新たな旅人
「これだけあれば十分か?」
「助かるわ! でも大変じゃない? 悪いわね」
「いや、こっちも寝床を貸してもらってる身だ。これくらいの手伝いじゃ、気が引けてるくらいだよ」
「そう? じゃあ、井戸から水も汲んできてくれる?」
「だってよ」
「え!? 俺?」
アルプレヒトは、ビョルンとナタリエの会話に素っ頓狂な声を上げた。
一宿一飯の恩義、ということで、ビョルンたちは泊まる場所を提供してもらっている代価として労働することになった。
ナタリエの家は一つの工房になっており、彼女の父親であるヘルゲが親方として器づくりをしていた。ナタリエも“釉薬”と呼ばれる色付けの薬品の製造や管理をして、親子二人で工房を回しているという。
陶芸には土の管理に加え、薪や水などの準備が必要で、力仕事が実は多い。アルプレヒトは最初、手伝いと聞いて、土をこねるといった作業を想像していたが、ナタリエ曰く、『素人が一朝一夕で土をこねられるわけがないでしょ!』と一蹴されてしまった。
というわけで、森で薪割りをしたり、その薪を窯まで運んだり、といった力仕事を割り振られていた。今、ヴァレールは森で斧を振るって、せっせと薪作りに精を出している。
「はい! これで汲んできて!」
ナタリエから二つの木桶を渡され、アルプレヒトは駆け足で近くの井戸へ走った。
一緒に旅をして分かったが、ビョルンやヴァレールは筋力が相当ある。剣を操る様子や敵と戦う姿から相当の手練れであることは理解していたが、それは常日頃から鍛えられた体力が基盤になっているのだ。
(ヴァルなんて見た目は細身なのに、相当体が仕上がってるんだもんな)
着替えの時に目にする彼の裸は筋肉が適度についた均整の取れた体だ。本人はいくら鍛えてもビョルンのようになれないことを気にしているようだが。
そのビョルンは言うに及ばず。筋骨隆々と言うのは大げさだが、それでも鍛えられた鋼のような逞しさがある。
二人とも、昼夜必ず、野営している時ですらも、鍛錬を欠かしていなかった。腕立て、腹筋などの基礎体力の維持だけでなく、剣の素振りなど何百回と平然とこなす。時折、剣の稽古で手合わせしているようだが、それよりも圧倒的に個々人で鍛えている時間が多かった。
あれだけやれば当然強くなる、というよりも、あれだけやるからこそ、圧倒的な強さの基盤になるのだろう。現に、ビョルンが運ぶ薪束は、アルプレヒトの運ぶ束よりも一回りも大きい。それを二つも三つも抱えているのに、表情は余裕そのもの。しかもそれを本人は当然のようにこなしている。
こちらは、一束ですら肩で息をしているというのに。
(俺も鍛えないとなあ)
旅の身そらだ。いつ何が起こるとも限らない。加えて、『リドル・ラム』の立場上、より危険なことが起こりうる。実際にそれは自分の身で体験したばかりだ。
ため息を一つ吐き、アルプレヒトは手に持った二つの木桶を抱えなおし、走り出した。
悩んでも仕方ない。まずは目の前の役割を果たすことに専念しよう。
作業場の脇にあった水がめ一杯の水を用意するには、何度も井戸と作業場を往復しなければならないのだ。大量の水を運べばそれだけ筋力の鍛錬につながる。目指せムキムキ! はほど遠いにしても、まずは初めの一歩が大切だとアルプレヒトは己の心を叱咤した。
「でもやっぱ、きっつい!」
アルプレヒトは、井戸の縁に空の木桶をなんとか押し上げ、ぐったりと息をついた。
五往復を越えてからは、行き来の回数を数えるのをやめた。汲んでも汲んでも水瓶は満たされることはなく、果ての見えない行為に早くも音を上げていた。
「確かに鍛えたいとは思ったけれども! 一人でひたすらこの作業はこたえる……」
水を満たした木桶は重く、両腕にのしかかる。すでに明日の筋肉痛が心配になってきた。井戸から水をくみ上げ、空の桶を満たすという作業ですら、すでにおぼつかなくなっていた。
釣瓶を置き、片手に一つずつ木桶を持つ。両腕にずっしりとかかる重みに、思わずへたり込みそうになる。
(何のこれしき!)
歯を食いしばって、歩き出す。最初はできていた駆け足も今はすでにままならず、よたよたと何とか前進している程度だ。
そんな状態だから、簡単に躓いた。道端の小石だろう。普段なら気にも留めず、簡単に踏み越えている程度の。
(ヤバい! コケる!)
力を込めて握っていたせいか、木桶を手放すことはなかった。両腕がふさがったままでは、顔から地面に盛大に突っ込むことだろう。思わず、目をつぶったアルプレヒトだが、思ったよりも早く、そして柔らかく顔面を打った物体に違和感を覚えた。
「大丈夫ですか?」
頭上からかけられた声に顔を上げる。太陽を背景に、赤い髪がアルプレヒトを覗き込んでいた。
「あ、ありがとうございます!」
上半身が斜めになりながらも、何とか倒れこまずにいたのは、目の前の男性のおかげのようだ。
「転ばなくて良かった」
ほっとしたような笑顔になる男性は、煙でいぶしたような松葉色の外衣をまとっていた。どうやら、旅人のようだ。何となく、沈んだような表情に見えるのは旅の疲れのせいか。
アルプレヒトの顔面が直撃したのは彼の胸板のようだ。一見そうは見えなかったが、それなりの厚みがある。アルプレヒトの脇下を支えている両腕はしっかりとした筋肉の感触を伴っていた。
「立てますか?」
「すいません! 助かりました。えっと、お兄さんこそ、大丈夫でしたか?」
「気にしないでください。僕は何ともないですよ」
年はフランチェスコと同じくらいだろうか。柔和な微笑みだけは似通っているが、性格はきっと目の前の男性の方が良いに違いないと勝手な感想を抱く。
(フランは年齢がよくわかんないしな)
「僕はクルトと言います。この村の方ですか?」
旅の途中で、宿を探しているという青年を、アルプレヒトは両手に抱えた水ごとナタリエの家まで連れて帰った。