ!」
「魚型の魔物でしょうか⁉」
「かもしれん!」
淀みきった水中にいるせいではっきりしたことは分からないが、水飛沫の隙間からちらと覗いたのは、ファラの言うように魚の背びれや鱗のようだった。
体長は俺の前腕……数十センチくらいで、追いかける俺達のことなぞ見向きもせずに下水を逆上りし続けている。
「ファラ! お前のスキルで射止められないか⁉」
「やってみます!」
ファラが弓矢を取り出して、走りながら矢を水中にいるそいつへと構える。射撃……が、矢はそいつが起こす水飛沫の後ろに届いただけだった。
「すいません! 走りながらでは難しいです! 水が淀んでいるせいで正確な位置も掴みにくいですし!」
「くそ……っ」
ファラの腕でも駄目か。なら、あと出来るのは……。
「ファラ! 吹っ飛ばされないようにどこかに掴まるか身構えてろ!」
「え⁉」
「『全力』で走る!」
「……っ!」
ファラは俺が言った意味を即座に理解したようだった。彼女は近くの壁に設置されていた金属製の管……おそらくは地上の空気を供給していると思われるパイプの一つに掴まった。
ここに入る前に手には使い捨てのビニール手袋を着けているから、手が汚れる心配は、たぶんない。問題は、俺が『全力』で走ることによる影響だ。
ファラが理解し、予測したように、俺が『全力』で走るということは、その足の踏み込みや速力によって、周囲に少なからず影響を与えてしまう。より具体的に言うならば、俺が拳を振り抜いて拳圧を吹き飛ばすのと同じように、俺自身の高速移動によって周囲に突風が吹き荒れてしまうことだった。
周りが開けている地上ですらその影響は小さくなく、小石やバケツのような軽いものなら数メートルから数十メートルは吹き飛ばすし、樹木ならまるで冬場の枯れ木のように木の葉を散らすし、下手したら地下に張っている根が剥き出しになることもある。