孤高の鬼に愛されたい【コミカライズ化】
氷上伊桜里は普通の高校に通う十八歳。
伊桜里は朝から弁当作りに励んでいると、朝食を作りに伊桜里の母がやって来た。
「あら、伊桜里。今日はお弁当なの?」
「私のじゃないけどね」
言ってから余計な言葉だったと後悔する。
母親はニマニマとした意味深な笑みを伊桜里に向ける。
「あー、辰巳君にあげるのね」
「作ってこいって命令されたの。だから仕方なく……」
嫌そうに顔を歪める伊桜里とは違い、母親はとても嬉しそう。
「本当にあなた達は仲良しさんね」
「いつも言ってるけど仲良くないから!」
焦りをにじませ言い訳すればするほど母の笑みは深くなっていく。
「そんなこと言っちゃって。早く辰巳君と付き合ったらいいのに」
「だから、お母さんが思ってるような関係じゃないから!」
「はいはい。分かったわよ。色恋ごとを親に知られるのは恥ずかしい年頃よね」
「違うってば!」
全然分かっていないと不満げな伊桜里は、憎き奴のために作っているお弁当をじとっと睨みつけて、肉団子に可愛らしい猫のピックを苛立たしげに突き刺した。
「どうして私がこんなことしなきゃならないの……」
小さな呟きは母親には聞こえなかったようだ。
***
あやかしは怖れる存在ではなく良き隣人として人間社会に受け入れられるようになった昨今、あやかしは人間と変わりなく生活して、中にはあやかしと結婚する人間も珍しいことではなくなった。
人間である伊桜里の家の隣には蛇のあやかしである天沢家が暮らしていた。
天沢家の父親は世界的大企業桐ヶ谷グループの子会社の社長であり、その会社は伊桜里の父親が経営する工場のお得意様でもあった。
そして同時期に妊娠していた両家の母親は大変仲が良く、家族ぐるみの付き合いをしてきたのだ。
それが苦痛になってきたのはいつからだろうか。
原因となっているのは天沢家の一人息子、天沢辰巳である。
もはや伊桜里の天敵と言ってもいい。
こいつ、見た目はそこそこ格好よく、幼稚園に通っていた頃から女の子達にちやほやされたことで自分が人より優れていると悟ったのか、成長するに従いとんでもないナルシストに変貌していく。
さらには、伊桜里の父親が自分の父親より立場が弱いということを早くから悟っており、様々な嫌がらせをしてきた。
始めは幼稚園の頃だったろうか。
ある日突然仲が良かった友達から無視されるようになったのだ。
意味が分からず、半泣きで「どうして無視するの?」と理由を問う伊桜里に、その子は話すのも嫌だというような顔で怒りながら告げた。
「伊桜里ちゃんたら、陰で私のこと嫌な子って言ってたんでしょう! うるさくて我が儘だから一緒にいたくないって」
「そんなこと言ってないよ」
「うそ! 辰巳君が教えてくれたもん。そんなこと言う伊桜里ちゃんとはもう話さない!」
プリプリと怒りながら行ってしまった友達を追いかけることもできず呆然と見送る。
次に湧きあがってきた感情は怒りだ。
どうして辰巳がそんな嘘を教えたのか分からず、その足で辰巳を問い詰めに走った。
幼いながら女の子から人気のある辰巳はいつも女の子に囲まれていた。
「辰巳君!」
「どうしたの、伊桜里ちゃん?」
「友達に嘘言ったでしょう!? どうしてそんなこと言ったの?」
激しく怒鳴る伊桜里に、辰巳は困惑した表情。
「嫌な子とかうるさいとか我が儘とか、私そんなこと言ってないもん!」
怒りで頭がいっぱいの伊桜里の問い詰めに、辰巳は目を潤ませていく。
ぎょっとしたのは伊桜里だ。
「僕、僕嘘なんか言ってないよ。伊桜里ちゃんが悪口言ってたから教えただけだよ」
しまいにはポロポロと涙を流し始めた辰巳。
「悪口はよくないから教えてあげただけだもん」
自分はそんなこと言っていないと返す前に、辰巳の周りにいた女の子達が伊桜里を睨む。
「辰巳君。伊桜里ちゃん、悪口言ってたの?」
「うん」
「自分が悪いのに辰巳君のせいにするなんてひどい!」
「辰巳君がかわいそう」
何故自分が責められるのか分からず言葉を出せずにいると、先生がやって来て場を収めようとする。
伊桜里と辰巳にそれぞれ話を聞いてくれたので、話は解決するかと思いきや、何故か伊桜里が謝らされた。
「どうして? 辰巳君が嘘ついたからなのに!」
「でもね、辰巳君を泣かせちゃったのは伊桜里ちゃんでしょう」
「う……」
ぐすんぐすんと泣いた余韻が残っている辰巳を見て、反論できずにいた。
「でも、辰巳君が……」
「うん、そうね。じゃあ、お互いにごめんなさいしようか。辰巳君も、悪気があったわけじゃないけど……」
「はい、先生。ごめんね、伊桜里ちゃん」
素直に謝った辰巳に、伊桜里も謝らざるを得なくなった。
なんで自分が謝らなければいけないんだと思いながら、「ごめんなさい」と、辰巳に謝った。
そして翌日から、伊桜里はぼっちになった。
辰巳を虐めたと、辰巳の周りにいた女の子達が証言して回り、伊桜里に話しかけてくる子がいなくなってしまったのだ。
ぼっちとなった伊桜里に、原因となった辰巳だけが話しかけてくれ、辰巳の優しさに感激した。
そんな純粋な時もありました……。
当時を思い出すと伊桜里は遠い目になる。
ぼっちな幼稚園を卒園し、小学生になると、伊桜里にも待望の友達ができた。
これで寂しい思いをするのも終わりだと喜んだ矢先、幼稚園での出来事と同じことが起きたのだ。
いわく、伊桜里が陰口を叩いて笑っていたと辰巳から聞いたというのだ。
最初こそなにか行き違いがあったのだろうと思っていた伊桜里も、二度ともなればそれが故意であると察するというもの。
怒り爆発の伊桜里は、辰巳の家に乗り込んだ。
「また嘘言ったでしょう。辰巳君のせいでせっかく仲良くなった子が怒って話してくれなくなったじゃない! もう、私に話しかけてこないで!」
それまで毎日のように登下校を一緒にしていた辰巳に、そう言い捨てて背を向ける伊桜里の手を辰巳が握った。
振り払ってやろうと振り返れば、今まで見たことのない表情をした辰巳がいた。
歪んだ不敵な笑みにぞくりとする。
「そんなこと言っていいのか?」
「自分が悪いんでしょう」
「お前の親父は俺の会社のおかけで工場をやっていけるんだぞ」
邪悪で、嘲るような笑みに、伊桜里は息をのむ。
「俺の機嫌次第でお前の親父との取引を解除したっていいんだ」
「そ、そんなのあり得ない。お父さん達は仲良しだもん」
「冗談じゃないぞ。俺が頼めば父さんは取引を停止する。あくまで父さんの立場の方が上なんだからな」
伊桜里は何も言い返せなかった。
両親が時々辰巳との関係は良好かと聞いてきては、仲良くするよう言ってくるのを思いだしたからだ。
それはつまり、最大の取引相手の息子である辰巳と関係を悪くすることで取引にまで影響することを危惧しているのだろう。
「お前のせいで工場を潰したくなかったら俺に逆らうな」
「私のせい……」
「そう、お前のせいだ。そんなの嫌だろう?」
くはははっと不愉快な笑い声を上げる辰巳の部屋から、伊桜里は慌てて出ていった。
何度か両親に相談しようとしたこともある。
しかし伊桜里の両親や天沢家の家族の前では猫を被っていて、良い子ちゃんに取り繕うのがとっても上手いのだ。
「あのね、お母さん。辰巳君が虐めるの。お父さんの工場潰したくなかったら逆らうなって」
「辰巳君がそんなこと言うはずないでしょう。あんなに良い子なんだから」
そう笑って取り合ってくれなかった。
伊桜里の両親と辰巳の両親は、二人が仲良くあることを強く望んでいたからかもしれない。
「将来二人が結婚したらいいわねぇ」
「本当ね。そしたら私達親戚同士になるじゃない」
「はははっ、不可能じゃないかもな。二人は仲が良いし」
そんな両親達の話が耳に入ってきた伊桜里は、心の中でそんなの絶対に嫌だと顔色を悪くする。
何度奴の頭を叩き割ってやろうと思ったかしれないのに、結婚など言語道断だ。
青ざめる伊桜里とは反対に、辰巳はニコニコと機嫌良さそうにしていたのが不気味で仕方ない。
今や伊桜里の生活は辰巳に管理されているような状態だった。
誰かと仲良くしていたら、俺以外と話すなと怒鳴られ、反論すれば父親の取引を引き合いに出す。
友達もできず、一人で行動するに従い、幼い頃は快活な性格だった伊桜里は、次第に気が弱く、どこかオドオドとした空気を持つ女の子へと成長していってしまった。
それはひとえに、辰巳の顔色を常に窺っていなければならい日々が続いた弊害だった。
***
そんな伊桜里も高校生となり、辰巳と離れられることを期待したが、ここでも辰巳は伊桜里に同じ学校を選択させられた。
自分に都合の良い奴隷を逃がしたくないという思いだったのかは定かでない。
そうして強制的に入った高校でも、辰巳により悪い噂を立てられ友達と言える存在はできなかった。
その噂というのが、伊桜里は辰巳のストーカーだというものだ。
なんと、荒唐無稽な話なのだろうか。
ストーカーどころか伊桜里は辰巳から逃げたがっているのに。
けれど、辰巳と辰巳の取り巻きの女の子達により、嘘は真実へと変換されてしまった。
日々の行動もよくなかったのだろう。
朝作ったお弁当を持って向かうのは、学校ではなく辰巳の家。
嫌々インターホンを鳴らすと、数十分待たされてから辰巳が出てきた。
「お、おはよう……」
顔色を窺ってしまうのは今やクセとなっている。
時折機嫌が悪い時などは鞄を持たされたりするが、今日は虫でも見るかのような顔でふんと、鼻を鳴らしただけだった。
(よかった、今日は機嫌がよさそう)
いつもは無視をするのに今日は違った。珍しく声をかけてきたのだ。
「弁当は?」
「作ってきたよ」
手に持っていた弁当袋を渡そうとしたが受け取ってくれない。
「昼休みに教室に持ってこい」
「えっ!」
「なんだ、文句あるのか?」
「ううん。分かった」
辰巳のせいでストーカー呼ばわりされている伊桜里が弁当を渡しに教室なんかに行ったら周りはどんな反応をするか。考えるだけでも気が滅入る。
それと同時に、なにか嫌な予感がした。
そうは言っても伊桜里は反抗できない。粛々と従うしか道はないのだ。
辰巳の数歩後ろをついて通学。
隣には立とうものなら激しい叱責が飛んでくるのだ。
一緒に登校する意味はあるのかと毎日疑問に思いながらの登校に嫌気がさす。
学校が近くなり生徒も多くなると聞こえてくる声。
「ねえ、ほらあの子また天沢君の後つけてるよ」
「天沢君かわいそー」
「いいかげん諦めればいいのに」
「相手にされてないって分からないのかしら」
そんな陰口をいちいち気にしていたらやっていけない。
けれど、周囲からの声は確実に伊桜里の心を傷つけていた。
それを分かっているのに、辰巳は非難される伊桜里を見て、意地の悪い笑みをこっそり浮かべている。
そんな時、生徒達の話す内容が一変する。
「あっ、桐ヶ谷様だわ」
「ほんとだ」
周囲から向けられる視線を気にも止めず颯爽と歩くのは、鬼のあやかしである桐ヶ谷要。
辰巳のような雰囲気イケメンとは天と地ほどの差がある、本当のカリスマを持ち合わせた美しいあやかしだ。
向けられる視線は伊桜里とは真逆なもの。
畏怖と憧れ、そして羨望。
彼は人気があるものの、他者との関わりをほとんどせず、孤高の存在として一目置かれていた。
先ほどまで注目の的だった辰巳も、彼の前では霞んでしまう魅力を桐ヶ谷要は持ち合わせている。
「登校時間から桐ヶ谷様の姿を見られるなんて今日はラッキー」
「ほんとに綺麗な方よね」
「一度でいいから話しをしてみたいわ」
「けど、前に突撃した女の子がいたらしいけど無視されたんだって」
「そんなクールなところも素敵」
そんな声に笑いをこらえる伊桜里の前では、周囲の声に舌打ちをする辰巳がいた。
辰巳からは桐ヶ谷要が気に入らないというのがひしひしと伝わってくる。
けれど、彼に直接喧嘩を売るようなことはしない。
彼は辰巳の父の会社の親会社、桐ヶ谷グループの御曹司だからだ。
辰巳は立場の弱い伊桜里のような者には傲慢に振る舞うが、桐ヶ谷要のような上位者には弱気なのだ。
それを見せないようにしているだけの臆病者だ。
けれど、そんな臆病者にすら逆らえない自分はなんなのだろうか。悲しくなるのでそれ以上の思考を放棄する。
***
そして昼休み。
弁当袋を持って隣のクラスにいる辰巳を訪ねる。
教室の出入り口に立つ部外者の伊桜里に、教室内の生徒の視線が突き刺さる。
一刻も早く逃げたい伊桜里は、辰巳が早く来てくれることを祈った。
そして、出てきた辰巳の隣には、学年でも美人と人気の高い女子生徒がおり、肩に手を置いている。
その姿はまるで恋人のようだが、辰巳のたくさんいる女友達の一人に過ぎない。
「あの、これお弁当……」
消え入りそうな声でお弁当を差し出すと、辰巳は嫌悪いっぱいの眼差しで伊桜里の手を強く振り払った。
それによりお弁当は床に叩き落ちる。
呆然となってしまった伊桜里は理解ができない。
「なんで……」
「なんでって、俺が受け取るわけないだろ」
弁当を作ってこいと命令したのは辰巳なのに。
それを口にしようとする前に辰巳が激しく叱咤する。
「もうやめてくれ、こんなことは!」
何故自分は叱責されているのか、反論の言葉も出ない伊桜里に、辰巳の隣の女子生徒がクスクスと笑う。
「氷上さん。あまり辰巳を困らせないであげてよ。幼馴染みだからって見苦しいわよ」
それをきっかけに、クラスの中からも伊桜里を非難する声が。
「勝手にお弁当作ってきたの?」
「ただの幼馴染みのくせに彼女気取りって痛すぎ」
「そんなの怖くて食べられないよね」
方々から向けられる嘲笑に耐えられなくなった伊桜里は、お弁当を拾うと逃げるようにその場を去った。
たどり着いたのは、普段は誰も使わない空き教室。
ここは鍵が壊れているうえ、人気のない穴場だった。
伊桜里はいつも、ここを逃げ場所にしていた。
お弁当を頼まれた時から嫌な予感はしていたのだ。
結局それは当たってしまった。
辰巳はただ、伊桜里を嘲笑うために皆の前で恥をかかせたかっただけなのだと悟る。
何故こんな目に遭ってまで言うことを聞かねばならないのか。
けれど工場のためには我慢するしかない。それがひどく虚しくて、涙があふれた。
床に座り込み、膝を抱えて声を殺していると、誰かが扉を開けて入ってくる音がしてきた。
「まーた泣かされたのか?」
涙に濡れた顔を上げれば、やれやれというように眉を下げた桐ヶ谷要がいた。
「要ぐん~。う~」
要の顔を見ると安心したようにさらに涙がぶわりとあふれてくる。
「あー、泣くな、泣くな」
この学園の孤高の王とも言える要は、気安い様子で伊桜里の頭をポンポンと撫で、ハンカチを渡してくれる。
頭を撫でる優しい手つきに、涙は止まるどころか決壊したかのように流れ出す。
「悔しぃぃ。おかしいと思ってたの。急にお弁当作ってこいだなんて、今まで言ったことないのに」
「あー、あれはな。さすがに俺もドン引きだな」
「見てたの?」
「まあな。鬼のあやかしは五感が優れてるんだ。多少離れてても見えるし聞こえる」
まさかあんな無様な姿を見られていたなんて、恥ずかしくて仕方ない。
またもやポンポンと撫でられて伊桜里は落ち着きを取り戻していく。
こうして要に慰められるようになってどれだけ経っただろうか。
今日と同じく辰巳のせいで落ち込んでいた居場所を見つけられないでいた伊桜里に、この空き教室の存在を教えてくれたのは要だった。
そして、今日のように泣いて落ち込んでいると、どこからともなくやって来て慰めてくれる。
ちまたでは、孤高の王みたいな扱いで一線を置かれ、クールだ無口だと言われているが、真実はちょっと口が悪くも心優しい普通の男の子だ。
「どうして私がストーカー扱いされないといけないの?」
涙の後にあふれてきたのは腹立たしさだ。
「むしろ縁を切れるなら切りたいのに!」
「うーん。だったらいっそ、男でも作ったらどうだ? そしたら周りの奴らもストーカーなんて言わなくなるだろ」
「そんなのいないもん」
ふて腐れたように口を突き出す伊桜里は、要からだけは男を作れなんて言われたくなかった。
伊桜里が好きなのは、目の前にいる要なのだから。
落ち込んでいると、ヒーローのように颯爽と現れ側にいてくれる要に、恋心を抱くなという方が難しい。
なにせ、周りは敵ばかり。要だけが噂に左右されずに伊桜里を伊桜里として見てくれるのだ。
要に恋をするのは必然だった。
「要君は彼女いないの?」
「いたらここに来ると思うか? 彼氏が他の女の世話を焼いてたら嫌だろう?」
「確かに」
いないと教えられ、密かにほっとする伊桜里。
「それに、周りの女達は俺の表面と俺の後ろにある桐ヶ谷グループしか見てないからな」
「だよねー。今朝要君のことクールなんて言ってる子がいたから、思わず笑いそうになった」
「なに言ってる。俺はクールだろうが」
「えっ、どこが?」
即答する伊桜里の両頬を、要は指で挟む。
「おうおう、伊桜里ちゃんよ。俺様に喧嘩売ってるのか?」
アヒル口になってしまった伊桜里は……。
「ひゃってぇ。ほぉんとのことたもょん」
「ふっ、お子様に俺の魅力は伝わらないか」
頬を開放された伊桜里は、頬を撫でながらクスクスと笑う。
「孤高の王様だもんねー」
「お前、絶対馬鹿にしてるだろ。俺だって、あのあだ名恥ずかしいんだぞ。中二かっての」
中二病な誰かが名付けたのは間違いない。
「それより、あいつに作った弁当は?」
「ここ」
弁当を開けてみると、案の定中身はぐちゃぐちゃになっていた。
しかし、捨てるのは勿体ないので食べるしかないかと思っていると、横から手が伸びてきて、おかずをつまむとひょいっと口に放り込んだ。
「美味しくないよ?」
「いや、すげーうまい。こんなうまい弁当受け取らないなんてあいつは損したな」
それからも手を止めずに次々食べる要により、お弁当は空になった。
「ごちそうさん。また作ったら今度は俺にもってこいよ」
またもやポンポンと優しく頭を撫でられ、伊桜里の頬が赤らむ。
その優しさが伊桜里の心を掴んで離さないのを要は分かっているのだろうか。
(あまり優しくしないで……)
期待してしまうから。自分は特別なのだと。
伊桜里は小さく息をついた。
***
ある日の日曜日、天沢家に氷上家が訪れ食事会をする。
仲の良い母親同士により勝手に決まった食事会は定期的に行われて、伊桜里にとって二番目に嫌な時間だ。
一番はもちろん辰巳と二人きりの登校である。
食事会はほぼ母親同士がしゃべっているので登校時ほど苦痛ではない。
まあ、嫌なことに変わりはないのだが。
いつものようにお昼時に天沢家を訪れたわけだが、今日はどこか様子が違った。
テーブルの上には、たくさんの結婚情報誌や雑誌が置かれていた。
それを並んで座りながら、これがいいあれがいいと、きゃっきゃと話し合う両家の母親。
どうやらまだ辰巳は部屋から出てきてないようで、密かに安堵する。正直顔も見たくないのでこのまま姿を現さなくても一向に構わない。
「お母さん。誰か結婚するの?」
「あら、なに言ってるのよ、あなたと辰巳君の結婚式のために下調べしてるんじゃない」
伊桜里は一瞬なにを言われているのか分からなかった。
「は!?」
「まさかあなた達がとっくにそんな関係だったなんてね」
「私達としては嬉しい限りだわ。冗談で二人が結婚したらなんて言ってたのが本当になるんだから」
「どういうこと!?」
勝手に盛りあがる二人の母親に伊桜里は声を大にして詰め寄る。
「辰巳が言ったのよ。二人とも十八歳になったし、高校卒業したら結婚したいって」
教えてくれたのは辰巳の母親。
「まったく、そこまで話が進んでるならお母さん達にちょっとぐらい教えてくれてもいいじゃない。急に聞かされて驚いちゃったわ」
「ほんとにね」
まったくの初耳である伊桜里は信じられない様子で母親達を見る。
「辰巳君が言ったの?」
「そうよ」
じわじわと怒りが込み上げてきた伊桜里は、二階にある辰巳の部屋に向かうため階段を駆け上がった。
そして、ノックも忘れて辰巳の部屋に乗り込む。
「辰巳君!」
ベッドに横になって雑誌を読んでいた辰巳は不快そうに眉をひそめる。
いつもなら顔色を窺って機嫌が悪そうになったら引くが、今回ばかりはそうもいかない。
「辰巳君、どういうこと?」
「なんだよ。出てけ」
「結婚のこと! なんでそんな冗談言うの? お母さん達本気にしちゃってるじゃない」
「別に嘘じゃねぇよ」
「え……」
辰巳は起きあがると、不敵な笑みを浮かべながら近付いてくる。
警戒心が襲ってくるが、伊桜里は金縛りにあったように動けなかった。
そんな伊桜里の髪をひと房取ると、ぐいっと引っ張る。
わずかな痛みを頭皮に感じたが、それよりも辰巳から目が離せない。
離してしまったら食われてしまうような危機感を覚えながら、自分が辰巳に怯えているのを感じる。
「名案だったろう? 結婚したらお前は逃げられない。ずっと俺の奴隷だ」
「な……、そんなの私は嫌よ……」
反論するが、震える声ではなんの力もない。
「だったら親達に訴えてみろよ。お前がどんなに否定しても、恥ずかしがってるだけだと思われるだけだろうさ。そうなるように、俺が長年かけて仕向けてきたんだから」
「けど、結婚したら周りに私がストーカーだって言えなくなるよ」
伊桜里を加害者とすることで辰巳は被害者として周りから憐れんでもらっているのだ。
結婚してしまったら被害者とは言えなくなる。
「あー、その問題があったか。まあ、それは、お前が幼馴染みの立場を利用して親を丸め込んだってことにすれば、俺は変わらずかわいそうな被害者だ」
「なんで、そこまでするの?」
「楽しいからだろ。お前が俺の言動で一喜一憂している姿が滑稽だからだ」
辰巳にはなにを言っても通じないと理解した伊桜里は、ぐっと歯がみする。
「逃がさねぇぞ」
死神の鎌が喉元に突きつけられているような気持ちになり、それを振り払うように辰巳を強く押して、伊桜里は逃げ出した。
天沢の家からも飛び出して、あてもなく走り続ける。
息を切らしそれでも走る伊桜里の手を後ろから誰かに掴まれた。
振り返るとそこにいたのは額に汗をにじませた要だった。
「かなめくん……」
「お前、早すぎ。短距離選手目指してんのか」
「がなめぐーん」
うわぁぁん!と、突然泣き出した伊桜里に、要はぎょっとする。
「ちょ、ちょっと待て。なんで泣く!?」
慌てふためく要に手を引かれ、近くの公園にやって来た。
要から渡されたハンカチが足りなくなるぐらい涙がなかなか収まらない。
ベンチに座りながらいまだグズグズいっている伊桜里に、買ってきてくれたお茶を渡し、ポンポンといつも慰めるときにしてくれるように優しく頭を撫でてくれる。
その優しさが今はすごく心に痛い。
おさまりかけていた涙がぶわっと溢れる。
「優しくしないでよぉ」
「したいからしてるんだ」
「要君が優しいから、そんなだから勘違いしちゃうじゃない。特別かもなんて期待しちゃうじゃない。勘違い女になりたくないのに!」
うえぇぇんとギャン泣きする子供のように声をあげて泣く伊桜里に、要がデコピンする。
「馬鹿。俺が他の女に優しくしてるところを見たことあるか?」
「ない」
考えるまでもなく即答した。
なにせ彼は学校では孤高の存在。他の女どころか男にだって優しくしているところは見たことがない。
「ならそれが答えだろ」
「どういうこと?」
「お前が特別だってことだ。他の女なんて目に入らないぐらいにな」
そう言って、伊桜里の涙を優しく拭ってくれる。
向けられた笑顔は優しさだけではない甘さを含んだものだった。
ここまで言われて聞き返すほど、伊桜里も鈍感ではない。
なら聞くべきことは一つしかない!
「じゃあ、結婚してくれる?」
「ば! な、なに言ってんだ!」
激しく動揺する要を逃がすまいと、腕にしがみつく。
涙などどこかに吹っ飛んだ。
人生の中で全財産を投資して賭けるべき時があるとしたら、間違いなく今だと伊桜里は思った。
「だって、このままだと辰巳君と結婚させられちゃうんだもん! 私は要君がいい!」
ぎょっとした要は急に怒鳴りつけてくる。
「それを早く言え馬鹿! なんでそんなことになってんだ」
「辰巳君が一生私を奴隷にしておきたいみたいで、お母さん達を丸め込んだの。辰巳君、お母さん達の前では優等生を偽ってるからお母さん達も私達が相思相愛だって信じちゃってるみたいで」
「歪んでんなぁ。そんな無理強いしたら余計に嫌われるだけなのに」
ボソッと呟かれた要の言葉は伊桜里には聞こえなかった。
「ちょっと待ってろ」
「うん」
要はどこかに電話をし始めた。
それと同時に伊桜里の隣に座ると、それとなく手を繋いできた要の手に、伊桜里はドキドキが止まらない。
しばらくすると電話を終え、要が立ち上がった。
「よし、こっちの話はついた。今から婚姻届取りに行くぞ!」
「へ?」
伊桜里は目を丸くした。
「結婚するんだろ?」
「そりゃあ、言い出したのは私だけどそんな簡単じゃないし」
「うちの親は説得した。今すぐ結婚したいって言ったら好きにしろだってさ」
「えー」
即決して電話する要も要だが、急に結婚すると聞かされてオッケーを出す親もどうかと思う。
「後は伊桜里の両親だな」
「絶対に反対するよ。昔から辰巳君と結婚させたがってるんだもん」
「その時は駆け落ちすればいい。とりあえず話してからだ。だろう?」
沈んだ顔をしながらこくりと頷いた。
コンビニで婚姻届を印刷し、それを持って伊桜里の家に向かった。
「ただいま」
ドキドキと緊張する心を落ち着かせながらリビングに行くと、両親は天沢家から帰ってきていたようで、二人ともそろっている。
「伊桜里、おかえり。急に出ていっちゃってどうしたのよ。せっかく式の話をしようと思ってたのに……って、あら、お客様?」
母親はようやく伊桜里の後ろからついてきた要の存在に気づいたらしい。
伊桜里、すうっと息を吸い込んで吐き出すように一気に告げる。
「お父さん、お母さん、私彼と結婚するから辰巳君とは結婚しません!」
はぁはぁと息を切らせて、興奮のせいか顔を赤くする伊桜里の突然の告白に、両親は呆気にとられた顔をしている。
「ちょっと、待ちなさい。辰巳君は? それに彼はどなた?」
「彼は要君って言って、私とお付き合いしてる人」
と、言ってもついさっきの話だが、具体的に話す必要はないだろう。
「伊桜里ったら彼氏がいたの!? えっ、でも辰巳君は?」
「それは勝手に辰巳君が勝手に言っただけ。私は辰巳君となんか結婚したくない!」
「だったらどうしてそう言わないの?」
「これまでにもずっと辰巳君を好きになったこともないのに、お母さんはいつも恥ずかしがってるだけだって私の話聞いてくれないじゃない!」
「それは……」
「このまま辰巳君の奴隷にされるなんてごめんよ!」
「奴隷って、あなた言いすぎよ。辰巳君は良い子じゃない」
「それはお母さん達の前だけよ。私はずっと辰巳君の言いなりになってた。そうしないとお父さんの工場との取引をやめるって脅されてたの」
驚いた顔をする両親に、要が前に出て婚姻届を差し出す。
「一つ聞きます。あなた方は天沢と伊桜里とどっちが大事なんですか? その回答次第によっては、伊桜里をこのまま連れ去ります」
息をのむ両親。
「そんなの……そんなの伊桜里に決まってます!」
はっきりとそう答えてくれたことが伊桜里は嬉しい。
「お母さん……」
「ごめんね、伊桜里。確かにあなたは嫌だって言ってたのに、辰巳君は伊桜里と仲が良いっていつも言ってたから鵜呑みにしてたわ」
分かってくれた。今頃という気がしないでもないが、始めて声が届いたと、それだけで伊桜里は十分だった。
ぱっと華やいだような笑顔を浮かべる伊桜里の頭を要が撫でる。
「では、婚姻届を提出しますがよろしいですね?」
「さっきまで結婚と騒いでいてお恥ずかしいんですが、早すぎるのではないでしょうか?」
「いえ、あなた方は知らないでしょうが天沢の伊桜里に対する感情はかなり歪んでます。すでに俺のものだと示すことは彼との縁を切るためにも必要だと考えています」
「でも……」
躊躇う母親を制したのは父親だ。
「分かった。しかし、同居するのは伊桜里が学校を卒業後にしてくれるか?」
「それなら俺がここに住みます」
「うえ!?」
両親以上に驚く伊桜里。
「目の届かないところで天沢とニアミスしたら何をしてくるか分かりませんから」
「しかし、君のご両親は許さないのでは?」
「うちは好きな女のためなら命を張れ!が家訓ですので問題ありません。むしろ危険があると分かっていて放置したとなれば逆に絶縁されます」
要は「お願いします」と、深々と頭を下げた。
「分かった。そこまで言うなら開いてる部屋があるから使いなさい」
「ありがとうございます」
トントン拍子に話はまとまり、婚姻届を提出に向かった。
その間に両親は天沢家に行って事情を説明するらしい。
***
翌日、学校へ行くために要と共に家を出ると、辰巳が待ち構えていた。
いつもなら伊桜里が呼び出さないと家から出てこないというのに。
辰巳は要の姿を見て歯ぎしりするような悔しそうな顔をする。
「おい、どういうつもりだ、伊桜里。そいつと結婚するって!」
激しい剣幕に気圧される伊桜里の前に要が庇うように立つ。
「伊桜里が嫌がってるだろ」
「関係ない奴は黙ってろ」
「関係なくないね。伊桜里はもう俺の奥さんだからな」
辰巳に見せつけるように頬にキスをされ、伊桜里は顔を真っ赤にする。
「俺の伊桜里になにしてやがんだ!」
「てめーのじゃねえって言ってるだろ」
要は辰巳の胸ぐらを掴むと、それはもう恐ろしい形相で睨みつける。
「今度伊桜里にちょっかいかけたら、お前の家潰すぞ」
これまで辰巳が伊桜里にしてきた脅し文句をドスのきいた声で発すると、怯んだ辰巳はよろよろと後ずさる。
そして、自分の足に引っかかり尻餅をついてしまう。
そんな辰巳を一瞥して、伊桜里と要は手を繋いで歩き出した。
「……あっ! そういえばしてもらってない!」
「なにを?」
「プロポーズ」
「確かにそうだな。どちらかというと伊桜里からの逆プロポーズだったよなぁ。まあ、それは今度してやる。俺の沽券に関わるからな」
「バラの花束百本持ってしてくれる?」
そう言うと要は頬を引きつらせた。
「まじか。バラ百本じゃないと駄目なのか?」
「うん」
「分かった。なんとかする」
「フラッシュモブもしてね」
「それは却下だ」
伊桜里の激しいブーイングは無視された。
『あやかし旦那様の愛しの花嫁~お前は永遠に俺のもの~アンソロジーコミック』に収録されている作品です。