その1 婚約破棄
カランコロン。入口上部の鈴を鳴らしながら、俺は行きつけのカフェに入る。コーヒーには詳しくないくせに、ギルドのクエストが終わった後はここのコーヒーを飲むことにしていた。
「今日はこれにしようかな。レッドリバーってやつ」
「かしこまりました。レッドリバーがお一つですね。少々お待ちください」
可愛い制服を着たウエイトレスは営業スマイルをすると、キッチンの方へと歩いていく。作り笑顔とは分かってはいるが、相変わらず可愛い。
まあそれはそれとして。俺は店内をそれとなく見渡してみる。昼過ぎの忙しい時間帯を越えたからか、店内には客が数人程度で、落ち着いた雰囲気が漂っていた。
カウンター席の片隅には音楽を奏でられるサポートアイテムのレコードが置いてあり、最近流行っているクラシック曲を流していた。その近くには店長の渋いバリスタがいて、いま俺が頼んだコーヒーを作りながらコップを磨いている。
うーん、相変わらず良い店だ。コーヒーもうまいし店員も可愛いし、文句なしだな。
と、そんなことを考えていると、バンと耳にテーブルを叩く音が聞こえてきた。思わずそちらを見ると、一つのテーブル席に男女が向かい合って座っていた。
「どういうことですか……⁉ 婚約破棄したいというのは……⁉」
「言葉通りの意味だ。他に結婚したい人が出来た。だからもう僕には関わらないでほしい」
「そんな勝手な……!」
テーブルに両手をつきながら立っている女と、席に座ったまま淡々と答える男。どちらも高級そうな服を着ているから、もしかしたら貴族かもしれない。
「そんな勝手なことが許されると思っているのですか⁉ この婚約は私達の家族が……」
「だからだ。家族が勝手に決めた政略結婚だからこそ、僕は僕の本心に従うことにした。最初から君のことは好きじゃなかった。君だってそうだろう?」
「…………っ!」
うーわ、別れ話の現場に遭遇しちまったよ。本当にあるんだなこういうの。
俺は思わず見て見ぬふりをする。他の客や店員もそうだった。とはいえやっぱり気になるのか、ちらちらと見ていたが。俺も含めて。
「それじゃあな。君とはもう他人だから、僕達には二度と関わらないでくれ。もし僕達の幸せを邪魔するようなら、僕の家の力で黙らせてやるからな」
そう言い捨てて、男は数枚の紙幣を置いて立ち去ろうとする。その手を女が掴んだ。
「待ちなさい! 話はまだ終わっていません! こんなの、私の家族だけじゃなく、貴方のご両親だって……」
男のことを引き止めようとした時、男は鬼気迫る顔で振り返った。女の手を力強く振り払うと、その手で女の頬を平手打ちする。
強い音がして、女は床へと倒れてしまう。テーブルに身体をぶつけたのだろう、甲高い音を響かせて食器類が床に落ちていった。割れた物もあった。
「僕に触るな! 汚ならしい女が! 君とはもう他人だと言っただろう!」
「…………」
女の顔には悲しみも涙も痛みに堪える表情もなかった。呆気に取られた感情がそこにはあった。たったいまこの瞬間何が起きたのかわけが分からないという顔だった。
「大丈夫ですかお客様⁉」
さっきのウエイトレスが女へと駆け寄っていく。
「大変! いま手当てを!」
「……ごめんなさい……食器を割ってしまって……弁償するから……」
「そんなことよりも……っ」
彼女達を冷たい顔で見下ろして、男が上着を直しながら言い捨てる。
「フン。これじゃあわざわざ庶民のカフェを選んだ意味がないじゃないか。つつがなく別れられると思ったのに」
女は元気をなくして床を見つめるだけだったが、ウエイトレスは男のことを強い目で見た。
そのウエイトレスを男が見咎める。
「何だ? 何か文句でもあるのか? 君はただのウエイトレスだろう?」
「……!」
「言っとくが、こんな店の一つくらい、僕の家なら簡単に潰せるんだぞ」
「っ⁉」
ハッとしたように、ウエイトレスが男から顔を逸らす。男はニヤリとした。
「そうさ。最初からそうしていればいいんだ。じゃあ僕は今度こそさよならするからな」
男が振り返って入口へと向かおうとする。悔しそうな顔をするウエイトレスと、未だ呆然とした女。
…………。
男が入口の取っ手を握って開けようとした時、その手に砂糖の入った瓶がぶつかった。コーヒーに入れる砂糖瓶だ。
「痛ッ⁉ 誰だ⁉」
男が砂糖瓶のやってきた方……つまりこちらへと睨んだ顔を向ける。生憎、こっち側にいたのは俺だけだった。
「お前か⁉ 僕が誰だか分かってるんだろうな⁉」
俺はニヤリと口端を上げた。